教育基本法の改「正」に反対〜! 反対はこちら。文部科学省の中教審答申はこちら。ちなみに文部科学省サイトには教育基本法の原文すらないのが事実。
文部科学省は他にも「英語が使える日本人」の育成のための行動計画……だって、ダサ〜!、英語が使えれば日本人でもアイヌ人でも朝鮮人でも何人でもよし。
 
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2000 年11月24日からおそらくあなたは 番目の閲覧者です。

   
三月三十一日(木)曇。昨晩遅くに石田衣良『娼年』読む。小一時間で読了。ふとしたきっかけで有閑マダム相手の買春始めた大学生(リョウ)の話だが主人公よか自虐的な同僚の少年のほうが興味深し。本日。昼に中環の陳成記でカレー牛南麺食す。中環の昼の飲食店混雑凄まじく昼時遅く外して正解。でもまだ混雑。Space Museumにてマレーシア映画『霧(Sanctuary)』(監督:Ho Yuhang)観る。今ひとつ捕らえ所わからぬ抽象的な生活片。会場の数少ない観衆に映画評論家佐藤忠男氏ご夫妻あり。上映と監督談義終わり会場出たところで佐藤氏ご夫妻に失礼承知でご挨拶。突然のことながら丁寧に応じていただきご夫妻からアジア映画事情など貴重な話暫しお話あり。この香港国際映画祭に続き開催されるシンガポールの同祭の話となる。今年はこのシンガポールの上映作品が香港よりかなり興味深し。シンガポールの映倫規定の厳しさもあるが興味深い背景についてお聞きする。晩遅く佐敦の上海好好小店に久しぶりに担々麺食す。日本語多少解す、開店の頃から働くオバサンおりちょっと退いたが案の定担々麺注文すると混雑する店で大声で「坦坦そば!」と応じられ恥ずかしく頷くと日本語で「辛い、いい?」と追い打ち。愛嬌かもしれぬが恥ずかしいかぎり。帰宅。一連の石田衣良モノ読了したので久々にジョン=ダワー『敗北を抱きしめて』読み続き。
▼今年の香港映画祭で香港の大通りに掲げられた籏のデザインは秀逸。見事な達筆で「香港国際電影節」と書かれた、これは芸人アンディ劉徳華氏によるもの。この御仁、香港芸能界のスターであり四十過ぎてもまだ永遠のアイドルだが何が凄いかといへば歌舞音曲だけにあらず、その教養とそして何よりもこの達筆。若い人でこれだけの書家もなかなか居るまい。

三月卅日(水)曇。寝心地佳き寝台にゆっくりと目覚め朝九時前にホテル向かいの路地の名も知らぬ蘭州拉麺店に牛肉刀削麺食す。何処にでもありがちな小さき店でいかにも西域顔の若い兄弟営む店なり。美味。ホテルに戻り入浴、読書と転寝。昼前にホテル出で東莞中心の莞城区に参ろうと路線バス待ったが東莞の東だの南だの市公共汽車総站だの市新興客運站だの行き先も様々でバスのなかには西安からの!東莞行きなんてバスまで走って来て結局タクシー拾ふ。ホテルのドアマン曰く外来者だと六十元くらいかと。実際には莞城区まで25kmほどでメーター制なら市内の渋滞なければ三十元もかかる筈もないが運転手は七十元ふっかける。莞城区の華僑大廈に着いて運転手は七十元と言い張るが「欲張っちゃいけないよ」と六十元握らせ笑顔で握手。午後三時の香港に戻るバスの切符を先に購い歩いて10分ほどの広東四大名園の一つとされる「可園」訪れる。背後に広がる広い湖水を望む狭い敷地を見事に使った庭園建築。市内を散策。見方によっては東莞水道と運河により豊かな古鎮。だが運河は水質汚濁と悪臭ひどく市街も(訪れる時間もないが)東城区やジャスコのある北のほうがにぎやかなようで市の中心部は何処か殺風景。食事する店も見あたらず。運河渡り東莞の「シテ島」にある華僑大廈の裏。古い南方建築の残る通りの名も知らぬ茶餐庁で遅めの昼食。排骨保仔飯など。午後三時のバスは新しい南域のホテルなどまわり四十分ほどして高速道路に入る。皇崗の境界でバス乗換え香港に入ってからは渋滞もなくPrince Edwardに戻る。京港ホテルの裏に皇崗行きの盛況なバス発着所あるとは今日まで全く知らず。MTRで中環。FCCで軽くパスタの夕餉。帰宅。雑事片付ける。
▼大陸の新聞も昔に比べるとそれなりに読める紙面となっており広州の代表紙であった羊城晩報が発行する『新快報』も読んでみると紙面充実(勿論、国内政治は除く)。1面トップが広州の酒場で朝日スーパードライ「封殺」とあり何かと思えば日本の教科書問題に抗議だとか。ちょうどこの新聞の発行七周年で記念刊あり広州の新潮流の特集など新広州人など何人も紹介し(畏友William登β達智もちゃっかり広州定住者)市の流行発信地紹介などモダン。

三月廿九日(火)曇。昨晩三時まで眠れず。燈下読書。朝六時半起床。Z嬢と午前十時にPrince Edwardのバス乗り場から東莞行きのバスに乗車。落馬州から皇崗の境界(高層ビルの火事かご覧の通り)抜けて深センから広深高速道路走り恰度二時間で東莞。大型バスに十数名の乗客の殆どが東莞(莞城区)行きの客で東莞(広域)市のうち厚街に参るのは余とZ嬢の二名のみ。東莞インターで高速道路降りたところで待ち受けの小型バスに移らされ数キロ戻り厚街に向かふ。シェラトンホテルに投宿。かつて日剰に詳述の通りZ嬢のマイレージ利用でキャセイとシェラトンの情報提供と責任に不備あり一旦はマイレージすら無駄にしかけたが宿泊可能となる。だが知人に東莞のシェラトンに宿泊した人誰もおらず存在も地図になくシェラトンのサイトの案内も少なくZ嬢は昨日友人のA嬢に「喜来頓(広東語でシェラトンは「ヘイロイトン」)ぢゃなくて蛇来頓(セイロイトン)だったりしてね」と笑われたがホテルに着いたらシェラトンのS字のロゴが蛇だったらどうする?と懸念。だが実際にシェラトン。厚街の市の中心、市政府の隣に文字通り君臨の如し。部屋は40平米はあろうか。じつに快適な広さ。部屋の文房具からブロードバンドまで完備。現在は北京在住の畏友O氏に聞いて知った、中国国内では我がサイト閲覧不能は確か(サイト更新は可)。余の北京政府に対する共産党独裁専制などといった非難により閲覧不可と烙印でも押されているのなら光栄だが実際にはtripodなど個人にウェブサイト提供の傘下にある個人サイトはおしなべて閲覧不可とか。そういった処だからこそ「身元不明」のサイトで政府非難などされることへの危惧だろうが。「はてな」に設けた日剰本文のみのサイトは閲覧可。まさか中国での閲覧に重宝とは思いもせず。昼すぎにS245大通りはさんでホテル向かいの「黒天鵝」第55支店に餃子など食す。黒天鵝は深センから東莞に大成功の東北菜チェーン店。チェーン店だがいわゆるファーストフードにあらず。黒天鵝から見上げるホテルはご覧の通り。ホテルに戻り部屋に寛ぐ。地下のサウナで垢抹り。垢抹りの師傳に何処から?と尋ねられ香港と答えると香港人にしては北京語が流暢と賞められる。実に見事な垢抹りの技量で「ずいぶん擦背してないな」と言われるが実は前回は三週間前。技量の差か。部屋に戻る際に勘定し部屋に「つけ」にするとチェックインでのサインと違ふと言われ部屋は同宿のZ嬢の登記で彼女がサインしており署名違うのは当然だが同宿であるから問題ないと説明しても譲られずマネージャー連れて部屋に戻りZ嬢が署名。悪いことした子供の如し。部屋で読書し転寝。NHKの衛星放送で「天才テレビ君」だかいふ番組の特番やっていたが十歳か長けても十三、四の子供らが器用に歌舞音曲するのは立派であるしステージ終わったあとの舞台裏も放映され涙の姿も感動的ではあるが楽屋に戻ると「お疲れ〜、それじゃアトでね」と晩に六本木で打ち上げとかしてドンペリ片手に喫煙なんてことはないこと祈るばかり。晩にホテルから近い康楽街といふ厚街一の繁華街歩く。珊瑚路に出ると此処はもし目隠しされ此処に連れて来られて来たら間違いなく台北か高雄かと信じるであろうほど商店街の雰囲気が台湾。飲食店の雰囲気や看板が台湾そのもの。東莞に台湾投資多く台湾人の居住も多いとはいへ此処まで台湾様とは驚くばかり。「石山」といふ日本料理屋。間違いなく高級「日式」で用心のため珊瑚路の向かいにある台南担仔麺屋を「抑え」と決めて食す。麦酒がChao Riと言われ何ビール?と思ったら朝日のスーパードライで「深セン青島公司朝日麦酒」といふ深センにある麦酒工場の出品。朝日のスーパードライのあの「キレのある喉越し」に欠けるが寧ろ「それ」嫌いな余には飲みやすいかも。頼んだ料理は「陶板牛肉」と和風サラダ、それにこの店の看板料理「石山豆腐」との三点だが供されたのは陶板牛肉は「牛肉とモヤシのケチャップソース煮」で和風サラダは缶詰果物とセロリなどが大量の甘辛い濃厚な醤油汁に浸ったサラダと原材料の全くわからぬ石山豆腐。よくよく吟味した結果それが「揚げたマッシュポテト団子の醤油汁かけ」と判明。マッシュポテトの団子揚げると予想以上に美味いと発見し出汁さえきちんとしたタレにつければこの石山豆腐は我が家の献立に是非。予定通り台湾担仔麺。康楽街戻る。この通りの南側の裏通りが紅燈区らしく暇そうな娼妓置く妖しげな料理屋や理髪屋などあり。台中阿文パパイヤ牛乳といふ店でかき氷食す。余はミルク小豆。Z嬢のマンゴーかき氷はご覧の通り。ホテル近くのストアで購入の竹葉青酒甘ったるくお湯わりで飲む。インドネシアの巨大地震再び。NHKのニュース10で日本政府の緊急援助について小泉三世、現地の要望をよく聞いて「おしつけはよくない」と発言。「自主」制定の憲法の「おしつけ」も止めてほしいところ。首相はリチャード=ギアとダンスしてる場合だろうか。小泉政権の対抗勢力との対応についてギア氏インタビューに答え「相手の言葉を真摯に聞くこと」と指摘。全くその通り。たまっていて持参した新聞や石田衣良の池袋物続き読む。気軽な大衆小説かと思っていたがわかる読者のみわかる江戸の戯作物語からの隠微な色気あり。映画化ならイメージは主人公はATG映画『正午なり』でデビューした頃の金田賢一であったはず。
▼絶版書籍ゲットにかなり重宝の「日本の古本屋からのメールに来月から施行される「個人情報保護法」により「探求書コーナー」閉鎖と報せあり。このコーナーは自らの欲す書籍名を提示せばメールがこのサイトに登録の全古書店に当方の連絡先が公開されその書籍ある書店から連絡が来るといふ仕掛け。確かに個人情報公開されるが本人がこのコーナー利用を承諾した場合のみの公開であり而もメールアドレスと書籍名であればアドレスなどこのコーナー用に設けているアドレスなら何の問題もないわけで何処が「個人情報」の保護に觝触するのか不思議。官憲や民間企業が個人情報掌握し個人のプライバシーに渉ることを防ぐのが本来の個人情報保護であり確かに書籍なら本人の思想信条に関りもするがこの法律の適用範疇にはあるまひに。古書団体などさういった基本的なことなど理解している筈でそれでも自己規制としたのはこういった情報すら政府権力に流用され個人情報蹂躪されること惧れてのことかと察す。

