教育基本法の改「正」に反対〜! 反対はこちら。文部科学省の中教審答申はこちら。ちなみに文部科学省サイトには教育基本法の原文すらないのが事実。
文部科学省は他にも「英語が使える日本人」の育成のための行動計画……だって、ダサ〜!、英語が使えれば日本人でもアイヌ人でも朝鮮人でも何人でもよし。
 
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2000 年11月24日からおそらくあなたは 番目の閲覧者です。
 
既存の新聞に満足できないなら日刊ベリタを読みませふ。富柏村の記事も「稀に」あり。 
   
八月三十一日(火)ヘラルドトリビューン紙に“Bush and New York”といふ社説が共和党がブッシュ候補選出に敢えて紐育を選んだことに対して紐育で数十万人規模の反ブッシュデモあり、紐育も九一一から蘇生して健かな強さ見せ“New York is still a tough town, but it is also a place that has little patience with useless violence and destruction. New Yorkers have seen enough for a lifetime”と述べる。ナベツネが生きている間は讀賣新聞購読せぬ余はブッシュが大統領就任中は訪米せぬつもりでいるが大統領選挙はブッシュ再選といふ絶望的な予測もあり。何よりも問題はブッシュの良否でなく未だに「ケリーとは何者か?」が民主党支持者こそわからぬ事情。午後になりようやく晴れる。晩にジム。新聞もテレビも選手らの帰国、歓迎、そして次は北京……ばかり。香港は卓球での中国に次ぐ銀メダル獲得の男子ペア帰港。空港で市民の出迎え受けた二人は「香港代表」なので辿々しい広東語で言葉つまらせながら挨拶。香港文化中心にて董建華先生来臨され歓迎式典まで開催しているが、信報で林行止は地味に、、このダブルスの選手二人とも厳密には香港永久居民でなく大陸からの謂わば招聘運動員(実際に一人の家族は大陸住まい)、香港生まれ香港で卓球学んだ別の二人は敗退しており、だがその非永久居民のコンビが勝ち残っていったら香港政府の高官などが「香港精神の高揚」などと宣い、その高官らの浅薄な不見識と嗤ふ。五輪からの帰国といえば成田ではレスリングの谷口選手が感極まったのか緊張したのか「日本の国民のたくさんのみなさんの応援を……」と言っていたが、素直に「日本のたくさんの方」とか「みなさん」でいいわけで、以下、オリンピック関係での言説のいくつか。
▼その林行止が指摘していたが、開催までに施設建設の工事間に合わないと危惧され当時のIOCの独裁者サラマンチ会長から代替地ソウル開催すら打診されたアテネは施設完成させ五輪ぢたいは見事に終了させたものの、経費の膨大な増加はまだ誰も把握できぬほどで政府財政圧迫は必至だがEU加盟のためには政府予算の赤字をGDPの3%以内に収めることが条件となっており必然的に五輪特別課税がギリシア国民の負担となるそうな。受難。
▼アテーナイ五輪閉幕。男子マラソンでアイルランドの元司教がマラソン妨害。ジョイスの『ユリシーズ』に登場させたきキャラである。主人公スティーブンの行く先々でスティーブンの行動を邪魔する元司教。去年の英国F1グランプリでも妨害したそうだが、よくぞ轢死せず。神に守られているのだろうか。ところでその妨害受けたブラジルの選手の名前を日本で「リマ」としていたが、ブラジル人でリマとはこれ如何に、日本人でもコロンビアさんいるが如し、などと言ってる場合ぢゃない、「ブラジルでの呼び方に従い」デリマとします、といったお断りを報道媒体のどこかで見たが朝日だっただろうか。「ブラジルでの呼び方に従い」以前の問題で、ビンラディン師をラディンと呼んでいたことも記憶に新しいが、binは日本で馴染みなかったのに比べ、このdeは例えば仏蘭西のCharles de Gaulleをゴール大統領と呼ばずドゴールと呼んでいたのと一緒のdeで常識の範囲内のような気がするが。でもデリマだと練馬だの入間のようでデ=リマの感じもせず。そういえば『ユリシーズ』の主人公のそのStephen DedalusのこのDedalusもde Dalusだったものが一語になったのだろうか。
▼そのアテーナイ五輪の閉幕式典での次回開催地北京に与えられた八分間の演出についてかなり辛辣な評散見される。女子十二楽坊風の中国楽器の色気だったミニスカートのパンチラ演奏、京劇、少林功夫、歌はマリファナ、否、茉莉花で歌う少女は花火に二度も怯えた姿が世界中に流れ、信報で陳雲は「唐人街的整体愚昧和夜総会的全套俗艶」(こういう中文の語呂は日本語に訳しづらいが「チャイナタウンの嘘っぽさやキャバレーの何でもゴチャマゼの陳腐で低俗なお色気ショウ」といふ感じ)と評し、主筆林行止までが「低級趣味」と一言。この演出が中国代表する映画監督張藝謀によるもの。最初に赤い灯籠が掛けられれば誰もが彼の『大紅燈篭高高掛』想像するし中国といえば功夫、京劇、で子供の曲芸で最後極めつけが巨大なダサい灯籠で少女が歌い花火=火薬は中国が発明……では確かにこのシナ趣味(シノワズリ)では「あんまり」の感あり。だが非難は易いが他にどの演出があるか。人民服に人民帽の紅衛兵が毛語録掲げて行進するわけにもいかぬ。モダンチャイナではシノワズリ期待する観衆の誰も喜ばず。五千人規模の北京市民が自転車で閉会式会場に流れ込むわけにもいかず。シノワズリでも、だが張藝謀なら『大紅燈篭高高掛』より寧ろ「紅いコーリャン」の素朴ながら色彩感覚にとんだ演出できる筈であったし、オリムピックという場にはギリシアの神話社会に抗して『秦俑(テラコッタ・ウォリア)』で見せた秦始皇陵兵馬俑の兵馬の塑像に模した勇壮なる隊列でも見せることもできた筈。「あれ」は確かに陳腐以外のなにものでもない。今回の八分が張藝謀に任されたことで恐らく四年後の本番の開幕式典演出などが張藝謀に任されるのでは?といふ推測あり今回の「これ」では一抹の不安もあり。だが一つだけ張藝謀のこの陳腐な八分間で面白かったのは途中に挟まれた一分ほどの北京紹介の北京実写の映像。いかにも北京らしい気丈夫の老若男女が笑顔見せる場面が殆どだがネクタイしたビジネスマンが朝の出勤で遅刻しようになり仕方なく路上駐車されている自転車の上を跳んでゆく、それが110m障害で金メダルの劉翔であったり、『秦俑』で見せたような張藝謀の軽快な笑いが含まれていたこと。
▼その張藝謀の北京実写の映像には北京の秋の天高き蒼い空。だが今から懸念されることは北京五輪に向けての「開発」で四年後の北京がどれだけ大気汚染や沙塵暴に悩まされるかといふこと。黄砂がない季節であるだけでもマシだが。これについて今日の信報で(今日はどの新聞も北京五輪に向けた記事ばかりだったが)「奥運三願」といふ題の文章でこの沙塵暴について言及しているのが奇しくも謝剣氏(余の文化人類学での指導教官の一人)。この人の書くことにいちいち反論したくなるが、北京五輪に向けてまず改善必要なのは公衆便所だの衛生問題、と謝先生。この人の中国観は二十年くらい古いので中国のトイレ環境改善など知る由もなし。で二つめの願いがその沙塵暴の被害。三つめに台湾海峡の安全を挙げる。といふのも北京五輪開催で中国が強攻策に出れぬこと利用した台湾独立の機運高まるのでは?といふ危惧が当然、ゴリゴリの中台統一論者である謝先生には憂慮されるのだろうが、それにしても今日の文章でも「中嶋嶺雄のような日本軍国主義者らが学術の名を借りて言いたい放題「台湾は日本の生命線」などと宣い、中国(これは中共ではなし)が法理的にも文化的、歴史的、血縁的にも台湾の主権があることを否認している」と謝先生。謝先生が李登輝嫌いだから中嶋嶺雄嫌いは当然かも知れぬが、中嶋嶺雄の肩を持つわけぢゃないが、アジアの政治的安定にとって今の高度な民主自由社会となった台湾の存在はもはや否定できぬもので、それの維持の重要性が中嶋嶺雄の主張の筈。それに法理的、文化的、歴史的、血縁的に中国が台湾の主権を主張することは可能だが、それぢゃその台湾ぢたいが独立を主張できぬかといへば大間違い。これではルクセンブルグもモナコもバチカンも独立など維持できず。もともと謝先生は大中国主義以外何の思想もなくチベット問題ではさすがに法理的、文化的、歴史的、血縁的とは言えぬが「中国で少数民族がそれぞれ独立を主張したら大変な混乱になるから中国による統治が最善」と平気で宣ってしまふのだから。
▼かなりオリンピックと中国関係のメモを綴ったついでに新聞のスクラップから。登β小平生誕百年でSCMP紙(八月廿二日社説)は、登β小平の明らかに相違する二つの路線について言及し、改革派として中国の経済建設での役割と、その反面の天安門事件に象徴される共産党による支配の徹底。また「中国の特色在る社会主義」という言葉の影には深刻な国内の貧富の差の拡大と汚職といふ社会的不正義が存在すること。現在の共産党指導部がこの登β生誕百年をいかに政治的に国家団結に利用しているか。香港は経済特区と並び登β小平の政策を最もよく象徴する都市であり、この香港経営の成功を願えば、登β小平の立案したアイデアはまだ実現途中である、と。ところでこの社説で登β小平の有名な“to get rish is glorious”といふ言葉があり久々にOrville Schellの同題の著作思い出す。余談だが今思えば二十年前に雑誌『ブルータス』はこのOrville Schellなどまで日本で紹介していて余もそれを知った次第。またヘラルド=トリビューン(八月廿五日)でも中国分析で定評ある英国のJonathan Mirskyが登β小平路線について経済成長とその反面の政治的引き締めと謂わば国内に「二つの中国」が存在してしまったことを指摘。圧倒的な独裁の共産党が微力な民主派人士の声にすら怯え、それを収監するか国外追放する事実。このMirskyの論評の下に中国人権観察組織のSara Davisなる人が「08年の北京五輪を前に中国はAIDS解決に責任をとれ」と書く。中国では公式には84万人のエイズ患者としているが実際には湖南省だけで百万人を越える患者あり。その大部分が血液売買での被害者であり政府が九十年代に非衛生的な環境で医療実験用などに血液採取(売買)行った結果。ようやく中国政府もAIDS対策に動き出したが、問題はその当時の責任者が各地の党政府組織の幹部として現在のAIDS対策に関っていること!。この状況でどうやって抜本的な解決ができるか、と指摘。このような問題解決ができぬうちに五輪騒ぎか、と。

八月卅日(月)朝、雷暴豪雨あり。早晩にジム。小一時間の鍛錬を試しに万歩計(なぜ万歩計といふと爺臭いのか、オムロンの最新機種)で図ってみれば六千歩ほどでその上シャドーボクシング的に身体を動かしていると思うとかなりの運動量であるのは確か。それでも体重一向に減らぬのだから日頃の不摂生推して知るべし。地下鉄港島線の東行きで午後七時すぎに帰宅途中週刊文春読むのは「香港で東京の帰宅ラッシュ」のようで恥ずかしい行為でもあるが何故そこまでして読んだかといへば「男が嫌いな男」で小泉三世僅差で抑えナベツネが栄えある一位になったため。やはり世の中ナベツネが嫌いな者が、それも巨人ファンでもナベツネ嫌いがいると知り嬉しいかぎり。ナベツネがいる限り讀賣新聞は絶対に購読しない、といふ立派な心がけの方も。余の場合はナベツネは引退してもどうせ院政敷くので「ナベツネが死ぬまで読売は購読しない」と徹底。石原慎太郎は42位で13票と振るわず残念だが政治思想別にしてしまって見れば七旬ながら若々しくあの志気に惚れる男が多いのか。同じ42位に長嶋茂雄もあり。これが不思議。好きではないが嫌いといふ具体的な理由わからぬ。世の中に何も害はないと思ふのだが。だが記事は国民的英雄で而も病床にあるためか下位を幸いに長嶋については語らず。小泉三世のナベツネと十票差(千人対象の調査なので僅か1%の僅差)と健闘しているが、この梅原猛先生が「戦後最低」と評した首相は首相就任以前からその胡散臭さは明らかであったのに国民の八割支持し実際には四割支持で残り四割が瞞されたか無節操に支持したのだが、一番の問題は今もってそれを首相に据え長期政権化している事実。戦後最低といへば小泉三世の朋輩ブッシュ二世に紐育では廿萬人が反ブッシュのデモ。誰が仕組んだのか知らぬが九一一が米国民に与えたショック大きく盲目的にブッシュ支持が一時増えたのを差引いてもイラク征伐だのここまでの代償払わぬとブッシュのバカさ加減がわからぬ彼の国では失敗しても失敗認めて反省しまたやり直すことが美徳なのかもしれぬが、その学習のためにイラクだけで一万人越える死者が必要とは。
▼昨年の秋にエミレーツ航空でドバイ経由で香港巴里往復のマイレヂがふと思えば何処にも残っておらず「あっ」と思い出せばシンガポール航空のKris Flyersのカードを見せた記憶。そのKris Flyersの余の会員籍が三年だかの未使用で已に失効していたのだが昨年秋はすでに失効したあとで失効したマイレヂでは記録残ろう筈もなく、ただKris Flyersの新しい会員籍をば得てはいたので新嘉坡の本部に電話して事情話すと搭乗から半年過ぎているので何如ともし難い、との返答。半年以内に確認しなかったのは余の落度。一万数千哩インド洋に捨てた感あり。
▼親中派御用政党民建連の馬力党首がさすが選挙戦の最中に癌摘出の手術でさすが親中で広州にて入院手術。その際に市民の不信任高き律政司・梁愛詩が馬・党首に宛てたお見舞いの手紙(図)律政司の立場で親中派御用政党との親交も如何なものか、果して民主党党首が同じような場合にも御見舞い出すのかどうか。ただいずれにせよこの優しさ濫れる筆運はなかなかのもの。
▼ところで余は東京ファシス都と書いているが厳密には東京ファシス都知事であり東京都の職員でも都民でも良識ある人がいるわけで容易に東京ファシス都などと呼ぶのは失礼かとふと思ふ。もちろん東京都の教育委員会のようにもはや完全に都知事の色のついた部署もあるが。

八月廿九日(日)夜中に脛から足先が冷えて目覚める。気温も廿五度となると冷房など冷えてしまひ冷房も止めて寐てもこの有り様。早朝に足を揉んだりタオルケットに足を包むと老いとは悲しきものと感じ入る。朝起きると大雨にて黄雲警報発令中。昼まで新聞雑誌の類に目を通し過ごす。吉田健一の『英語と英国と英国人』続き読む。スコットランドに旅した吉田健一、その旅の一行に今朝出たホテルの鍵をポケットに入れたまま鉄道に乗ってしまった者あり、さてどうしようかとしていると同行の英国人が、それはよくあることで、そのためにどこのホテルの鍵もその番地が鍵についた金属製の札に刻まれているわけで、そこに三ペンスの切手を貼って投函すればよろしい、と言われ、鍵を見てみるとその金属札には丁寧にも切手を貼る四角まで彫ってあるといふ寸法。鍵の札にそのまま切手貼ればホテルに戻る仕組み。なるほどと感心していると列車の車掌通りかかり、切手はる様を見て「三ペンス、損をなさいましたね」と。何故かといえば、そのホテルはこの鉄道ともともと同じ経営のホテルにて(実際に吉田健一搭乗の際は鉄道は国有化されているのだが車掌はまだ民営時代の気合い)この列車はまたその始発の町に戻るから私に渡してくれれば切手代など要らなかったのに……と、それだけの話なのだが、随筆といふのは、こうした偶然のあまりに出来すぎた阿吽の呼吸の話が最も面白い。ちなみにそのスコットランドの首都エディンバラでは恰度夏の芸術祭の最中でウィーンフィルがなんとフルトヴェングラーとブルーノ=ワルターの二人が指揮とは何と贅沢な。それくらいしか面白くないのだが、随筆ぢたいは。午後ジム。雨止まず。灣仔にかなり上出来の按摩屋あるのを教わり九十分深刻に按摩。晩にモブノリオの芥川賞受賞作『介護入門』読む。石原慎太郎は選評で「この作品には、神ではない人間が行う「介護」という現代的主題の根底に潜んで在るはずの、善意にまぶされた憎悪とか疎ましさといった本質の主題が一向に感じられない」「主人公がマリファナ中毒だったり、頻発される朋輩(ニガー)という呼び掛けも、ニガーという最大級の蔑称としてはミスマッチだし、各章冒頭に出てくる「介護入門」なるエピグラフもことさらのアイロニーも逆説も込められてはおらず、ただ説明的なだけで蛇足の域を出ない」とし今回の選考を「猛暑の故の夏枯れとしかいいようがなかった」と結ぶ。宮本輝の、この作品の口調は小技にすぎずこのモブノリオをこの一作で評価できぬといふ評が最も妥当であり、山田詠美の「麻呂顔なのに、ラップもどきをやっちゃってるのが玉にキズの非常にまっとうな小説。主人公の息苦しさが良く描かれていて心に痛い。でも、朋輩にニガーなんてルビ振るのはお止めなさい。田舎臭いから」といふ評が最も的を得る。作品はラップもどきでもなく
毎夜俺は、俺の簡易ベットより少し高い位置から祖母が向ける幼児のような微笑みを確認し、豆球の薄明かりの中で密かに安堵する、仲のいい子供同士がおやすみの挨拶を互いの笑みだけで交わすように。眠る祖母の掠れた呼気と吸気が行き交う狭間で、気がつけばばあちゃんに背中を向け、壁へと逃げるように、俺は音に狂う俺の浅い眠りを眠る、次の目覚めが祖母の死体と添い寝する俺の朝で始らぬことを祈りながら。
などと伝統的な<私>の小説。石原の評など、介護に憎悪だの疎ましさもあるのは事実で小説がそれを扱うのは必要だが都知事でありながら弁論で福祉に対するエゴの根底を暴露してみせたがる石原であり、アジアの近隣に最大級の蔑称を吐く石原に、ただ「よく言うよな」と呆れ石原の『太陽の季節』がそれぢゃどれだけのものだったのかと感じるばかり。同じ文藝春秋で立花隆の東京大学物語の津田左右吉の受難を読めばこの昭和十三年前後の状況が政府の大学への介入などまさに今反復されているとの同じ状況に見えてならず。
▼週刊読書人(九月三日号)で東京舞台に小津安二郎へのオマージュとして『珈琲時光』撮った侯孝賢監督のインタビュー読む。神田神保町の喫茶店Ereka訪れたが切掛けで東京であちこちの町に自分のお気に入りの喫茶店がありそこを仕事場のように使う所謂フリーのクリエーターの女性主人公に、その女性はきっと高円寺や阿佐ヶ谷、荻窪に住んで、と「ありきたり」のようだが台湾人の日本へのオマージュと見ると面白い筈。大西巨人の鎌田哲哉相手の対談、実に一年の連載が終わる。最後の頃には宮台真司について「彼はへらへらしているように見えるが実は立派」で「ただ頭がよすぎるのではないか」といった、今さら大西巨人が語らぬでもいいことまで、ただこの連載は大西の前の蓮実重彦でもそうだったのだが語り手の一言一句編輯せぬことが方針らしく、それゆへ一年も対わされる読者も辛いところ。サイデンステッカーの自伝『流れゆく日々』についての書評(勝又浩)がサイデンステッカーが所謂朝日岩波文化人とも交わらぬばかりか吉田健一にすら嫌われた、このサイデンステッカーとは「結局何者だったのか、当然のことながら、この自伝だけではわからないところも数々ある」と指摘しているのは正直な感想であろう。サイデンステッカーはやはり余はシアトル出身の畏友JB君が浅草での踊りの稽古の帰りに上野の不忍池の畔で散歩中に憩ふサイデンステッカー氏に邂逅して初対面ながら氏より聞いたいくつかの話を余はJB君より伝え聞きサ氏が何者かを解した次第。廿日の芥川賞の授賞式ではモブノリオが受賞者挨拶で紋付き羽織袴姿で舞台に登ると先日逝去の中島らも氏に捧げると煙草を一服して「人の死を巡る小説を書いておきながら、中島らもさんにはいつでも会えると思いつつ結局一度も会う事ができなかった」と語り内田裕也より授けられた言葉でこうして人に会える喜びを教えられたと挨拶。じつはモブノリオがいかに真面目かと。田原総一朗「取材ノート」に十三日逝去の亡妻についての記載あり。氏は平壌に取材中で取材に行く前に癌の末期症状で医者に平壌から戻るまでもつかどうか保証できぬと言われ取材あきらめたところ「同志」であった妻より取材に行け、ガンバレと諭されたそうな。こういったものが最近感涙が怖く読めぬ。
▼台湾で戦前のベルリンオリンピックに中華民国出場以来の悲願の初の金メダル受賞のテコンドー、而も男女それぞれで受賞だが、その女性、陳歌欣、授賞式にて国歌の代わりに「国旗歌」流れるなか国旗の代わりに中華台北オリンピック委員会旗が掲げられるなか感涙に咽びつつ敬礼した姿印象的であるが、この陳歌欣選手が「檳榔西施」だったといふ半生興味深し。陳選手、厳格な父に育てられ十六歳ですでに二度もテコンドー世界選手権にて優勝する才能見せるが已にこの時で敵なしに飽きてテコンドーから離れ若気の至りで家出。十九歳までの三年間は台中で檳榔売りの「檳榔西施」、賭博ゲーム店の店員、不法の屋台での物売りなどして警察に追い回され、暴力団に保護費払う生活。で本人も反省し五年前に父親の誕生日に自宅に戻り父に詫びて複びテコンドーの厳しい修行始めて今日の栄光と。で「檳榔西施」であるが詳しくはこちらご覧いただくとして台湾では風土に根付いた風俗文化であるにせよ、やはり路上で昼間からスケスケの服装で色気たっぷりに檳榔売り娘。蘋果日報の語るところによれば台湾で檳榔売りの屋台の数、実に五十萬戸で五百万人がこれで生計たてる一大産業。道路沿いで檳榔売るためにお色気で勝負と売り子の、ほとんどが未成年の売春こそせぬが「学歴不佳、没謀生技能」の娘らが客の嫌らしい眼差し受けての稼業、社会的にも貶まれた職種。この金メダルで檳榔売り娘の社会的地位も向上だろうか。でなぜに台湾でテコンドーかといへば六十年代に当時国防部長の蒋経国が台湾の国民党軍に格闘技系武術の導入を求めボクシング、空手、テコンドーのうちボクシングは中国的な精神修養に欠け空手は蒋の反日感情も絡み、テコンドーを導入。当時の台湾韓国の反共蜜月時代も影響ありであろう。八十年代に韓国がテコンドーの国際化に乗り出し台湾は軍隊出身の選手が韓国の好敵手となり、ついに今回の金メダルといふ話。
▼廿六日の信報文化欄に「ノルウェイからの叫び」といふ文章あり。ムンクの「叫び」が美術館より盗まれた日、偶然にこの美術館より歩いて十五分の距離のホテルに泊まっていた小奥なる筆者の文章。美術館近くの路上で盗まれた作品の額縁発見され作品がどう扱われているのか破損の恐れあり、博物館の防犯対策などの欠陥も指摘されたが、筆者曰く、これだけ世界的な作品蔵める美術館でまともな守衛もおらず警報機システムも完備せぬこと一般常識としては奇異に映るがノルウェーにいればけいして驚くに価せず、と。国宝級の美術品が厳格な監視下におかれている中で観賞するのと、とくに仕切りも赤外線警報もなく作品を間近に鑑賞できる環境のいずれかが望まれるかといへば後者。一応は手荷物預けて館内に入るが保安員の数も少なく「館内は静寂に」だの「作品に触らないでください」といった標語もそこいらにベタベタと貼られず。ノルウェーの人にしてみれば常識であり自律に属することはいちいち他人の指図も要らぬこと。御意。世界で最も豊かな国の一つであり税金高いが高福祉維持しノーベル賞世界に授ける理性と徹底した個人主義、平等。その「叫び」が盗まれた日にこの美術館訪れた、筆者の友人が語っていたのは、館内にピッザ餅売る売店あり、その店員はピッザ餅焼くに忙しく客と金銭のやりとりを厭ひ、客はカウンターに置かれた小腕に自分で代金を入れ釣り銭をとってゆく。店員はそれを一切関知せず。その対人の信頼に基づく社会での犯罪がこれ、と。

