長距離ランナーの孤独
シェリー・リー（サウスチャイナモーニングポスト記者）
香港の最長老トライアスレート葉倫明 人生は持久走
舊山頂道の乾燥した朝、百名を越えるランナーが旧正月恒例の發財ランのスタート地点近くで柔軟体操している。競走相手の多くは二、三十代で、遅れて来た参加者を待つ間も身体を冷さないよう余念がない。飛び跳ねる者もいれば、緊張した筋肉を伸ばすにも混み合って場所もないランナーもいる。いつものように葉倫明は遅れたが、彼が登記所に急ぐのなど誰も気にもしない。まだ筋肉隆々の端正のとれた身体の葉さんは八〇歳。
毎年二、三十といったレースに参加しているのでジャージを脱ぐ暇もないほどだ。今朝はたった八キロ、このワークアウトは心地よい程度。葉さんは香港の最長老のトライアスレートで、泳ぎ、自転車を漕ぎ、走り多くのメダルとトロフィーを獲得してきた。彼は一九八六年以来、香港チャイナコーストマラソンを数度走り、ロスアンジェルマラソンや米国で開催されたベテラン世界選手権など、それに多くのトライアスロンに毎年参加している。彼は毎日鍛練を欠かさず、彼の自宅は柴湾の公共団地、その背後の丘を毎日走りまわる。また近くの海では泳ぎ、自転車にも乗る。
彼が達成してきたレースの中には、七十五～七十九歳の部で四時間二分という驚異的な時間で優勝した九十七年の南アフリカでのマラソンがある。また香港の百キロトレイルウォーカーにも数回出場し、九三年には二十九時間ちょうどでゴールした。「数千人の参加者の一人として参加して山を走り一晩寝なかったよ」と葉さんは北京語と広東語を混ぜながら話す。「コンスタントな鍛練がワシを快調で健康的にしている。子どもの頃から病気になんかかかったことがない。医者も要らない。風邪をひく程度でね、でもすぐ回復するさ」。
マラソンや過酷なトライアスロンでは普通の走者は走りながら頭はマトモに考えることもできなくなるものだ、が、葉さんはそんなことない。走ることでちょっと他人とは違った人生そのもの、熱情なのだ。この一度見たら忘れることもできないキャラクターをもった白髪の男を生んだのは抜きんでた体力だけなのではない。
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葉は一九二一年に日本で生まれた。彼の中国人の祖父は葉の祖母となる日本人女性と仕事で出会い、葉の父は日本で生まれ中国人女性と日本で結婚した。葉が五歳の時に父が中国に戻り故郷の福州に戻って小さな製衣業を始めることにした。葉はすぐに日本語を忘れ福州語を身につけた。そしてランニングの手ほどきを受けたのだ。「ワシの父親は走ることが好きでワシらを走らせたがった」と四人の兄弟と二人の姉妹をもった葉は言う。「ワシの兄弟はそれがイヤでみんな走らなかったがワシは好きで好きで、だから父親もワシを一番可愛がった。親父はワシをいろんなところに連れていって、ワシを自転車に乗せて、いつも親父の後ろを走ったものだった」。
葉は同級生が葉に「日本人は自分たち中国人のことを東亜病夫と呼んでいる」と言った三〇年代のある日のことを覚えている。「ワシは怒ったさ」と葉は言う。「ワシはとにかくできることはなんでも鍛練した。身体の痛みも疲れも気にしなかった。自転車に乗りテニスをして泳ぎサッカーにバレーボールにランニング、なんでもやった」。
数年のち家業は傾き始め、十二歳の葉は学業をあきらめ就業しなければならなくなった。「ワシは製衣を覚えて街頭でそれを売ったんだ」と回顧する。それから家族は上海に移り心機一転家業の建て直しを図った。日本による占領の間、葉は自分の出自を秘密にした。侵略者と手を握り甘い汁を吸うことで彼の中国人の友人や近所の人たちとの絆を断ちたくなかったのだ。「誰も知らなかったさ。ワシは中国人だ。日本人の血が流れているって言うことがいったい何になるってんだ」。
一九四五年に第二次世界大戦が終わり、葉の両親は二四歳になった葉を結婚させたく福州の地元の村に住んでいるという中国人の娘の写真を葉に見せた。葉はその娘に一度も会ったことはなかったがどこか魅かれた。彼らの初めてのデートは婚礼の初夜となった。
一年して葉と妻のSisauは台湾に渡り葉は繊維を売る自分の商売を始めた。一九四九年に葉は一人で繊維を売るために大陸に渡った。これが葉が妻を見る最後の機会となってしまったのだ。
それは冬で、上海が陥落し共産党が上海に入城してきた。そのニュースを聞いて葉は急いで台北行きの船に乗り込んだ。しかし、深夜、船が岸壁を離れ六時間ほどした時だったが、船は他の船と衝突した。「その相手の船がすぐに海に沈没するのをワシは見たんだ。ワシは自分の乗った船の梯子につかまって海で溺れた乗客を助けようとした。十人くらい救えたかなぁ。それが今度は水が自分の膝くらいまで来てるじゃないか、こっちの船も沈没し始めたんだ。真っ青になったね、死ぬんじゃないか、と」。
葉は甲板に走り十数名の他の生き残りと救命ボートに乗り込んだ。が、誰も救命ボートを船から外せなかったﾉﾉもう甲板には誰もいなかったのだ。「海は渦巻いていてね、ワシらは船の船の下に引きずり込まれたんだよ」と葉は回想する。「深くまで吸い込まれたが、ワシは死にたくはなかった。それで懸命に水面まで泳いだんだ。ワシが水面に顔を出した時にはもう誰もいなかった。みんな死んじまったんか。すると今度はまわりに鮫がいることがわかってね、真っ青だよ。大きな木箱が浮いているのが見えて、すぐにそれに飛び乗ったさ」。