三月廿八日(月)復活祭翌月曜の休日。朝。窓から外眺めれば視界の一切まさに霧の中。北角にカドーリ農場の野菜売る店をつい最近Z嬢見つける。その店の鶏卵も新鮮で香港に住んで十五年で初めて生卵ご飯。美味。中環。市大會堂。イタリア制作の映画“Private”観る。監督はSaverio Costanzo君。昨年の瑞西ロカルノ映画祭で金豹賞。パレスチナのイスラエル植民区の家庭が突然イスラエル軍の管理下におかれ自宅建物をば勝手に蹂躪される恐怖。最後まで見終わらずにフェリーで尖沙咀。正午から比律賓映画“Evolution of a Filipino Family”観る。……といいつつ10時間近い長編映画にて延々と続く集落の家族の物語2時間だけ観て途中退場。ジム。昼は蘋果1個とバナナ1本。夕方。FCCにて小憩。ドライマティーニ1杯。晩飯に野菜の素食飯。有機野菜のミルフィーユと玄米ご飯とあり何が出てくるのか心配であったが温野菜層ねた確かにミルフィーユに大嫌いな人参あり一瞬ぞっとしたが人参も含め予想よかずっと美味。昨日からかなり「ダイエット」だが基本は美味しいものを食べること。さうすれば食欲満たされる。成人の一日に必要なカロリー摂取量とか言うが日に25Kカロリーなんてのは野山駆け回るか農作業や工事現場で重労働に従事するのでもなければ16Kもあれば十分といふ話もあり。晩に金鐘のTamar Siteで手塚治虫実験動画(その1)の屋外上映あり観賞。1500人だか観客ありさすが手塚先生。内容の多くは人間の自由や戦争独裁への反対といったもので手塚治虫の戦後民主主義の積極的な思想が(しかも台詞なしのアニメでだから)見られる点がかなり興味深いが、いわゆる手塚作品は短編のほんの二本で残りはすべて虫プロで手塚治虫プロデュースの他の描き手の作品。だからよっぽど手塚治虫の思想史をわかっている人以外にはこれが手塚作品とは思えず革新系市民団体制作のアニメだと思えてしまふ。この映画、いまの日本でなら学校で上映しようとしたら教育委員会から「指導」が入るであろう。手塚治虫の表した自由、戦争と独裁反対、が危険思想なのが日本の国情。とうぜん今晩集まった観客には手塚治虫の戦争反対の強いアッピールがわかったと思う人よか「なんか期待と違う」と思った人のほうが多いかも。午後九時より綿井健陽監督の“Little Bird”かと思ったが次回上映もあり歩いて近い市大會堂でロシアのGulshad Omarova監督の“Schizo (Shiza)”観る。市大會堂は(いつも上映ぎりぎりで参るから今まで気がつかなかったが)その建物の六十年代のモダニズムの素晴らしさとは裏腹に何が驚いたかといえば館内のフリースペースに椅子とか坐る場所が一切ないといふ不親切さ。立っていることを強いる市大會堂なんて、ある面では時代的に六十年代の建物らしいのかも。場内が暗転した時に「ここでいいかしら?」と日本語でご婦人の声がして振り返ると佐藤忠男先生ご夫妻。やはり来港されていたか。面識もないのに思わずご挨拶してしまいそうになるほど毎年ご常連。
映画祭 忠男 五味鳥 一平安
奥様と静かに客席の隅に座られる。今までこうして世界各地でいったい幾本の映画を夫妻でご覧になってきたのだろうか。虔しさ。で映画だが題名の通り精神分裂症に罹った15歳の少年、名はShizaが主人公。姉の彼氏がチンピラで、その舎弟気取り。カザキスタンの荒涼たる田舎、失業者ばかり。チンピラの兄貴は町のヤクザが為切る八百長の拳闘場に失業者の中から相手となる選手を調達するのが生業。少年はそれを手伝うが調達された選手が死んだことが契機となりそのレコに恋してその女の貧乏な家計をいくらかでも助けようと奮起するがそれが難いして……と純粋な少年が大人になる過程での通過儀礼的な、どこにでもある物語といってしまへばそれまでだが昨年の東京国際映画祭のコンペティション部門で主演賞に選ばれたといふ主人公役のOldzhas Nusupbayevといふ少年が中上健次的に見事、見事。佐藤忠男氏夫妻が静かに会場を後にするのを気持ち見送る。市大會堂のロビーはかなり人でごった返しており何かと思えばCanadian Brassといふ文字通りカナダの吹奏カルテットの演奏会あり終わって会場でCD購入した客ばかりか残った客全員に演奏者がロビーに出て来て銘々がロビーの四隅に散ってそれぞれに長蛇の列。サインするわ、握手に記念撮影するわ、吹奏楽をしているのであろう若い連中の質問に答えるわ、で演奏者がいかに演奏者と観客が素晴らしい時間を過ごした後での交流と感動の光景。

三月廿七日(日)復活祭のこの季節の曇天続くこと例年の如し。映画見続けるも例年の如し。科学館にてBahman Ghobadi監督の“Turtles Can Fly”を観る。米軍のイラク征伐を舞台にした伊蘭制作の映画。米軍の侵略前夜の伊蘭に近いイラクの難民キャンプが舞台。主人公は「サテライト」といふあだ名の少年。このキャンプで多少の英語、衛星放送受信の技術に最も長けた少年にて大人を差し置いてこのキャンプをリードする。このキャンプの子供らの多くは地雷回収しクルド側に売ることが生業。手足もがれた子供も少なからず。米国の明らかな侵略攻撃のなかでのキャンプの悲惨さをば少年らの生活で見事に描く。秀逸なる作品。今年の映画祭で最も記憶に残る作品と断言可。次に観るつもりの映画にすでに時間もかぶっておりこの映画の余韻あり悪臭が鼻につく海岸を尖沙咀まで歩く。映画俳優らの手形埋めたAvenue de Starsといふ何語だかわからぬ(シャンゼリゼ水戸に勝るとも劣らず)中文名は「星光大道」がこの海岸線であること初めて知る。香港芸術館では巴里オルリー美術館から持ち出しの印象派名画大展あり入場券売り場に列で余は昨年末からずっと参観しよう思いつつ明日が最終日の現代中国画の黄永玉傘寿御祝の展覧会訪れる。切符売場は印象派展は行列だが黄永玉の特別展と常設展の切符は並ばずに購入可で安堵。切符渡されると印象派も参観可でどうなっているのかよくわからぬが兎に角ラッキーで黄永玉をじっくりと観賞。さっきの映画のあとにこの黄永玉ではもう今日の精神力の限界。かなり厳重な警備の仏蘭西印象派展もちょっと眺める。一昨年のオルセーで観た作品が香港でといふのも面白いが同じ作品でもオルセーがあの建物の構造でやわらかい自然光が擦りガラスを通して展示室に至るのに対して香港のこの美術館では重苦しい室内の上に暗い照明と背景の塗装されたベニヤ板の配色の難。スターフェリーで中環。FCC。ドライマティーニ1杯。遅い昼食にトースト1枚。連日の映画で運動不足で外食続き明らかに肥満。減量考慮。中環はフィリピン人御女中の人混みも復活祭でかいつもより彼女らの祝祭派手。午後遅く市大会堂にて田壮壮監督の“Dalamu”観る。これは田壮壮監督初のドキュメンタリーでNHKのハイビジョンで放映された『天空への道』の映画版。雲南省からチベットに至る峡谷の茶馬街道で生活物資運ぶキャラバンと一緒に街道に点在する村々でそこに暮らす人々の独り語りが延々と続く。なぜ人々がここまで物語るのか。キャメラを前に涙を流して語る。殆どが彼らの住居の中で自然光が明かりとりの窓からさす中、晩の暖炉の灯りに照らされて。その答えは「田壮壮が目の前にいたら誰でもこうして物語を始めてしまふ」とこと。田壮壮の魅力が人を物語らせているのだ。会場にも田監督の姿あり。拝みたくなるほど道者の如し。フェリーで尖沙咀に戻る。尖沙咀のスターフェリー埠頭といへば法輪功の諸君による布教宣伝と中国政府非難広報の聖地だが、その傍らに中国からの旅行者対象なのだろうか「中国共産党退党支援センター」なる組織?の運動も登場。『大紀元』なる反共産党新聞の無料配布も盛んでこの団体が法輪功と同一組織なのか別なのか友党なのかわからぬが中共の「党員」など皆利権絡みで党員になっているわけで(日本の自民党と同じだが)今さら香港に旅行中に退党真剣に考える「党員」もいるとは思えぬが香港の言論の自由のバロメータとして注目すべきか。尖沙咀といへば尖沙咀の歩行者蔑ろにする地下道網のうちシェラトンホテルから潜る地下道は地下にあった「するめ烏賊焼きとポップコーンの臭いが混じり悪臭放つ」ジャンクフード街と小熊園なる地下遊園地が閉鎖。廃墟と化すが此処に「そごう」が出店とか。いずれにせよあの悪臭と陳腐な遊園地の装飾に遭遇せぬだけでも心地よし。スペースミュージアムの会場で李一凡監督のドキュメンタリー『淹没』観る。三峡ダム建設で水没が決定した奉節市街。揚子江の重慶川下にある古鎮で揚子江から急な石段を登りきると旧市街の依闘門がそびえる。依闘門は杜甫の詩からの命名とか。その奉節の市街の人々の活気ある暮らしから始まり水没が決定しての賠償問題や古いカソリック教会や商人宿の人々の移住を追われる日々を克明に記録する。揚子江を上り下りする船から荷揚げする荷方の勇壮な男たちが奉節から立ち退く人々の家財道具の荷方となり最後はダイナマイトで破壊された市街の瓦礫運びとなる姿が象徴的。このような千年の歴史ある古鎮まで潰しての三峡ダムの建設。昼のトースト一枚でさすがに空腹感あり。それでも厚福街の唯一麺家にて水餃麺のみで我慢。低カロリーで腹持ちもよからう。科学館。亜爾然丁のLisandro Alonso監督の“Los Muertos”を観る。南米の森林。半ズボンの少年らしき遺棄された死体。キャメラが物静かに森林を進むと今度は全裸の死体。ローアングルのキャメラには猟奇的殺人を犯したのであろう男の胸から下だけが映る。場所は一転して中年の男の生活。刑務所らしい。この男がさっきの猟奇的な男なのかどうか一切説明らしきものもなし。若い囚人の「からかい」がどうもこの男が少年殺人の犯人らしきこと伺わせる(と思う)。物語はこの男が懲役三十年の刑(といふことも映画の中では全く触れていない)を満了して出所し娘の住家を尋ねる話。といふとそれだけだが男はシャバに出ると淫婦と交わり小さな町を抜けてから知人に借りたボートで南米の密林のなかを川下りする。蜂の巣を燻り蜂の子を食し野生の山羊を殺しとただ黙々と。音といへば昆虫や鳥が鳴くだけ。延々とそれが続き森の中で少年がこの男のボートに遭遇する。この少年の半ズボンが映画の冒頭の少年の姿とラップして「ひやっ」とする。実は冒頭のシーンは過去ではなく結末だったのか。而もこの少年は男の孫にあたる。自分が祖父だとは自己紹介もせず密林の中の粗末な天幕に案内される男。少年が画面から消える。男が追う。ナイフを棚に置いただけもまだ少し安心するが少年も男も画面から消えたまま現れもせぬ。男の娘にあたる女は最後まで映画に現れもせず。何も提示されぬ結末は男と三十年ぶりに再会した娘と初めて顔をあわす孫息子娘との団欒なのか、まったくわからぬまま物語は終わる。映画の合間には新聞読み終わると『世界』四月号少し読み石田衣良を飽きずに読んでいる。帰宅して晩遅く日記綴りつつジャックダニエル飲む。壊れたままのSonyのCyber-shot UをZ嬢がいぢったら先日は電池取換えてもOnにならなかったのがまた復活する。一葉だけ消さずに残していた写真あり再生してみると父が余を写した画像。昨年の大晦日に郷里で木挽庵なる蕎麦屋に両親とZ嬢と年越蕎麦食した折に余のデジカメを父が黙って手に取り「せいろ」食す余を傍らから写したもの。写真といへば正面からきちんと並んで撮るのがいつもの父が何も言わずにそっと写した一葉で保存していたもののこのデジカメ壊れContaxのデジカメ購入し父の逝去でこの写真の存在すらずっと忘れたまま。あれが蕎麦が好物であった父が生前最後に辿り着いた蕎麦屋・木挽庵での最後の蕎麦。そこで写された写真が父に撮られた最後になろうとは。その日の朝その日の日剰には綴らずにいたがZ嬢を母と迎えに行くまえに庭で雪の残る裏山を背景に父の写真をContaxのG1で白黒で一枚撮る。今まで父一人を請うて写真など撮ったことなく「一枚撮ってあげるよ」といふと喜んで大好きな道標(実は父の郷里の田舎の三叉路にあったもの)の横でポーズをとった笑顔の父。その時には医者の診断ではこれが父の元気な姿撮る、それも一人ポーズとる姿など最初で最後かと覚悟したがそれが現実となる。恰度その写真撮った直後にマグロ仲買するB氏がひょっこりマグロ届けにいらっしゃり両親と三人での写真をB氏に撮ってもらい「三人で写真に写るなど何十年ぶりかね」と笑っていたがこれも最後の一葉。