八月廿八日(土)雨。昼前に中環。銀行にてファンドなど諸手続き済ます。Colorsixにて写真現像依頼。Stanley街のApple Centre寄ればiPodなどに客多く繁盛。Appleの客といふのは灣仔電脳中心とか旺角、Sham Shui Poの電脳とは全く客の雰囲気異なり興味深し。春回堂にて涼茶。陳成記にて牛南伊麺。ジムにて一時間鍛錬。尖沙咀の街頭にて久々に紙撒き先生に遭遇(写真)ズタ袋に廃紙大量に保管し丁寧に紙は掌ら大の四角に切ってあり、ブツブツと何事か喚きながらその紙に賢明に何か記載続け書き終わると紙を細かく丁寧に破いてそれを放ればおりからの風に紙は宙に舞い彼のまわりは紙「屑」だらけ。ロラン=バルトならこの情景をどう書き残すであろうか、何が記載されているのか、書かれた瞬間に破かれて誰にも見られぬまま葬られるエクリチュール。スターフェリーにて中環。Z嬢とIFCの映画館にて岩井俊二監督『花とアリス』観る。『リリィシュイ』でもそうだったのだがフィルムでないデジタル録画の映像は余は好まぬが岩井俊二のソフトフォーカスはフィルムでは映しきれぬのかも。この映画、朝日新聞にて沢木耕太郎の『銀の森へ』の映画評あり、それ読めば筋が見事に説明され而も沢木耕太郎の「物言い」余は好まず敢えて目を通さず。どこか宮崎駿のアニメ映像の雰囲気漂ふが岩井俊二でなければこの筋で二時間余の作品にはとても出来ず。全編に渡り音楽うるさすぎ。花(鈴木杏)とアリス(蒼井優)の演技お見事。二人の「キミはナントカか?」の掛け合いがエンタツアチャコの漫才の如き紳士然としてとても面白い。それに比べて郭智博演じる「先輩」がなぜ花やアリスにとってそれほど魅力あるのか全く理解できぬが(少なくとも事情判明してからの最後は多少魅力もあるが)Z嬢曰く「アトになって思ふと「なぜあんなのに」と理解できぬぼーっとした男子」が何か魅力的に見えてしまひ恋してしまふのが思春期、と。アリスの父親役の平井成が助演男優賞当確の見事な演技。文化祭の鉄腕アトムの気球が何の意味もないのだが岩井俊二だからこその演出。そして出演キャストにも名前出て来ぬ「風子」役の女の子がじつにいい。もう一度じっくり観てもいい作品。百年ぶりに上環の韓国料理・梨花苑。牛ミノの白湯鍋が実に美味。土砂降りの大雨に恰度空車のタクシー来て幸いに帰宅。

八月廿七日(金)雨。夏風邪で朝、近所のC意思の診断請ふ。軽いインフルエンザだそうな。早晩にジムに寄ろうとすれば銅鑼灣にてB君に遭ひ時代広場近くの日式喫茶にて暫し款談。中環。FCCのバーでドライマティーニ飲みZ嬢待ち新聞読み。Z嬢とFCCの主餐庁にて晩餐。Z嬢着てきたニットの服が初めて見た気もしつつ愚問発せば「このまえ買ったじゃない、一緒に」などと顰蹙かう恐れあり余計な一言禁物と思いつつ話題に触れぬわけにもいかず「似合うよね」と無難に言えば何とZ嬢の母親が四十年前に注えたニットの上下の上身だそうで、ニットといえばメルローズの横森美奈子女史も好きそうなデザイン、Z嬢七月に帰省のおりに母に譲られたと。服飾といふもの半世紀近き前のものがモダンに見えるから興味深し。ニットといへば今にして思えば十五年ほど前に東京でお気に入りであったメンズメルローズの黄色のニットのカーディガンも横森さんの落ち着いたタッチであったと、なぜそれが記憶あるかといえばその当時にZ嬢と浅草より東武特急電車で日光に遊び金谷ホテルに逗留の際の写真残るため。ところでこのFCCの主餐庁、壁に過去の一大事の新聞が掲げられるが越南戦争などと並び見出しに“JAPS ATTACK US”といふ真珠湾攻撃の際の新聞もあり、Z嬢は初めてみた時に「日本が我々を攻撃」と読んでしまったと笑ふが、これがこのFCCで前回は横田淳総領事(現イスラエル大使)が講演の折もその場に掲げられ、誰も注意せぬことが不思議。グラスで三鞭酒一杯。豪州のShaw & Smithの03年の白葡萄酒。ミディアムドライでかなり芳香豊かだが飲み口は甜からず美味。食事は鴨肝と黄茸、メインディッシュは本日豪州より届いたといふロブスターのグリルと温野菜。
▼週刊読書人の連載楽しんだ詩人桝野浩一のが最終回となる。犬漫画『ロダンのココロ』の内田かずひろ氏の個展に益田ミリ女史と訪れ会食した桝野氏「相変わらず」話題は離婚した元妻のこととなり益田に「元妻ネタはもう飽た」と言われ内田にも「週刊朝日の連載も元妻ネタは捨てて出直したほうがいい」と提言された詩人桝野。だがこの回の内容もこの話から始まりリリーフランキーも絡み(って桝野氏が勝手に被害妄想?なのだが)やはり元妻の話題に終始する。朝日新聞から発売の格言絵本と映画コラム短歌集『もう頬づえをついてもいいですか?』が全然売れなければ転職を考える、と桝野氏。どこかこの元妻や愛をこれでもかと語らざるを得ぬ平成のもの悲しさに惹かれる。
▼東京ファシス都の台東地区中高一貫6年制学校(こちら)が扶桑社とつくる会の歴史教科書の採用決定の快挙(朝日)。この学校、都立白鴎高校の附属中学で、日本の伝統文化の教育に力を入れるそうだが、この教科書採用決定した東京都の教育委員とこの学校に大きく関わる「日本の伝統文化に関する教育推進会議」に米長邦雄が兼任するなどもはや石原都政の唯我独尊甚だしく、何が伝統文化の教育か知らぬが、せいぜい三浦朱門の小説が読める程度の日本語と将棋が上手くなる程度の成果でもあろうか。この「つくる会」の教科書採択はまず養護学校がそれに利用され(まさに教科書採択の事実得るためだけに、また偏向左翼教師多きゆえの養護学校の政治的利用)そしてこのたびの正規採用。この一貫校でも出て大学は当然、首都大学東京で学び(首都大学東京ってもし首都移転になった場合どうするのだろうか、あっ、その場合を見越しての東京首都大学でなく首都大学東京か、これなら首都大学の東京校ですと言い張れる)、成績優秀なら松下政経塾、また将来の東京を背負って立つ気概あれば東京未来塾、教育を憂ふなら東京教師養成塾へと進路も充実。これからますます将来が不透明な時代にきっと就職まで右翼ファッショ社会が面倒見てくれるのであろう。めでたしめだたし。……で当然、産経新聞は築地のH君も「さぞや驚喜し鼻高々と思いきや」今日の紙面いたって地味で一面の右下4段の扱いで社会面にも詳報なし。勿論「主張」も「産経抄」も沈黙。産経愛読のH君は「前回大騒ぎを煽ったあげくに混乱を嫌った教委の腰が引け全国で惨敗した反省をかなり厳しく徹底している」のか(笑)と。ところで最近、取上げもせぬが産経抄はH君によれば昨日も直接教科書に言及しないものの「国にはそれぞれ固有の歴史認識がある」から共識など無理と主張(こちら)。それでいて中国の反日教育だのサッカー試合のうんぬんを文句言うのだから我が儘もここまでくるとお見事。讀賣新聞の記事(こちら)では「採択時には大きな議論を巻き起こす「つくる会」の歴史教科書だが、すでに使用している愛媛県の学校現場で目立った混乱は生じていない」としているが、爆弾ぢゃあるまいし使ったから直接の事故が起きる筈もなし。問題は、この自虐史観のアンチテーゼといふ精神的支柱(この我が国を誇らねば立脚せぬ精神こそ自虐だが)などで教育がなされた結果どのような将来があるのかといふこと。この教科書用いる中高一貫の愛媛県立松山西中(PTA会長が自民党の戒能潤之介県議、関谷勝嗣参院議員の直系と、「なるほど」といふ感じだが)は「生徒、保護者、教師からの苦情はない」というが実際には「副教材も使い、多角的に歴史を見るようにして」「第2次世界大戦の部分は(教師が)他の教科書も参考にするなど、気をつかっている」と説明。それではこの反動教科書使う意味なし(笑)。私立の岡山理大付属中(この学校法人の拡張興味深し)の教頭は「教師はどの教科書を使っても、それをどう料理するかが大事」と強調、つくる会の教科書が大東亜戦争という表現を使っていることについて「その呼び名を使う人と反対する人がいる。平面的な歴史教育ではなく、生徒にいろいろなことを考えさせることができる」と評価する……と讀賣は書くが、これもその「つくる会」の教科書の使用が強制された環境での苦し紛れの答弁としか思えず。讀賣の記事、この教科書でも問題ないこと説明したようで実はどれだけ現場が苦労しているかを吐露、とお粗末なのか、ナベツネ王政以前のかつての栄光の讀賣社会部の意地か。いずれにせよ、H君が見つけたお受験掲示板では、この教科書採用の学校では大学受験に影響ありといふ現実的な点で不評。これで結局、いくら教育行政肝煎りの一貫校だの基軸校がこの教科書採用しても、とくに常識的な私学では採用見込まれず、そのメジャー私学中心に受験社会が形成されていると思うと、今後もこの教科書普及に難しいところもあろうか。
▼台湾がオリムピックで初めての金メダル。テコンドーでそれも二つ。中華台北のオリンピック旗があがり国歌の代わりに掲旗歌なるものが流れる。中国政府にしてみれば政変白日旗があがり「三民主義」の国歌流れるなら、中国の得た金メダルのうち2つ返上してでも台湾の金メダルは「なかったことに」とか言いそうだが、この中華台北の扱いなら中国にとっては卓球での香港の銀メダルと一緒に内心、金+2、銀+1で「全部、中国」と計算しているのだろうが。
▼中国といへば共産主義標榜しつつ拝金主義の横暴ひどく先日読んだ新聞記事では大学入学にあたり統一試験の費用、たしか六十元だったか、が払えぬ学生の家庭あり、この額がじつはその貧困なる農村の家庭の年収に当たる、でそればかりかその学生の学ぶ高校で担任が教室で他の学生の前でこの試験費用払えぬなら大学進学は無理と説明し、この学生は大学に学ぶ夢が破れ鉄道に投身自殺。また西安の財経大学では大学の施設費教材費などある学生が三万元学校に債務あり、これを払えぬこと息子に申し訳なしと苦にして親が自殺。特色ある社会主義などと間違っても言えぬ資本拝金主義の横行ぶり。
▼石原慎太郎の特攻隊で死んだ彼らが「今の日本のあり樣を見たらどう思ふだらうか」といふ問いに築地のH君は「60年たってもなお米国の属国の地位に甘んじているのは、戦争に負けたおかげだ。やはり戦争には勝たねばならない。なぜ自分らのあとに最後の一兵まで闘わなかったのか」といふ気負いか、でなければ「戦争が済んだといってここまで米国のご機嫌取りをするくらいなら最初から戦争しないでご機嫌取りしてりゃよかったぢゃないか」のいずれではなかろうか、と。後者でなかろうか。
▼昨年のSARS疫禍にて対応の拙さから責任問題指摘された医院管理局の専業及公共事務総監(当時)の要職にあった高永文医師(現・専業事務及人力資源総監)が管理局との契約更新せず今年末をもって離任。事実上、疫禍での責任とる形。で後任者が同局の副総監の昇格なのだが、この御仁、四年前に書籍万引き、それを見つけられ店員を突き倒し検挙されたが司法医師が本人の精神失調での万引き行為で本人に行為責任求められずといふ診断をしたことで律政司がお得意の(笑)不起訴の決定で現在に至る。本屋での万引きと、そればかりか店員押し倒しても政府高官となると重圧での精神失調で刑事責任不問とは……。そのようなナイーブな方がこの疫禍あらば陣頭指揮求められ何か失態あらば矢面に立たされる要職に就けるのだろうか、と素直な疑問。

八月廿六日(木)臺灣から福建省襲つた颱風は急に左旋囘し香港へと向かふ。颱風警報1號發令ながら幸ひに勢ひも失せて雨空。こゝ數日の氣温低下に夏風邪ひく。この毎年のことながらこの處暑の頃に外の暑さと室内の極寒の温度差の由。それでも輕くジムに寄り歸宅。文藝春秋九月號に石原愼太郎の「特攻と日本人……ある見事な青春群像」といふ文章(談話)あり。特攻隊に散つた若者らへの鎭魂で、結局は畏くも天皇陛下の靖國神社參拜を切に願ふもの。特攻隊で死んだ彼らが「今の日本のあり樣を見たらどう思ふだらうか」と石原は述べるが、そりや「今は平和で幸せでほんたうにいゝことだ」と素直に思ふであらう。陛下の參拜が實現すれば石原は「その一瞬にこの日本で大きなものがはつきりと變はるに違ひないと思ふのですが」と談話結ぶが、その大きなものがはつきりと變はることを我々は危惧する。文藝春秋はなにも石原のこの談話讀むためでなくモブノリオの『介護入門』讀みたかつたのだが風邪であたま朦朧として讀めず。
▼久が原のT君が當然かもしれないが二村定一のCD所有と。子どもの頃に神田小唄だの浪花小唄だの諳んじて歌ふT君は中學生時分から定一が好きな歌手だと。『御濱御殿綱豐卿』は梅玉襲名で先代の仁左衞門の新井勘解由(白石)は今月は三十代の橋之助(自ら落涙の熱演だとか)でT君歳月の流れを感じざるを得ずと。で『勸進帳』は昭和六十年の現・團十郎の襲名五月公演での六代目歌右衞門の義經。餘は當時仙臺に住まひ赤貧の身とても上京して團十郎襲名など見れもせず。さすがのT君も「大檀那ともあらう御方が今さら何で立役を…」と千穐樂近くまで見に行かず、が大成駒の義經は花道七三での決まりで「青嵐吹き落ちるが如き氣迫と形の良さ。「判官御手を」ト絶妙な手順で中啓を持ち替へて辨慶にゐざり寄る緊張と氣品」にT君心服し千秋樂まで通ひ詰めたと。ちなみに先代の松緑が富樫、長唄は芳村五郎治。

八月廿五日(水)銀行にて今後の貯蓄などにつき所謂財テクの指南受ける。低金利だからこそ盲目的に定期預金になどしておかず、かといって投機に走らず元金保障型のファンドに確実に運用すべき等々。早晩にジム。FCCに旧知のG氏招きG氏お連れになったH氏と鼎談。H氏が二村定一ご存知で話盛り上がる。藤原義江のレコオドはCDでも入手に易いが定一となるとなかなか入手困難と。在外選挙の話題となり地方区で海外選挙区作られるか最低でも海外の政党別得票数の公開があれば面白いのではないか。その場合、組織票強い公明党がトップ、それに自主的な投票で民主が続き「ここはひとつ宜しく」が通じぬ自民が第三党か。帰宅して平成十年正月の浅草公会堂での「三之助」による勧進帳あらためてビデオで見る。新之助の初役の弁慶について先日読んだ新之助論も関容子の本でもこの弁慶で当日朝までの新之助と成田屋の家での緊張感多く語られ元旦の晩に家を飛び出し深夜徘徊して公園で夜を明かし自宅に戻り父・團十郎に詫びを入れ一睡もせず弁慶に挑んだといふその緊張感がどれくらいのものかと改めて映像見入る。若干廿二歳の若者が浅草とはいへ弁慶の大役に挑み、新之助なりに役に成りきった舞台。それにしても菊之助の義経が(余にはどうしても菊之助の祖父・梅幸の義経がトラウマの如く昔から脳裏に焼き付いてしまっているのだが)もっと画面に映されてほしかったもの。
▼久が原の畏友T君「江戸川乱歩先生と大衆の20世紀展」にて乱歩先生旧居幻影城訪れる。T君曰く「肝腎の書庫土藏は入口のみ公開、内部は硝子張にて入る能はず」「辛うじて一階書架の藏書背文字のみ瞥見」すれば「歴史文學など人文系統中心の藏書なるは當然として、濫讀の氣味こそ多少はあれ、亂歩先生御在世當時の富裕なる讀書人にしてみれば至極當たり前の書目ばかり目に付き」「少なくとも一階部分には」「特異なる蒐書癖の痕さまで殘らず、少々意外の感に打たれ候」と。「二階部分は非公開なれども、此處は和本中心の格納所と聽き候儘、現に「手品本六種」など亂歩先生自筆の覺え書き認められたる箱包紙の類ちらりと見えて」「一見して思ひ候に、幻影城と御大層なる名にて呼ばるれど、一萬册の藏書とて「仕事」をする人にとりてはごく當たり前の分量」「どの程度熟讀せられしか、否熟讀せられずとも如何に自らの仕事に活かされしかを慮れば足ることにして、文人にとりて書物は唯のコレクションならず、必需の實用品なりてふ至極當たり前のことに心付かされ候」と。T君の「蒐書の當人生きて蒐書に絶えず氣を配る間は書架に常に知の出入りありて藏書も生動し、死して新たに入る本なくば書架上停滯し藏書は死物」「畏敬すべきは亂歩先生の人間なり仕事なり、埃を被りたる死書の山にては是なく候」といふ感想に肯定くばかり。余は乱歩先生のこの幻影城をばどうせ見せ物にするのなら、書蔵に先生垂涎の愛でるオブジェとしての人まで匿ってみせてもいいかもと想像。T君その足で午後は思ひ立ちて神宮外苑なる聖徳記念繪畫館に杖を曵く。「國會議事堂上野の博物館などゝ同じ大正から戰前の石造建築特有の墓所に似たる陰鬱なる外觀のみ著名に候ひて、内部に帝國全盛期の和洋畫家による明治天皇一代を表す繪畫幾多藏せらるゝを知らざる都民多く」「大帝の前半生は日本畫、後半生は西洋畫にて描かれ候が、當時のレベルを反映し候て壓倒的に日本畫諸作の筆力高く」「中に大嘗宮描きたる前田青邨の畫風洵に瑞々しく、蒼古たる畫題筆致の他作の中に一異彩を放ち、鏑木清方謹寫せる昭憲皇太后詠鴈の圖、一見綺麗事に似たれど寫眞そのまゝの面貌から人格性格自ずと光り出でゝ、諸家の及ばぬ肖像畫家の眼を感じ取り得て」明治帝の「御生誕から御葬送までの畫面を追ふに、一面たりとも手拔きたる作品なく、それぞれの畫家乾坤一擲の氣迫畫面に溢れ、それと相俟つて自ずと明治大帝の生涯目の當たりに泛ぶは好惡を越ゆるべき壯觀、こは明治を生きたる明治人の、幻想と言ふにはあまりに確固たる時代幻想の姿と察し」「思へば歴史なるものは常に幻想にして、その幻想を如何に享受し今を生きるか以外に歴史の價値は是なく候べし。妖しげに演出せられたる展觀場に並びあまたの人の好奇の目に曝されし讀み捨ての死書の山より、見物人も疎らなれども一時代を生きたる畫人渾身の力により確固たる幻想を描き留めたる古繪畫のはうが、餘程「今」を考へしむる光彩を放ち居り候」との感。神宮外苑、かつての権太原といってもお若い方はご存知なかろうが余も十六歳の夏だかにふと思ふところあり暑い夏の午後この界隈探索せば全くといっていいほど人の気配もなきこの絵画館に入り冷え冷えとした館内にて明治帝の姿眺めたこと彷彿。
▼築地のH君より寒村の生家は遊郭の仕出し屋だったらしいとメールあり。もともと粋筋の人がアナーキスト。啄木がテロリストの哀歌をうたい賢治が天空飛んでしまっていた時代。過去に憧れても仕方ないが憧れる。ところでH君より歌舞伎好きといわれる小泉三世に「実は歌舞伎をあんまりよく知らない疑惑」が浮上、と(笑)。夏休み満喫の小泉三世歌舞伎座で芝居見物し「忠臣蔵は、いつもみてもいいね」と相変わらず「ワンフレーズ」の感想を述べたそうだが今月の歌舞伎座は忠臣蔵は忠臣蔵でも真山青果作『元禄忠臣蔵』「御濱御殿の場」。この芝居を総理はほんとうに「いつみても感動する」くらいたびたび見てるのだろうか、とH君。渡辺保先生の「歌舞伎手帖」によると御濱御殿の場は「このシリーズの中でもっとも上演回数の多い人気狂言」とあるがちなみに前回の上演は平成十四年五月の京都南座、その前が歌舞伎座で十三年八月。ここで小泉三世が見ていたかどうかが問題(笑)。この月の三世の動静をば朝日新聞勤務の知人に問い合わせ「首相動静」で確認してもらったが(笑)この夏は三世ご自身の靖国参拝でかなり身辺慌ただしく夏休みは1週間ずっと箱根にひっこみ歌舞伎座で芝居見物の記録見あたらず。だが歌舞伎見物あったとしてもこの8月は勘九郎の野田秀樹演出の「研辰」であろう、きっと。ちなみに保先生によると「御濱御殿」の場は「男の意気事、熱情、至誠、そしてハラのさぐり合い、ついには絶体絶命の状況があらわれるまで、二人の言葉が熱狂を生む。真山青果の傑作」で、この全段の「男の意気事、熱情」というあたりは確かに三世好みかもしれぬが「二人の言葉が熱狂を生む」というのは、よりにもよって首相にもっとも縁遠い世界ではないか(笑)、とH君。なにしろ「言葉の力」をまったく顧みない人であり、さらにまた熱狂を生むような対話というのを徹頭徹尾避けている。御意。