結局、彼は何人か生存者を見つけては何か浮いてる物に乗せていった。太陽が登り救助船がようやく現れた時に数百人が生き延びてたった二十名しか死ななかったことを葉は知った。しかし恐怖はこれだけでは済まずもう一度やってきた。船は台湾に向わず大陸へと漕ぎだしたのだ。台湾へ向かう船はもうそれから一切なく、台湾は標的とされた。「ワシは何通も妻に手紙を書いたんだが返事はなかった。悲しかったね。数通の手紙のあと意味がないとわかったんだ、手紙が全部戻ってきちまったんだから。台湾へなんか送られてなかった。書くのは止めたさ」。
そして葉は走るのも止めた。上海に戻り彼は街頭で衣服を売っていた。文化大革命は、葉は労働者階級だったから生き延びることができて思想改造農場に送られることもなかった。
八十年代になってようやく台湾海峡をこえての交流がついに許可されるようになり、葉は自分の妻の消息を知った。「もう再婚してたんだ」と葉は言う。「ワシの親父はそれを知ってたんだがワシにはそれを隠してさ。しばらくしてある男が台湾から戻ってきてワシに教えてくれた。女房はワシと離れ離れになった数年後、他の男と結婚したんだ、ってね」。
葉は再婚もせず、昔の妻とも二度と会わないと心に決めた。葉は今でも妻がまだ台北で生きているのかどうかすら知らない。奥さんに会いたいかと葉に尋ねると、葉は首を横に振った。「もう半世紀だよ、どうやってアイツを探すんだい。子どもだっていることだろう。会っていったい何になるんだ」。
まだ奥さんに会いたいでしょう？ 葉は間をおくと、悲しさを見せたくないのかうな垂れ、何も答えなかった。
八十年に葉はもっと幸せな生活を求め香港に移住した。柴湾の狭い籠屋からこそ出たものの、彼の今日の住み処はけして良くもない。柴湾の峰花邨のたった一〇〇平方フィートの狭いフラット。董建華と一緒に写った写真がベットの上の壁紙の剥がれた壁に掛かっている。昨年十月、董建華は葉の「陸上運動での傑出した成果」に対してコミュニティーサービスでの行政長官表彰を授けた。
壁には百個を越えるメダルやトロフィーが一枚のキャビネットに掛かっている。部屋の片隅には古いミシンが一台。葉は公的介護の世話になることを拒み、枕カバーやカーテンや衣服を縫っては、まるで観光客相手に自分の油絵を売るように、近くの路上で売ることで生計を立てようとしてきた。しかし使われてないベットには彼の生産品をつめた鞄が埃をかぶっている。「最近は」と彼は言う、「あんまり売れないし生活をどうにか切り詰めて凌いでいるさ」。
香港はけして住み易い場所ではないが、葉の走る情熱に再び火をつけた。「香港に来た時、ワシはレースの広告を見つけてね、参加したんだ。それから走ることを止めてない」。
九五年に友人の一人である香港レディースランナーズクラブのメンバー、Carole
Dayは米国で開催されるベテラン世界選手権や海外で開催される他のレースに葉が参加できるよう一万六千香港ドルを寄付で集めた。Dayは七年前に初めて葉に会った日のことを覚えている。「彼はちゃんとしたランニングシューズもトレーニングウェアももってなかったんです」と彼女は思い返す。「シューズは草臥れているしサイズも葉さんには大きすぎる。もし経済的な理由だけで彼がレースから遠ざかるのなら、それはとても悲しい。私たちは彼をサポートして励まそうということになりました」。
葉の海外での成果を伝えるメディアはスポンサーすら現れる結果をもたらし、いまはナイキが葉に走るためのウェアやシューズを提供している。葉はまた売れっ子のモデルのようで、ナイキのテレビＣＭに出たり九九年のナイキハーフマラソンのポスターにも「人生に夢中Hooked
for Life」というコピーで登場した。このポスターは彼の住み処の壁に誇らしげに張られている。
葉が發財ランのゴールを四五分三七秒というじゅうぶんに立派なタイムで潜ろうとした時、先にゴールしていた若い多くのランナーがゴールで待ちかまえ葉に声援を送った。そして、ランナーの何人かは走りながら葉の後ろ姿ときれいなランニングシューズの靴底を見続けるハメになった。その中の一人、Wong
Yiu-kwan（四九）は数年前のハーフマラソンのことを忘れられない。「葉さん相手じゃ最初から最後まで歯が立たなかった」とWongは言う。「この老人がなんでこんなに早く走れるのかって俺はわからなかった」。
ランナーのWong Wing-tat（36）は自分が葉のあの根性に完全に敬服してると言う。「彼は若い連中のお手本だよ」。
葉にとって、走ることは肉体的には勿論、心を満たす大切なことだ。「走れば、ワシは寂しくない。毎日走れば時間も早く過ぎる」と葉は言う。いつトレーニングシューズを脱ぐことになります？と尋ねると葉は恥じらわなず答えた。「ワシは自分が走るには年老いたと思うまで走るのは止めないよ。最後まで走り続けるんだ」。
（訳 富柏村）
この記事はSouth China Morning Post 二〇〇二年三月十八日に掲載されたSherry
Lee記者の記事 ﾒThe loneliness of the long-distance runnerﾓ を翻訳掲載したものです。
Reprinted with permission from South China Morning Post
Publishersﾕ Limited.
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