三月廿六日(土)曇。Z嬢と尖沙咀文化中心。オムニバス映画“Female”観る。作品は篠原哲雄『桃』、塚本晋也の『私はじじいの愛人』、大塚寧々『女神のかかと』、乃南アサ  西川美和 高校生の真吾。彼女の母親の美しい脚線のとりこになる、大塚ちひろ「太陽のみえる場所まで」と松尾スズキ『夜の舌先』の五本。続いて昼から村上春樹原作で市川準監督の『トニー滝谷』。余の乏しき感性では全く理解できず殆ど寝て過ごす。村上春樹作品ゆへ文化中心に客満席なり。日本料理「京笹」にて遅い昼食。カツ丼。美味。Z嬢と別れ科学館。昨年『香火』で印象深い寧浩監督の『緑草地』観る。蒙古の大草原舞台に川に流れてきたピンポン球を国宝と信じ北京に届けようと願う少年の物語。寧浩にしか撮れぬ世界。午後六時までの一時間余尖沙咀東にて途方に暮れて本日四本目は香港短編集。高校生が学校で撮影のドキュメント『Gay的疑惑』など。映画の合間に「五味鳥」久々に訪れ麦酒一杯、焼き鳥数串と焼きおにぎり一個。たっぷり正一合の日本酒に酔ふ。科学館に戻りSimon Chung監督の“Innocent”観る。香港よりカナダに移民の家族の物語。素人で飲食店経営に乗り出すが父は若い娘の誘惑に負け妻は福建人の胡散臭き投資コンサルタントに瞞され夫婦は離婚の危機、ゲイの息子を主人公にその失望を描く。同時上映の三分の短編中国画の“Ode to Summer”『夏』のほうが寧ろが上出来。
▼新界天水圍にて卅五歳の男失恋で発狂し集合住宅卅五階の自宅より家財道具一切窓から投げ放つ奇行あり。住宅に警察入り男捕まえし時に家屋に残るは窓から出ぬ大型家具のみ。
▼台北にて中共政府制定の「反分裂国家法」に反対の百万人遊行あり。阿扁総統、行政院長謝長延に李登輝先生も参加。
▼昨年7月に成田空港で不法入国のカドで入管に収容されていたチェスの元世界王者ボビー=フィッシャー氏について。米国政府が引き渡しを求めていたが日本政府は24日に本人の希望し市民権もすでに与えているアイスランドへ送還。米国での容疑は92年に米国が経済制裁していた当時のユーゴスラビアでのチェスの対局に出場して賞金約300万ドルを得たため制裁違反の罪で起訴されたもの。日本に隠遁していたが昨年7月フィリピンに向け出国する際に失効した米国旅券であったための入管収容措置。事実経過はここまでだが報道は日本だと例えば朝日のベタ記事(こちら)に対して紐育タイムスにせよ香港のSCMPにせよフィッシャー氏の成田空港での「自分は逮捕されたのではなく明らかな誘拐」であり「ブッシュと小泉は戦争犯罪者であり絞首刑に処せられるべき」との発言を大きく取り上げる。なぜ日本では記事にならぬのか。
▼朝日新聞に映画「インファナル・アフェア3」が4月16日より「ついに完結」のロードショー公開と大きな広告あり。香港での上映から一年と数ヶ月でまさに「ついに完結」だが普段ダサい邦題つけるのが常の日本洋画界は時々わけのわからぬ洋題そのままもあり「インファナル・アフェア」も全くワケわからず漢題の「無極無間」も同様。「愛の相克」とか邦題つければよかったのに。

三月廿五日(金)復活祭の連休初日。復活祭のこの季節らしき憂鬱な曇天。多湿の上に今年は寒さの残る。尖東。香港科学館。この香港映画祭で復活祭の頃ここに来ると毎年映画評論家佐藤忠男氏夫妻の姿あり。今年はお見受けせず。昨年は映画監督SABU氏も独りぶらりと来場。昼まで“The World According to Bush”観る。ブッシュの欺瞞、戦争犯罪責任を関係者やジャーナリストの証言から徹底的に検証。マイケル=ムーア監督の『華氏9/11』のあのノリに比べて仏蘭西、白耳義と瑞西制作のこのドキュメンタリーは揶揄も笑いもなし。良識のレポート。だがそれでもブッシュが大統領でいることの不思議というか現実。その怖さ。昼から羽田澄子監督『山中常磐』観る。牛若丸の母・常盤御前の悲劇。岩佐又兵衛の絵巻「山中常盤」を用いて今回の映画のために浄瑠璃に曲をつけ風光明媚な平泉や中山道の四季折々の映像を加えての丹念な制作。又兵衛の絵画の人のユーモラスさと何よりその着物の服飾の見事さはため息もの。羽田澄子監督来場。記録映画『片岡仁左衛門』の上映以来。羽田監督の舞台挨拶は「浄瑠璃とは何か」「文楽とは」の解説続き飽きるほど実直でこの人らしさ。Z嬢も来る。終わってZ嬢と幸福中心地下の一平安でらーめん。映画祭の間に毎年一度はここのらーめん。もう開業廿年の老舗。Z嬢と別れ三度科学館で『青い車』(監督:奥原浩志)観る。よしもとよしともの原作の映画の雰囲気よか暗い。だが主演のArataが見事な演技。ただただ見事。タクシーで旺角。中国旅行社に滑り込み復活祭明けの東莞へのバス切符手配。尖沙咀に戻り午後六時からPatty Jenkins監督の“Monster”観る。夜鷹が残忍にされた客を殺してしまったところから物語始まる。その男に嬲り続けられてきた夜鷹が可愛い少女と出会い恋に落ちるが二人の甘い生活夢見て街道沿いで客をとっては殺し続け……とまさに江戸歌舞伎の如き米国映画。Charlize Theronの好演。北京道のマクドに食す。二更にMTRで葵景。葵青劇場でドイツの青春映画“Sommersturm”観る。ドイツには伝統的に保養地のサナトリウムであるとか夏のキャンプなどを青春の物語にするが、夏の陽光がそれに合うからだろうが、この映画も橋本治的には夏の湖畔でのボート部のキャンプを舞台に彼女とお熱の少年に恋してしまった少年の切ない夏の物語。非常に「ふつう」なこの男女のボート部と伯林から来たQueerチームのキャンプ地での集団生活でのやりとりがいかにもドイツ的な個人主義で興味深し。午後十一時過ぎに帰宅。石田衣良の『池袋〜』から二作目「エキサイタブルボーイ」読む。

三月廿四日(木)悲しきほど快晴。昼に食通A氏らと三人で灣仔の私家房・四姐川菜にて担々麺。美味。辣味噌余して白飯もらって平らげる。昏時FCCにて晩飯済ませ一更に尖沙咀にて薮用済ませジムに寄り午後十一時半より旺角の勘違いなLangham PlaceのUA映画館にて映画祭の深夜上映で松尾スズキ監督の『恋の門』観る。あっと驚く豪華キャスト。前半の作りの良さに対して後半の漫画バドルからがちょっといただけず。映画終わって深夜一時半。日本なら路頭に迷うが深夜の旺角人出多く香港島行きのミニバスも便利でわずか十分で北角。タクシーに乗り換え帰宅まで旺角から二十分。二時には臥床。
▼『東週刊』は余り読まぬが表紙に経済学の奇才・張五張教授の深センでの隠遁生活の写真と「張五常流亡生涯大追跡」といふ文字踊り『東週刊』購入し一読。経済学でミルトン・フリードマンの流れ汲む一流の経済学者で米国から香港に戻り香港大学経済金融学院の院長となり文筆も七十年代に信報に始めた随筆賞賛され一時はノーベル経済学賞候補とまで言われ書道から絵画、魚釣から音楽まで何でも玄人の天才肌。親の遺産の不動産も上手に運用し資産は億単位。但しシアトルで経営の古美術商が巨額の脱税で米国当局により逮捕状出ると香港も米国との犯人引き渡しの惧れあり中国内地に隠遁したのが二年前。香港では今でも蘋果日報と同社発行の壱週間に随筆の連載続けるが、それ以外は一切外に出ず。でこの雑誌の特集によれば深センに住まい上海など内地をかなり頻繁に往来とか。中国の経済開放で論陣を張り趙紫陽とも懇意でフリードマンと趙紫陽の会談まで成すなど中国政府にもかなり入り込む。記事には深センに住家移した張教授が深センで遭遇の共産党幹部に「米国で共産党員でもないのに捜査対象となっている」と庇護を訴えたといふが、この話は共産党独裁の中国で党幹部に援護求めるには不適切(笑)でちょっと眉唾だが、中国側も米国での脱税犯の扱いに苦心で「中国国内で波風さえ立てなければ米国に差し出すまではしない」といふ扱いとか。

三月廿三日(火)九龍牛頭角の京セラ現法会社にてContaxのG1の修理出来受領。自動焦点のパーツ不良でパーツ交換でHK$1000近くかかる。それでも直して使いたい愛機。早晩にFCCでドライマティーニつい三杯飲む。ラクサ食す。驟雨。尖沙咀に渡り香港文化中心にて仏映画“Un Long Dimanche de Fiancailles”見ようと入場までするが客入りは半分ほどで而も招待券で動員の客多し。監督のJean-Pierre Jeunet氏来場といふが15分以上遅れると放送あり些か鑑賞の意欲失せる。スターフェリーで中環に戻り市大会堂にて豪州映画“Somersault”(監督:Cate Shortland)観る。暗い青春映画だがAbbie Cornishなる少女の演技見事。フェリーで尖沙咀に戻り文化中心に行けば映画『下妻物語』の上映待ちの客長蛇の列。ロリータ服装の少女ら多し。中島哲也監督と制作者来港。あまり期待せず観たが単純に面白い。筋の最後の纏め方が無理矢理。だが、その強引さもけしてキョービの事に非ず歌舞伎でも源平物から曽我物まで「あらら」といふほど「実は……」でまとめてしまふわけで今更云々もせぬが、この映画は最後に人生論、組織論のメッセージ強すぎの感あり。下妻といふ茨城の田舎舞台に(茨城の田舎、って茨城ぢたいが田舎だが)何が香港でウケるかといへば「ジャスコ」が下妻のダサさの象徴としてモチーフとなっており香港でジャスコの知名度からして観衆が大爆笑。確かにこの映画の観衆は香港でも「ジャスコで洋服は買わない」層だが香港ジャスコにとっては有り難くない上映か。映画では「茨城」が「いばらぎ」と発音されているが英語の字幕では“Ibaraki”と正確。映画終わって十二時過ぎに地下鉄で帰宅。深夜ふと今更で石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』読む。なるほど平成の池波正太郎である。