八月廿四日(火)朝刊トップにマラソンの野口選手の金メダル。朝日の社会面にゴールでの野口選手とコーチの言葉にならない感動のスキンシップ劇的に語られるを読み何も言葉もなし。日本よりアジアフォーラム横浜のご一行が日本侵略時の香港歴史の学習旅行に来られ和仁廉夫さん同行。本日この香港島ツアーに参加させていただき香港在住ながら恥ずかしくも勉強不足補ふ。和仁さんに加え郷土歴史家の畏友高添強君も説明役で参加。また香港索償協会主席の呉溢興氏(写真)も午前中同行される。実に十三年ぶりだかで尊顔に拝す。この香港索償協会は香港を日本軍占領期に香港ドルが強制的に軍票に交換させられ戦後も換金しないのは不当として賠償を求めており99年には日本で日本政府相手に総額約七億六千万円の補償を求め提訴。「反日」団体の如く見られもするが実際には不当事についての賠償求めているだけで過去の歴史は正しく見つめ日本人とも友好的に平和を願っていこう、と呉さんの言葉。バスでHappy Valleyの香港紅毛墳場(外国人墓地)にある日本人墓地。日本人の墓の多くはかつて掃桿埔にあった日本人斎場(火葬場と墓地あり)より移したものだが、その一角から離れたところに位置する日本人の墓(写真)は高君の説明により1918年のHappy Valleyの競馬場での大火で亡くなった、競馬場内で屋台営む夫婦の墓だと知る。高氏からこの墓地に隣接のParsee墓地についても説明あり。パールシーはペルシアのゾロアスター教徒でイスラム教による迫害逃れ印度に移住、ボンベイ中心に中国貿易に携り香港にも定着。銅鑼灣のLeighton Roadにゾロアスター教会所有のビルあるが香港大学開校に尽力し尖沙咀のMody道の名前の由来となったMody家、灣仔の公立病院の名に残るRuttonjee家などがパールシー。駐車場の料金支払いはShroffといふ由来は同じパールシーのShroff家であることなど内容見事な極楽とんぼHP(こちら)で知る。墓地から黄泥涌道上り黄泥涌峡。陽明山荘向かいの峠(図)。難攻不落の地、日本軍が「五叉路」と呼んだ場所。トレイルなどで何度も通るこの場所に1941年の12月、九龍側より侵攻する日本軍と戦ったカナダ軍の軍薬庫の跡あることに今まで気づかず。ジャーディン山の登り口近い高射砲砲台跡。黄泥涌峡道のガソリンスタンド裏にあるカナダ軍最後の攻防地、ローソン准将殉死の跡地(写真)カナダ軍は英国軍欧州戦役あり十分な兵力をば香港に回せず大英連邦としてカナダ軍が来港。兵隊がまず来港し戦車だの武器弾薬届かぬうちに日本軍の攻撃受け鉄砲の撃ち方すら満足に知らぬ十代のカナダ軍兵士らが戦死。また負傷兵の救援活動に従事の民間の聖ジョン救助隊に参加せし香港の地元の十代の若者ら迄も日本軍に殺されたのがこの場所。ここからわずか五百米に満たぬ場所に現在の日本人学校あり。昼に赤柱に参りかつて中環(現在の中国銀行ビル)の軍施設を解体移転したMurray House見学。一度食事したことあるが建物に弾痕いくつもあること高氏の説明。現在は観光施設となっているこの建物のレストランエルシドにて昼食。午後、同じ赤柱の赤柱軍人墳場(写真)訪れる。雨空。整然と並ぶ無言の墓墳(写真)赤柱は香港島に侵攻せし日本軍に英国人が最後に追われてきた場所であり赤柱の聖ステファン学院に野戦病院あり。日本軍はここも攻撃し収容者と医療関係者も銃殺(写真右下)。ボランティアの看護婦を姦した上で殺害といふ事実もこの攻撃に参加の老兵が生前に告白といふような話を聞く。リパルスベイ。この何度も訪れたリパスルベイの海岸の西端の一角に砂に埋まって当時の英国軍のトーチカあることなど今まで知りもせず。ここから深水湾まで沿岸を散策。この麗海堤岸路にもトーチカ残る。このあたり和仁さんが戦前、軍の特務であった瀬島龍三君が商社マンを装い白の麻のスーツでか中環の旅館千歳館の女将を連れ日傘さして散歩風情、実は英国軍の海防状況をば偵察し、その防備の充実から海からの攻撃は無理と判断し軍部に中国大陸からの攻撃をば提言し、実際にこれが功を奏し41年末の香港攻略成功に至る話をされる(こちら)。中環(写真)に戻る。立法会の建物も金鐘側の側面にいくつもの弾痕ありHSBC銀行の正面の一対の獅子像も金鐘側の獅子の背に多くの弾痕あり(写真)。今まで全く気づきもせず。日本軍の侵攻と守備する英国軍の市街戦は灣仔が最後の激戦地にて、そこを破った日本軍が灣仔から金鐘の軍施設を攻略し(Murray Houseなど)その勢いで中環に入ったことが弾痕のあとからもわかる。市大會堂の中庭にある戦没市民の慰霊堂見学。ここでフォーラムの一行と別れる。日本からこうして東南アジアでの戦争の跡地をまわって学習続ける方々がいると思うと敬服するばかり。ランドマークのTiffany宝飾店。すでにZ嬢の誕生日過ぎたが今になって耳飾り購ふ。FCCにてドライマティーニ二杯。スタンダードでカクテルグラスでオリーブ実のみ。一杯目飲み終わりバーテンに二杯目注文するときバーテンによって作法あり、全く新しくグラスに注ぐ者、一杯目のグラスに注ぎ済ます者、本日のバーテン君は新しいグラス用意して注ぐものの「ただ添えるだけのオリーブの実はまた用意されては勿体ない」とかねがね余は思っていたがオリーブをグラスに落とさぬまま運んで参って阿吽の呼吸で余が一杯目のグラスにあるオリーブを摘まむとその隙にグラスを二杯目のにサッと取替え余はその二杯目にオリーブ落とす。バーは楽し。大雨。恰度FCCの前にタクシー乗り付けし客ありそのタクシー雇い帰宅。Z嬢とLanson黒の三鞭酒飲む。で食事は食前の三鞭酒から何故かビビムバ。偶然久々にNHKのお笑い番組「海外安全情報」見る。アネーナイではオリンピックで日本人を狙ったホテルでの盗難相次いでいます、ホテルでアジア人と見られる男が日本人の宿泊客になりすましホテルの部屋の鍵を開けさせ保管箱まで開けて現金やクレジットカード、旅券などが盗まれています、とか。貴重なものはホテルフロントの保管箱に預けて部屋には置かないよに……って最近、よっぽどのホテルぢゃないとフロントに保管箱などないし、スリなども多いので貴重品は持って歩かないように、っていったいどうすればいいのか。この番組で最近の傑作は、紐育の中央公園で空気銃使った襲撃が相次いでいるのでベンチには坐らない、はマダしも「歩く時はジグザグに歩きましょう」と(笑)。そんなヘンな奴がいたら寧ろ空気銃で狙われてもおかしからず。国家の安全とか多国籍軍参加とか検討の前に個人の安全の常識を検討すべきであろう。

陰暦七月初八。處暑。朝に停留所でバス待つ時ふと街路に風涼し。台湾で旅行中に毎日昼頃にマルチメディアメッセージなるもの届き開けてみると金メダルの画像に「アテネオリンピック」といふ文字。それだけ。受信拒否もできず香港に戻っても続き呆れてよくよく見たらどうやら携帯電話の契約会社CSLが送ってきているようで早速CSLに電話。一方的で迷惑であるし拒否できぬし競技結果の速報なら「まだわかる」が単なる金メダルの画像で意味なし。それを何故送るのか?と質せば「オリンピックだから」と先方。オリンピックでもこんな金メダルの画像全く意味もないので送信せぬよう依頼。明日から届かぬようになるので、と素早い対応に「この苦情けっこうあるのだろう」と察す。オリンピックならみんなが関心あるといふ前提で何かオリンピックで対応しようといふ、この思考停止状態での発想(言葉に矛盾あるがそうとしか言えず)。余はオリンピックぢたいが嫌いとかぢゃなく、この「日本全国がテレビに釘付け」だとか「今朝は睡眠不足ですよね」といふ感動のデフォルメやこの金メダル画像に象徴される強要を厭ふ。灣仔の都市再「開発」決定された利東街通り抜ける。賀状の印刷屋多く古くからの理髪店や小さな工場、南洋食品扱ふ店など並び建物も五十年代のモダンな建物でなかなかの風情あり(写真)この建物の老朽化理由に、実際には香港の大手デベロッパーで八十年代は香港で最も高層ビルであった合和中心(Hopewell Centre)建てたゴードン=ウー氏の合和実業が、この灣仔の皇后大道東といふ場所がまずかったのだが灣仔の沿岸や中環、そればかりか李嘉誠のホンハム地区の著しい「発展」に比べ灣仔の内陸部でそれに取り残された観あり、合和中心の西側・船街まで(洪聖廟の裏側山手)の日本占領時からの廃屋などある手つかずの一帯にメガタワー建設計画しており、それに呼応する形で政府がこの利東街など旧態依然とした下町の建物群をも解体、開発といふ手筈。余談だがこの皇后大道東、この洪聖廟が海の神様であり船街だのアモイ街だのスワトウ街だのといふ通りの名の通り、かつてはこのあたりが沿岸。晩にジムで拳闘系の鍛錬。帰宅してマグロの中落丼食す。
▼SCMP紙もヘラルドトリビューンも経済紙「信報」も昨日北京にて挙行の中共政府による登β小平生誕百年の記念行事はCoquinteau国家主席と温家寶首相の新指導部が登β小平の業績評価を更に高めることで相対的に江沢民前主席による「指導」体制より脱却し江君をば権力中枢から乖離される本来の第三世代指導部の地盤固め図るもの、と指摘。この夏の北戴河での中共最高幹部恒例の避暑地政治もCoquinteau主席が北戴河での政治会議の廃止を決定し江沢民派に属する幹部のみ抵抗みせたが、この生誕百年でもCoquinteau主席は具体的に、登β氏が引退表明してから実際に具体的な政治活動から身を引いており、登β氏が中共幹部の終身制をば廃止したことを評価する発言をしており、白地さまに江沢民への間接的三行半に等しいもの。秋に開催決定の四中全会にて完璧に江沢民引退とすることまで確定とか。そこまでせぬと経済発展に比べ著しい停滞みせ経済への影響懸念される中共の政治改革に拍車かからぬものらしい。……と新聞各紙のほぼ一致した見方なのだが朝日新聞にこの記事なし。ネット上で他全国紙も見てみたが生誕百周年記念行事の開催と登β路線への最大の評価と改革の維持強化といふタテマエ記事並んでいても一歩踏み込んだ上述の如き記事は見あたらず。日経は辛うじて終身制廃止に触れ江氏の「軍事委主席の座を保持した状態は長くは続かないとの考えも示唆した」と言及しているものの、寧ろ、胡錦涛主席が江氏をば「当代(現在)の共産党人の主要な代表」と表現したで江氏が中共ナンバー1であることを記事は強調。これがCoquinteau主席の江氏へのヨイショであることは明白なのだが。
▼本日のSCMP紙の論壇に香港大学の日本研究学科のPeter Cave氏が日本の歴史教科書と歴史教育について文章あり。Cave先生曰く、日本の教科書での南京大虐殺などの侵略問題について正確なる記載なく歴史事実匿す如き作業あると指摘される点につき具体的に南京大虐殺や慰安婦については海外で誤解されている以上に全般的に記載があり、ただ問題は政府自民党の歴史感や教科書をつくる会の反動教科書が検定通るなどあることで、実際には国際的なプレッシャーのなかでリベラルな理解も生れてはいる。ただ問題は歴史教育がまだ完璧ではなく、有史以前の歴史から現代史までを通史で教えるなかで二十世紀などの近代史が疏かにされること。日本の子供たちはもっと日本とアジアの現代史を学ぶべきである、と。恐らく殆ど読まれておらぬ論評であろうが、実に的確なる指摘と感心するばかり。
▼蔡瀾が蘋果日報で十八日の随筆に曰く。千歳空港で偶然遭遇した日本人の子供に「蔡瀾!」と言われ「大人を呼び捨てにしちゃダメだよ」と言ったが、続けて大人にもまた「あ、蔡瀾だ」と言われ「女の人になら呼ばれて許すがアナタは大の大人の男でしょう。面と向かって呼び捨ては教養の問題ですよ」と語気も荒れた蔡瀾氏だったが、知人に有名人への名前の呼び捨ては親愛度の証拠と諭されつつも、礼儀のない若者が大人になって世の中どうなるのかと歎く。しかも空港のラウンジでは(キャセイパシフィックの直行便ではラウンジは日航のを借用)日本の空港らしくラウンジの四分の一が喫煙可で愛煙家の氏には極楽なのだが、煙草一服していると子供が入ってきて氏の目の前で「臭い、臭い」と。氏は子供は無視してその両親に「ここは喫煙エリアですよ」と喫煙マーク指して説明したが両親は怪訝な表情で氏を見ているだけ、と。この常識もモラルもなき社会を憂ふ蔡瀾氏。
▼雑誌『世界』にて梅原猛先生が首相小泉三世を「インチキ」で「戦後最低の首相」と罵る。中曽根大勲位の後藤田官房長官の私的懇談会「靖国懇」のメンバーとして靖国神社の日本の伝統的な神道からの逸脱を説き結果的には公式参拝に臨んだ中曽根大勲位とて「公式参拝しなければ自民党がもたなかった」と本音。当時の「戦後政治の総決算」でタカ派とされた大勲位も識者の意見聞く耳あり。それに比べ小泉三世は「まったく聞く耳を持っていない」「議論が成り立たない」「間違ったことをやっても反省しない」「いい格好することだけを知っている」と。首相就任前からこの小泉三世の欺瞞は予想されたことだが国民の八割がこの変人に国家の改革委ねた事実は将来「平成の大誤解」と歴史に刻まれるべき。
▼昨晩の教育テレビで先代松緑の「象引」の放映前に「NHK古典芸能鑑賞会」で菊五郎の勘平で五段目と六段目あり。敢えてビデオ録画をば実家の母には頼まずにいたが、築地のH君によれば当然音羽屋の勘平はいいしお軽演じた菊之助もいい意味で老けて見えると。お姫様だけでなく世話物や武家の女房などもイケルのでは。長足の進歩とH君。だが定九郎の当代・松緑。この問題は本人といふより永山会長が責任とるべき。ところでH君、荒畑寒村の自伝(といっても若い方はご存知なかろうが昭和期の南宋画の大家で……といふのは冗談で社会主義者)読んでいたら寒村は歌舞伎好きで明日下獄という日にわざわざ歌舞伎座で芝居見物とか。夫人ももと花柳界の人だそうで、なかなか粋好み、だが大の十五代目嫌いで絶対に十五代目の舞台を見ようともせず。十五代目が出ただけで舞台がパッと明るくなったと言われるほどの十五代目羽左衛門、関容子の本にも十五代目贔屓の芸者衆が楽屋訪れると衣装の為度終えた十五代目が「どうだい、きれいだろう」と自惚てみせたとか、それでも寒村夫人は十五代目の「家橘時代のダイコぶりを知っているから」見る気がせぬと。だが大坂の角座で十五代目が保名を踊ったら「右團次のような踊りの名手がいる上方に、わざわざ来て羽左右衛門ごといが保名か」と酷評されると「あたしは江戸っ子だから大坂のものにバカにされるのは我慢ならない」と憤慨したというエピソードもあり。

八月廿二日(日)小雨のなか地下鉄で坑口。トレイル練習にて余の他に党員三名及びK氏とK氏の会社の参加者四名参加。ミニバスで西貢、西貢より西沙路へ行く筈がバス乗り間違え北譚涌より黄石波戸場行きの郊外バスに乗っており慌てて途中下車してタクシーで西沙路に戻る。午前九時歩き始め。晴れ間見え雨の不安もないかと思いきや一山越えて黄竹洋の村近くより馬鞍山に登ろうとした頃から大雨となり山道も泥濘るどころか踝まで水につかるほどの流水あり避難か引き返しも考慮すべきところ雷鳴らぬかぎりは歩行継続と結局、馬鞍山の尾根(海抜六百米)歩き大金鐘(写真)を巻いて昴平に出るまで大雨続く。そこから小雨となりなかなか幻想的なる霧に包まれた山々を愛でつ大老山を越えて慈雲山の峠の茶屋・恒益商店(写真)に至る。午後一時半。距離は十六、七キロながら馬鞍山の登りあり而も悪天候を思えば四時間半は上出来か。麦酒浴びるように飲み名物のカレー食し慈雲山の団地まで下りバスに揺られ帰宅。甲子園の高校野球決勝。八回裏。このまま見ていると確実に試合終了した時に思わず感涙の気配ありテレビ中継見ずに近所に葡萄酒買い出し。雅典五輪もNHKのアナウンサーが「今晩は期待される種目が続きます。日本全国がテレビに釘付けですね」と、その一言に見る気失せる。ニュースでは本日この大雨のなか灣仔にて親中系の企業だかが(選挙と関係なきこと祷るばかり)水晶でできた麻雀牌の無料プレゼント企画し三千人だかが怒濤の如く押し寄せ大混乱で怪我人すら出る始末。恐ろしや。晩にアサリのパスタ。白葡萄酒は豪州のJacob's CreekのRieslingの02年。つい『新撰組!』見る。土方歳三役の山本君は昨晩関容子の本で知ったが(芸能常識なのかもしれぬが)新之助十三歳の日生劇場“Stand By Me”で新之助とダブルキャストで主演のクリス役の少年だったとか。新之助は山本の動きと台詞の巧みさに舌を巻き、山本は台詞も口でモゴモゴの新之助がなぜ観衆の心あそこまでつかむのかに感嘆と。それにしても土方歳三が「うるせーんだよ、テメーら。一緒に腹割きてーんか」とか、まぁ当時の勢いをば今の若者言葉にせばこの通りなのしれぬが、時代劇から雅典五輪まで若者言葉の流行に余はついていけず。香取君の近藤勇だが余にはやはり香取君の「ニン」ぢゃく、香取君が忍者ハットリ君演じるとやはりニンあり。フルニエのチェロ聴く。深夜NHK教育にて放送の先代の松緑(先代の松緑といった場合、正確には三代目松緑の名を亡くなって追贈された先代の辰之助のことになるのか……よくわからぬがこの場合は二代目)の「象引」のビデオ録画、実家の母に依頼する。関容子の『海老蔵……』も読んでおらぬがといふので他のいくつかの本と一緒に郵送することにする。
▼昨晩寝付かれず関容子『海老蔵そして團十郎』読了。七月廿六、七日の日剰に築地H君、久が原のT君よりのメールの詳細あり復た語る必要もなかろうが新之助が十三歳の時に日生劇場での『スタンド・バイ・ミー』でダブルキャストにて主人公演じたのが『新撰組!』の土方歳三役の山本耕史で新之助は山本の動きと台詞の上手さに、山本や山本で新之助を「どうしてあんなに台詞がモヤモヤしているのにぼくより心が届くんだろう」とお互い感嘆した、といふ逸話。この本、関容子らしい「まとまり」の無さで、一瞬、ちょっとの流し読みの読み物のようでいて、じつは深読みすると團十郎、新之助、勘九郎らのちょっとしたコメントに実にいろいろありそう。ついついじっくりと読む。これはもともと『オール読物』誌の連載で、じつは『オール読物』の連載だから許される程度の著者相手の軽い雑談のようなコメント多し。それゆへいざ文藝春秋から新刊として上梓となると「ここまで言っていいのか」とか実際にどこまで事実なのか、だの気になるところ。たとえば『銀座百店』だから、登場する文士らが気軽に語る内容あり、それぢゃそれを新刊にして面白いのか、いいのか、となると疑問もあり。『銀座百店』で、その当時、その空気のなかでライブで読めた人だけが読める特典といふ世界だからこそ、の良さ。
▼本日、中国の特色ある資本主義ぢゃなかった社会主義のの領袖・登β小平の生誕百周年。北京での祝賀式典の画像観る。Coquinteau国家主席といい温家寶首相といいおすぎとピーコぢゃないが「ちょっとあのネクタイ、ダメだわ、ぜんぜん背広とちぐはぐぢゃないのよっ!」と罵声浴びせたくなるセンスの悪さ。大国の首相として背広とネクタイのコーディネートも大切なはず。香港でも登β小平生誕百年の記念切手発売とか。御真影、消印など汚していいのだろうか。

八月廿一日(土)終日雨止まず。昼にかけてジム。久々に真面目に鍛錬。午後中環。香港赤十字にて献血。厭な肩凝り癒へぬは恰度三ヶ月に一度の献血の時期の報せ。雨の土曜日の午後、献血中心の安楽椅子に坐して中環のビルの谷間の狭い通りに降りしきる雨など見上げつつ室内に静かに流れるはサミエル=ホイの香港情歌にて450ccの血が献じられる間なにとも言えぬ和みの境地。Peel街の陳成記にて上湯伊麺。秀逸。わずか9ドルながら20ドル置けと言われれば応じても不思議なき味と食感。今月朔日とり香港の酒場で初の禁煙措置とった愛蘭酒場ダブリンジャックにてギネス麦酒飲む。自分が吸わぬ時は煙厭ふ煙草も煙ないと何か飛行機の機内での飲酒のようにどこか健全すぎて心地悪し。Colorsixにて台湾にて撮影の写真受領。FCCのバーにてドライマティーニ二杯飲む。十年以上オンザロック所望した余の最近の気入りのドライマティーニは軽く掻混してカクテルグラスに注ぎオリーヴは添えずレモン皮とビターといふ取り合わせ。出されてから五分以内に飲み終わること。FCCのバー、場所柄記事など書く輩多くワイヤレスLAN環境こそ有難いが各人に宛れたIPアドレスをばいちいち設定必要にて多くの場所がIPアドレス自動取得当たり前なのに比べ甚だ不便であったが漸く環境改善しいちいち設定不要となる。しかも11.0Mbpsとメール送信とネット閲覧なら十分の速度に改善される。今日のような憂鬱な天気だと気分転換に何か買い物しそうな気配自ずとあり(笑)。「行ってはいけない」と自分に言い聞かせたがLane Crowford百貨店の本店に足が向いてしまひノートブック携帯用にとのTumi社製のブリーフバック購入。帰宅。近所のO君に電話すると自宅におり拙宅に招き麦酒と枝豆。先日購入のWalkie Talkieの話など。雅典五輪卓球男子二人組にて中国と香港により決勝戦あり宗主国中国が金、香港が銀と無難に有終。余はスポーツ観戦に興味なく五輪となると新聞からテレビまで五輪ばかりでウンザリだが、そればかりかメールとかで文頭の挨拶に「日本中がオリンピックで沸き立っていますが」などと書かれると少なからず違和感あり。

八月廿日(金)Haze続く。旺角のジム。Z嬢と旺角Nelson街の栄記にて雲呑麺食す。驟雨あり。沙田の文化博物館。「人・物・情……香港公共房屋発展五十年」といふ企画展あり。1953年の聖誕祭の晩、大陸からの移民苫屋密集の石Kip尾の難民居住区にて大火あり数千人亡くなり香港政庁急激な人口増加に応じて公共住宅建設初めてから半世紀。とくに七十年代からの沙田など新界各地での住宅建設により香港島、九龍より多くの人口が新界に移り97年の租借期限ある新界ももはや新界なしに香港が機能せぬこと決定づけた、つまり香港政庁も住民の住宅といふ民政問題をば香港統治の政治性より優先させし画期的なる住宅政策。今では香港人口の半数近き三百万人がこの公共住宅に居住。興味深きこの半世紀の歴史展示ながら「器ばかり大きく展示内容薄い」ことで評判の文化博物館ゆへ期待せず訪れればなかなかどうして、HK Housing Authorityによる史料提供と監修にて五十年代よりの公共住宅の風景の復元(写真)だの当時の貴重なるフィルム上映など見応えある展示。バス乗り継ぎ帰宅。午後の雨のせいか大気中の塵埃流れたか久々に九龍の市街、大帽山や馬鞍山も霞のむこうにうっすらと姿見せる。一瞬の晴れ間に空高し。旧暦では閏年の七月も初五日ではすぐ秋か……と思っていたらメール開くと久が原のT君より「世人はたゞ地に俯き炎暑溽蒸を歎くのみにして仰霄の餘裕なく」だが空を見上げれば「空の色澄みて既に秋天の璢璃色に」「今年は秋氣の訪れ逸早き」ことT君感じたと。遠く離れても同じ空眺めていたかと感慨一入。晩に近所の映画館にて陳果監督『餃子』観る。大陸出身の女(白靈)業む古い公共団地(撮影場所は石?尾下邨か)の私家菜の餃子店舞台に往年の女優(楊千華)とその夫(梁家輝)などの物語。まだご覧になっておらぬ方多かろうし筋言ってしまえばつまらぬゆへ言及避けるが三人の芝居上手な役者のキチガイな人格の演技はさすがにお見事。主題は実に単調で演出も途中までいいが後半話の展開些か広げすぎの感あり。なにが成人指定かは観てのお楽しみか。
▼映画といへば築地のH君が張藝謀監督の映画『HERO』観ました?とメールあり。あのテの中国の武侠歴史物で空を飛んで秘技で相手倒すといふ映画一切観ておらず。H君曰くH君も秦王の命狙ふ刺客・残剣(梁朝偉)が秦王殺す一歩手前で「天下を統べることができるのは秦王のみ。だから秦王を殺してはならない」と悟り秦王がそれを知り「わしの真の理解者は彼だけだ」と落涙する……という筋ぢゃ「あたかも中国の統一を守るためには共産党の独裁が必要だ」との類推を招かねず張藝謀監督もついに……と一瞬思われるが、H君この映画観てみればそれは「始皇帝の」独裁を是認したわけぢゃなく、あくまで経緯上の「秦王政の覇権」であって「いってみれば八路軍を指揮する延安時代の毛沢東というくらいの役回り」とH君。残剣が書いた「剣」という書を見た秦王「真に天下を統べるには剣は無用!」とか悟るとその瞬間、秦王に迫った無名(ジェット=リー)敢えて刃を向けず「その境地をお忘れなく」とだけ言い残して去る……すなわち「その境地」=徳を失ったときには再び刺客が迫るかもしれませんよ、ということH君。皇帝も徳を失えば天命革まるというわけで延安時代には間違いなく有徳の士であった共産党が現在も天命を担うにたる存在であるのか?といふ問いにつながる見方も可と。なるほどねぇ。
▼久が原のT君より。雅典五輪で注目の某選手の語る様「卑陋にして聽くに堪へず」と。あの「……っつーか、っすよね」の言葉遣い、日常会話ならまだしも国を代表してオリンピックの晴れの場であれでは「かくまで猥音俗語に狎れし若者の鴃舌をば記録樹立の美名の下に卻つて人間味ありとて賞讚なす風潮あるは今に始めぬことなれどもまことに忌々しきこと」。そればかりか韓国の孔・元外相だの台南で余が出会った台湾の老達だの「一本背筋徹りて恣意に搖らがざる美風は國内に今や地を拂ひ被占領地にのみ殘れりとは皮肉も皮肉」。御意。言葉や人間性にとって「個」に勝る「公(=政治體制としての「公」ならで、個の抗ひ難き歴史性・文化性の謂ひにて候)」の制約受けざるべからずと思えばT君自らはサンケイ・ヨミウリの徒(笑)には非ずとも朝日新聞が北島某の言語の醜さを指彈する「正論」など如何間違っても吐くはずもなしと歎く。文藝春秋だの『正論』誌が果してこの文化論をば指弾できるか、T君、朝日なら吉田秀和氏に奮起再起を願ふべきか、と。余は三十年近く前にスキーのジャンプ競技の日本代表選手らの夏合宿と一晩宿舎同じくて当時はすでに現役引退し監督となった笠谷選手の、合宿の宿舎でも紳士的なる態度と言葉遣いに「さすが世界一となる選手は違う」と感心したこと思い出す。
▼その久が原のT君より八月の歌舞伎座について芝居評いただく。八月の歌舞伎といへば多くの役者夏休みのなか中村屋と定着「勘九郎の風格立派になりて、襲名前の役者らしき「氣」靜かに漲りたるは頼もしき限り」と。三津五郎好演。で、もはやT君くらいしか誰も注目しておらぬだろうが四谷怪談で中村小山三(おいろ婆役)が台詞堪能とT君のメールに四谷怪談の脇役といへば小山三で余は一度だけ国立劇場だかで観ただけだが、まだお元気で舞台に立っていたと知り驚くばかり。ところで歌舞伎と、近代劇の、殊に内面心理の描写などについて、余も屡々築地のH君との語らいのなかでとくに高麗屋の芝居で顕著なるこの近代的なるものについて語るが、それじゃ具体的にそれが何かと言われると説明難しきところ、さすがT君、歌舞伎で役者がとくに芝居好き、研究熱心、西洋劇の経験などある場合「人間主義、すなはち芝居好きなる當人個人の感情が禍し役の抽象性に至らず役をみづからに引き寄せ過ぎし結果、生なる表現に留まり」例えば「強惡が強惡としての超越性を帶びず單なる家庭内暴力の精密描寫となり居心地惡き思ひ」になるようなこと。じつに納得。

