富柏村の畏友、セキリ君による書評。

「ライオンと魔女」「銀のいす」ほか  C.S.ルイス著 瀬田貞二訳
(ナルニア国年代記シリーズ 全7冊 岩波書店)

小学1年生の男の子に毎晩、C.S.ルイスの「ナルニア国年代記」を読んで聞かせた。もう3年くらい前の話である。そのころから「ハリーポッター」の後を追って玉石混交の翻訳ファンタジーが山のように刊行されだして、ついには超大作映画の原作となった「指輪物語」(読みにくい。しかも厚さ3センチくらいある文庫が追補版まで入れて全10冊)までが平積みで飛ぶように売れていくという信じがたい事態にまでいたっているのだが、ついに「ナルニア」には陽のあたることは今もってない。ファンタジー文学の歴史の中では、間違いなく「玉」も「玉」、名作中の名作のはずなんだけど。
血統だとか宿命だとか王権だとかに徹底的に拘泥するファンタジー世界の反階級性みたいなものは、近頃では多くの論者が指摘してるけど、「ナルニア」はそれにしてもまあ、PC(「政治的に正しい」)じゃあないよね。イスラム教へのあからさまな偏見やら決然とした男尊女卑の表明やら自由学校への品のない揶揄やら、そんなへんは子どもに語るときは適当に省略して勝手にテキスト改変しちゃったし。どうも一般にはこの物語は融通の効かない堅苦しいキリスト教啓蒙よみものとして敬遠されているようだ。そのこと自体はおおむね事実ではあるけれど、本書のファンタジーとしてのいちばんの魅力は地の物語のストレートな面白さとともに、著者の主観的意図を超えてめくるめく変性意識体験を活写した一大ドラッグ小説でもあったりするところだ。
たとえば第1巻にあたる「ライオンと魔女」の結末部分。衣装だんすの奥を通り抜けて「街灯あと野」を越えて異世界ナルニアへ入り込んだペベンシー家の4きょうだいは、その世界で成長しその世界の人間として大人になり王となる(やっぱり王様ではあるわけだが…)。で、何十年か経たのち、「こちらの世界」の存在すら忘れた4人の王は森で狩りをしているうちにふたたび「街灯あと野」を通って衣装だんすの奥から、もとの子どもとして転がり出る。
「…こうしてふたりの王、ふたりの女王は、しげみのなかにはいりました。そして二十歩もいかないうちに、一同は、そのあかりの柱が街灯とよばれるものだということを思いだしました。さらに二十歩も歩かないうちに、木の枝をわけて進んでいるのではなくて、毛皮の外套のなかを通っていることに、気がつきました。そして次の瞬間には、一同は、衣装だんすの中からからっぽの部屋の中におどり出ました。もはや狩りのしたくをととのえた王と女王ではなくて、もとどおりの服をきたピーターとスーザンとエドマンドとルーシィにほかなりませんでした。」
カミ喰って8時間後くらいの気分をこれくらいリアルにかつ詩的に語った文学を知らない。「行った先は確かに現実だったのに戻ってきたところもやっぱりまた現実」っていうあの不安感。ディックのSFは不安を追体験させられるが、ナルニアではすべてが万事オッケーという幸福な肯定感に貫かれている。
それがよりはっきりと表れるのは、4巻目になる「銀のいす」だ。地下世界の女王である魔女が主人公の少女ジルにささやきかける。地上の世界なんて、ない。この世界より別の世界はどこにもありはしない。太陽なんて、夢のなかにしか出てこない子どもだましのつくり話だ。ジルがそれを信じかけたとき、相棒の「泥足にがえもん」が叫ぶ。太陽は、たしかにある。だんじて地上の国を忘れさせることができるもんか!
「けれどもあたしは、前にそこにいたことをはっきりおぼえていまさ。満天の星を見たこともある。朝になると海からのぼり、夜は山のうしろにかくれる太陽をみたこともある。昼ひなかの空に太陽をあおぐと、まぶしくて見ることができないほどですとも」
世界はほんとうは美しい。だからその世界の一員である自分には価値がある。これは今日び流行の引きこもり的な自己肯定とは違う。バッドトリップの最中って、もう二度と元の正気な自分には戻れないんじゃないか、てゆうか俺もともとダメダメの屑人間だったのに自己欺瞞で気づかないフリしてただけじゃん…とまあそんな具合でそのまま死にたくなったりもするわけだけど、バッドに落ち込んだジャンキーを勇気づけて生還させるのに、これ以上のセリフがあるかっての!(ありがとう泥足にがえもん。君のおかげでこうして社会生活を営んでいけるよ)
作者のC.S.ルイスは謹厳なキリスト教徒で、本書もかなり狭い意味での宗派的立場から執筆されているといってもよい。しかしそれにもかかわらず、「ナルニア」はキリスト教の枠を超えた普遍的な宗教体験へと回路が開かれている。ルイスはキリスト教しか知らなかったからキリスト教の枠組みに準拠してしまったが、それでも自己の宗教的体験をもとに本当のことを語ろうとして「つい」真実に近づいてしまった、とさえ思えてくる。ファンタジーという形式がSFと並んで超常的な変性意識体験を最もよく表現しうる文学ということが、最高の形で結実した作品だ。
(余談)
それにしてもなんて恐ろしい言葉だろう。「この国のほかに、世界はなかったのです」。ジルは「ついうっかりと」それを肯定してしまう。と、「こう口に出していってしまうと、すっかり気が楽になりました」。告白すると筆者もかつてある種の菌類(合法)を摂取したとき、なにげなく「日本は悪くない」って口に出したら、ホントウに肩の荷がするりとほどけて抜け落ちるような開放感に囚われた。「開放感に囚われる」っておかしいけど、そうとしかいいようがない。もうちょっとで「天皇陛下万歳!」って叫びそうになったよ…。
がんギマリのラブ&ピース状態って妙に共同性に意識が引き寄せられるもの。「ぼくらはみんな一つなんだ〜」とか。愛と平和はとってもステキなんだけど、敵はじゅうぶん折込み済みであちこちに罠をしかけていたりする。このごろじゃ「癒し」とか「共感」とか危ないスローガンだよなあ。「リスペクト」もウサン臭い。「世界に一つだけの花」みたいな外の世界と切り離された安直な自己肯定はたしかに精神にやすらぎをもたらすものだが、これを「麻薬のようだ」といってしまっては、「麻薬」文化のもうひとつの重要なもうひとつの側面を見落とす。宗教はアヘンに違いなかろうが、アヘンを喫って気づくことのなかにもたいせつなことがあるかもしれないぞ。
しかし、「麻薬(精神賦活性物質)」を媒介にもうひとつの別の真実に到達しようとしたアメリカ西海岸発のニューエイジカルチャーは、「近代」も「個人」も彼岸の彼方に滅却したわが国の風土では容易に天皇主義へと転化する。トランスパーソナル心理学の周辺で河合隼雄や山折哲雄をカウンターカルチャーの老賢者としてもてはやしていたのは、そんなに昔の話じゃない。
意識の革命を実践しようとする人は政治的に不用心に過ぎるし、政治の分野で革命を語る人は宗教を上部構造として捨象してしまいがち。宗教運動と革命運動に身を投じ、治安維持法違反で囚われた獄中で意識の領域での真理探究における宗教の価値と使命を自らの問題として全肯定しながらも「私は唯物論者である」と言い切った老マルクス経済学者・河上肇の精神に、いまこそ学びたい。それとやっぱり泥足にがえもんにも。