三月廿二日(火)昼に雷鳴轟く驟雨。朝日新聞の大江健三郎の「伝える言葉」なる随筆に最近やたら矢面に立たされる「自由」について自由とは「理性的な自己決定」といふ。村上陽一郎もすでに掃いて捨てられたが如き「教養」を教養の復権をば説いていたが、問題は自由を謳歌する人に理性なく理性なき人に限ってまるで戦後の日本の問題が全て「自由」に原因がある如く攻撃すること。教養とて同じ。全く関係ないが千葉での酔った十九歳の青年のバスジャック。泥酔して記憶もなかったとか。でも青年は警察で「心の叫びを聞いて欲しかった」と供述。誰でも一流のコピーライター。諸事に忙殺され早晩にFCCでウィスキーソーダ一杯と海南鶏飯。Coloursixに写真現像出してラルフローレンでズボン裾直し受取り銀行により尖沙咀に渡り香港文化中心。香港映画祭開幕。開幕記念上映は中国の顧長衛・監督の『孔雀』。七十年代の中国の地方都市、映画では鶴陽市、実際には河南省新郷市の「鶴壁」地区を舞台に、気丈夫な母親と真面目な父親、その二人の三人の子、知恵遅れの長男、感性不安定な娘と真面目だったのに兄の存在が契機となり壊れた弟。たっぷりのその家族の情景見せるのだが気になるのは七十年代前半といへば文革の時代なのだが文革の片鱗すら見せず。まるで社会的には何事もなし。政治的敏感で文革に触れていないのではなく、冒頭の場面で家族が家のバルコニーで食事している時におそらく文革のプロパガンダだと思われる何か出来事があり、それを次男が見ようとするのを母親が食事中だからと止める場面あり。この時代だからと言って文革を描いていなければいけないわけぢゃなく敢えて家族の物語でいいのだが、その家族の病理はとても現代的でそれが七十年代の文革の時代に設定されて本当にいいものなのか、かりに少しでも事実に基づくとすればかなり最先端のキテる家族。何度か見てみたいがたっぷりの144分はちょっと饒舌。場内にて香港大博物館館長の畏友A君と遭い秋の旅行の話少し。Z嬢と一緒になるがZ嬢は「山田洋次の映画はちょっと」でこれだけで帰宅。続けて山田洋次の『隠し剣鬼の爪』は藤沢周平原作。挨拶に立った山田洋次監督。「二年前は『トワイライトサムライ』が開幕上映に選ばれたのに『例のこと』があって上映に来られたかった」と遺憾を述べる。日本語での挨拶に通訳は英語で「例のこと」を「SARS蔓延」とはっきり訳す。「例のこと」とは何事か。観衆はあのSARSのなかでも山田洋次監督の映画を見に集まり映画終わって拍手が鳴っていたといふのに。残念。映画はとても『たそがれ清兵衛』に似ているのだが『たそがれ』よかいろいろな因縁だの交錯もするが最後のあの「まとめかた」はとても山田洋次で寅さんから何も変わっていないのは評価云々ではもはやないのかも。主人公の片桐宗蔵(永瀬正敏)がなぜ革命へと向かわず無政府主義的なテロリストにならずあゝ終わってしまふのか、が「だから代々木的だ」と民青が非難される、って感じなのが山田洋次の物語。映画終わって十二時過ぎ。MTRで銅鑼灣。空腹でそごう裏の「利苑」に雲呑麺食しバーSにて一飲。最近のポリシーとしてバーに長居せず。本当に三十分で辞す。バー主M氏に父逝去のことお悔やみ頂き何故御存知かと思えば奥様がこの日剰ご覧になっている、と。

三月廿一日(月)曇。小雨あり。朝五時に目覚めてしまひ六時から少し家のまわり走る。マンションの裏手から眺めむれば朝の薄暗きなかパーカー山の山の緑もこの一月の湿気と多少の雨に緑繁ることまさに鬱葱として朝の冷たい清風が山からおりて深呼吸すれば陳腐な表現ながら生きていると実感。諸事に忙殺され一日が終わる。昼になつて昨日の自棄な走りの疲れか多少の悪寒あり。晩に自宅近所の掛かりつけのC医師の診断請ふ。診断待つ患者多し。C医師によれば熱や咳、鼻水など全く症状なく悪寒と疲労感、筋肉痛ばかりのこれはこの春のインフルエンザでここ数日患者の殆どがこれに罹っている、と。翌日の蘋果日報にはインフルエンザ蔓延公立病院では診断六時間待ち、と大きな見出し。大きな見出しといへば今日の蘋果日報は福岡の地震一面トップ。あれだけみれば天変地異の大惨禍。帰宅して服薬し早寝。
▼余の日剰03年9月に香港での1910年代の日本人の葬儀風景の写真について「葬儀場の写真みて、写真の左上に位置する岩上には大谷光瑞師揮毫の萬霊塔らしき塔あり(中略)右側の建物は寺と思うと異様だが本願寺であれば築地本願寺にも似たその独得の東洋趣味、写真奧の煙突が火葬場らしく、それでこの写真が戦前の銅鑼灣は掃桿埔に在りし日本人墓地で敷地内の建立物位置関係まで明確となる。」と綴ったことに台湾在住で大谷光瑞師のアジア事跡調査されているK氏からメールいただく。K氏によれば当時の香港のこの葬儀場について関係者の回顧に「寺院の裏に墓地、火葬場、光瑞師揮毫の「萬霊塔」があった」とあるそうで、此処が西本願寺であったことは確か。ここまでは驚かぬがK氏によれば「建築家の伊東忠太が香港本願寺の設計図を残している」そうで「実際に施工されたのか不明」とあり。余がそれを伊東忠太建築設計の築地本願寺と思ったことも素人の推測としては間違っていなかったかも。今後K氏との情報交換に期待あり。
▼維納に旅した久が原のT君よりメールあり。維納の復活祭音樂祭にて樂友協會樂堂にて維納フィルハアモニカーのマタイ傳による受難樂を聴かれたとか。羨ましいかぎり。維納の街には花屋に猫柳の枝を賣るもの多く、それは復活祭前の日曜日(廿日)は「枝の主日=棕櫚の日曜日」が基督エルサレム入場の聖日にて市民は手に手に椰子(邦語舊譯には棕櫚)の枝を投じ救世主を祝福せし故事に倣ひ椰子=パルムと獨逸語同音のパルム=猫柳を飾るが故實の由、堅き表皮を破りて芽ぐむ猫柳の枝に復活再生の力を見るが恐らく淵源と、とT君の話。折しもこの日は春分にて香港も見事に晴れ渡り暖かな心地よき日なり

三月廿日(日)快晴。春分。HK Distance Runners Club主催の三月恒例のマウントバトラーレースあり参加。陽明山荘の坂登り大潭のダムまで一気に下りパーカー山の峠まで登り少し下ってセシル卿乗馬道を走る15kmのマウンテンマラソンにて二月末の香港マラソンから全く走ってもいなかったが家にいてもうだうだするならとジョギングのつもりで参加。気持ちよく走る。思い出すは二月末の香港マラソンで完走し、せめて父を喜ばせようかと夕方自宅に電話せば突然に伯父が出て父が朝、救急車で病院に運ばれたと知らされ翌日より意識遠のきたりし事。走るも父の供養かと。シンガポールからI氏参加されK氏、T夫妻とA君と灣仔の北京水餃皇にて昼前から餃子食し麦酒で喉潤す。金鐘のレーンクロフォード百貨店にてTUMIの鞄の修理出来たのを受取り帰宅。見事な快晴で心地良し。午後家事済ませ夕方まで午睡。起きて眠気覚ましにドライマティーニ飲む。芸術新潮だの料理雑誌などたまった購読誌何冊も読む。チーズonクラッカー、サントリー「角」の水割り、氷なし。母からファクス来る。
春告鳥の初声聞いて旅立ちぬ その姿は見えず 今 悲し
と母の詠歌あり。晩に昼に続きI氏に誘われ天后のPoppy'sに西洋料理食す。客多し。客層がとても香港の典型的公務員顔ばかりなのがこの店の特徴。
▼蘋果日報日曜版に連載される「星期天休息」といふ陶傑氏のコラムが興味深く董建華辞任を述べる。香港の末代総督のクリス=パッテン卿が董建華辞任を聞いたのは上海に滞在中で香港返還に際して中国政府から「千古罪人」とまで喧られたパッテン卿は「だから、それ見たことか」と嗤ったであろう、と。今回の董建華辞任までの経緯は84年の恰度廿年前の中英合意にまで遡れるわけで中国は英国植民地の色彩強い地元指導者や官員をば登用することに難色示し愛国国粋的な陶傑氏のいつも指摘する「土共」をば育て英国側が推挙のリディア登β蓮如「女」男爵を抵み二番手候補の陳方安生をどうにか受け入れたものの陳女史も董建華の愚政についていけず辞任、でダークホースの曽蔭権がまさかの董建華の後任となったわけだがドナルド曽蔭権ぢたい香港植民地政庁の典型的地元官僚で返還直前に英国から爵位受けた時点で本来は返還後の行政長官にまで抜擢は誰も予想せぬ事。結局は香港政庁の官僚抜擢しての結果に廿年間の中国側の祟りの如き執念も元の鞘に収まる結果となった事。それにしても先日の財務長官・唐英年の新年度予算発表の際に唐英年の母と妻が傍聴席に陣取りビデオ機回して夫の雄姿をば撮影する、その「文化」がほとんど幼稚園の卒園式の保護者並みの感覚との指摘。全くその通り。本人の独立した人格以前にその家族主義、例えばパッテン卿は知っていてもパッテン卿の親が何をしていたとか誰も知らず。それに比べて全て父はどうした、母の出自はと。その発想の貧困さ陶傑氏鋭く指摘。
▼納采の儀の「新鮮な鯛」は「鮮鯛(せんたい)」をみなさまのNHKが視聴者にわかり易くするために「新鮮な鯛」と言い換えたのだろうか。「鮮鯛」は「干鯛」に対する「生の鯛」のことで「新鮮」とするとやはり意味が違う気がするが。