八月十九日(木)Haze甚だし。昨日このHazeにつき自然現象と述べたが大気汚染と光化学スモッグも相応しての鬱葱たるHazeなのだそうでちなみに今朝の視界は1000mを下回り拙宅よりも九龍側が見えず(写真)藝術新潮七月号読む。小さい記事にフィレンツェの古美術店で偶然に見つかったミケランジェロ弱冠廿歳の頃制作のキリスト磔刑像。作者がミケランジェロといふことばかりかモデルが25〜30歳の男性で死後48時間以内の死体モデルに制作とまで判明と。今の時代ならこの死後直後の死体用いての磔刑姿の裸体像の制作といふことぢたい「おかしなまなざし」の対象だろうか。世の中といふのは進歩しているのか開明的になっているのか。築地のH君より先日内容の抜粋紹介あった関容子の『海老蔵そして團十郎』文藝春秋読む。これを読めば十一代目とその生き写しの新之助に挟まれた十二代目のその人柄にあらためて惚れるほど。余にとっての十二代目は、まだ海老蔵の頃に歌舞伎ではなくテレビドラマ、カラーテレビがようやく茶の間に普及してきた頃にフジテレビ系放映の女の劇場「春の雪」。題名の通り原作は三島由紀夫「豊饒の海」の「春の雪」で(物語の内容はだいぶ違っていたはず)主演は海老蔵と吉永小百合。母が寝室の小さな白黒テレビで寐る前に毎週見ており余も見た記憶がぼんやりとあるが、まだ実は小学1年だったかの余にとって海老蔵の鮮烈な印象は「この海老蔵といふ役者はまた何と誠実といふか裏のない……それにしても演技があまりに「育ちのいいお坊っちゃま」そのままで演技としては物足りないし役柄に何かこう観衆を惹きつけるあぶなっかしさが全然出てないねぇ」と(もちろん具体的に余は当時そう言っていないが)子供ながらに海老蔵と吉永小百合の演技に「物足りない」感じがしたのである。当然、当時はその物語の原作がその年に自衛隊突入した三島由紀夫「豊饒の海」だなどとは知らぬが、大人にとってそれを知れば、殊更、松枝清顕は海老蔵ではないと思ふ。本当に育ちのいいお坊っちゃんで演技でも性格に裏がなかったのだ。当時、例えば児玉清や石坂浩二などもそういった「温厚な青年役」であったが、例えば同じ吉永小百合との共演でも児玉清が「花は花嫁」で見せた何のクセもない花屋の跡取り息子役のほうが海老蔵の松枝清顕に比べれば吉永小百合演じる芸者の「みどり」が何故に突然、花屋の息子に惚れたのか、児玉清はそのちょっと異質性を好青年の影で演じてみせていた記憶あり。だが、そのテレビの演技で余りの好青年らしさに物足りなさを感じさせてしまふほどの海老蔵が(当時24歳)が5年前に父・十一代目を亡くしどれだけ苦労していたか。市川宗家といふ大名跡でこそあれまだ芝居もじゅうぶんに教わらぬうちに十一代目が没くなり芸の上でも経済的にも苦労していたのがこの時期。それがテレビの映るとその苦しさの片鱗も見せず(見せられず?)何の苦労もなき良家のお坊ちゃまに見せてしまふ(見えてしまふ)それが十二代目。いま新之助の海老蔵襲名で團十郎、海老蔵が一緒に舞台にたった矢先に病床に臥せ、なぜこれほどの良人が苦労してこの吉事にこの不幸かと思ふと涙すら禁じ得ず。
▼ところで1957年の東芝日曜劇場、当時はテレビある家庭のほうが珍しくこれを見た人こそ少なかろうがこの毎週日曜にこの役者並ぶとは今になって見ても垂涎のもの。これがテレビで見られたとは。
▼昨日の朝日に孔魯明・韓国元外相の「平和国家こそ日本の役割」といふ論説あり。原文も日本語。一読せば思わず姿勢正してしまふほど日本語の論説文の手本の如き文章。「今後の日本の国際的役割を思うとき、「平和国家」として戦後59年間、非核三原則と専守防衛を保持しながら鋭意築いてきた日本のソフトパワーこそ、他の「普通の国」とは異なる鶏群の一鶴たることに資するのではないだろうか」と孔氏。鶏群に埋もれるが如き小泉三世にこの言葉が届くものか。
▼SCMPに香港の映画資料館の記事あり写真は係員が広げた往年の映画のポスターで偶然にも千葉泰樹監督、宝田明主演の「香港の夜1961年・東宝であった。翌年のこれに続く「香港の星」は見たが「夜」は未観。尤敏が香港側の紅一点。この六十年代の日本映画の香港モノ、クレイジーキャッツの「香港クレイジー作戦」等も必見。
▼政府の汚職贈賄など調査するICAC何をトチ狂ったか七月には新聞社ガサ入れ、今度は昨日それに続きFCCに対してFCCのメンバー2名の倶楽部利用歴(口座)照会依頼。FCC側は倶楽部会員のプライバシーとしてこれを拒否。MacLehose卿の香港政治浄化の理想がまるで官憲の如き振る舞い。

八月十八日(水)朝に目覚めればどんよりと曇り空。テレビ画面の天気予報は快晴の上に炎天下マークまで点り、何か間違いか、と思えば、曇天に非ず快晴ながらHazeひどく気象上は晴れらしい。Hazeは日本語では「靄、霞」であろうが南方特有のこのHazeは靄や霞といふにはあまりにひどい不透明感。かといって自動車排ガスや煤煙といった大気汚染にも非ず。もともと赤道に近いあたり特有の自然現象ながら温暖化によりHazeのかかる域が徐々に緯度高き地方にまで広がり香港もこの十年で毎年かなりHazyな日が増える。しかも今朝ほどひどいHazeこれまでお目にかかったことなし。言葉で説明難しいが雰囲気的にはウルトラセブンにて殺風景な郊外の住宅団地、その周辺の団地建設予定の空き地にて夕方、遠くにはガスタンクと工場の煙突からの煤煙と高速道路を走る車、夕焼けがぼんやりと大気汚染に渾る、あの感じに近し。実に不快。数ヶ月前に修理済みのOmasの万年筆の一本、洋墨の吸収良からず太古城にある代理店の貿易商に修理依頼に出向く。昨晩網上場所確認してのことだがオフィスビルは転居の跡。電話で確認せば先月香港仔に移転と。仕方なく普段出向かぬ香港仔の工業ビル並ぶ黄竹坑に足を運ぶ。工業ビルの中のこの貿易商あきれるほど内装快適な空間。修理請へば技術者現れ(見た目はパリのモンブラン万年筆の修理係の専門家の如く白衣姿、実際にはこの貿易商にて扱ふ時計などが専門の様子)暫しお待ちを、と。結果、調整にてインク吸入は多少改善されたが内部のインク注入部の可動部分が長年の使用にて摩耗しどうにも修理不可。イタリーの工場に送ってもパーツは手作りの万年筆ゆへその軸にあうパーツ注えるも難し、と説明あり。調整の結果、軸内のインキ貯めに半分ほどは充填できるようになり須臾瞞し瞞し使ふことととする。ところで最近Omasの万年筆、香港であまり見かけぬが、と問へば、技術者しからば営業担当がと。営業の若者現れ彼曰く万年筆の需要かなり下落しており殊に貴金属埋め込むなど付加価値つけぬOmasの万年筆は香港市場ではあまり受け入れられず、而も手作りゆへ「故障」といわれれば否定できぬ不具合生じることも少なからず難しいものあり、と。すでに二軒のみ取り扱ふ小売店ありと教えられる。そのうちの一軒が本日藪用にて出向くつもりの尖沙咀の某所の近所。もう一軒は香港島の上環にある時計と万年筆の専門店。タクシーで香港仔隧道潜り灣仔の税務署。所得税につき下記の件あり灣仔の税務署に赴き事情説明し判断を乞ふ。
(1) 今年3月〆の03年4月〜04年3月の確定申告につき、5月、某支払い元より03年3月に受けた仕事での報酬明細が届く。本来前年度の所得であるが実際の支払いが03年4月であったため前年度確定申告に間に合わず、と説明あり。
(2) 5月末に上記の前年度所得も含め確定申告済ます。
(3) 6月中旬にこの前年度の所得につき税金未納と請求書届く。支払い期限は8月5日。
(4) これについて事情を説明し已に03/04年度の所得にこの03年3月の所得も含めて申告済みであること、ゆえにそれで問題ないか、もしくはこの所得分のみ(3)の請求に従い納税済ませ、その上で03/04年の所得額よりこの分を減額するか、いずれになるか教え乞ふ、と手紙を税務署に提出。
(5) 7月中旬に税務署より(4)の返信が届く。書面には余の手紙受領、近々03/04年の納税明細届くので、それに不服の場合は1ヶ月objectionせよ、との内容。
(6) 8月1日に03/04年の納税明細届く。問題の03年3月の所得も余の確定申告の通り、この03/04年申告に所得として参入済み。それゆへ余は(5)の返信ないものの結果としてこの03年3月の収入は03/04年の所得として納税すればよいものと判断。
(7) 8月14日付けの(3)の再請求届く。8月5日の支払い期限過ぎたため追徴金として利息も加算される。
(8) 以上の経緯につき、(7)の追徴金は支払う意志はないが、どうのようにこの二年越しの徴税を整理できるか、教示願いたく本日参上した次第。
以上説明の結果、窓口の担当者は、納税につき余の誤解があること、objectionがあれば(5)の書面に従い抗議すべきで、それをせずに支払い期限を過ぎたことは余の過ちであると指摘。(4)の手紙については受信の記録はあるが内容についてはデータベースに記載なし。但し事情は理解できることであり(7)の追徴金の取り消しと(6)の03/04年の所得よりこの03年3月の額の減額を求めることは可能とのこと。その手続きすれば済むのだが、余が納得できぬは、抗議の理由が余の誤解があり納税が遅れたといふ点。これは納得できず余の間違いにあらず(5)と(6)に従ったまでで(4)について具体的な返信がなかったこと、また(5)のレターでは(6)の納税明細届くのを待ち1ヶ月以内に抗議できると銘されており、現在まだその1ヶ月以内ゆへ(8)の追徴金の加算ぢたい税務署側の手順に不当のはず。担当者の上司現れ複び事情説明。その者「事情はわかる」としつつ同一の納税者の納税とはいへ年度が変われば2つ別のマターであり03年3月の納税はまず済ますべきで8月5日までに(4)のレターの返信がなければそれを問い合わせるべき、と。なんとなく納得できようもするがこの担当官、余に対して「あなたは香港の税制について明るくない」と宣ふ。無礼千萬。余は納税者であり納税拒否でなく納税にあたり丁寧に問い合わせしところ税務署側の怠慢に対して余に誤りあると指摘の上に税制理解しておらぬといふはエコエコアザラク、この恨み晴らさずおくべきか……と念じるばかり。廉政公署に投訴もあり。とりあえずその03年3月の収入について即時納税済ますこととして追徴金の取り消しと03/04年所得の減額を求める文書を提出することにする。追徴金とられぬよう。背に腹は代えられぬ。但し理由として「税務署の判断に過ちあり、余の質問(4)に答えぬまま(5)以下の手段は粗忽さあり、と記述。余の誤解だの過ちにあらず。ここまで2時間要す。その窓口離れ納税窓口で納税済ませた上で上述の追徴金取り消し等の要求書類を別の窓口で提出。これであとは決済待つだけだが税務署から出て余はふと(4)の余の手紙の複写手許になきこと思い出し、今後場合によっては正式に苦情申し立ても必要かと思い、多少時間がかかるが手紙ぢたいはさがせば出てくるとの話だったため、税務署に戻り複写を求めようと引き返す。すると窓口で担当者ら三、四人鳩まり何やら見ており、何かと思えば余の提出書類。余が戻ったのを見つけて差し出されたのは(4)の手紙のコピー。担当官曰く「ほら、手紙にはその所得が03/04年ではなく前年度のもの、って書いてあるだけでしょう」と。よく読むとそのパラグラフはそれだけだが、その下に「それゆえ03/04で納税すればいいのか、分けて納税の場合、どのようにすれば返信請ふ」と。「ほら、書かれてるぢゃないですか。これの返信が(5)とは誰も思わないですよ、明らかに(4)を処理した者が犯したミス」と余は説明。それゆへ追徴免除と03/04の税金減額の要求に理由は「税務署側の処理での誤り」としか書けぬ、と余。先方も証拠の手紙目の前に今さら余の誤解だのとは口にできず。……が税務署でのやりとり。おそらく追徴金取り消しは認められ03/04年の納税も減額された請求書が届いて、当然、謝罪などもなく終わりか、と思っていたら一時間ほどして電話あり。窓口担当者からの報告を受けた上級職からで「今回の件について担当者より事情説明を受けこれまでの記録文書など見た結果、明らかに当方(税務署)の処理での誤りあり。謝罪をしなければならない。その上、今日のやりとりでもそちらに誤解があるような説明をしたことも担当者の理解不足で謝罪の言葉もない」と。かなり真摯な態度で謝罪され、一瞬、イトーヨーカドー本部のお客様相談室室長か「謝り太夫」の如き税務署での署内の粗忽事項全て謝るが職種の専門家かと思ふほど見事な謝りぶり。そのうえ今回の件については謝罪を文書で用意することも検討しているので、もし文書での謝罪要せば遠慮なく申し出てほしい、と。つい「そちらのミスあったことを確認してもらえればこちらは結構。ならば謝罪文書の用意も結構」もその謝りっぷりについ応じる。文書でまでの謝罪といふのは先方にとって面倒なようでいて、実はこの先、かりに余が廉政公署にでも訴えた場合、明らかに政府側の誤りはあったもののすぐに非を認め先方に謝罪した、といふ先方にとっても重要な証拠になるための筈。「それにしても、誤りがあるのは誰でも仕方ないにせよ、納税者側がきちんと出向いた上で記録資料提示して説明していることに対して、納税者側の誤解だの、ましてや税制を理解していない、などと口走ることについては税務署側は猛省を要す」とのみ伝える。先方の素早い対応でひとまず廉政公署への提訴は回避か。尖沙咀にて藪用済ませOmas扱う貴金属店(万年筆を貴金属店にて売ることぢたい何か間違っているが)のショーウィンドウ覗く。確かに目立たぬところにOmas数本あり。ただし埃かぶり。余の修理し難き万年筆「Arte Italiana」は二千二百ドル、もう一本限定生産の「フェラーリの赤」は七千二百ドルと発売当時より値段上がっており多少感激。藪用あり日本人倶楽部に寄れば旧知のHさんに「これ、興味ないですか?」と出されたのが『演劇界』増刊の歌舞伎役者名鑑(平成元年判)。えっ……これは明らかに余が数年前の蔵書整理にてバザーに提供のもの。同じ『演劇界』増刊で平成五年の「新判・歌舞伎役者名鑑」所有のため旧版は要らぬと当時判断。だが今になって見ればすでに物故の役者少なからず。写真ページ捲れば梅幸(班女の前)、歌右衛門(道成寺)、先代仁左衛門(菅丞相)、羽左衛門(熊谷直実)、延若(義経千本桜・権太)そして我童(象引・中老竹川)と。そればかりか勧進帳で弁慶演ずる團十郎も太閤記にて関白秀吉の猿之助も病床にあり復帰も易しからず。こういった役者名鑑は保存すべき、と今更ながらに思ったがHさん「この本、図書館のご自由にお持ちください、に置いてあっても誰もお持ち帰りにならないんですよ」と。歌舞伎など香港の邦人で興味もないか……で余は持ち帰る。Z嬢と待ち合わせで銅鑼灣パークレインホテルのG階のバーGerge&Co.に早く着きノートブックで書き物と思えば勝手にホテル内のワイヤレスLANにつながり最近、いちいち宣伝などせず建物内は当然の如くワイヤレス環境の、とくにホテルなど少なからぬこと実感。Z嬢来てホテル地下の家具・池屋にて納戸のなか整理用の木棚購ふ。簡単な木作りの棚とはいへ幅80センチほどの棚の価格がわずか19ドル。266円って豚肉150gじゃないのだから。東南アジアの安い木材使って現地の廉価なる労働力で大量生産だがコーヒー豆のプランテーションの如く実際の製造作業者にいったい幾許の所得ありか……。Quarry Bayのマザーインディアにてインド料理食す。帰宅して納戸の棚整理。吉田健一の『英語と英国と英国人』続き読む。今日の昼間、某所にてこれ読み始める。奇才吉田健一は英語は言葉であり言葉といふ意味で日本語も英語も同じ、英語をいちいち外国語だの英語だのと別扱いすることぢたいが間違いと説く。言葉として自然に読むこと。英国の詩人ディラン=トオマスの詩
   It was my thirtieth year to heaven
Woke to my hearing from harbour and neighbour wood
  And the mussel pooled and the heron
     Priested shore
など日本語に訳すと多くのものが損われ、これなど原文をそのまま体感すればよし、と。吉田健一曰く
外国語がただの言葉になるのは、それが外国語を勉強する場合の、いつになっても先ず実現する見込みがない理想なのではなくて、そこから外国語の勉強、というのは、外国語を自分のものにする仕事が始るのであり、それが出来ない位、言葉に対する感覚、或は認識が不足しているものは勉強するだけ無駄である。
どこかの役所の「「英語が使える日本人」の育成のための行動計画などの発案のセンスではとてもこの吉田健一の説く言葉に対する感覚など理解できぬか。ところでこれを途中まで読んで乗ったエレベータに偶然、観光旅行らしい日本人女性三人足つぼの按摩だか終えて乗り合わせる。エレベータの階数表示見て「このGってわかんないよねー」と一人が言えば、もう一人が「これって、何?、Gってゴールってこと?」と。なぜここでゴールなのかよくわからず。須臾考えてわかったのはエレベータが地面階に着く場所、でゴールか、ととても納得。言葉に対する凛々しい感性。だが英語はからっきし理解できておらず。……となると吉田健一の説もちょっと通用せぬのだろうか(笑)

八月十七日(火)快晴。猛暑。午後より一面Hazeに蓋われる。早晩にジム。晩に犬丸治『市川新之助論』読む。著者は慶應の戸板康二、渡辺保に続く第三世代。著者は印象に残る新之助の舞台で僅かに意識向けたは92年、新之助弱冠十四歳の八月歌舞伎座「成田山分身不動」での空海役(この演目、初代團十郎元禄十六年初演より埋もれしを十二代目が復活の自主公演)。続いて著者は翌93年5月歌舞伎座の「車引」にて未来の大器を予感と。この車引、辰之助(現・松緑)の梅王丸、丑之助(現・菊之助)の桜丸と並び松王丸の役。新之助の舞台は余もこれが初めて。その「才気の鉱脈が手つかずのまま眠っているようなもどかしさ」もっていた新之助「一転瞠目するような舞台見せた」のが98年3月の国立劇場の弁天小僧役。著者はここから新之助論といふより読者に丁寧に弁天小僧、勧進帳、助六の話の筋の解説が目立つが、興味深きは新之助といふと何かと十一代目の生き写しと言われるし本人も祖父意識するが本人は、95年9月歌舞伎座での十一代目没後三十年祭で、このとき本人は九代目が初演の鏡獅子をば踊るのだが、この三十年祭の披露宴で九代目の実写映像見たのが間近に祖父が動く画像観たのは初めて。新之助本人も「その時初めて祖父っちゃんに出会ったんです。そこから急激に一人の男に惚れた一瞬がそこにあって、血が繋がっているということとは別に、完全に惚れたんですね。」「それまでは何となく歌舞伎役者の世襲制という中で市川家の子供として自然に舞台に出ていた。それだけでした。人間として、一個人の役者として舞台に出るという認識を持つきっかけを与えてくれたのは、やっぱり十一代目團十郎であったと思います」と語る。その「新之助が完成」するのが評判に高き99年1月浅草公会堂での弁慶の初役。これで所謂ブレイクし翌年正月に演舞場での京屋が演じる揚巻の名演が話題となった助六に至る。助六に「早うござんせ」と去るを督し「裲襠うちかけをサッと流すようにして下手向きにグッと身体を反らせて見込む」京屋。これを新之助は「助六と揚巻って話の上ではもっともっと会っていいわけ」なのに「ほとんど会わない。最後だけ。だから僕が愛した瞬間は最後引っ込む時に目を合わせる」それだったと語る。それを「千秋楽で雀右衛門さんに『あんたの最後のあれで私は嬉しかった』って言われて、爺っちゃんでもなく、親父でもなく、新之助君を、孝俊君を嬉しかったと言われたことが嬉しかった」と心境を吐露。ちなみに京屋は妻(故人)が十一代目の実妹で新之助にとっては大叔父。京屋ともなれば義父七代目幸四郎(新之助の曾祖父)を観た世代で、舞台では義兄の十一代目、甥の十二代目(現・團十郎)と共演し、その京屋が孫世代にあたる新之助の助六に惚れ込む。歌舞伎らしさ。このあとの瀬戸内寂聴の源氏物語での光源氏、NHKの武蔵へはここで今更語るを要すまひ。
▼香港島の十九世紀の警察署編成について七月三十日の日剰に綴ったものの訂正及び加筆。不明であった6号差館につきI嬢より示唆あり。
1号差館 銅鑼灣Leighton道 現:PCCW東区機構ビル
2号差館 既存。現:灣仔警署
3号差館 既存。旧灣仔郵便局 郵便局移転後建物解体免れ環境署の環保軒。
4号差館 金鐘兵房海軍波戸場付近
5号差館 中環Wellington街と皇后大道中の角。現在唯一現存の地下公衆便所あり。
6号差館 山頂の鑪峰峡。現在警察博物館にある山頂警察署が出来て6号廃止。
7号差館 既存。現:西区警署(中国政府中聯弁前)
8号差館 既存。西環高街。現在:香港警察刑事総部
9号差館 中環Caine道。