三月十九日(土)快晴。北角よりフェリーでホンハム。ホンハムの市街歩くなど十年以上なかったことでその賑わいに驚くばかり。かつて八百半のあつた艦船型の建物も今になつて此の地がかつて黄埔(ワンポア)の造船所であつたこと意図してのその船型の建築であることなど思い出す。初めて蔡瀾美食坊に入る。詠藜園で麻辣担々麺。満足できず広東某茶餐庁にて叉焼飯食す。いずれにせよフードコートだの美食坊など評価に値せず。ジム。タクシーで何文田の高級住宅地抜けて九龍の風呂屋。垢抹。按摩。夕方FCCに寄れば幸いにRugby Sevensの中継見る客で混まず閑散。ドライマティーニ二杯とウヰスキーソーダ。十日の董建華の辞任で十一日からの新聞をせめて信報読めればいいかと知古のM氏に購入頼んでおりその間の新聞読む。十四日に香港大学世論研究計画主任の鐘庭耀氏が指摘するのは董建華の何よりの失態は例えば内地で生れた子女の香港の居住権の問題(99年)にせよ法解釈の以前に董建華が内地出生子女の香港居住権に否定的な見解示すなど「法治精神の軽視」と。十五日の畏友登β達智君の随筆が傑作で一言「過去七年香港で生まれた子供の誰一人「建華」と名付けられた子はいないだろう」と。御意。それぢゃこの先子供に(代理行政長官となった曽氏の)「蔭権」か英名のドナルドとつける子がいるかどうかはわからぬが英国の爵位有するこの曽蔭権を特首(特区行政長官)に戴きまた香港は盛り返すことが出来るのか、ハレルヤ、アーメン、と登β君は揶揄。董建華がどれだけ失策あつたかの概略だけでも示せば
97年 毎年八万五千戸の公共住宅建設を提言し不動産価格下落。三年度にこの政策は98年時点ですでになくなっていた、と弁明。
98年 母語(中国語)教育推進。多くの英文中学を国語に転じさせようとして不満高まる。
98年〜00年 景気回復と公共事業推進で香港をファッション港、漢方薬港、生花港などさまざまな特色ある都市にしようと立案。すべて実現せず。アジア大会誘致に失敗。
99年 特色ある都市建設で唯一実現のサイバーポート建設を李嘉誠財閥に丸投げ。他の財閥からも非難囂々。ちなみに李嘉誠は董建華の家族経営する船会社倒産の危機で中国系資本と並び買い支えの実績あり。
99年 香港市民が大陸で生んだ子供の香港居住権の有無について香港の最終裁判所の判決を不満として全人代に法解釈を請ひ、香港の法曹関係者が法治違反に抗議しデモ。また星島日報の発行部数虚偽公表について「公共利益」を理由に指揮権発動し社主の胡仙を刑事立証せず。
00年 香港大学の世論調査で董建華の支持率調査中止するよう圧力かけた事実が発覚しそれに応じようとした香港大学の学長、副学長が辞任。
02年 基本法23条に基づく国家保安立法化で強引な手法に市民反発し03年7月に記録的な50万人デモ。立法化失敗の引責で保安局長葉劉淑儀が辞任。
03年 財務長官の梁錦松が自動車税値上げ前に自家用車購入し引責辞任。
03年 SARSで1700名が感染し299名が死亡。疫病対策の遅れの責任とり衛生局長が引責辞任。
04年 07年の特首選挙、08年の立法会選挙で直接選挙実施せぬことが全人代で決定。民主化の遅れ。
……とよくもまぁここまでの無能ぶり。South China Morning Post紙が董建華辞任翌日の11日社説で指摘していたが董建華が香港返還と中国回帰での経過期の行政長官としてはけして誤った人選ではなかったのかも知れぬが最大の誤謬は02年の選挙で董建華の再任を中国政府が強引に推し進めたこと、と。一説では董建華自身ですら二期目続投には非積極的であつたのに江沢民らの決定で続投決定との由。帰宅して晩に湯豆腐。Z嬢の話では北角に最近は無農薬野菜売る八百屋あるそうで今晩の湯豆腐もすべてその無農薬野菜。NHKの「義経」ビデオで観る。

三月十八日(金)曇。多湿。算えきれぬ程の諸事済ます。父の晩年の頬笑む写真用いての追悼の葉の印刷を知古のN嬢に依頼。葬儀での写真現像。父の遺影いれる写真立てレーンクロフォード百貨店にて購ふ。厄だろうか身辺にて故障だの不良少なからずTUMIの鞄はジッパーの外れジッパー部品香港になく入荷待ちだそうでContaxのG-1も動かず修理に出せばAF機能の部品故障で取換え中に続きRolexの腕時計は一晩で止まつてしまふのでジャーディンハウスのRolexの修理受付に持参せば故障ではないがオーバーホール必要で二週間要す、と。厄払い要す。香港映画祭の通し券を主宰団体事務所に受取りに参れば入り口横の倉庫に雑多に段ボール放つてあり見れば箱の一つは「手塚治虫実験動画」と表示あり。好事家には垂涎のフィルムで此処なら盗むも易くオークションにでも掛ければどれ程の値打ちか。春物のシャツをラルフローレンで二枚購ふ。これらの様々な用事早晩に中環で済ませ渾身疲れきつてFCCのバー。本日より銅鑼灣は掃桿埔の香港大球場にて春恒例のラグビーセブンスの大会あり。狂乱の群衆あり渋滞甚だしく銅鑼灣には近づくべからず、と中環のFCCに一飲と思つがFCCのバーもこのラグビー試合の中継テレビ目当ての客多く混雑甚し。ギムレット二杯飲み早々に退散。帰宅して鯵の干物、モツ煮など食し菊正宗飲む。Z嬢の話では新鮮な生のモツは市場では冬だけの提供にてそろそろ季節も終わり、と。かなり久々にNHKニュース10見る。ライブドアのニッポン放送とフジテレビ買収の話、どうせなら産経新聞買収してくれて産経新聞なくなつてしまえばいいのだが堀右衛門にしてみればテレビ放送、その局を子会社に持つラジオ局だからこそ買収意欲沸くのであり産経新聞買収など「資金の無駄」か。明日、紀宮様の結納にあたる「納采の儀」。「ドレスを縫う」絹と「新鮮な」鯛などが結納品。なぜ絹は「ドレス」限定なのか、なぜ敢えて「新鮮な」鯛なのか。かつて新鮮ぢゃない鯛でも供され「やはり平民との結婚は」と縁談破綻にでもなりかけたからか。家事雑事多し。

三月十七日(金)晴。気温摂氏廿二度で汗ばむほど。諸事に忙殺される。日に日本の三倍くらいの事こなす香港で次の地下鉄は二分後なのにホームで暴走する乗客らの渦の中に放り込まれ喪などと思ってもおれず。A氏に忌中祓ひと招きをうけハッピーバレーの日本料理・慕情で河豚を鍋で食す。河豚の白子美味。最後の仕事済ませ帰宅は二更遅く。雑事済ませつつバイエルン放送交響楽団をバーンスタインの指揮するモーツァルトのレクイエムを聴く。臥床。ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』少し読む。フルニエとバックハウスの至極の共演、ブラームスのチェロソナタ1番聴きながら寝入る。1955年の演奏のモノーラル盤のデジタル再生。「安心してその音楽の中に身を置いていられる」フルニエとバックハウスの音楽。包み込まれるやうな安堵感。

三月十六日(水)快晴。早朝に東京へ行く妹の車に便乗させてもらい常磐高速から渋滞の首都高に入り向島で降りて浅草を流し日本橋馬喰町。妹が懇意の駐車場に旅荷置かせてもらいJR馬喰町駅から東京駅。京橋まで歩き銀座線で銀座。銀行や郵便局の用事済ませ喫煙具商「菊水」。パイプ用にジッポのライターなど購ふ。帽子商「トラヤ」にて春物の帽子見ていれば突然Z嬢現れる。暖かな陽気にZ嬢東京駅から京橋抜けて銀座まで歩いてくればトラヤの前で「もしや」と店内除けば余を発見の由。悪いこと出来ず。春物の帽子購ふ。ヤマハ銀座店。あらためてZ嬢と待ち合わせ。余が聴いていて母が気に入ったバレンボイムの弾くバッハの平均律のCD購ひ母に送る。他にバーンスタインのモーツァルトのレクイエムニ短調、シューベルトの「冬の旅」はマティアス・ゲルネ(バリトン)とアルフレッド・ブレンデル(ピアノ) 、チェロのフルニエとマイスキーのCD各1枚購入。フルニエはバックハウスのピアノでブラームスのチェロソナタ1、2番。マイスキーはアルゲリッチのピアノでストラビンスキーのイタリア組曲、ショスタコーヴィッチのチェロソナタ、プロコフィエフのチェロソナタとワルツ。地下鉄で日本橋。昼にZ嬢と忌中祓ひで天婦羅「はやし」に食す。新鮮な食材があっさりと揚げられ美味さ表現を絶す。さすが「はやし」の天ぷらと敬服。三越本店前の木屋で「いろは毛抜き」や和鋏購ふ。Z嬢と一旦別れ三越本店ぶらぶらとするが何も買わず。日本橋渡り扇子の永頼堂。あまりの暖かさに扇子が売れると店の女将の話。高島屋本店ひやかし都営浅草線で東日本橋。馬喰町の駐車場で荷物受け取るが地下総武線が1時間に3、4本しかないこと気づき駐車場まで走って荷物受取りJR馬喰町駅の地下構内をトランク引きずり走って間一髪で総武線電車に乗り東京駅。東京駅終点の列車だが横浜方面に行くらしきアジア系の家族4人東京駅終点と知らず降車せずにいるが誰も教えもせず。教えてやれば英語達者。Z嬢とホームで落ち合い成田エクスプレスで成田空港。キャセイパシフィック航空505便。山田雄一郎『英語教育はなぜ間違うのか』(ちくま新書)読了。香港空港で珍しく荷物なかなか出て来ず着陸から帰宅まで1時間40分を要す。荷物片付け。

三月十五日(火)曇。みずほ銀行に赴く。かつての富士銀行支店舗で第一勧銀の支店と統合されこれ一つとなれば当然尋常ぢゃない混雑。印鑑持参せず徒足。Y女史宅訪れる。Y女史は玄人はだしの写真家。生前の父の自然な笑い顔の写真あり葬儀にて本堂の前の焼香のための祭壇にそれを掲げれば(一昨日の日剰の画像「侘助」の花はその遺影の傍ら)皆様から写真がいいと言葉あり父の記憶にポートレイトにする話となる。その写真撮影されたY女史のお宅訪れディスクに焼いた写真をお借りする。父の記念片のためのその画像と予め用意した原稿を或る写真館に持ち込むが出来合ひのフジカラーだとかの「結婚しました!」みたいな陳腐なフォーマットばかりで簡易印刷は断念。一旦帰宅。復たみずほ銀行。支店の隣家の古いパン屋で懐かしいコロッケパンと甘食購い歩き食い。水戸芸術館にて「アーキグラムの実験建築1961-1974」展駈け足で観る。館内にはおしゃれな若いアート系の若者が学校でだろうか見学中。これに続く四月からは「造形集団海洋堂の奇跡」展とはまことに贅沢な話。一旦帰宅して母と一緒に車で四十分ほど離れた大叔父の家。戻つて国立医療センターで父の通院時にお渡しした筑波の病院で撮影のX線写真など受領して常磐自動車道走り筑波の病院。入院時の経費精算。古い城下町・土浦。葬儀に生花送つて頂いた旧知のM氏の教室にお礼。土浦から常磐自動車道〜北関東自動車道抜けて「ひたちなか」で降りる。昏時に日立製作所旧佐和工場裏の木挽庵で蕎麦。父が晩年いちばん好きだつた蕎麦で筑波で母と木挽庵に寄ろうといふ話となり晩は確か七時には手打ちの蕎麦売り切れもあり。土浦市街出て一時間で晩の開店間際の木挽庵。秀逸なる蕎麦。荷物片付け。

三月十四日(月)市街の郊外にある実家で突然ワイヤレスランつながる不思議。みずほ銀行で口座手続き。地元の信用金庫。高校出た頃にこの信金に就職した同い年の友人にご祝儀で一万円で口座開設したが何十年も放置しており数ヶ月前に手紙届くが印鑑も通帳もなし。口座の解約手続き。信金の本店で事情話し海外居住で住民票すら海外転出になっており旅券くらいしか本人確認できない旨伝えると住民票は過去に転出の記録があるのでそれだけでも持ってきて欲しいとの事。宅急便の営業所で成田に荷物送る。市役所の出張所に寄り市役所に電話で確認してもらうと転出した住民票の記録は五年で抹消の由。一旦帰宅。午後、タクシー会社で葬儀の車代精算。大通りからかつての花街の入り口に昔からのサッポロビールの看板あり。三業組合の下に水戸を代表する一流の料亭、待合に芸者の置屋などの店名並ぶ。昭和三十年の頃だか余の祖父がこの三業組合の理事長をする。今では看板にある料亭や待合いのいくつも営業しておらず。名残りのみ。寂しいかぎり。ふと「すずき」というラーメン屋、所謂「行列のできる店」だが店構えは(画像)の通りで三十年前に余がこのあたりをブリブリ言わせ遊んでいた頃もやはり今と同じくらいに古臭く当時は所謂ラーメンブームもなく入ろうと思ったこともなし。それがいつの頃からか地元の名店となる。ラーメン250円。店には店の仕来りあり注文ととりに来なければ茶水も供されず。ラーメンこそ運ばれてくるが食べ終われば「ごちそうさま」と器さげ帳場で勘定済ます。濃い醤油味だが確かに風味あり。近所の一弘堂といふ古くからある小さな本屋でふと月刊『ラジオライフ』購入。余が子供の頃はBCL全盛でこの雑誌は貴重な情報誌であったが今ではケータイ改造だので雑誌力退えず。復た信用金庫。事情説明し書類六枚ほど住所氏名捺印繰り返し『ラジオライフ』のGSM携帯のSIMロック解除なんて記事読んで暫し待ち「おまたせしました」で窓口に立てば「それでは一週間後に出金となりますので」と。もう日本去るので、と受取りを母に委任する手続きでまた書類二枚。住所氏名電話番号の記載にうんざり。国民総背番号制にならぬためには必要な面倒なのか、署名で本人の承認とせぬ不便なのか。結局この手続きで一日が終わった感あり。帰宅。晩にK先生夫妻招き母と妹と品川屋といふ老舗の蒲焼屋。柳川ときも焼で熱燗。うな重。あっさりとした鰻で秀逸。K先生は余の中学の恩師ながらその後両親と交際頂き父の入院や母の介護で病院まで何度も送っていただく。一旦帰宅して三更にスーパー銭湯に浴す。

三月十三日(日)快晴。摂氏六度。父の本葬と告別式。朝は冷えたが格別の晴天に恵まれる。偕楽園に観梅の賑わひ。昨晩の通夜に来られた方除いても三百名越える方の参列あり。余が小学一年の時の担任の先生まで来られる。父と高野山参詣で何度か一緒された由。これだけ多くの方に愛された父も幸せならその方になんと有難いことか。人の付き合いとはかういうものかと震えるほど感じ入る。葬儀の施主なる母に代わり告別式の最後に挨拶。偕楽園から市街への渋滞でなんとも美しい晴天のなか千波湖の湖岸の梅を愛でる。夕方に駅前のホテルで忌中祓ひ。最後に挨拶。父の葬儀に挨拶するくらいしか余には弔ひできず。駅前の歩行者の多きこと余が子供の頃の賑わひの如し。黄時帰宅。帳場預かりのもの整理。ずつと仕出しの弁当続きで晩に家族で近くの南国飯店といふ中華料理屋に「日本の」焼餃子と太麺の湯麺食す。躯は痲れるほどで午後十時には臥床。NHK教育テレビの芸術劇場にて勅使川原三郎が“KAZAHANA”について語り先日香港で観たこの芝居で勅使川原氏が何をしたかつたのか本人の弁でさういう舞踏であつたのかと理解。余の乏しき感性では舞台の踊り観ただけで勅使川原氏の意図まで理解できず。ずっと父の骸、そして祭壇の近くに晩には布団敷いていたが初めて父の寝室、書斎兼物置の寝台に寝る。父の机の抽斗に父の愛用の品々が今では遺品となつてしまつたが一つ一つ見入る。抽斗のひとつ開けると余の小学生の頃からの旅先から父母への葉書から驚いたことに『ビックリハウス』誌に投稿掲載された号から朝日ジャーナルまで余の記録がきちんと整理されて保存されていたことを知る。父の残した焼酎飲み干し寝入る。
▼三月十日は310で「水戸の日」でその日が週日のため記念イベントが週末土曜日。水戸芸術館の広場は磯崎新の建築した構築物に囲まれた空間で、そこで「水戸の日」記念イベント開催。水戸が発祥の地だそうなオセロゲームの大会、大洗の「磯節」踊り、そして極めつけは「水戸納豆早食い世界大会」。言葉もなし。この空間、オノヨーコの“War Is Over”のメッセージが静かに掲げられていたのが03年の暮。そこが納豆早食い。どんなアバンギャルドなアートよりも強烈な納豆の早食い。納豆の早食い。しかも世界大会。といつても駅前留学NOVAの英語教師や茨城大学の中国人留学生とかが駆り出されてる程度の筈。オセロゲームも例えば水戸芸術館の建物をオセロゲームの白と黒の石で草間弥生的にデコレーションしてしまふとかの発想のほうが芸術館らしい。
▼十二日政協副主席となった董建華の香港特区行政長官辞任受理されドナルド曽蔭権政務官が代理行政長官に就任。期待もなし。

三月十二日(土)妹が父の貴重品入れたセカンドバックを整理するとカード入れに小さなメモありレシートかと広げれば父の手書きで「避けて通ることのできない老いならばすべての不安を受け入れボケやカラダの衰えを道づれにとことん生きるのが俺の人生だ」と綴られる。優しき笑顔ばかり見せていたが心中、本人の生への意欲の強さ厳しさを今頃になり知る。昼にひとり菩提寺神崎寺訪れご住職にご挨拶。真覺院豐茂道玄居士といふ戒名戴く。真言宗の「真」で院が冠につき真言宗豐山派の「豐」に父の俗名から「茂」をとり道玄居士とは有難いかぎり。帰宅。寺での通夜のため夕方位牌と遺骨とともに寺に向かふ。タクシー会社の旧知の運転手氏は偶然なのだが五軒町といふ市街の町の、父が最初に自宅構え余も子どもの頃に育った旧宅の前を通り頑固な父がいつも市街抜けるのに通ったカソリック教会の横を抜け大通りに出るのかと思えば鳥見町の横丁を走り父母の結婚の披露宴催された竹葉といふ昔の料亭の前まで通り抜ける。雨もあがりいくらか暖かくと安堵。昏時、寺の鐘が鳴り通夜の開始。控え室より本堂に向かへば美しき明紫の夕焼け。日暮れにとたんに寒風が吹き始め寒さ厳し。本堂に上がられた参列の方々で百名となり焼香は本堂前の寒い外でも始まり施主に代わり外の焼香台の前に父の遺影を持ち坐る。次から次へとすっかり老けられた懐かしい方々から同窓で地元で商売などする旧友、いろいろ事情あり父のところに多年、顔を見せなかった人まで焼香続く。目を腫らした方、涙ながらの方。父を没くしたことの事実よりもかうした皆様の温情に感無量。埼玉から来られた九十余歳の大叔父など参列の方見送りお手伝いの方も帰られたあと家族で位牌、遺骨とともにタクシーで帰宅。蕎麦茹でる。飛良泉飲む。

三月十一日(金)朝から小雨。父の骸据えた和室から居間の片付け済ます。昼前に納棺。自宅に菩提寺住職お迎えし火葬前の法要。午後雨のなか出棺。霊柩車の次車に乗れば霊柩車は斎場まで近い道通らず市街の大通りへと入り父が半世紀近く前に東京より戻り一昨年まで商売営んだ商店街を通れば父もこの市街抜けるも今日が最後かと思えば感慨に思わず涙。あとからこの通り道は霊柩車に乗った母が運転手にこの道程をお願いしたと知る。斎場で火葬。余の中学の恩師でそれが縁で両親と仲よくされたK先生もいらっしゃるが最後の別れに遅れたがお別れの開始が斎場の表示より三十分も早かった、と。驚いて職員に聞けば「表示より三十分前にお呼び出しして始まるんですよ」との話に唖然。誰もそんなこと知らず表示を見るのだから「せめて表示板に火葬時間の三十分前にはご来場ください」と指示するべきでは?と提案するが職員は「これでやってきてるんですから」といふ表情で全く反応なし。収骨。午後遅く遺骨抱いて帰宅。家族のみで齋食といいつつ父の好きだった焼餃子など食す。
▼昨日董建華行政長官辞任表明。今週末の政治協商会議副議長就任前に行政長官辞任と日刊ベリタに記事送っており予想的中と喜ぶべきか。
▼某みずほ銀行の総合口座でネットバンキング可と知り利用申請は郵送とさすが日本といふ感じであったが申請書類実家に届いており申請書記入しようとすればいくつか疑問あり。まず「ご氏名」欄に氏名のフリガナはすでに記入してあり、その下に「ご署名」とあり。通常に「ご署名」したいところだが「ご氏名」欄であることは「楷書で名前を記入」のことが「ご署名」であらう。もう一つ。「本人確認の資料同封」とあり運転免許証だの健康保険証とあるが余の場合は国内の免許証もなく健康保険もなく唯一該当するものは「パスポート」なのだがパスポートの場合は「日本国内の発行するものに限ります」とあり更に「パスポートについては「顔写真」のページと記入済みの「所持人記入欄」両方のコピーが必要です」と。パスポートはあるが発行が在香港総領事館で、これでは「日本国内の発行するものに限ります」規定(そもそもこの日本語もヘンだが)を逸す。また旅券の住所欄に記載された住所が本人の手書きで任意であると思えばそれで住所確認することも大きな誤謬。みずほ銀行のお問い合わせコーナーに電話。銀行の届け出住所は実家にあるが海外在住で旅券が在外公館発行ではまずいかと尋ねると電話に出た行員だいぶ確認に手間取り「インターネットバンキングは国内在住の方が対象」と説明あり。なぜ海外在住は不可か理由の説明が欲しいとお願いするとだいぶ待たされ「海外在住でも結構ですが旅券の住所欄には銀行お届けの住所の記載があれば」との事。個人が記載できる住所での住所確認することの奇妙さは先方もわかっている様子なので突っ込まず。在外公館発行の旅券でも問題なし。日本国内の発行するもの、はどうやらパスポートは日本国旅券のみ認めることで外国籍の場合は旅券に代わり外国人登録証明書が必要。やはり「日本国内の発行するもの」の表記がおかしいのだが。でこの書類送ると確認書が届きネットバンキングの利用が可能。通常、ネット上のオンラインで申請して即刻利用可が世界の常識からはかなり不便。それでネット上の誤使用や犯罪がどれだけ削減できるのか。むしろ銀行の登録住所で郵便物受領できれば詐欺も可能。

三月十日(木)曇。友引で弔問の方も少なくひっそりとした一日。だが新聞に「おくやみ」出て突然のことにといただくお電話多し。地元選出の国会議員らの弔電届く。妹に小学から中学で同級のI君の営むパン屋に連れられる。小さな店はかなりの評判で客多し。葬儀に必要な日用品(弔事の物は日用ではないか)の買い出しに100円ショップに寄る。100円ショップなるもの初めて訪れたが噂には聞いたが家庭用品から仏具までの品揃えに驚く。妹には品質は問わず使い捨てのものなら、との話が仏具に過去帳あり100円で三代だかの供養か?と驚くばかり。マツモトキヨシにも寄る。これも品数に驚くばかり。香港のWatsonsなど比べようもなし。通りかかれば偕楽園の梅も満開。父の居間に入院の直前まで飲んでいたのであろう「雲海」の綾といふ焼酎あり。酒のことばかり綴るが昏時にお清めに清酒がないこと気づき復た太蔓川屋酒店。清酒と一緒にSpringbankの10年物入手。晩は家族で少しLouis Jadotのブルゴーニュ01年飲みチーズとI君のパン。美味。晩に昨日お寺に同行いただいたK氏来宅。明日からのこと少し打合せ。誰は呼んだか誰は弔報忘れていないかと話していたらはっと「カレンちゃん」と母と妹が顔を見合わせ誰かと思い返せば二十年ほど前に郷里の花街でかなり評判のフィリピンからのホステス嬢で昼は英語教える才媛。父もかなり贔屓にし彼女なら弔報送ればフィリピンからも来てくれるのでは?と思わず皆で懐かしく笑ふ。