八月十六日(月)快晴。台湾にてウイルス伝染の電脳につきWindowsのシステムの一部が壊れておりますので云々とメッセージにそのCDなるもの手元に見あたらずSharpに電話で問い合わせればXPにおいてはWindowsのみ提供しておらずSharpのリカバリCDのみ客の手許にと説明あり。電話口で教えられた通り作業するものの結果はシステム全体の入れ替えが必要です、と。二時間ほどで作業終了。十一日の日剰の記述とすでにデジカメのメモリにて消去の霧鹿温泉の写真のみ保存できればあとは問題なし。夕方にFCCにてその後四日の台湾旅行中の日剰をば詳細なるメモ頼りに綴り始め帰宅して三更までかかる。電脳はシステムいれかえればここ数ヶ月使用出来ずのワイヤレスLANも作動し幸い。夕餉の際にテレビCMで分娩室にて赤ん坊生れると産婦人科医が突然、鉄砲を宙に射ち放つ、何かと思えば人生のスタートにて赤ん坊が這ひ始め人数が増え幼い子供となり小学校、中学校といくつもの障害越えて競争し続け大学、就職、と障害の毎に「成長」し結婚……と、その競争多き過酷な人生にいつもAIA生命保険はあなたをサポートいたします、と。競争あるは事実であろうが母親の胎内より生まれたところで産婦人科医がスターターといふ設定露骨で奇を衒ひすぎ。

八月十五日(日)快晴。終戦記念日。ふと十年ほど前に台北にて龍山寺参拝の折、寺社境内にて日本帝国陸軍の軍服着こなし軍剣翳し日章旗を手に日本語で台湾政治の腐敗など訴える台湾人の老兵に出交したこと思い出す。もう他界されたか、終戦記念日にはそういった旧帝国軍隊の台湾兵らまだ龍山寺であるとかどこぞに集うのか。Grand Clubのフロアラウンジにて早朝にゆっくりと朝食。新聞何紙か目を通す。中國時報に台北市長・馬英九君の八月十五日記念の論説あり。日本による台湾の植民地化の歴史について語り東アジアの平和の希求や日本政府の歴史の真摯なる反思をば主張。馬市長の主張で興味深き点はこの歴史のなかで台湾の少数民族が過酷な日々を送ったことについての言及。1910年に日本の台湾総督府(佐久間総督)は軍を用いて台南より花蓮にかけての山中にて五年に渡る大規模な蕃族の征伐を実施、これにより約1万人が殺害されるが当時のこの地域の少数民族の八分の一に該当。その征伐は残虐なるもので集落焼き払い抵抗する者は斬首といふ手段で殺害。この四半世紀後に霧社事件。そして高砂義勇軍としての南方での戦死。この少数民族が日本統治時代に受けた悲劇。九八年(余の記憶不確か)のこの八月十五日に当時の義勇軍の生存者が二二八記念公園に集い対日本政府に義勇軍兵士の靖国祭祀や賠償金について抗議の声を上げ日本にて訴訟起し日本政府もこの台湾の声に呼応する動き見せたことに言及し、少数民族の悲劇乗り越えるこの強い意志をば讃える。この佐久間総督が佐久間神社の名前の由来か。台湾の「人食い人種の首狩り族」たる蛮族の理蕃化政策に加担の日本軍が彼らを斬首ではどちらが野蛮か答えは明白。プールに泳ぐ。二二八記念公園(新公園)の二二八記念館見学。この記念館の建物はかつての台北放送局(JFAK)。此処から福建語、広東語などで日本帝国政府の政策宣伝された場所。史実展示は戦前の日本統治時代から始る。台湾住民の皇民化。日本語普及のための「国語家庭の認定」など(昭和十八年)。日本の敗戦。国民党の台湾上陸。戦後のインフレ。1947年2月28日。台北市圓環そばの天馬茶房近く。ヤミ烟草販売摘発に端を発したこの悲劇。この出来事で抗議行った者ばかりか台湾独立運動やリベラル主義の知識人、法曹界、マスコミ記者など多くが命失い反共主義の白色テロの時代へと。被害者の詳しい経歴だの見るにつけ戦後の台湾をば本来建設してゆく筈のかなりの数の若者がこの事件から五十年代前半にかけての白色テロにて殺害されたことを改めて知る。展示はその後の台湾の民主化についてもかなり充実。六十年代からの反蒋、台湾独立運動での運動家殺害や民主化デモ、焼身自殺での政府への抗議。美麗島事件では裁判の被告席に現・副相当の呂女史あり。この裁判での被告弁護団に若き民主派弁護士・陳水扁あり。民主化ののちついに九十八年に正式に台湾政府としての二二八事件への謝罪と追悼に至る道筋を見事に展示。公園散歩して台北站近くのアウトドアショップ並ぶ一角から国父記念館。孫文が来台の折に宿泊せし日本人経営の「梅屋敷」なる日本家屋が修復現存され座敷にて史料展示。ここより中山路歩く際に台北站の線路が地下に潜る以前、地上に幾筋もの線路走りここに大きな陸橋あったことなど思い出す。林田桶店(写真)にて檜板の風呂の腰掛け購ふ。かつては日本のどの町にもあった手作りの桶屋。日本でなく台北に健在とは。ご主人、日曜で桶づくりの道具などもきれいに片づいたままでBSにてNHKのど自慢を楽しそうに見ている。この界隈、古い店何軒かからこの「のど自慢」の音が流れ出て、覗いてみれば老主人がテレビ鑑賞。台湾料理の老舗「青葉」にて生蠣のお好み焼き、潤餅(福建風春巻)、芋粥食す。日曜日の昼前にかなりの混雑。客層はいかにも台北の「昔からこの店を贔屓」といった家族連れが祖父からちょっと小生意気な孫まででブランチ気分。日本橋の「たいめいけん」だの香港のかつての益新飯店の雰囲気。かつての台北の銀座通り中山北路も頂好や信義路など市東部の新興繁華街に押されかなり閑散。リージェントホテル向かいの旧米国大使館官邸改造の「台北之家」に誠品書店の出店あり映画、都市史などの書籍、VCDなど充実。蔡明亮監督の『不見』のVCD探すが李康生の『不散』はあっても『不見』なし。戦前からの建築物や古道散歩といった書籍眺める。閑散も中山路より南京西路に入るとMRT中山站のあたりはファッションビルなど賑わいあり。其処を風呂の腰掛けもった奇妙なオヤジ歩いているのだから周囲の視線に余の気分は尼ヶ崎駅前。ここから台北現代美術館(旧台北市役所)(写真)など眺めつつ裏通りを台北站まで炎天下を散歩。風呂の腰掛けもってホテルに戻るとやはり周囲の視線あり。荷造り済ませ午後三時にチェックアウト。出かける気も今更おきずラウンジにて珈琲一服し読書。ホテル前より空港バスに乗る直前に「世界一高い」Taipei101(写真)の超高層ビルの地下でかき氷をば食す(写真)それにしても誰の設計だろうか正直言ってダサい。中国の頂上に「玉」いただく超高層ビルもダサいが、この、へんに中華意識した意匠散見されるのも上海と違った意味でダサい。午後五時の空港バスは更に市内4つのホテルまわり渋滞で市内出るのに一時間要す。六時半に空港着。午後八時前のCX451便に搭乗。今年一月成田からの戻りで余がわざわざ台北経由選んだのがこの便。エコノミー席の場合キャセイパシフィック航空ではB747-400は旧態依然。同じ香港?台北でも台北からの機内食は本当に美味。香港に到着。市街に戻るAirport Expressの閑散とせし車内にて携帯電話でゲーム音うるさい若者あり。このブースに乗客はこのゲームキチガイと余とZ嬢、それに西洋人一人の計四人。余りの非常識に注意すると「携帯で音出してゲームしていけないって法律でもあるのか?」などと反論される。こんなことで殺されてもおかしくない時代。「法律で禁止されてるとかされてないじゃなくて常識の問題でしょう。法律で禁止されていなかったら何をしてもいいってワケじゃない」と言うと、答えずにゲーム続行。だが多少音小さくして緊張に手が震えているのが可愛いいが。青衣站でその若者降りる際に「香港は何処だってうるさいのだ。ゲームやったってぜんぜん迷惑じゃない」と捨て台詞。香港が騒音ひどいのは事実だが、この車内は静寂にて場所を弁えろと言いたいところ。だがよくよく考えれば携帯にてゲームすること楽しみ若者より、問題は携帯電話にゲーム機能などつけて商品価値高めてみせた経済社会の悪か。香港站よりタクシーで帰宅せば香港の空港に着陸して飛行機降りてからちょうど一時間で帰宅。なんと便利この上なき香港かとあらためて感動。

八月十四日(土)晴。朝風呂に浴し九時半過ぎにホテルの自動車にて花蓮の市街に下る。今回はタイヤル族舞踊の若衆らの同乗なし。車に同乗の女客一人を花蓮の空港に降ろして花蓮市街の古い日本家屋残る裏道走り花蓮站。站前広場に昔の鉄道車両、蒸気機関車から客車、貨物車まで保存されし一角あり嘗ての鉄道少年は血が騒ぎ早速見学(写真)客車は勝手に車内に入れる開放ぶり。一輌は戦前の花蓮〜台南間の夜汽車用にと車輌半分に寝台設けた珍しき車輌で扉開けて這入れば猛暑に蒸した車輌に思い切り小便の悪臭漂い確かに便所ではあるが使用禁止のその場所に小便の跡あり。それでも寝台車見学と車内に入ろうとせば寝台に悪臭放つ小汚い浮浪者の先客あり睡眠中。先客起こしては失礼と退散。花蓮の站も台東と同じく市街郊外の新駅舎で町歩きも興味なく列車の待ち時間に待合室で新聞読めば昨日が原住のアミ族の節句で豊収祷る祭り日だそうで花蓮でも各地でアミ族の祝い事あり。記事の写真見れば祭事に当たる別当役の男らの衣装が昨日ホテルで見た「タイヤル族の」若衆らの衣装と全く同じ(笑)。花蓮の平地はアミ族多く太魯閣は山岳にてタイヤル族のはずで何かホテルでの催事の説明に間違いもあろうが文化人類学のフィールドワークでもなければ所詮、観光として「原住民の踊り」であらばタイヤル族だろうがアミ族だろうが珍しければ好し、か。もう一つ記事に中国の「多毛男」の近況あり。ご記憶であろうか?、十数年前まで『女性自身』だの『週刊女性』だのテレビの不思議発見番組に屡屡登場の中国の多毛児君。可愛らしき男童が顔から腕から全身毛だらけで全住民の踊りと同じく奇異な「まなざし」受けていた少年。その男ももう二十六歳だそうな。持病の手術受け経過良好で依然、全身「先祖返り」の毛だらけ、だそうな。なぜこの記事に注目かといへば余は二十年ほど前に中国は北朝鮮国境の黄緑江河口の都市・丹東にて偶然にこの少年見かけたが故。その夏、余は旧満州の東北三省を西は満州里より北は黒龍江省の大興安玲山脈、東は北朝鮮国境の山・長白山に登り向こう岸は北朝鮮といふカルデラ湖・天池にまで遊び、この天池まで輿に乗って登る老女あり誰かと思えば故・周恩来首相夫人の登β穎超女史。で長白山より下り瀋陽よりどうせなら、と丹東まで足を運んだ次第。この丹東の唯一の観光といへば黄緑江の遊覧船に乗り北朝鮮側の都市・新義州をば船上から眺め朝鮮戦争にて米軍により爆破されし橋の跡を眺めること。新義州は中国より丸見えのため北朝鮮政府もかなりインフラ整備に力入れていたそうで、観光船が近づくと川辺で遊ぶ幼き子供ら、皆、白いシャツに紅色のネッカチーフ、胸に当然の偉大なる領袖の尊顔バッチ、が船に向かい手を振る様。川沿いの建物も正面から見ると五、六階建てだがガイドの説明通り横から見ると実は対中国側ばかり高く建てた謂わば見せかけの建物と納得。……とこの遊覧船以外に小さな丹東の町ですることもなく当時、外国人の宿泊が唯一許されし丹東賓館なる宿、ただここも当時の余には予算オーバーで「そんなカネがない」と強調せば当時ののんびりとした中国、「仕方ないな、安い部屋か……」と特別に用意してくれたのが賓館の敷地内に点在するコテージ式の建物の入り口の服務員部屋宛われる。その棟の担当服務員は笑顔で自らの荷物どかして「私はとなり棟の部屋にいるからね」と。貧乏旅行とはいへ流石に余は恐縮するばかり。感謝。ちゃんと個室にベットあればバックパッカーの余には十分で感謝感謝。で投宿しても何もすることもなく門番のような部屋ゆえ窓からは建物入り口がよく眺められぼんやる外を眺めておればそのコテージ前を歩いているのが、その多毛児(……とここで話が戻る)。当時はかなり日本のマスコミに紹介されし児童ゆへ何か目の錯覚かと思えば確かに多毛児。ホテル従業員に筆談にて尋ねれば丹東にて医学学会だかありそれに招かれたとか。その晩も何もすることなく部屋でぼんやりと携帯ラジオにてラジオ日本の放送など聞いておれば(御巣鷹山での日航機墜落の夏なり)「日本人?、暇だったら酒、飲みませんか?」といきなり同世代の日本人の若者二人。聞けば、丹東に小さな発電所建設あり発動機だかの取付けに従事の派遣員らしく、珍しく日本人の旅行者などが来て服務員部屋に寝泊まりと聞き、と誘われる。招きに参上せばこの若者の上司の部屋での鄙びた酒盛り。上司は、こんなところまでよく一人で旅行するねぇ、と感心の呆れ顔。多毛児の話するが彼ら一向に信じず。……閑話休題。駅舎内のセブンイレブンにて今回全く切符とれず断念の阿里山登山鉄道名物の奮起湖弁当購い(名前だけの大量生産だが)花蓮を午前十一時半過ぎに発つ急行呂光号に乗る。古い客車の急行とはいへ日本の列車でいへば特急のグリーン車に遜色なく、寧ろシートピッチなどこの客車が勝るほど(写真)今朝、太魯閣にては快晴が山下れば曇り空。太魯閣の山にかかるどんよりとした雲。花蓮を出て七、八分で太魯閣渓谷から流れ出ずる立霧渓の河口。左を見れば太魯閣、右は河口(写真)。列車の行く手には断崖絶壁とはまさにこれのこと、海に面した「清水断崖」眺める。鉄道は残念ながらこの絶壁のなかを刳り貫いた隧道を走り絶壁の奇景眺められず。隧道出た和仁站からまた海沿いの景色が南澳まで。此処から烏石鼻岬の七、八キロに及ぶ長き隧道で、出ると冷泉で有名な蘇澳。一昨日に高雄過ぎてから台東、花蓮と鉄道はかなりの難所越えて見事な景色娯しませ、さぞやこの難工事と思ったが、戦前の日本の鉄道建設は台湾西岸こそ開通していたものの、難所多き東岸は台北からこの蘇澳まで、そして花蓮から台東までが部分開業。蘇澳から花蓮のまさにこの難所と、南は台東以南が大武〜枋山間の山越えは未開通で戦後ようやく台湾一周の鉄道路完成。ところで戦前の未完は当時の日本の、鉄道の技術力なら丹那隧道建設や箱根の山越えなどありけして難題ではなかろう。寧ろ昭和に入ってからの恐慌だの、そして何より戦争体制への突入が鉄鋼をば要すこの鉄道建設など大局から見れば急を要せず未完とさせたのではないかと想像。蘇澳より列車は平地を走り宜蘭。宜蘭は福建省からの客家人の入植が昔盛んだった古い町。複び沿岸に出れば海には亀山島眺め、大里まで一見して素人目にも白亜紀であるとかかなり古代からの岩場と思われる沿岸の岩場続く。海水浴場で有名な福隆は土曜日で海岸線の自動車道路は渋滞。ふと気づけば丘陵にいくつも点在する墓場の多くが海とは反対の西向き。通常であれば福隆の集落と海を見下ろすべきでさらに高い西の山眺める墓場かなり奇妙。ふと思うは福隆といふ地名も「いかにも」だが福建人多き場所にて墓墳の向きは確かに山と台湾海峡の向こうの故郷・福建か、と思えば道理あり。この福隆よりいくつもの站に停車。列車ダイヤの乱れあり遅れるはいいが納得いかぬは特急列車優先にて本来は我らの急行が先に台北に着くはずが一時間半ほどの遅れで後続の特急列車三本に抜かれる始末。だがどの站のホームに停まっても駅前には古い家屋残る町並み。時間が止まった如し。かなり昔に廃された製炭工場(写真)侯孝賢監督の映画『非情的城市』の撮影された「九イ分」も沿線の瑞芳站よりバスで入るそうな。この九イ分、かなりレトロ観光で賑わい週末となると台北方面からかなりの集客あり確かに瑞芳站はかなりの混雑。台北まであと半時間ほどながら列車の行く手には驟雨か暗雲立ち込める。車中、江戸川乱歩の文庫本読み、『黄金仮面』など明智とルパンの対決に、これを読んだ小学生の頃思い出しつつ楽しめたが『白髪鬼』となると乱歩らしい猟奇趣味あり沿線の三、四十年前の如き風景と遽に曇った黒雲の空があまりに乱歩的世界。読了。台北市街に入る頃に大雨。幸い松山站に下車の頃に一瞬雨止み駅前のタクシーに飛び乗りグランドハイアット台北に投宿。だがタクシー下りれば呼鈴ボーイもバックパッカー二人の登場に宿泊客と思いもせず相手にされず(笑)。フロントロビー通り越してそのままリュック背負って二十二階のGrand Clubフロアのレセプションに上がって宿泊手続き。部屋で荷物整理して外出前にこのGrand Clubのラウンジにて黄昏時の三鞭酒やhors d’oeuvreのおふるまいあり雨に烟る台北の市街眺めつつ三鞭酒にてZ嬢と旅の終わりに乾杯。ラウンジに日本の新聞揃い何が一番の興味かといえば読売巨人軍の渡邉恒雄君の辞任。朝日は一面トップ(笑)。読売もさすがに一面左肩に。ドラフトでの金銭譲渡が発端とか。それにしても新オーナーが滝鼻卓「雄」巨人軍社長で、その社長後任が桃井「恒」夫とナベツネの亡霊か。いずれにせよ形式的な引退に他ならず今後も渡邉上皇の院政続くと思えば暗澹たる思い。朝日の取材に巨人軍の上原選手「コメントのしようがありません」、高橋選手「ノーコメントにしておいてください」と、選手もネベツネの顔色伺いは歌舞伎役者の松竹・永山帝の場合と同じく忸怩たるものあり。雨のなか歩いて「頂好」の繁華街。途中、ホテル近くの台北市役所前に若い娘ら雨のなか群衆し何かと思えば今晩が台北流行音楽節とだかで開演前の行列。市役所の正面玄関前に巨きな特設ステージ設けて(写真)主催の台北政府もなかなか大したもの。日本から藤木直人とかいふ芸人ら参加とか。Z嬢の「もう一度、あの担仔麺」といふ願い叶え頂好の度小月に食す。台南の度小月の出店ながら台南の店と違い「洗練されて小奇麗」(写真)。頂好にはかなり日本人に名の知られた和昌茶荘といふ茶葉問屋あり。Z嬢十数年前に台湾人の知人からこの店の茶を頂く。この和昌茶荘に寄り茶を何杯か頂き茶談義。茶葉と小ぶりの急須購ふ。MRTに搭り「西門」の繁華街。市内に何軒か支店ある薔薇色の看板目印のRose Record西門店に立ち寄る。白先勇原作の『薜子』昨年テレビドラマ化され好評にてVCD発売。第一話より六十分物の全二十枚組のこれ一套購入。近くの阿宗麺線にて立ち食い。二十年前はけして清潔とはいえず、がすっかり今様に驚く(写真)。隣の「麺線持ち込みお断り」の張り紙ある北平一條龍餃子館にて餃子食す。MRTにて市政府站まで戻れば二更に流行音楽節まだ続く模様。舞台裏手抜けてホテルに戻りフィットネスクラブのサウナに浴す。曽秀萍の白先勇論続けて読む。

八月十三日(金)晴。ホテルのマイクロバスにて景勝地・九曲祠に下る。横断道路沿いの車寄せにてバス降りて渓谷の急崖見上げておればカランカランと天より音があり小石降り「落石注意」の看板もあり岩陰に隠れればいきなり天より人が二抱えほどの巨岩降りて駐車場所の急崖に設置の鉄製のガードレイルに当たりガードレイル一本折れて崖下の川に落ちる(写真)心の臓も止まる思い。冷や汗。恰度其処には余とZ嬢の他、一組の自動車で渓谷に遊ぶ家族あり。彼らも岩陰に隠れたが、この自家用車の持ち主、愛車の僅か1m横に落石あり次は我が愛車の屋根もこの落石に凹むかと思えば愛車精神とは恐ろしきもの、決死の覚悟にて愛車の運転席に乗り込み愛車をば岩陰へと移す。現在は長い隧道多く旧道は岩肌も見事なる短い隧道をいくつも潜りつつ観光客が渓谷の絶景(写真)楽しむ嗜好。されど余とZ嬢先ほどの落石恐ろしければ岩陰の岩伝いに恐る恐る歩かざるを得ず。ホテルの車が迎えに来て次の景勝地・緑水に至る。此処からこの横断自動車道路出来る以前の山間の旧道残りそれを歩く。旧道入り口の説明板によれば、もともとは原住の民の狩猟道、いわば獣道。それを日本統治始ると原住の「蕃民」の理蕃政策により軍部警察がこの道をば幅1m半ほどの軍用歩道に整備。昨日の霧鹿の吊り橋も同様。その吊り橋の袂の案内板に佐久間神社なるかつての立派な神社の写真あり。この太魯閣よりの横断道路、民国45年(1956年)に蒋介石の指揮下国民党の軍隊により建設開始し僅か三年で貫通。建設の目的もいくつか余が察するに、一つは台湾占拠せし国民党が威信にかけたインフラ整備。台湾には日本統治期に鉄道始めかなりの整備ありこれに負けぢと大陸横断道路建設はかなりの威光。更に大陸光復とかなりの軍力維持の国民党政府にとって実際の対中共戦なければ軍人労働力をば何かに向けることは必須にて、爆弾も削岩に用いられればこの横断道路建設は実に利に叶ふプロジェクトかと察す。古道歩けば山間の林間に古い石碑あり(写真)大正三年から十一年にかけて原住民による殺害に遭遇=殉職の警官らの慰霊碑。慰霊されるべきはその警官らに戮された原住民のはずと心痛む。この旧道数キロと短いが途中に二十米ほどの真っ暗な岩場刳り貫いた隧道もあり(写真)。手作業にてよくぞ穿ったもの。緑水の公園管理所に至る。管理所横の公衆便所の小便器に畏れ多くも香港の誇る大スタァ・アンディ劉徳華様が登場の広告ステッカーあり(写真)ご本人便器に我が肖像ありとは知る由もなし。小便の際に無意識に頭垂れるわけで、するとアンディ=ラウ先生がこちらに微笑みかける。街道沿いの山小屋風観光案内所にてコーヒー。台湾は珈琲旨く本格焙煎、ドリップも奇しくなき上に山の良水用いて珈琲美味ながら一杯百五十元(約五百円)と観光地値段。昼前にホテルに戻りホテル前のバスターミナルの観光客相手の飯屋にて粽飯と高原野菜の炒め物。昼すぎホテル屋上のプールに憩ふ(写真はプール水面よりの眺め。ホテルほぼ満室の上にこの横断道路沿いに満足な食事の施設はこのホテルのみとあっては団体バスにて食事に立ち寄る客も多いが観光に忙しいは当然にてプールに余の他に客などおらず。埴谷雄高『死霊』昨晩より読むが大学の頃に非代々木系の左翼の友達のアパートには必ずといっていいほどに「置かれていた」この本。難解と定評で余も何度かページめくるが読む気にならず昨年文庫本となり三冊まとめて購入したわけだがやはり読んでも余にはさっぱりわからず粗読。感性と知性の無さを悔みつつ本はそのまま宿の部屋に残せば、いずれどなたか台湾の太魯閣か花蓮にて埴谷雄高『死霊』読んでいただければ。台湾でわざわざ『死霊』といふ気もしたが、この本の鶴見俊輔によるあとがきで埴谷雄高が台湾育ちで戦後日本に還ったことを知る。余はそれを今日まで全く知らず。子供の頃に埴谷雄高が「自分に優しい母親が家の外に出ると土地の人に優しくないのが不思議だった」と語った、と。植民地。午後複びホテルの車で今度は横断道を十分ほど登り「かつての秘湯」文山温泉(写真)道路より岩場を歩き坂を下り吊り橋渡れば急崖の下に流れる渓流の岩場に硫黄に白濁のこの温泉源あり。周囲の大理石岩浸食し天然の温泉となる。現在では「整備」されコンクリで造営の風呂場となり高温、中温低温と三つの岩風呂。渓流にはこの温泉湯流れ出し岩遊びも心地良し。見上げれば天井の如く岩が蓋ひ、ふとアンドレ=ジイドの短編「アクワサンタ」(新潮文庫の絶版「秋の断層」にこの短編あり)思い起こす。その伊太利の保養地アクワサンタの浴泳場は地下の岩場でこの文山とは異なるものの硫黄泉にて。湯に身体熱れば岩風呂の周囲囲む花崗岩の岩肌に背もたればその岩の涼しさ。七日に台北にて購ひし曽秀萍『孤臣・薜子・台北人』といふ白先勇論読み始める。渓流の上流にもう一架の吊り橋あり。地図にもなく気になり湯を出で自動車道まで戻り距離四百米ほどの自動車隧道の路肩をば懐中電灯頼りに潜れば隧道出た「このあたり」、背高き雑草の向こうにすでに廃れ果てた吊り橋あり(写真)危険と承知も橋は丈夫な鉄製で床も鉄板で錆びてもおらず丈夫らしく渡ってみれば向こう側は建物も道路跡もなく何の目的の橋か検討つかず。此処から文山温泉見下ろす(写真)。ホテルに戻り蒸風呂。客は余一人。晩に昨晩に続き同じ食事処にて鱒のムニエルと台湾野菜・山蘇の炒め物食す。美味。台湾のニュース番組でZ嬢「えっ!」と驚き何かと質せば画面下に流れる字幕スーパーに「日本棒球読売巨人」でオーナー渡辺某辞任と流れた、と。何が理由かわからぬが吉報には違いなし。
▼ 台湾にてふと気づいたこといくつか。一つは三菱自動車の車かなり多し。豊田自動車より多し。戦後の追米経済にてフォード社の車が多いのは台湾の特徴ながら三菱とは。たんに台湾側のディーラーの強さだったのかやはり三菱といふ戦前の財閥からの名前への信頼だったのか。それと全くの余談だがホテルの枕が高いのに難儀。何処のホテルも枕高く朝起きると肩こり甚だし。
▼ この台湾横断道路について。十五日の新聞・中國時報に記事あり。以下写す。日本統治時代は未通。民国44年に国民党政府が建設に着手し1392日と当時で4億三千万元費やし貫通。工事での殉職者二百十二名、負傷者七百二名。貫通したものの雨期の土砂崩れや落石により不通も屡屡。一九九九年九月二一日の台湾中部大地震により海抜三千米に近い高山部の道路截断など被害多く台湾最大の渓谷・登仙峡は東西より通行止め。馬陵温泉の旅館は閉館。今年七月二日の記録的大雨にて谷関〜徳基の間が完全に遮断され復旧の見込みなし。現在はこの区間、数十キロを徒歩で征くも可ながら四、五日要し阻しい崖登りなどもあり、と。

八月十二日(木)朝六時起床。この山間の霧鹿の温泉もモデム接続可能にて昨晩綴りし日剰上網せむと接続せばメール受信中に電脳滞り何かと思えば網毒に罹れば再起ならず。システムリカバリ要しまさかシステムCDもCD-ROMも旅に持参する筈もなく香港に戻る迄再起不能。朝霧立ち込む露天の温泉に浴せば電脳故障も些細なる事と。焦燥ても仕方なく此処は気持ち入れ替え旅の間だけでもネットのことなど忘れ長閑に過ごさむと決意。帰港の後に日剰綴るため詳細なるメモ残すに徹せば可し。谷間ゆへ朝七時半頃に漸く陽さす。快晴。昨日の雨嘘の如し。日差し強し。朝食済ませ旅館の自動車雇ひ池上站(写真)切符已に台東より花蓮購ひ済みで今回の鉄道での台湾一周に当り本来はこの台東〜池上間も列車に搭らねばなれど台東迄戻るは更に小一時間有せば台東〜池上間棄てる手段て。霧鹿よりは隣站の関山站便利乍ら池上に参るはこの池上こそ台湾にて馳名の駅弁「池上弁当」発祥の地ゆへ勿論列車この站に停車の際にホームにて駅弁購ふも可といへ列車まで一時間半もあり関山にて時間潰すよか池上が良し。台湾の何処にもある駅弁で池上が何故有名か余は知らず。Z嬢の話に依れば池上は米の名産地にて戦前は昭和の先帝にも献上されし程の名米だそうな。池上の小さな町散策せば街道沿いに「池上飯包博物館」なる施設あり(池上の弁当販る舗のドライブイン)写真だの掲示されし物語読めば昭和十五年、当時八時間要せし花連〜台東の鉄道に、この池上站前にて旅の食にと蕃薯餅売りたる陳雲といふ女あり、この陳女史、蕃薯にかわり池上名産の米もちいて飯包(三角の飯團=握り飯)売り始めれば旅客に好評。それが煮物焼き物など詰めた弁当函の形となる。一口に池上弁当といっても当然、木村屋総本家と木村屋総本舗ある如く池上にて何軒かが本家本舗名宣り、現在は駅前に舗構へる正宗「金美」池上鉄路弁当、それにこの博物館もつ街道沿いの「池上飯包」の二軒が大店。駅前の金美(写真)にて池上弁当(わずか六十元=二百円)(写真)購い午前十一時すぎの特急自強号に乗車。列車ホームに入れば駅弁売りに列車の客殺到(写真)。車窓の風景楽しみビール飲みつつ弁当食す。網野善彦『蒙古襲来』読む。午後一時前に花蓮着。観光地ゆへ站前に観光客多し。ホテル寄越せしマイクロバスにて早々に花蓮発てば町外れにてホテルの職員らしき若者ら七、八名広い三十分ほど街道走り太魯閣方面へと山間に分け入れば数分も経たぬうちに台湾三大渓谷と名をばいただく見事な渓谷。これが沿岸から僅か数キロの地にある台湾の地形の不思議。渓谷の合間の岩場刳りし道路。岩肌刳り貫くいくつもの隧道。太魯閣過ぎ海抜四百五十米ほどの天祥に至り天祥晶華酒店に投宿。これまで数日の山間の鄙びた温泉宿に比べれば熱海の高級温泉宿の如し。部屋に荷を広げロビーに出れば精悍なる裸体にタイヤル族の派手な衣装の若衆がタイヤル族の踊りなど見せてホテル投宿の客迎える態あり。余はこのテの「現地民」演出の観光客相手の見せ物かなり苦手。その踊りなど写真だビデオだと撮影し喜ぶ観光客の「まなざし」。その裸踊りの若衆よく見れば先ほど余とZ嬢の客二名のマイクロバスに拾われし花蓮の町住ひの若衆で、彼らがタイヤル族といふ。夕方、ホテルと川挟んだ丘陵に位置する祥徳寺なる尼寺参拝。台湾にて著名なる四十代の尼僧・地皎法師がこの寺の寺主と識る。この台湾代表する渓谷・太魯閣のこの地の名を天祥と申すは支那の南宋の武臣・文天祥に因む。南宋滅ぼしたる元朝のフビライも元軍に激しく抵抗せしこの武臣の武功惜しみ元軍に引き入れむと試みるが文天祥その招きに応じず死に至る史実は有名。その文天祥が台湾のこの渓谷に名を残すは蒋介石の名付けゆへ。中共軍に負けずいつの日か大陸への光復をば希ふ蒋介石がこの文将軍の威徳をば慕び、蒋介石はこの文天祥をば台湾にある国民党軍の象徴とする。この太魯閣より海抜三千米の中央山脈越え台中へと至るこの横断道路の建設は蒋介石の指揮下、国民党軍によるもので、この地に文天祥の名を残したといふ次第なり。晩餐はホテルの食堂にてビュッフェ形式の食べ放題あれど食堂覗けば難民収容所の食堂の如き繁盛で、家族連れの子供ら走り回り、これ厭ふ客相手に食堂と別に単品の料理供す食事処あり。それ幸いに鹿肉とインゲンの炒め物と黒米など用いた「原住民炒飯」なるもの等食す。午後八時よりホテル中庭の特設ステージにて夕方のタイヤル族の若者らによる原住民舞踊の催し物あり。とても会場にて見るに恥ずかしく(どうせ何名か選ばれ一緒に踊らされたりバンブーダンスなどさせられるがオチ)、反面、この「観光」催事がどのような「まなざし」により成立するかにバリ島のケチャの観光化の如き興味もあり、ホテル建物のラウンジより窓越しに葡萄酒飲みつつこの舞踏眺める。タイヤル族の踊りなるものが本来どのようなものか知らぬが、この舞踏、原曲をば電子音にてかなり現代風に編曲したものに踊りもまるでジムのエアロビの如し。それはそれでそこらのジムのインストラクターだの香港のテレビ番組の踊り子らよか、この地場の若い男女のほうがかなり上手なもの。予想通り客席より何名か選ばれ簡単なる踊りに混じり、バンブーダンスも当然あり(笑)。この天祥、ここより山脈を越えれば実は僅か三十キロほどで二日前に投宿の廬山温泉。廬山より台南、台南より島南をばぐるりとまわり台東、花蓮経てこの太魯閣に至りたる次第。

八月十一日(水)連日早起。台南站。站の待合室にあれば小旅行だろうかの老男女一見して数十年の友とわかるが集れば口々に「おはよう」と日本語で挨拶始まり会話は台湾語ながら言葉の節々に日本語の単語混じり。そのうち一人の老紳士がZ嬢に「大きなリュックだね、日本人?」と話しかけられ、聞けば仲間で温泉旅行とか。流暢な上に「ボクはね……」と言葉に品あり。廿年前ならよく見受けたこの老人らの日本語会話も今では七十越えた彼らですら恐らく戦前の国民学校の最期の世代。日本の台湾占領の過去ももはや彼らの世代が最期。午前六時三十七分発の急行呂光号に乗車。台南から高雄経て台東迄向ふ一日数本のうち最も早く発つ便。高雄までの西部幹線電化されているものの高雄より台東に向ふ東部線が単線の非電化区のためディーゼル機関車が先頭(機関車と発電車の二両)と険しき山線あるがため後尾にも一台機関車加わる編成。この旅程にてこの区間のみかなり端折る部分にて台東まで一気に四時間弱、台湾南部を大きく走る。高雄から台湾島南端まで四重渓温泉、塑丁の岬までも旅したきところ其処まで周遊するととても日数足りず今回は断念。高雄より屏東すぎるあたり迄は台湾の西部平地らしい郊外の沿線風景続く。それが坊寮を過ぎて突然山間の長き隧道潜ると右手に青き海景広がる。ここから坊山まで右手には自動車道路一筋走るだけで眼下に波打寄せる海、左手に丘陵といふ、日本でいへば五所川原から能代まで五能線と似た絶景。ただし南国、照りつける太陽と紺碧の台湾海峡の海。その風景に手許の本に目を落すも忘れ見入っていると列車は左に大きく曲りながら長い長い隧道に入り此処からがディーゼル機関車奮発の山線。先程までの海の景色が嘘の如き山間で遠くに馬羅寺山(1471米)望み隧道の連続からよくぞ大正期だかにこの鉄路建設したものの驚くばかり。台湾島一周の鉄路網建設もあったが何より重要は木材運搬。沿線にはすでに廃站となった木材積込みの站いくつか。この山線がちょうど前述の塑丁の半島の付け根縦断にて列車は急な勾配降り始め台湾東岸へと至り大武より復た右手に海(写真)左手に今度は丘陵どころか遠くに南大武山(2841米)、北大武山(3092米)から霧頭山(2736米)とアルプスの如き連峰眺める山岳を仰ぐ。想像し給へ。信州松本を出た北へと向う列車が左手に北アルプスの連峰を眺め目を右に転じると其処に広大な太平洋の広がる様を。台湾鉄路のまさに最高の絶景此処にあり。列車は一時間余これを走り午前十時半に台東に至る。台東は市街の旧線廃止し市郊外の新站。タクシーにて旧市街。今日は台東より更に魯鹿の渓谷に至るがこの渓谷に至るバス路線は日に僅か二本のみ。バスの始発站と時間確認し市内の台湾銀行にて両替。まさに真上から照りつける強烈な太陽と肌じりじりと灼く暑さ。汗も乾き塩ふくほど。十分ほど歩くも辛いが台湾一の見事さ誇る台東天后宮参拝(写真)。中正路の北平半畝園にて牛肉刀削麺と同じ刀削麺の涼麺食す(写真)素朴な美味。さらに餃子所望し福建路の老大衆餃子館なる店に入るが餃子二人で十五個のみの注文に「それでお昼が足りるの?」と店の女将怪訝な表情。まさかすでに刀削麺食してとは思いもよらず、か(笑)。午後一時のバスに乗車。台東を出て北上は沿海をとらず内陸に走る鉄道に沿って関山まで。わずか三十キロを一時間有に要するは国道から幾度も旧道に入り山間の林間道など走るがため。日本統治時代に架けた古い橋の石門だの監獄のあとなどバスの車窓より眺める。関山よりバスは魯鹿の渓谷に介る。この道は台湾南部をこの関山から西側の玉井を経て台南に横貫する二百キロ余りの道路にて途中の天池より桃源までは海抜二千八百米ほどまで登る一大絶景。当然、この旅でも台南からこの横貫道路で台湾山脈越える予定も立てたものの雨期の崖崩れなどで不通になること多く実は今回も海抜2772米の大関山隧道付近で不通で復旧の見込みなし。渓谷の丘陵をば削岩して道が数十米下の渓流眺めつつバスは一時間ほどかけて関山から二十キロほど山間の魯鹿温泉に到着。バスのはこの先の利稲で折返し。乗客は我ら含め僅か五名のみ。天龍飯店に投宿。空は曇り雨となる。魯鹿温泉といっても更に奥に青年活動中心が2つと小さなロッジあるばかりで温泉旅館は谷あいのこの旅館一つ。旅館は渓谷につかまるように建ち旅館傍らに渓谷に渡る吊橋あり(写真)驟雨あり、その過ぎるを待ち小雨のなか吊橋渡る。眼下には吊橋の渡し板の隙間より六、七十米下の渓流見え足は竦み冷汗。吊橋の上から渓谷の上流、そして谷下と眺めれば雨上がりつつ空も明るくなり霧が立ちこめ見事な景色(写真)向ふ岸に渡れば苔生した岩肌に石板嵌め込まれ何かと読めばここに橋かけた日本人十数名の名前あり(写真)。十数名と更に三十余名の警察官参加とあり傍らの案内板読めば布農(ブヌン)族が日本人警官をば殺猟の相手としたために布農族征する日本側の動きあり、この橋もその警備道建設のためと識る。小雨あがり道路沿い散歩。旅館向いの小店の狗二匹が我らの道案内。宿に戻り読書。小雨のなか渓谷沿いの露天風呂。渓谷の鬱葱と茂る緑、霧が流れ何ともいえぬ風情。熱った肌に小雨の冷たさが実に心地よし。網野善彦『無縁・公界・樂』読了。この本、この旅館の喫茶室の書棚に残す。食堂に晩餐せば泊り客は我らの他二組のみ。麦酒注文せば「置いてない」と。旅館など宿泊客の飲代こそ高収益と思っていたが。持込み可とのことで向いの小店に走る。この店との共存策なのか。食後、旅館の案内にスタルケルの弟子のDavid Darlingなるチェロ奏者この霧鹿の地訪れ地元の布農族と音楽交流した“Wulu Bunun Tribe”なる記録VCDの上映希望あれば、とありテレビも僅か一局しか映らぬし此処まで来てテレビ看る気もせぬは当然、ホテルのロビーにてこのVCD小一時間の記録片を看る。この布農族には最低で八人要す八部合唱あり狩猟だの神への畏敬だの豊饒祈り彼らの音曲は音階などといふ規律超越したまさに和声そのもの。Darlingそれに畏怖の念もち懸命にチェロ奏でるが布農族の者にとってチェロの旋律がどうしても不安定で(音階に填められた音が彼らにとっては調和攪す)Darlingかなり布農族の音団より得たものあっても布農族にとっては紅毛の楽士が来ただけで其処から何も得られずの感あり。旅館の者に訪ねればこの記録片に出てくる布農族の住む集落、小学校に二、三十人の児童あり(魯鹿国民小学校)、はさらにこの山の奥だそうで(利稲から大関山隧道手前の向陽、亜口のあたりか)下界から遠く離れたこの山間にその文化集団あることに驚くばかり。三更に復た露天風呂。雨あがり夜空に満天の星。
▼網野善彦『無縁・公界・樂』について。日本の歴史学震撼させた、と記憶に残る名著。今読むと、中世までにおける日本列島社会の自由な遊民の存在だの、けして驚くほどのことなくなっているのは、つまりはこの本が1978年に上梓され、当時は劇的ですらあったこの史観、今では定説の如く理解されてしまっている証左。中世から近世にかけて大きな変化は「無縁」が社会の自由の大切なファクターであったものが「無縁」はネガティブな意味に変質し、自由な社会空間である公界が苦界となり、樂が織田豊臣の時代に権力によって取込まれ骨抜きにされたこと(信長の楽市楽座などまるでポジティブな改革のようにとられるが楽市楽座は信長がつくったものではなく市も座も本来「楽」であったものが制度かされる)。網野氏は子供の遊びの「エンガチョ」から説き起こす。エンガチョ=無縁、追手から逃れられるアジール(避難所)の存在。文楽(文学)・芸能・美術・宗教など人の魂ゆるがす文化はみなこの「無縁」の場に生れ「無縁」の人々によって担われたこと。考えてみれば、たとえば「不法」といふ言葉も今ではネガティブな罪となるが「不法」とておそらくは法の要らぬ世界。法といふと仏語(ぶつご)の影響にて真理=法(のり)ととらえられ、それに反くが不法だが、法がなくとも調和とれた世界が無縁の地、公界。無法とて同じ。無法地帯は悪ではなく無法でもよき社会。網野氏は最期に曰く
日本の人民生活に真に根ざした「無縁」の思想、「有主」の世界を克服し、吸収しつくしてやまぬ「無所有」の思想は、失うべきものは「有主」の鉄鎖しかもたない、現代の「無縁」の人々によって、そこから必ず想像されるであろう。
こうして考えるとまさに現代とは、東京などの都市などそういった「無縁」の場所のようでいて、実は監視カメラからインターネットの利用まで徹底的に管理され、官憲は自宅だろうが何処までも権力を有し人を拘束し、法や規則からの逸脱が許されず……と「無縁」の場所が徹底して排除されているのが現代社会ではなかろうか。網野氏の上述の言葉から探れば、例えばその「無縁」を求めたのは「中島らも」とかであろう。また、この「無縁」でふと中上健次の「路地」を思い出労働に勤しみつつも賭けに酒に歌舞音曲に優れ、蔑視された路地の人々。「無縁」の世界。そういった意味では今晩看たこの霧鹿とて布農族の人々にとってはこの豊かな自然のなかで自らの文化社会にて「無法不法」であった空間に日本の官憲が支配に挑み社会が解体されようとしたこと。
▼アジールについては網野氏はアフリカのアジールの形態を紹介している。アジールとなる場所は、1)王や族長など特定の人間の身体に触れた罪人には手を触れられない(だからこそ殿様などには下々の者が勝手に手を触れぬようにしていたのは、その殿様が高貴だから、という意味づくりだけでなく、手を触れられるとその者にアドバンテージを与えてしまふことの防禦だろうか)、2)家屋(敷地内は他の者の侵入を防ぐ)、3)長なる者の屋敷、4)族長や王の墓場(だから立入り禁止とされている)、5)特定の聖なる部落や都市、6)寺院、神殿、7)聖なる樹木、8)森、の8つ。

八月十日(火)朝五時起。上着なければ肌寒き朝。莫那魯道といふ魯山の集落囲む山上の道を高さ百五十米ほど上り五キロほど散策。此処が霧社事件、日帝軍にタイヤル族の蜂起軍が追込まれ最期迎えた古戦場、其処がモーナルーダオの故居地(写真)朝霧立ちこめる静寂なタイヤル族の居住地に彼ら命落す悲劇。宿に戻り朝湯。九時すぎのバスに乗り霧社を経て写真はバスの古い路程板)埔里に戻る。十一時のバス(写真)で山道を三四十分走れば峠越えると目の前には紺碧の水美しき日月潭の湖が広がり暫し言葉失ふ。台湾有数の名景・日月潭、今回の旅では泊らず。理由は日月潭ならぜひThe Lalu Sun Moon Lakeに投宿したく但し日程短く僅か一泊で翌朝早く旅立つには勿体ないホテルにて此処は二、三泊すべき、と。バスは山から下り水里。日本統治時代に林業振興にて木材運搬に建設された集集線が此処に至り站舎は当時の建物を復興(写真)站前の商店街を入れば小さな蒋家肉圓といふ店あり肉圓食せば創業六十余年の老舗にて独特の脂味の肉圓は秀逸。午後一時前の集集線に乗り一站先の集集。站舎は1921年の開通以来健在であったが99年9月21日の大地震にて崩壊し現在の站舎(写真)は01年に復元したもの。鉄路文物博物館あり見学。次の二時半すぎの列車まで駅前の珈琲屋にて読書。集集線は濁水渓の川に沿い楠の林の中を進み集集線起点の二水站。此処にて台南に向う西部幹線への乗換えは一時間後の而も指定席のとれぬ特急に立席覚悟のところ二水に着けば反対ホームには数分差で乗れぬ筈の高雄行きの準急復興号が停まっており数分のダイヤの乱れ幸いにこれに乗車。空席多く指定席ながら結局二時間余他の客に当らず午後五時すぎに台南站(写真)に到着。天下大酒店に投宿。客室はかなり広く内装もじつに丁寧な仕上りで機能的。部屋からインターネット接続も快適にて三日ぶりに接続。晩に赤嵌楼を見学。1653年に台湾南部占領せしオランダ軍がプロビデンシャ城をこの地に建て1862年に国姓爺・鄭成功オランダ軍駆逐しこの楼をば城跡に建てる(写真)。食府台南。台湾は全て小椀料理だからとまずは度小月にて担仔麺(写真)。続いて公園路の肉伯の店にて火鶏魯飯。孔子廟抜けて府前路の福記にて肉圓。莉莉水果店にて小豆と練乳のかき氷。満悦。市内には日本占領時代からの古い建物多く残り(写真)商店街も夜遅くまで開きなかなか興味深き店多し。官製の台北、名古屋な台中、貿易港の高雄に比べ台南は歴史ある商都にて文化度の高きこと実感。