三月九日(水)快晴の朝。ダニエル=バレンボイムのバッハ平均律を聴く。朝から弔問の方多くあつといふ間に昼になる。近所に太萬川屋といふ酒屋あり。河川敷の殺風景な道路沿いの酒問屋で誰がこの店に東京以北では有数のモルト並ぶと想像できやうか。遠くから客集まるが余も近所のこの酒屋がさうとは先日まで全く知らず。父の霊前に昨晩いちばん好きであつた日本酒供さうかと思つたら日本酒はちゃんと飲み残しなし。敬服。で日本酒購ふにこの酒屋初めて訪れる。確かに圧倒される如き三間ほどの棚に並ぶモルト酒。思わず喪であること忘れ見入る。父に秋田の「飛良泉」純米酒買い求める。昏時にかつて我が家で祖父の代より商売せし商店街の世話役されるK氏に同行いただき菩提寺真言宗豊山派神崎寺訪れ住職にご挨拶。晩遅くスーパー銭湯Yに一浴。

三月八日(火)快晴。朝九時過ぎ携帯鳴り妹より父逝去と訃報あり。航空券手配。諸事済ませる。母に電話。安らかに眠るように亡くなったと聞く。Z嬢と午後三時過ぎのCX500便にて成田。機中にレイ=チャールズの自伝映画“Ray”観る。04年の正月に正月を父と一緒に迎えるのはこれが最後かと惧れながら香港に暮らしてから初めての暮れ正月の帰省。秋に京都から1泊のとんぼ返りで父母と大洗の海岸の温泉に宿し来光を拝む。暮れには帰省しまた父と正月迎えたが父は正月二日の別れ際に「今度戻つてくる時までには元気になつているから」と。その一言が最後の語りあいと覚悟。それが今生の別れ現実となる。先週一晩の駈け足で入院の父見舞つたが父にはそれがわかつたかどうか。成田空港でレンタカー借り午後十時に実家に戻る。焼香にと来られた方もすでにお帰りになり母と妹のみ。父は本当に熟睡しているような安らかな顔。母の話では焼香にと訪れてくれた生前の何人もの父の仲よきご婦人たちが「寝顔は初めてみた」と口にしてとりやうによつては意味深な物言いに思わず居合わせた人たちが笑つてしまつたと。それも父の人柄か。晩になつても気温摂氏十度。昼もだいぶ暖かかつたと聞く。ふと
久かたののひかりのどけき春のひに静心なく花の散るらむ
といふ歌が心に浮かぶ。母は昼に祖父の句をひいて
いてきわみ風花散る中行き給ふ
と詠んだと聞かされる。看病に疲れている母寝かせ父の側に牀を敷く。
きびしさも目尻ににかくす笑ひ顔 のどけき春に行き給ふ父
居間の戸棚に満寿屋の原稿用紙あり写句。父の酒棚からニッカのモルトウヰスキーを開栓し霊前に一杯供える。物音一つせぬ静かな晩。

三月七日(月)晴。晩に近々帰国のA氏の送別会。北角の利休。胡瓜と茄子の漬け物からして美味。うどんすき。A氏同僚のT氏よりT氏ワシントン駐在時の興味深い話聞くがとても此処には綴れぬ噂の真相的裏話。終わって余が食酒の師と仰ぐもう一人のA氏と銅鑼灣のバーS。A氏のマッカランの1851インスピレーションなる酒ご馳走になる。亭主M氏にハイランドパークのマクファイルコレクションが明日には入ると教えられボトル入荷以前にキープ済ます。
▼昨日の蘋果日報にて陶傑氏、北京での董建華辞任や後継者憶測だのについて陶傑氏は清朝の「恭親王」の話持ち出し興味深き言説。恭親王は道光帝の第六子にて咸豊帝の弟にあたる。才知あり咸豊帝即位後に恭親王に封ぜられる。北京には英仏連合軍押し寄せる清末に時代に対欧米列強との交渉の役担い日清戦争でも清朝側のご意見番。清朝政府の重要な位置にあったが「鬼子六」と呼ばれる。道光帝の「鬼っ子」の如き第六子なる故。嫡子だのナンバー1ではないが重要な立場に置かれ、ただその存在ぢたいが権力だの構造をば揺るがす不安定さ。例えば毛沢東にとっての周恩来や登β小平、董建華にとっての陳方安生。曽権蔭が董建華にとっての鬼子六に当たるのかどうか。

三月六日(日)快晴。遠く馬鞍山まで見渡せる悲しくなる程の快晴。日刊ベリタに送稿。家事。昼からジム。ヴィクトリアハーバー眺めながら有酸素運動。ヘッドフォンから流れるのはQueen、Pink FloydとPrinceあたり。村上春樹の小説で主人公の少年カフカはPrinceばかり聞いていたが。ジムの窓から目の前の政府のヘリポートにヘリコプター昇降。董建華北京よりお帰りで警備用か。その光景も音楽がピンクフロイド流れるとフィルムのやう。帰宅。Z嬢と久々に散歩。バス乗り継いでミッドレベル。かつて住んでいたあたり。日ざし佳し。あれは昔のまま、これはこんなに変わつたかといろいろ眺めながら坂を下る。早晩にFCC。ベリタの記事手直し。Z嬢は寒くてHot Rum Toddyで余はドライマティーニ。K嬢お招き。K嬢今月末に帰国し神戸にて成婚。Z嬢と三人でお祝い。葡萄酒はSt. EmillionのCht.St-Georgeの00年。エスカルゴ、茄子のパイ、羊肉のチョップなど食す。デザートにXTCアイスのジェラートあり。ふと思つたのはXTCはフカヒレ扱う料理屋にはジェラート卸さぬと明言するがFCCの中華はフカヒレもあつたと記憶。

三月五日(土)昨晩遅くに聴いた高橋悠治のバッハ「ゴルトベルグ変奏曲」。淡々とした演奏の織りなす文も凄いが悠治氏のライナーノーツはもつと凄い。バッハの時代、まだ実際の平均律もピアノといふ楽器も完成されていなかったが音楽はすでに啓蒙主義による世界の把握を試みており、それは17世紀から始まる植民地主義と奴隷労働に支えられた欲望の文明のひとつの表現。世界は未だにこの普遍主義の押しつけからの出口を見つけられずにいる。このゴルトベルグ変奏曲は「紙の上の作曲術の規範にすぎなかった」が20世紀後半になり北米から欧州そして日本とコンサートのレパートリーとなった経路が新自由主義市場経済の流れと同じなのは偶然だろうか。現在では毎年のようにこの曲の新しい演奏のCDが消費される。悠治氏がその競争に加わってどうするのだ。「音楽の父」となったバッハの父権的権威への抵抗。音楽をその時代のパラドックスの環境にかえすこと。均等な音符の流れで縫い取られた和声のしっかりとした足取りをゆるめて統合と分岐とのあやういバランスの内部に息づく自由なリズムを見つけ(……と具体的なその作業についての説明が続き)もともとは鍵盤演奏の教育のために出版された音楽をバロックの語源でもあるゆがんだ真珠のばらばらな集まりと見做して初めて触れた音のようにして未知の音楽をさぐるのが毎回の演奏。その鏡から乱反射する世界を発見することが音楽を聴くことの意味。と言ったところでこれも事実の半分に過ぎない、と悠治氏は言う。あとの半分はきままな指についていく遍歴の冒険。ちがう世紀ちがう文化の死者の世界にいるバッハとの対話から織りなす現在の東地域の物語。農暦一月廿五日。驚蟄。朝の気温こそ摂氏十二度だかと低いが珍しく好天に恵まれる。昼すぎに裏山から大潭を抜け南岸の海岸まで走る。画像は1941年に英軍が日本軍迎え撃つべく山中に建造の野営の炊事場。日向はかなりの暖かさ。スタンレイを経てバスで帰宅。早晩にFCCのバー。ドライマティーニ。ラクサ食してウイスキーソーダ。テレビのモニタに董建華と胡錦涛国家主席の対談生中継で流れる。和やかな雰囲気。記者の前で突然董建華辞任の確定もすまひ。今週末だかの董建華の政協副主席就任の決定の後とならう。フェリーで尖沙咀。文化中心にて中国国家話劇院の『琥珀(Amber)』の公演観る。文化中心の大劇院にて六日連続とかなりの熱の入れやう。主演は『藍宇』の劉華で恋人役に『春天的狂想』『美麗的大脚』の袁泉。舞台設計と孟京輝による演出はかなりの水準だが寥一梅の原作と脚本による物語ぢたい余は政治性、因果や不条理ぶりなき恋愛物は好まず。主人公のキャラ設定が弱い。そのうえ演じるのが劉華。まだ垢抜けず。二時間半近い舞台でかなり抽象的な台詞の連続こなすだけでもさすが北京中央戯劇学院の英才で香港でこれだけの興業に集客ある俳優としての抜擢だろうがこの人は『山の郵便配達』など山間の純朴な青年演じると映えるが都会の「かなりギリギリな」帝王気取るには難あり。終幕での舞台でのカーテンコールでも挨拶した時に脚が凹脚に開き我の隣の客が二人で笑ふ。この役なら多少年くっているが『藍宇』で共演の胡軍こそ適役ぢゃなかろうか。フェリーで中環。帰宅。村上春樹『海辺のカフカ』読了。うーんやっぱり(笑)。途中までかなり物語に引き込まれたが結果「これか」といふ感じ。やはり15歳であの設定には無理あり。最初は「面白い子」だがやはり途中でもはや息切れ。後半は輝きも色気もなし。筋ではちょっとしたことだが気になる点もあり。たとえばナカタさんと旅する星野青年がカーネル=サンダースの紹介で高松のフーゾクでHする場面。おフェラで射精した彼は「浴槽にゆっくりと身を沈め」るのだがフーゾク嬢そのあと青年の「亀頭に唇をつけ、精液の残りを舐めてとりながら」とある。濃厚なシーンではあるが一戦終わってそのままベッド上で「亀頭に唇をつけ、精液の残りを」ならわかるが通常、一旦風呂で「浴槽にゆっくりと身を沈め」までしてそのあと亀頭に精液が残るかどうか。また中野区野方で交番に自首してきた殺人犯のナカタさんを「いいからもう帰りなさい」と扱って捕まえ損なった警官はそれがバレれば一大事とだんまりを決め込むのだが、それがバレて警察はナカタさん捜査に乗り出す。これは推理小説なら非常に重要な点だがファンタジーだから許されるのだろうか「彼は口を閉ざしていた。しかしなんらかの事情で??どんな事情かまではわからないんだけど??事実が露見してしまった。もちろん懲戒処分になった。気の毒に、一生浮かびあがれないだろうね」で済んでしまふ。話の枝葉なのだが井上ひさしならここで一つの挿話を置くであろうところ。