八月九日(月)朝早く目覚めれば朝霧に埔里の市街囲む山々に薄切り立ちこめ涼風も心地よし。九時過ぎの巴士で山間に走れば渓谷のあちこちに地崩れあり渓谷の川は橋流され土砂に流木といふには大きな木々、川沿いの住宅は半倒壊、または軒まで土砂に埋り一ヶ月前の記録的大雨の被害無惨。小一時間で霧社に至る。幼き頃に台湾の話となると祖父母に霧社事件の話聞かされ野蛮な土族の残虐なる日本人殺害と。あとで歴史学べば昭和五年、日本の台湾統治も三十五年、蕃人と呼ばれた土着民相手の警察主導の「理蕃」統治も完成が宣われた頃、十月二十七日の朝、地元民モーナルーダオ率いる蜂起部隊次々と各地の警察派出所襲い警察官と家族殺害し武器奪い、この霧社の日本人学校の運動会の場に向い君が代の調べ風琴で奏でられると、それを合図に運動場に雪崩れ込みこの霧社の日本人入植者227名中134名が殺害される。霧社事件。事件重くみた台湾総督府は軍隊投入して反乱軍征伐に挑み五十日余で鎮圧し蜂起軍の死者160名、自殺140名、400名に及ぶ行方不明。その後地元民の「帰順」で後に太平洋戦争において高砂義勇軍として戦地に送られ日本のために勇敢に戦ったといふ。当時の日本が台湾全土を統治したとはいへ今でも整備された道路を自動車で入っても台中から二時間余もかかるこの高度千米の山岳地帯にて此処まで警察統治徹底した当時の政治装置。いまの霧社のこの集落の人口と同じほどの数の日本人入植者が此処にまで入ったとは驚くばかり。なぜ台湾統治から三十五年も経た昭和五年になって日本がその「理蕃」の政策も安定と思った頃にこの反乱蜂起が起きたのか。昭和五年といふ日本が明らかに軍国主義化する時代であり、日本の台湾統治政策にも明らかに皇国化といふそれまでの植民政策とは明らかに異なる「事業」が始ること。台湾においても強引な皇民化政策あり。その象徴たる装置としての教育、日本人学校、運動会、君が代といふ余りに象徴的な空間に向けての蜂起……。考えさせられること多し。蜂起軍記念碑とモーナルーダオの墓地(写真)参拝。その裏手の渓谷見渡す崖に当時の日本人学校の跡地あり今は託児所。日本人墓地は荒れ果てていると聞いていたが場所を訪ねれば新しい建物あり。一見トマソン建築の残る階段(写真)は日本人墓地であったのであろうか。戦前の霧社神社は徳龍宮といふ道教の寺と化す。角を出しての嘗ての鳥居(写真)塗装されたが崩れかかった石灯籠(写真)。道教の派手な寺も土台見れば石組みが神社の趾(写真)。山間の碧湖を眺める。涼風心地よし。なぜかこの「霧社」といふ地名とその霧社でおきた高砂族の話が子どもながらに耳に残り数十年を経て今日此処に至る。また十五年ほど前に余が東都にあった頃、広尾の広尾橋より天現寺に抜ける明治通りの裏町、渋谷川に近き場所に「和亭」といふ小料理屋あり、ここの気風よき女将さんが台湾の生れにて父親が霧社で警察だったといふ話を聞いたこともまた思い出す。次のバスまで一時間半ほどあり集落の街道沿いの食堂に入り麦酒に喉潤し昼には多少早いがリュック預っていてもらった祝儀もあり米粉と青菜炒め注文せば山間のこの地で採れた青菜のこれのまた美味なること。昼のバスで二十分ほど更に山間に走り魯山温泉。土産物屋の並ぶまさに温泉街の路地を入り吊橋(写真)渡ると魯山の温泉宿街(写真)。天盧大飯店に投宿。部屋は広くQueen Sizeのベットが二つあっても尚まだ板の間がベット四つ余り。とうぜん冷房などなくとも涼風が部屋に流れ入る。午後まだ陽も高きうちから露天風呂。風呂高低温打たせ湯から半身浴、日本風の岩風呂まで各種あり夕方まで余とZ嬢以外誰も入らず閑静。唯一の不便は男女混浴で水着着用はまだ良いが政府規則にて水泳帽被らされること。異様。ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』ようやく読了。月の植民地がMicroftと名付けられた月植民地の一切合切取仕切る電脳の活躍により地球連邦より独立する物語。主人公に語りかけるこの電脳が最初の丁寧な口調からだんだんと友達のように語り口調変えるを矢野徹の和訳が実に好し。物語は月の人々が地球連邦による支配望まず地球からの独立と自治を求めたようでいて実はこの電脳マイクこそが優れた能力ゆへに自立願いそれが為に月に住む人を扇動したが事実か。結局、この月社会はマイクといふこの電脳が陰で帝王として君臨す。ただマイクが唯一できぬことは喜怒哀楽の感情擁くこと。自ら笑い話を作ってもどれが可笑しいかわからず人にどれが面白いかの判断を願わねばならず。選ばれた面白い話を分析して更に面白い話作れても更に面白がられぬ不幸。ハインラインの強調は人こそその喜怒哀楽の感情有するといふこと。この早川の文庫本。実に廿三年前に購いようやくの読了。旅の文庫本ゆへこの宿に残してゆくつもり。捨てられるのか誰かに読まれるのか。夕方少し寝て温泉街を散歩。屋台で水蜜桃購ふ。歩きながら頬張るとまさに蜜の如き果汁と柔らかな果肉。温泉宿から川の上流へと勧めば狭い渓谷の崖下の遊歩道の先にさらに古い温泉宿の趾あり。すでに廃墟と化し唯一一軒の料理屋のみ(写真)元ヒッピーの如き主人が業む。風情あり。宿屋の晩飯も地元の野菜美味。二更にまた露天風呂に浴す。この宿も昨晩に続き部屋の電話はモデムもなき直線にてインターネットつながらず。山間の閑静なる温泉にあってはそれでよいか。年に数日くらいメール読まぬ日もあり。日記の更新できぬことのみ多少焦り。それどころか部屋の電源すら少なくこうして日記綴るも冷蔵庫のコンセント抜いて而もテーブルより遠いため板の間に寝ころんでの記述。ずいぶん昔のサントリーのCMにサントリーオールドの小瓶の宣伝だったか若者が鄙びた温泉宿にて畳に寝ころんでオールド飲みながら漱石の『こころ』読む筋あり。それを髣髴。網野善彦『無縁・公界・樂』少し読む。

八月八日(日)台北快晴。ホテルより連絡巴士でMRT圓山站。MRTで台北火車站。九時発の特急・自強1011号にて「台湾の名古屋」(笑)台中に向ふ。新竹まで延々と続く線路沿いの市街地に台湾の経済力見る。西部幹線走る列車は海線と分れ山線に入り山越といくつかの隧道潜り豊原経て11:15到着の予定が台中手前で上線での故障車あり三十分近く遅れ11:45台中着。香港より故郷台中に帰省中のY姐の出迎え受ければ妹の運転する車がBMWの黒塗の7……聞けば妹夫婦で宅地開発会社経営だそうで成程。台中の駅は日本統治時代の建物。駅前からの旧市街の商店街は周辺の新興地区に比べ「開発」遅れ閑散。Y姐のマンション訪れご主人にご挨拶。Z嬢ウイグル産の白色石の菩薩蔵のペンダント頂く。昼食にと誘われ台中の新興開発区にある新光三越百貨近くの僑園大飯店といふ料理屋。Y氏妹のご主人と新竹の交通大学にて電子工学学ぶといふ息子君待っており会食。海鮮を主に刺身から鮫鰭、伊勢海老までかなりあっさりと所謂新感覚派料理。義弟氏の用意した葡萄酒はGrand CruでChateau di Padadisの93年とLa Croix di Crasseだとかの92年で葡萄酒音痴の余も美味いと唸るばかり。かなり食通の義弟氏にドリアンは好きか?と尋ねられ勿論と答えるとドリアンをば微塵切りの里芋で揚げたデザート供される。義弟氏曰くドリアンは刺身も美味いと。余は六、七年前に突然ドリアンの味覚に目ざめ而も山葵醤油でドリアン食す刺身をばこれは美味いと発案したが誰の賛同も得られずにいたが義弟氏がドリアンの刺身に言及し始めて同趣の人得る。夕方台中より巴士に乗り山に入り台湾島のほぼ中央、山間の盆地にある埔里に至る。名水の地で台湾の紹興酒の名産地。米40km、一時間余で粉もこの埔里の名物。紹興酒のほか何といふ産業もない場所ながら霧社や日月潭といった台湾の山間の各地結ぶ交通の要所にてそこそこの賑わい。市街一の規模の鎮寶大飯店といふホテルに投宿。晩に市街歩けばぼんやりと明るい繁華街。軒に出した籐椅子に坐り街をそぞろ歩く夕涼みの人多し。日本もかつて夏の宵はかの如し。夜市にはかなりの数の屋台あり(写真)様様な味覚に舌鼓打つ衆多し。甘味店にてかき氷など頬張る家族連れなど見れば余も幼き頃に商売終った両親に連れられ銭湯の帰り、こうした晩宵の繁華街の路地裏、芸者上がりの女将の業む梅園などといふ粋な甘味屋で夏はかき氷など食した昔を髣髴。そうした生活味の残る台湾に憬れ。胡國雄古早麺なる埔里にて馳名の老舗にて切仔麺、切仔米粉と魯肉飯食す。二更に弱い地震あり。香港暮しで自身に慣れぬ身にはかなり驚く。
▼先日の新聞。香港尖沙咀の日式料理屋「ひびき」が店に東郷平八郎君の漢詩だかを店に飾り観光協会が何人かの旅行者がそれに不快感感じたと懸念表明し或る新聞が一面トップでそれを取り上げる。店は新聞報道ですぐさま東郷平八郎の大日本帝国の運命は来たる一戦にあり、といった文句のこの額、この店の香港人経営者が他の額と一緒に日本で蚤の市で購ったもの、を外したそうな。日本の大陸侵掠に関する歴史認識はあるが店がとくに意図なく掲げた額一つで観光協会が懸念表明し新聞が躁ぐことに経営者も疑問の念。

八月七日(土)快晴。朝から旅行の準備。実に十五年ぶりにリュック背負っての旅にリュックへの荷物詰めもまた楽し。的士自動車雇い香港站。Z嬢香港站での搭乗手続の間に銀行に行きT/C作るが小一時間要し香港站に戻ると香港発が二十分早い便への変更となり十二時の機場快線に飛乗り十二時半に空港到着し出国手続き潜りBurger Kingで快餐済ませ十二時五十分のキャセイパシフィックCX564便にて一路台北。実に七年ぶりの台湾。九七年秋に市村羽左衛門さんの台北高雄歌舞伎公演あり半年前まで香港の日本総領事館で領事部長であったT氏に誘われ高雄に飛び一泊で芝居見物。大橘〜!と声掛けさせていただき羽左右衛門丈亡くなった今では懐かしき貴重なる思い出。八年ぶりかの台北も快晴。ホテルのリムジンはベンツ。建設途中の新幹線の架線潜り台北市街に入り台北圓山大飯店に投宿。「なぜ圓山大飯店か?」と笑われるほど「あんまり」なホテルながら廿年前のバックパッカーの頃に北京では北京飯店と台北のこのホテル眺め「いつかは泊ろう」と心に誓い今になってその当時の希望実現といふだけの理由。それにしても恥ずかしくなるほど派手。個人で直接予約していた為か高級客房(Deluxe)の予約で商務套房(Suite)にアップグレードされる幸運。部屋面積が二十八坪(台湾は日本統治から坪を用いる)とは92.4平米。唖然。夕方苛しい陽差しのなか剣潭まで歩きMRTに初めて乗り圓山。台北孔子廟に参る。孔堂に「有教無類」といふ蒋中正の揮毫の額あり。大龍洞保安宮に参拝。保安宮は医術の神・保生大帝祀る。保生大帝は本名・呉韋本といふ十世紀の福建省泉州生れの名医。Z嬢の発案にて病身にある余の父のために参拝し護守札を頂く。MRTで台大医院。新公園(今では改名され整備され二二八記念公園だが)からタクシーで信義路永康街。永康街といへば上海小龍包の鼎泰豊で日本からも観光客が必ず来る店。余は香港にも支店あるこの鼎泰豊これまで一度も食したことなくこの機会にと整理券貰えば小一時間待ちとのことで混雑する店の前に佇むのも嫌で東門餃子館にて台湾麦酒で喉を潤し秀逸なる餃子食し鼎泰豊に戻るがまだ待ちで隣家の金石堂書店に立読み。金石堂は台湾で普及の文化空間型の喫茶など設けた書店として成功し各地に支店あり。書店の中から鼎泰豊の整理券番号の表示見えるのが嬉しい(笑)。曽秀萍『孤臣・薜子・台北人』といふ白先勇研究書購ふ。鼎泰豊にて小龍包食す。小一時間待って小龍包だけではとても勿体なかろうが東門で餃子食し本屋で書籍漁りしていれば待ち時間などあってないようなもの。更に永康牛肉麺店にて牛肉麺食す。いずれも少量とはいへ三軒梯子。コンビニで鳳梨のアイスキャンディー購えば流石に台湾で鳳梨味も美味至極。タクシーにてホテルに戻る。部屋からの夜景も綺麗。NHKのBSで蹴球の日中決勝戦放送あり。蹴球の前半と後半それぞれ何分なのかもわからぬ余の珍しき観戦。日本優勝。日本は強いし中国も日本に勝つこと目標にまた頑張ればよし。いろいろな意味で好敵手となること。中国にとっての日本とは何か、日本の存在が中国に与える影響などいろいろ考える処あり。

八月六日(金)終日、雨。昼まえに豪雨あり。ここ二三週間読切れずずっと持歩いていた新聞の切抜き旅行前にFCCのバーで一気に読む。故に本日の日剰の記述に▼多し。最近流行のBlogだか使えばかなり記述の内容も整理され、何より読み易いのだろう、とわかっていても、いろいろなサイトがそのブログだかで体裁よく読みやすく読手にフレンドリーになっている時代に趨勢に敢て逆行し、全部読むことを強制する(笑)この記載続けるばかり。自分でも読みづたいのだが……。灣仔詩藝戯院にて『十七歳的天空』といふ台湾映画看る。シンガポールで上映禁止と多少話題になるが、筋は十七歳の田舎少年(楊祐寧)が夏に台北に恋人(=同性)を探しに出てくる物語。初めての性体験は愛する恋人と願ふが台北の男色社会にかの如き純愛もなく漸く見つけた彼(Duncan)とはすぐに破局、で最後は幸せに、とありきたりの青春物。監督は若干二十三歳の陳映蓉で話題になるほどの演出乏しく喜劇といふわりに笑えず中途半端。楊祐寧と同じ田舎出身の青年演じる金勤の好演のみ特筆か。この金勤と楊祐寧が台湾の東森テレビで昨年放映され好評得た白先勇(原作)によるテレビドラマ<薜子>に脇役で共演と後でSCMPの記事で識る。
MagnumのHenri Cartier-BVresson逝去。享年九十五歳。ライカ。
▼気になる数字いくつか。
 香港市民の政党満足度調査で親中派御用政党民建聯は不満78%と壊滅的。自由党が満足と不満足が五分五分なのは予想できるが、民主党が不満48に対して満足52、何といっても人気は民主派弁護士らの45條關注組で満足度78%とダントツ。民主派が過半数占めることに極力支持が19%、支持が39%で過半数じゅうぶんに越える58%が民主派の躍進支持。(香港バプティスト大学の世論調査結果)
 香港人のファーストフード(快餐)好き。肥満の要因といわれるが香港で快餐の売上げは年間110億ドル(1540億円)。月平均に6.9回快餐食し、調査対象の三割が月14回、一割余は月21.5回とほぼ毎日一回は快餐。人気の快餐の一位は麦当労、二位が大家樂、続いて美心快餐、大快活、ケンチキ、Delifranceと続く。香港人がすらりと痩せているのはお茶の所為、プーアル茶が脂質流し落すなどといふのは迷信(笑)。豊かになれば太るだけ。殊に深刻なのは肥満児。朝からカップヌードルだのスナック歌詞頬張りながら通学する肥満児ら多し。子供の食生活関知できぬ親、学校にいけば公立学校でも構内にスナック菓子だの清涼飲料水売る売店あり。フランスではこの9月から公立学校内の売店での菓子ジュース類の販売中止決定とか。(本日の新聞各紙)
 Frank Ching氏がこの四半世紀の中国の経済成長の結果から人口問題についていくつか警告。まず男女比。出生率で見ると世界的には男子105に対して女子100に対して(女性の寿命が長いのだから男が多少多いくらいは正常)中国は女子100に対して男子117と不均衡で広東省に至っては男子の比率は130に至る。故意に女子が間引きされたか出生登録されておらぬか一人っ子政策の結果。この数字のみ信ずれば2020年には三、四千万の男性が結婚したくてもできぬ状況。女性にとっても「不足」から誘拐やレイプ、買春強制など生む悲劇。また先進国でなら「自然」現象である少子化が国家の政策として実施された結果、経済成長中に社会の老齢化進み労働力不足もあり。
 中国の深刻なる電力不足だが、七月廿一日の信報・林行止専欄によれば(わかりやすい数字で説明すると)廿年前の家庭用冷蔵庫の普及率7%が03年は75%、テレビは17%から86%、冷房機の増加幅も五倍に達しており、これに沿岸州中心に工業用電気量の莫大な増加あり。この電力需要の伸びは今年が昨年比で12%増なのだが電力供給は9%の伸びに逗まり単純でも3%の不足。しかも発電所すべてが順調に稼働していて、の話。而も火力発電では石油が価格上昇やマラッカ海峡封鎖など国際状況の変化あれば今後の石油輸入にリスクもあり、と林行止、ここで提案は日韓見習い原子力発電への転換。怖いもの感じずにはいられず。
 大手の監査法人会社の調査によると世界各国のビジネス管理職の外語理解能力で香港は100%とトップ。シンガポールや欧州各国が9割台で続くが英国、豪州などの英語圏は英語に助けられ外語理解力三割台と乏しく日本は27%と惨澹たる数字。
▼蔡瀾が五日の蘋果日報連載の随筆で日本の全国紙の広告を紹介。第一面の広告が香港のように不動産でなく新刊書籍から始り出版社が数頁続き化粧品、車と頁進むにつれ広告の面積一頁大まで大きくなりようやく不動産。不動産の扱いの香港と日本の差。……と延々社会面までどういった広告が多いかを述べ(随筆の文字数稼ぎとは敢て言ふまひ)結論としてどの商品も殆どが中年から老年の購買力消費力ある層対象にしていること=日本社会の老化を指摘。化粧品だけ若い女性対象の広告なのは女性はみんな自分は年をとらぬと思っているから……とこれが蔡瀾の蔡瀾らしい随筆。笑ふ。
▼明晩北京に開催の蹴球アジア大会の日本対中国の決勝戦につき中共英字紙China Dailyが“Football pitch is not the place for politics”と題する社説。一見、国内の熱狂的中国チーム応援団に自制求めるような題だが熟読すべき内容。
Football pitch is not the place for politics text by Xiao Zhi  Updated: 2004-08-06 08:39
What will tomorrow's Asian Cup final be like?
A classic match between archrivals China and Japan. A close competition between two of the continent's top teams. And a splendid football showcase for aficionados of "the beautiful game."
It will be all of these.
In the eyes of some Japanese politicians and media, however, it is also more of a political event than a match. They have collaborated to equate some Chinese fans' booing of the Japanese team in earlier matches to mean all Chinese supporters are hostile towards the visitors.
This is far from the truth.
The Asian Cup is the highest-profile soccer tournament China has hosted in recent years. Chinese fans, as hosts, highly value the opportunity and warmly greeted all teams. Their ardour toward the game has won praise from Asian Football Confederation officials.
International soccer matches often witness undesirable behaviour by a minority of fans, and the vast majority of Chinese do not condone such actions. We want only pure and clean sport.
Some Japanese officials and media have stated that sports should not be linked with politics.
Chinese fans as a whole are not mixing politics with sports despite the small number of fans who failed to behave themselves.
On the contrary, by magnifying the issue, the Japanese side risks "bringing political thinking into sports."
Some Japanese officials on Wednesday even urged their government to make a stronger protest and suggested a boycott of the 2008 Olympics in Beijing, according to Reuters.
A Japanese politician, ignorant of our efforts to improve Sino-Japanese relations, even accused China's education system of spreading anti-Japanese sentiment.
Such irresponsible remarks have reportedly stirred up anti-Chinese feelings in Japan.
China has been making efforts to preach a positive approach to bilateral relations.
The government, the Cup organization committee and Chinese fans have strived to host an orderly tournament free of political overtones.
In order not to let the situation exert further negative influence on bilateral ties, both parties should demonstrate reason and restraint.
と、結局は一部の日本の政治家やマスコミがスポーツに政治持込み対立感情煽っている、と指摘。実際には確かに中国チーム応援なのか反日活動なのかわからぬし、言論だの抑圧された社会で反日がガス抜きに利用されている、といふ分析もあり、結局は中国の露骨な大国意識と言うことも可。だが日本政府が中国政府に対して必要以上にこの決勝戦について環境に懸念表明し而も観客から在北京邦人の安全保護まで対策講じる程。これについて築地のH君より(以下引用)H君髣髴するは京都大学の光華寮繞る顛末。戦後、台湾の中華民国がこの寮の所有権をば有し中共側は七二年の日中国交回復でこの寮の明け渡し求めたが裁判判決は中共側全面敗で中共は納得せず日本政府に抗議。だが当然のことながら「三権分立」という建前ある以上、(少なくともまだ非小泉的良識あった当時の自民党政権は政府が裁判の結果左右できず、反対に中国は「裁判所が独立してるといっても政府機関であることにはかわりないでしょう。どうして総理大臣が指示を出せぬ」という感想だろうか、ブルジョア自由主義国家の三権分立というシステムを理解できなかった……だが三十年で今回は「たかが」蹴球で日本政府が中共に正式に「善処」を求めてしまったこと。中国政府は日本側の要請受けて沈静化に乗出したからまだいいようなものの「あれは一部のフーリガンがやってることですからね、政府に責任をといわれても困りますよ」と言われたら(上述のChina Dailyの主張にはこれが散見される)何と言返すのか?とH君。「しかしフーリガンといっても国民でしょう。どうして政府が対処できないんですか」といふのが今の政府の知的レベル。この知力の戦いとなると今後は中国政府は今後、2ちゃんねるとか公園の便所の落書きとか石原慎太郎の著書とか至る処にある反中国的な言論すべてに対して「日本政府の善処」を求めるも可。安部チャン、中川チャンとか次代担ふ政治家先生らはこれに渡り合ふ覚悟ありやなしや。剰へ「中国の教育が問題」」と外務大臣がそれを言ったらお終いを口にしてしまった「真紀子大臣いなかったら今のアタシはない」川口女史。一国の外相としてどう責任とれるのだろうか(とれるはずもないが)。中国の治安といふ純「内政問題」に口出しする前例をつくった以上、靖国参拝にガタガタ言うのは内政干渉とか、二度と言えなくなるのでは?とH君。御意。今回のこの蹴球のことで「スポーツに政治を持込むな」などといふ言葉ぢたいが開玩笑。「スポーツは政治」なのが事実。今さらアテナイvsスパルタの故事持出すもなく競ふスポーツは戦争の代替品であり政治が絡むのはオリンピックみれば明らかな事実。運動する市民は本人と観衆は純粋にスポーツ楽しむが背景は国家のそれに用いられる。市民は無意識のうちに愛国主義の虜となりスポーツ選手は「国会にスポーツマンシップを!」などと意味不明の台詞で保守与党の票集め装置として代議士になり国会での多数決マシンとして機能する。ところで、では競わぬスポーツは平和かといふと実はそうでもなし。山歩きだの郊外散歩だの「健全な」リクレーションが実は産業革命後の英国で労働者の余暇=ガス抜きであり、この健全な山歩きだの青少年野外活動をば政治に利用したのがナチスの独逸。つまり硬軟いずれも側からスポーツは政治装置となる事実。ゆえに何が唯一可能かといえば勝手に走り勝手に歩くこと。それだけ。……で話は戻るが明日の北京での蹴球だが、今日の明日となっては如何様にも対処しようないが、最も最善策は「台湾での開催」であろう!。絶対にこれ。北京でやれば反日、日本でも首都は支那人蔑視の都知事では開催も儘ならぬ。で第三国。台湾なら恐らく、反中共感情と親日気分で日本応援と、否やはり台湾とて中国は中国と中国のアイデンティティ勃興で中国応援で応援が五分五分になるも易し。日本側の応援団席に李登輝が!(笑)、それに対して連宋陣営は中国側に!とか。……半分冗談だがなぜ余がこれ想像したかといえば経済紙信報で林行止専欄が今回のこの日中決勝戦に対して“The Soccer War”iRyszard Kapussinski, Vintage Book, 1992)といふ書籍紹介し1969年のエルサルバドルとホンジュラスの所謂「サッカー戦争」を語り中立国墨西哥での開催が無難であることを述べた故。現状では中国の大国意識と反日感情、日本の中国蔑視を考えれば、中国で日本向え国家対抗のスポーツで決勝戦して問題がおきぬ筈なし。起きぬとすれば中国政府のスポーツへの干渉功を奏したからであり日本がそれを要請したからこそ。結局、国家間の政治以外の何ものでもなし。いくつか読んだこのアジア大会日中決勝戦に関する記述で興味深きは信報の劉健威氏の「専業的日本人」といふもの。これまでの世界大会での実績だの選手の力量など日本が勝っているのは客観的な事実(勝敗は別)。また試合前の入念な競技会場の下見(交替選手が更衣室から要する距離と時間から更衣室ロッカーの大きさまで!)などそういった専門性をば中国は見習うべき、と。中国に何が足らぬのかに敢て減給の劉氏。
▼スポーツといへば雅典でのオリンピック開催近づく。五日のヘラルドトビューン紙二面に“For Olympics, Greeks already lose one contest”といふ記事あり(Alan Riding)何のことかと思えば十九世紀にエルギン卿により希臘の神殿から英国に搬ばれ大英博物館に据えられる所謂“Elgin marbles”について希臘は今回の雅典オリンピック開催に合わせ、またEU加盟もあり、英国からのこれら美術の秘宝の返還に臨んだが、英国側は未だ雅典への返還と保管は時期尚早と応じず、オリンピック開催以降も交渉続くは必至。オリンピック開催はそれ相応の大国としての評価であり(六八年の経済黄金期の墨西哥を看よ)それ相応の国際的transactionがあるべきと考える希臘側と旧大国英国の意地か。
▼昨日の東莞市についていくつか覚書き。まずは蔡瀾(七月二十日の蘋果日報)。仕事で東莞に参った蔡瀾氏、ホテルまで車で一時間と聞かされ東莞の站で列車下りたのに更に一時間とは何事か?と地元の者に尋ねれば「蔡瀾氏が列車下りたのは東莞でも常平鎮。これから向う莞城(昨日、余が訪れたのは此処)はまだ先。もし次回、連絡船で虎門に来てくれればまだ近い」と説明される。東莞に興味もった蔡瀾氏が尋ねれば、東莞は三十三個の「鎮」あり。人口は百五十六万人と言われ「この規模の割には少ない」と指摘すれば「その百五十六万は地元人口で外来(所謂「女工」ら)が五百万人と。その他に香港人と台湾人が七十万人くらいずつ東莞で投資し工場作っていると。で東莞は(数日前のヘラルドトリビューン紙によると)この廿年の経済成長は平均23%で都市開発と経済成長はまだ逗まる処知らず技術研究都市開発計画では三十万人のエンジニアや研究員の移入をば画策とか。東莞市の幹部は将来の目標は人口一千万人で、問題は電力と水の供給。一千万人といふのは深セン経済特区合わせれば二千万人近い経済圏であり当然、こうなると広東省から独立した北京上海天津重慶に次ぐ直轄市となることが目標は当然。直轄市となれば大幅な権限が国から授けられ広東省の一都市とは大違い。当然、広東省にしてみれば海南島が省に格上げされた以上のデメリットで当然、東莞の深センと合併での直轄市化など認められる筈もなし。近い将来シビアな問題となるはず。
▼七月二十九日の蘋果日報で陶傑氏紹介するは広州の文徳路小学校が埼玉県の武蔵台小学校訪問した夏期交流について。日本政府が日中交流促進目指し中国の小中学校の児童生徒について渡航査証の免除政策始めた一環で、この文徳路小学は英語教育など推進する所謂「貴族」国際学校。児童の保護者はそれじゃ外資企業のエリートかとさにあらず実は珠江デルタの海鮮料理屋の社長のボンかサウナだのナイトクラブ経営者の子供が殆ど、と陶傑氏らしい皮肉。でその夏期交流だが、校長の話から日本側は「中国からよくいらっしゃいました。みなさんを歓迎します。これからの日中友好が末永く……」と至って簡単なのに対して中国側校長は文徳路小学の光栄なる歴史から始り欧米の親善提携学校の紹介までかなりの内容。児童も日本側が学校の給食だの好きな食べ物、学校の遊技施設やスポーツ活動の紹介に終ったのに対して、文徳路小は日中友好を唐朝の時代から語り始め広州の歴史に文物紹介、広州に最近建設された環状高速道路や飛行場などの紹介にまで及び陶傑氏曰く外国資本の中国への投資紹介の如し、と。日本の小学生は聞いても飽きる話で、その内容はまるで中共の広東省委員会書記の発言。このお決りの文句の形式主義。陶傑氏比較するは例えば英国に夏期交流に送出した子供との電話での会話。子供が心配で親が電話しても毎晩の電話に子供の対応は連日短くなるばかりで“I'm fine”で終り。なぜこうなるか?は心配することでなく英国の教育はまず教えることは「内容のない無駄話はしない」ということ、と(笑)
▼地元歴史家の畏友・高添毅君(高添・強といふ日本人に非ず、高・添強)先月末の信報文化欄に香港歴史についての記述「早期城市発展的困局」あり、読んで目から鱗は、英国統治の香港は早期は英国人は「ペストだの疫病や不衛生な環境を避けるため」ミッドレベルや山頂に住ったと言われているが、明らかな問題は当時の英国植民地政府は香港占領は軍事目的であり此処での通称活動に大きな期待などなく狭い平地は軍港や軍営として利用するため占領し商人蔑ろにされ為方無く不便なミッドレベルや山頂に住んだ、と。また土地の不足はまず軍地の需要満たすためで今日の九龍公園や香港公園がかつての軍営地でそれが後に公園として解放されたのも、この英国の統治初期の方針の明確な証左と。御意。
▼先月からの米国大統領選挙での民主党の候補者選定見ていると、いくつかの新聞でも指摘されるは(例えば紐育タイムズの“Who is John Kerry? Many want to know”26 July)、結局「反ブッシュ」で結束しているものの最大の問題はJohn Kerryといふ候補者がいったいどういう人格なのか実は民主党支持の誰もわからぬ、ということ。ブッシュはバカである、という明白さに比べ、ジョン=ケリーがよくわからぬ。民主党には勿論、12年前に田舎の小州の州知事をば突然の推挙で大統領に推しクリントンは実際に成功した、といふ実績もあり。だがクリントン君の明瞭さにどこか欠けるケリー候補に「反ブッシュ」で応援していてもどこか「???」で実は副大統領候補を大統領候補にすべきだったのでは?とかクリントン夫人であるべき、とか、民主党優勢が伝えられる中でケリー候補が当選しても4年後の続任はないのではないか?→しかし大きな問題ない場合に現役大統領を降ろすことができるのか?と「反ブッシュ」の影に大きな疑問がいくつも存在。前回の選挙での現大統領当選の「いかさま」といい、この不明瞭だが「盛上がる」ケリー応援といい、米国は不思議な民主主義の国。

八月五日(木)曇り時々小雨あり。広東省東莞訪れる機会あり参観団に参加。香港島より西海底隧道潜り青衣島抜け汀九橋渡り大欖隧道潜ったバスは新界の深いところ走り落馬州の境界まで四十分ほど。落馬州といふとかつて「竹の窓帷」の向こうの共産中国見渡す展望台の印象だが現実にはかつて荒涼とせし丘陵が今ではビル建並ぶ都市の光景。寧ろ香港側が米埔自然保護区に接するこの一帯の開発避けて田舎の風景。落馬州の境界は香港側でバスを降り香港出境し運転手が乗ったまま出境手続き済ませたバスがImmigrationの先で待っており、それに乗り数百メートルで境界をば越えて再びバス降りて中国の入境手続き済ませ……と面倒だが二十分ほど。中国に入り(実に一年半ぶりか)深センから廣州結ぶ高速道路の高架道に入ればいきなり貨物自動車高速から身を乗出し貨物車と接触のバンは横転の事故現場(写真)。東莞は深センをぐるりと囲む広域都市にてかつては誰も知らぬこの場所も今では広東省で最も大規模なる工業地域にて工場街続きその処処に商店など林立の市街地あり。本日の訪問先はマブチモーター莞城協益電子廠(広東第三工場)。小型モーターで世界中のシェアの過半数を占めるマブチモーターこの広東省一帯6工場で三万五千人の工員雇用し年間十一億個の小型モーター生産。これが現在国内生産ゼロのマ社の生産の六割といふ主力生産拠点。そのうちこの広東第三工場は一万一千人で四億個。つまり日に百五十万個ほどの生産続ける。香港への進出はかなり早く1964年。これは当時香港が世界の玩具生産の七割!占め小型モーターの需要高く日本からの輸出を現地生産に。香港の産業構造の変化や人件費の高騰などあり86年より広東省での生産に意向。会社側の説明によれば「コストが安いから中国か」と思われるのは遺憾でありマブチの求める高水準の生産が十分な生産効率で維持できるだけの労働力が確保できるのがこの工場の存在意義と。工場内見学させていただくが確かに数千人の所謂田舎出の「女工」が黙々とかなりの効率で就業している様に圧倒される。マブチのモーターといふとどうも玩具だのの印象が強いが印刷機からCD、MD、車のドアロックまで広汎な分野で利用されており携帯にも、と言われ携帯電話のどこにモーターがあるのかと思えば振動機能がそれ。工場で立派な日本食の弁当頂く。午後は同じ東莞でも珠江に面した虎門に向かふ。虎門は阿片戦争で有名な林則徐が阿片焼いて中国からの阿片一掃に着手した記念すべき場所でこの虎門の砲台より英国などの艦隊砲撃した場所。各企業の工場とその工業従事者の住宅と商店街がそれもここ十年でできた殺風景な市街が延々と続く東莞にあってこの虎門だけは歴史に名を残す古い町でその街の佇まいにどこか安堵。まず虎門の阿片戦争博物館のうち虎門林則徐記念館訪れる。清朝末期の中国が外国列強に植民地化される中でこの阿片戦争が中国立上がる契機になった記念すべき場所なわけで「愛国主義基地」の看板ずらり(写真)。此処が愛国主義教育の拠点になるのはわかるが、なぜ各地の大学だの教育機関がそれぞれ此処を愛国主義拠点にしている看板を此処に掲げねばならぬのか。結局「ウチの学校は政府の指導下こうして愛国教育に力を入れています」といふ意思表示。その愛国主義拠点の記念館もその傍らは、珠江に流れ出ずる、市街流れる川の汚染甚だしく悪臭立ちこめる。ゴミも川に投棄(写真)。かつての東京の新川などこれよりひどかった、と同行のA氏。珠江の河口にかかる虎門大橋(写真)の真下が威遠砲台旧祉。英国艦隊に向けた砲台の跡地。この河口の海岸に海戦博物館あり。内容は虎門林則徐記念館と同じものを新しく豪華に見せるだけだが場所は珠江河口の整備された広大な敷地にあり高速道路から降りてすぐ、といふのも実はここが江沢民君の東莞の開発視察に当てて作られた施設だからであり虎門大橋にも他あちこちに江沢民の揮毫多し。厳密には東莞のこの工業都市化も江沢民といふより登β小平の施工だが……。この博物館の展示室に一角に「反毒」展示場あり。麻薬について国家が麻薬をば撲滅しようと麻薬の害毒を展示し国民に啓蒙教育。阿片、コカイン、覚醒剤……でとってつけたように大麻。かつての美人女優が麻薬中毒で脳までやられ最後は自害する様だの過度の麻薬摂取での発作死など生々しき写真。どうもこの写真展示といふのは写真見せられると「なんと虐い」と思うのだが問題は写真にあるキャプションを信じるわけで、もしかすると単に心臓発作でショック死した者の写真に「麻薬の過度摂取でのショック死」と書かれるとそう思うのが写真の怖さ。麻薬被害の防止を否定するわけではないが……。展示の白眉はマネキン人形つかった「麻薬の悲劇」の現場(写真)。麻薬に溺れ働きもせぬ自棄の夫と、子供抱え危惧する妻の図。夫の中毒ぶりも妻の怯えも表情がやけにリアル。このほか市街の裏町で麻薬の売買する若者らの再現人形もあり(館内写真撮影禁止で警備員の目を盗んで撮影したがブレて失敗)。麻薬についてかなり詳細にわたり原料から製造、その害まで解説あるが、当然、麻薬密輸で財をなした人の出世話だの、大麻一服してリラックス中の中島らも氏の写真といった展示はない。東莞などこうして実際に市街目にするのは初めてのこと。予想以上に工業都市化著しくここに数百万人の「女工」が中国各地より集められ中国経済成長の様。高速で九十分ほどで深セン、四十分で香港島へと戻る。
▼朝日新聞に九月の香港立法会選挙の記事あり。かなり詳細に選挙枠まで解説あり。記事によると9月の立法会選挙での民主派有利の情勢で、中国側は「これまで香港政治への露骨な介入は控えてきたが」←そんなことない「今回は中国に批判的な野党が過半数を取らないよう」←おいおい「大量の情報要員を送り込み、情報の分析を急いでいるとみられる」って、これぢゃB級スパイ映画(笑)。こんなこと香港のどの新聞も書いてないような気が……。

八月四日(水)朝そこそこ晴れ。午後曇り。夕方から晴れるが晩に驟雨と賑やかな天気。『月は無慈悲な』少し読み夕方灣仔より銅鑼灣に遊ぶ。灣仔の新中華刀剪廠にてZwillingの旅行携帯用の調爪セット購ふ。なぜ爪の手入れに旅行用が必要なのか、と疑問に思ひもするのは旅行終ってから爪の手入れなどすれば好し旅行中など爪切り一つあれば良かろうものをと思うが旅行中だからこそ急がしからぬ時間があり貴重な晩餐があり、だからこそ爪の手入れの時間もあればその必要もありと余も老いて漸く理解。晩にZ嬢のリュック購入につきリュック選定につき合ふ。北角の寿司加藤。中トロと小鰭が美味。食後に八海山の極上酒勧めらお言葉に甘える。美味。
HSBCの今年上半期の純益がUS$63億4600万とか。この旧来は香港上海匯豐銀行がHSBCをば正式名称にして地方色払拭し世界銀行化して十年にも至らずこの一人勝ち。噂に断えぬは日本の金融機関の買収で、UFJ銀行が三菱になるのか三井住友になるのかで結局は膠着状態になれば下手するとHSBCがUFJ買収の漁夫の利をば得ることも可能性として小さくもなし。昨日の信報社説はこの業績発表受けて香港では経済甦生の楽観広まるがHSBC今や世界有数の国際銀行であり実際に香港の営業での純益など二割余で安易な楽観に根拠なし、と指摘。
▼日本でいえばJRの西瓜カードだが香港の全公共交通機関にて利用可なばかりかコンビニなど小口現金の代替にも普及したオクトパスカード。旅行者対象にHK$70の使い捨てカード発行。その理由は現行のカードではHK$100のうちHK$50が利用のデポジットで残りHK$50がカードのコストとされているが実際にはカードの製作にHK$30かかる。つまり観光客など数日の利用で例えばHK$30だけの利用の場合にHK$50は未使用で返金され残りHK$50は交通機関会社の利益となる筈がHK$30がカード製作のコストとした場合に実際に利用できるのはHK$20の筈がHK$30乗られてしまうとHK$10の損。こうしたカード運営のコストがかかるにも係らず毎月20万枚のカードが返却され減収が事実。実際にはカード製作、管理及び公共交通機関会社への運賃分支払いなど考慮するとHK$600使われてようやく採算分岐点。それ以下でのカード利用と返金では損益となるそうな。
▼築地のH君が歌舞伎の福助と林真理子の対談読めば福助の息子の児太郎が十代そこそこだそうだが大和屋に芝居教わる修行中だそうで大和屋と添寝とか。それを福助が語れば林真理子もいい話と感動してみせ、この梨園の話のじつに芸道らしき様、これも芸の肥しか。これも成駒屋といふ東都の女形の家としてはゆくゆくは児太郎に八代目歌右衛門を継がせるための英才教育か。福助、本気かもしれません、とH君。対談によれば福助は児太郎であった少年時代歌舞伎が嫌いで仕方なかったが高校時代に歌右衛門の道成寺を見て電撃が走り高校を中退して役者に専心することを決意。それに対して父(芝翫)は高校くらいは出た方がと消極的だったが叔父の大成駒(歌右衛門)に挨拶に行けば一言「児太郎を名乗ってる以上、当然でしょうね」と。福助(児太郎)はその叔父の言葉に小さいときからもっと本気で勉強しておけばよかったと後悔したかもとH君。それと対照的に兄の橋之助は小さい時分から役者小僧。中学出て役者稼業一筋。芸道で芝居成就すれば学歴など要らず。
▼多摩のD君によれば西多摩市で住基ネット集団訴訟あり(こちら)。住基ネットの住民票コードが人格権やプライバシー侵害に当たるとして西東京市民約100人が同市を相手取り提訴。国や都道府県に住基ネットの運用差し止めなどを求める訴訟は全国各地であれど市町村に慰謝料を請求する大規模な訴訟は初。香港は香港IDの強制あり。プライバシーなど実際にはないようなもの。この番号一つで本人の所得から勤務先、納税状況から居住権の詳細、図書の貸出し、指紋まで情報入手可。恐ろしき時代なり。

八月三日(火)快晴。Z嬢と大嶼山(ランタオ島)に遊ぶ。高速フェリーに乗らず連絡船で梅窩。長沙下村の海岸。南アフリカ料理のThe Stoepも平日は閑散とし店の前の海岸の木陰に憩ふ。羊肉焼やジャガイモ、鰯焼など食し焼きたてのパンも美味。白葡萄酒イタリアのPinot Grigioを飲み微睡む。ブラッドベリの『華氏451度』読む。早川文庫のこの和訳の文章(宇野利泰訳)実に良し。夕方バスで梅窩に戻り連絡船を待ち波止場のパブでBoddingtons飲む。乗船し二階の後部甲板席に坐ればランタオ島の背景に強烈な夕日を浴びて『華氏』読了。四半世紀ぶりの再読。テレビに象徴される映像メディア、余自身は四半世紀前はテレビ漬けも今では日にニュース番組を三十分見る程度。テレビ映像は恐ろしくわかりやすく楽しく、だからこそあまりに容易に受入れてしまい書籍のように読返したりの反芻もなく怖いところあり。あとがき(福島正実)読み華氏451度が摂氏220度で紙が引火で焼ける温度だと今になって識る。1967年に日本で封切りとなったこの作品のフランソワ=トリフォー監督による映画も見ておらず。書籍、そして書籍にもまして記憶の大切さ。記憶が大切だが記憶できぬから綴ることの大切さ。忘却を惧れれば書き続けるしかなかろう、と改めて日剰の記述をばこれも大切か、と感じ入る。ところで物語のなかでオルテガ・イ・ガゼットがさらりと語られるが『大衆の反逆』も実は読んでおらぬこと今になって思い起しMcLuhanの“The Gutenberg Galaxy”も書棚で読まれるを長年「待ち」の状態にあり余生でどれだけの書籍読めるのかなどと夕日眺めつつ。船が香港島に戻れば西環に中聯辧の高層ビルあり(写真)。周囲のビルに囲まれ陸地より意外と目立たぬ中国政府の中央政府駐香港連絡弁公室は文字通り中国政府の香港特区の出先機関。返還前は新華社がこの役担ったが返還後ここに総部移り最近は対中央の抗議デモなど目的地は此処。それにしてもダサい設計。上海とかに多い(上海はあのテのビルの乱立と上海タワーのダサさで埔東の景観台無しだが)いかにも中国の未来主義っぽさ。なぜビルの頂上に円球をば戴せるのか。手塚治虫の漫画の影響だろうか。中環の超高層ビルからかなり距離が離れ相対的に見られぬだけ恥さらさず。すっかり快晴に恵まれ太陽の光と景色堪能の一日。中環の波止場より帰宅のバスに乗れば尖沙咀のビルの向うに没む夕日は大きくバスの二階席が橙色に染まるほど。

八月初二(月)快晴。地下鉄道東涌線にて東涌。新大嶼山巴士(幾らかの株式有するが何ら恩恵もなし)にて峠越え。一人で事故でもあれば危険かと思いつつ二東山(Sun Set Peak)から流れる渓流の澤登り楽しむ。岩で滑って久し振りに膝擦剥き肘など突傷。澤を引返し海岸に下りてハインライン『月は無慈悲な夜の女王』少し読み微睡む。午後遅く長沙下村の海岸に面した店屋にて海岸の木陰の卓にて星州米粉食し比律賓産のサンミゲルの瓶麦酒二本。巴士は梅窩行きが来れば連絡船、反対方向に東涌行きが来れば地下鉄道と待てば東涌行き参り地下鉄にて市街に戻る。ジム。日も明るいうちに、といふより午後五時過ぎて強烈なる陽差し、帰宅。ドライマティーニ飲みつつアンナー=ビルスマのチェロ聴いておればこの快晴ならさもありなむの美しき夕暮(写真)。感嘆。晩にZ嬢とお好み焼する。
▼SCMP紙に転載の紐育タイムズの横綱朝青龍についての記事。記事は横綱としての品位の欠如に非難の声あり……と、何に驚いたかといへばTakasago Stableとあり「相撲部屋」といふのは英語でstableと呼ばれていること。競馬の厩舎と同じとは。今日まで知らず。確かに親方がたくさんの弟子抱える点では調教師と同じかも知れぬが。stableには「安定、穏定」の意味もあるが、これが「一カ所に留まり簡単には動かない」状態を指して、それが本来、自由に移動する牛馬をば駐め置く点で馬小屋や牛舎か、と勝手な想像。とすると相撲部屋も力士が部屋に寝泊りしてといふ点では確かにstableであるし、正月に勝手にモンゴルに帰省したりも許されぬか。
▼昨日中国人民解放軍建軍七十七周年記念の建軍節。石崗の軍営初めて一般開放しての三軍参観に三万人だか押寄せる。ふと思えば昨日西貢の山歩き中に香港国際空港へと離着陸の民間機がかなり南寄りのコースとっていた気がしたが、あれも石崗での空軍飛行機の離着陸の関係だったのか。この建軍節に民主党だの民主派立法議員など多数招かれ閲兵。今年に入り愛国論争などあり、結果的に北京より参った御用学者らの強烈な主張に民心は呆れるばかり。それへの反省で中国側もむやみに民主派をば敵対視せぬ姿勢みせ、民主派にしてみれば彼らの主張は香港の民主主義であり反国家的なる政策に非ずといふ姿勢の顕示とお互いに利もあり。それにしてもその思惑の具体的な場が軍行事とは何ともはや。参観の市民も勇壮なる人民解放軍のパレードに拍手喝采。六四の天安門事件追悼では市民殺戮の軍隊と罵られ八一の建軍節にては持て囃される軍隊。国家の意のまま命令通りに動く国家の武力。ふと気づいたがこの香港駐留軍、国家予算にて運営されているが香港は国税納めておらず、米軍に守られる日本と同じか。

八月朔日(日)快晴。先週の日曜に炎天下西湾にて途中終了せしトレイル練習の続き。朝八時に坑口の站に集合。O君、I君に実質的に我らのチーム四人目かI氏、それにH夫人とK氏が会社の同僚ら四名連れ十名。ミニバスで西貢。的士自動車雇い西湾亭。歩き始め三十分ほどで前回の西湾の茶屋に到着し此処からトレイルコース歩き始める。炎天下ながらhazeかからず遠景楽しむ(写真)。大浪の村の茶屋(茶屋)で茶屋裏手の廃屋がかつての大浪村の小学校だったことを草茂る校庭の錆びた鞦韆ブランコから識る。ここでK氏らと分れH夫人も赤徑の村の手前で逆方向から歩いてきた旦那H氏と落合ふ。昼前にトレイル第二段終えて持参の弁当で昼を済ませ午後第三段に入る。牛耳石山にまず上り峰上のキャンプ場にある許林茶屋にて豆腐花食す。画眉山より雷打山を巻いて鶏公山(399m)の頂に至り西沙路の峠に午後三時半頃到着。距離20余kmで丁度六時間。途中海抜0mより100から200mの峠越えをいくつか経て400mの高さの山に2つ登る高低差激しいコースだと思えばまずまずの時間。夕方の西貢に戻りDuke of Yorkにて麦酒にて涼をとり坑口経由にて帰宅。ビビムバ丼食す。真露と檸檬汁1:1でオンザロックが美味。

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