三月四日(金)曇。朝食に「鉄人ロール」なるロールケーキ食す。貰い物で何かと思えば料理の鉄人の坂井氏だかの商品だとか。確かに美味。夕刻「無印良品」の香港代表N氏の話聞く機会あり。80年頃の無印の商品開発から無印に関ってこられたN氏に他とは異なる香港の無印の「熱さ」の話聞く。早晩にペニンスラホテルのバー。ドライマティーニ二杯。帰りがけにトイレットに寄れば用済ませた客がトイレ係の職員にチップ渡すが赤色の札一枚……100ドルとは。思わず何かおスペなサーヴィスでも?と……まさか。上客が旧正月明けの最初の来臨だったのか。スターフェリーで中環。市大会堂にて王立アジア協会の講演会あり東京大学法学部の松原健太郎助教授(東洋法政史)が支那の(同じ祠堂をもつ)氏族の所有土地について新界の氏族の族有地(Ancestral Property)の所有権、相続権及びそれの慣例が支那の例えば「清」法や、とくに香港の場合、英国法での解釈とではどのような特徴が見られるか、などについての講義。聴衆はこの協会らしい化石の如き英国老紳士淑女に混じり高名な新界土地専門の弁護士など専門家多し。松原博士の早口な英語での講義に専門用語多く門外漢の余にはわからぬ点も多し。フェリーで尖沙咀に戻り文化中心にて「小王子復仇記」“Little Prince Hamlet - an interpretive adaptation”といふ舞踏観る。香港からはダニエル楊春江君、日本からは坂本公成、それにArifwaran Shaharuddin(マレーシア)、Mugiyono Kasido(インドネシア)の4名の踊り手に韓国の張在孝といふ打楽器のパフォーマーが参画。照明にはDumb Typeの藤本隆行。正直言って小公子とハムレットを下敷にした舞踏といふコンセプトは全くわからず。群舞としては昨年十月の“Laden2004”のほうが優。だがいくつか興味深き演出あり。踊りでは楊君の卓越は言うに及ばず。所作の素晴らしさは歌舞伎でもやらせたい程で(きつと歌舞伎も観ている筈)今迄彼の舞踏はかなり観たが歌うのは初めてで京劇の女役の科を作るも佳し。小公子の演出では妖精の如き装束でピアニカ演奏してみせたがさすがこれもお見事な芸達者ぶり。Z嬢と感嘆するばかり。舞台撥ね尖沙咀の日本料理・京笹に食す。満席で小雨降るなか外に待ち客あるほどの盛況。熱燗二合。ほっけ焼。葱ぬた。それに「ここまで香港の寿司は進化したか」と驚く「ワサビ巻き」なる寿司。地元客でも此処ほど飲酒と喫煙の多い店も他になし。煙草の「吹かし」だけは煙いからご遠慮願いたいが。帰宅して日刊ベリタに董建華辞任後の後任者任期について記事書き送稿。

三月三日(木)雛祭か。雛祭といへばかつて中野サンプラザにて恒例の雛祭コンサートあり。当時「イルカ」の弟子格で澤田聖子といふニューミュージック系アイドル歌手おり熱心なファンの友人K君に付き合い参観したことふと思い出す。先日香港空港でジッパーの外れたTUMIのキャリングの修理のため金鐘のレインクロフォード百貨店訪れる。事情説明すると修理終わりましたらお届けいたします。修理と送料は当然無料と。昔風の百貨店の良さ。諸事に忙殺され晩に急ぎケンチキに食し更に一つ大事済ませ二更に帰宅。雑事済ませ養命酒とブランデー少し飲み臥床。
▼母が切符購入し難き勘三郎襲名公演の観劇所望し久が原のT君に桟敷の席ゲット請ふ。その切符代をばT君の某みずほ銀行の口座へと此方から送金。するとT君の話では送金完了前に銀行より電話あり「送金の御用向きは?」と無礼な質問ありとの事。T君呆れて「倒幕の御用金」とでも答えてやろうかと思つた次第と。

三月初二(水)病院の病室には簡易寝台が用意されたがお世辞にも寝るを厭ふやうなやつで結局ソファに寝て朝を迎える。快晴。病院近くのバイパス沿いの和食屋で朝定食す。朝のワイドショーで犯罪者の扱いについて討論あり。「そういう犯罪傾向の強い人間、野獣ですよ、そういう連中のために税金を使って更正させる必要が何故あるのか?」などと発言続きバカな司会者がわかつたやうな顔で頷く場面見て気持ち悪くなる。テレビを消して思つた。犯罪者更正の理由は2つ。ひとつは経済的には労働資源である人間の再利用。もうひとつは筒井康隆的には自分がいつ狂気的殺人者になるか誰もわからないから、だらう。自分だつたら社会に復帰したいといふ希望。妹が来院。自宅に届いていた北一輝著作集だのフーコーの旧著、高橋悠治のサティ奏でるCD、それにお餅まで持つて来てくれる。伯父(父の兄)と従兄弟のS兄が来院。主治医の来診あり。母も父の親友H氏運転の車で来院。僅か一晩の父の見舞い終わる。昼に午後から仕事に戻るS兄乗せて病院を出る。近くのJR駅でS兄降ろし成田空港まで一時間余。かつては原野であった「地方」に小綺麗な住宅地と洒落たショッピングゾーンいつくもあり。これぢゃ都市の空洞化も当然。その新しい街とてもきれいだが。中上健次生きていたらかつて路地の物語がこの現代にどうなつたかと興味あり。レンタカーをホテル日航近くの営業所に返却。空港までその車でお連れします、ってそれなら最初から空港引き渡しにしてくれればいいのに。成田空港。急な渡航でキャンセル待ち昼までかけていたが晩の香港直行便は二便とも満席で台北経由のCX451便にチェックイン。廊下側指定せば三人掛けの通路側と言われ機体とシート尋ねたらカウンター職員は「機体はB747ですが長距離便ではありませんから古い機体なのでロングシートではありません」と素っ頓狂なお答えに笑ふ。ボーダフォンの携帯が昼頃から不調で空港ターミナルのボーダフォンのカウンターで尋ねると音量が1まで弱まっていただけと判明。恥ずかしいかぎり。書店で『諸君』となぜか村上春樹の文庫本で出た『浜辺のカフカ』購ふ。キャセイのラウンジ。病院ではネット接続できず(モデム対応の公衆電話あったがICテレホンカード専用とあり病院の売店も近くのコンビニもこのICテレカ売り切れで妹に聞いたら近々廃止になるカードで何処も扱っておらぬそうな)空港内のワイヤレスで接続。日刊ベリタに昨日書いておいた記事送稿忘れ搭乗。機内で今日の香港各紙には董建華行政長官辞任確実の報道あり「しまつた!」と思ったが遅し。今日ではもう確定情報ですでに報道も多かろう。じつくりと新聞読む。『諸君』は朝日とNHK問題特集でナベツネの朝日NHK論掲載されていると新聞広告にあり、それ期待して読んでもいつこうにナベツネの文章なく「あれ?」と思えば空港の書店で購入したのが間違つて『正論』であつた(笑)。特集のテーマもなら内容も殆ど同じでは間違えるのも当然か。偶然に昨日の香港→成田のフライトアテンダントがこの451便に搭乗。何人かに「あ、昨日のお二階の」と1泊の筋斗返りで多忙なビジネスマンと勘違いされる。お二階の、って此処はお茶屋か。「あらあら、昨日の今日でずいぶんお盛んだこと」つてな感じで。村上春樹『海辺のカフカ』読む。もうずいぶん昔に『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』だったか新刊で読んだきり二度目の村上春樹。先日マラソンしながら徒然思つたのは、嫌いである筈の村上春樹だが自分の世界の中でワンダーランドにて物語に遊ぶ、そのマラソンランナーと自分も実は同じぢゃないか、といふこと。すると翌日だかの新聞にこの『海辺のカフカ』が文庫になつたといふ広告あり空港で購つた次第。読めば主人公の15歳の少年は社会から退き図書館で本を読むのと唯一のもう一つの行動はナルシスト的にジムで鍛えるだけで(とてもそれが15歳の少年の実際とは思えず村上春樹自身の理想的15歳で、著者との唯一の違いは(であつて欲しいと信ずるのは)顔かたちだけか)而も物語の舞台となる高松から琴平電鉄の光景が偶然にも去年の秋に旅した旅程で舞台がとても鮮やかに想像できて読み耽る。飛行機は蔡明亮的な雨の降る台北に到着。摂氏13度。キャセイのラウンジのヌードルバーで牛肉麺と油醤麺まで食す。そのために成田からの機内食も余り食さず抑えたのも事実。美味。台北から香港に到着の間に『海辺のカフカ』上巻読了。さういえば昨年の正月二日にやはり同じ台北経由のこの便で機内で江藤淳『妻と私』読んで涙。香港も雨。機場快線の車内で日曜日に恰度この鉄道の上の道をこのような気温と雨のなか走つていたこと思い出す。二時間以上かけて走つた片道を僅か八分ほどで列車駆け抜ける。香港站からタクシーに乗れば競馬のラジオ中継の最終レース。馬主C氏のDashing ChampionとDashing Winnerがともに参戦であること思い出し慌てて携帯で馬券購入したが出走に間に合わず。結果二匹とも惨敗。帰宅して旅荷解き片付けに徹す。

三月朔日。朝七時半に空港。昨晩午後十時にフライト予約してCX504便にて成田。香港の空港の免税店に噂のGlenfiddichのHK$38萬のモルト酒あり拝む。パイプ煙草を空港で売っていること初めて知り購入。香港の市価より七割安。ラウンジで荷物整理していたらTUMIのキャリングのジッパーが外れ唖然。荷物鞄閉らず。搭乗時間迫りかなり焦燥るが冷静に考えればジッパーは幸いにもジッパーは左右からあり片側のを一周させて事なきを得る。搭乗し新聞五紙読む。朝のうちに新聞読了できるのが飛行機搭乗日に嬉しいところ。最近キャセイの機内食で香港ジョッキークラブと提携と宣伝しているが味の評判はイマイチで何のための提携かといえばジョッキークラブ側にしてみれば週に二日の競馬開催で非開催日の施設の催事場としての営業拡大も成功せず余剰の人的物的資源をば何処に回そうかといふところでキャセイ機内食との提携ではないか?(と推測)。機内でレイ=チャールズの自伝映画『Ray』の上映あったが新聞雑誌読み久々に日刊ベリタに董建華政協副主席に選出される記事書いており映画上映に気づかず。一瞬、機内からネット接続して原稿を送ろうかと思ったが余のPCも環境こそ整っているものの接続費が原稿料ではとても賄えず。成田着。イミグレには「イミグレを潜って通り抜けようとする一部の外国人がいます。もし見かけた場合は」と張り紙あり。日本人は悪いことしない、前提か。税関でまた「お仕事の関係で?」と尋ねられ海外に住むのは「個人の意思です」とは答えず。手荷物だけで着陸から15分後にはニッポンレンタカーのカウンター。トヨタのフィールダーといふ車借りて筑波まで千葉の田舎道走る。父の入院する病院に父を見舞ふ。マラソン完走せしこと父に報告。喜んでくれただらうか。秋のやうに建物や木々の影長き筑波の原の夕景。日暮れて母を乗せ常磐高速走り郷里の街。妹と三人でバイパス沿いのとんかつ屋で遅い夕食。母と妹と別れ常磐高速で筑波に戻り大型銭湯に一浴し三更に父の病院に戻り泊まる。
▼蔡瀾氏の主宰する「蔡瀾嘆世界」の高級志向の日本旅行ツアー「仙台篇」の広告が新聞にあり。
1日目:香港からキャセイの朝便(今日、余が搭乗と同じCX504便)で東京。帝国ホテルに泊まり晩飯はすき焼き。
2日目:東京から東北新幹線。福島で昼食(詳細不明)。仙台から秋保温泉の「佐勘」に投宿。宴会料理。
3日目:松島観光。昼は松島で海鮮のBBQ。午後仙台市内観光。秋保の「佐勘」に連泊。また宴会料理。
4日目:東京に戻り自由行動。晩は築地で河豚づくし。帝国ホテル泊。
5日目:築地魚河岸で買い物。晩に香港戻り。
で飛行機がエコノミー利用でHK$19,800。高すぎ。
▼アカデミー賞で娘コッポラの“Lost in Translation”が外語映画で受賞。あれは米国人にとって日本語映画だったのかと感動。
▼アカデミー賞だの香港国際映画祭だのでこの時期は新聞にも映画の話題多し。陶傑氏は今日の蘋果日報の連載で中国の往年の女優・阮玲玉について語る。日本で云えば、と言いたいところだが往年のヒロインなら原節子、高峰秀子……と誰でもいるし現役でも松坂慶子のような大女優もいるが美貌、演技よし、声好となると阮玲玉に応ずる女優がいるかどうか微妙。

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