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乾坤容我静 名利任人忙 乾坤は和訳に難き言葉なれど天地、陰陽、つまりは宇宙の理か。

わかりやすい言葉が跋扈すると、みんな目をきらきらさせて連帯を始め、ボランティア精神が賞賛され、強要される。そしていつか来た道になる。

■ 富柏村日剰サイト内の検索はこち ら
■既存の新聞に満足できないなら日刊ベリタを 読みませふ。富柏村の記事も「稀に」あり。
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■最近のブログ化のご時世に敢へてブログ化せぬ日剩を。の 心づもりでをります。敢へて全て讀むこと強ゐる日剩あつてもいゝのでは?と。
讀みにくいこと間違ひなきサイト乍ら今後とも御贔屓の程宜しくお願ひ申し上げます。

2000 年11月24日からおそらくあなたは番目の閲覧者です。

四月三十日(日)昼まで御所にて諸事。ふと或ることが契機となり堂本正樹『三島由紀夫の演劇』読み始める。久が原のT君から頂いた初版本(出版は劇書 房)。昼に中環の楽香園珈琲室に寄ろうと思ったら休みで隣家の黄枝記に 雲呑麺食す。午後早くジムで筋力運動と有酸素運動を各一時間たっぷり。閑散としたFCCのバーでハイボール一杯にポーランドのショパンという名の冷たい ウオツカをトロリと一杯。堂本本読み続ける。沙田の競馬は他レースは見もせずに本日唯一のクラス1(芝1200m)で見習いの徐君禮君騎乗の帝聖名駒 (Regency Horse)が14倍で昨日一点買いしておいたのが見事一着。でもやっぱりみんな見ているわけで6.4倍まで下がっていたのも当然か。競馬といえば天皇賞 のディープインパクト、中継で見たが思いっきり出走で出遅れ、で あの勝ちっぷりに驚くばかり。午後遅く真っ青な空。大気汚染がひどくないのは中国も大型連休で工場休業の影響なのだろうか。快晴。帰宅途中に銅鑼湾そごう の旭屋書店でアサヒカメラ5月号受領。ふと新潮文庫で三島由紀夫『佐渡公爵夫人・わが友ヒットラー』見つけ、堂本『三島の演劇』にも何ヶ所も引用あり、も う読んでから四半世紀以上過ぎているわけで凡そ筋すら朧げで改めて入手。帰宅。読書&酒飲み続けてながらピンクフロイドなど聞いていると夕暮れに西の空に 見事な下弦の月に見惚れる。新西蘭のオイスターベイのシャルドネなど飲みながら菠薐草のパイや昨日のデリのパテ(コンビーフだと思ったらレバーのパテで あった)、アスパラ、葱などいろいろオーブン料理。NHKスペシャルで「煙とカネと沈む島」という地 球温暖化テーマの番組見る(ほんと三題噺)。石炭に曇る重慶で二酸化炭素排出量の権利売買に臨む日本の商社、この売買で利ザヤ稼ぐ紐育のディーラー、温暖 化で家が浸水するツバル。ツバルの老人がもっとも賢者に見える。『三島由紀夫の演劇』読了。
生き永らえるという事と盲目という事は神秘的な関係にあり、文芸の 発生この方、この関係は現代に至るまで執念深く継続している。 とか
女とは今や、男の芸術を奪い去るしたたかな生き物であり、容赦しな い現実である。 なんて他になんて表現のしようもない一文がいくつも。三島『近代能楽集』のうち「弱法師」に関する文章が圧巻。
▼七月の歌舞伎座といえば猿之助率いる沢瀉屋一門であったが猿之助丈の復帰も能わず、で今年七月は大和屋の監修、主演で泉鏡花オンパレードでまさに納涼 か。昼の部の「夜叉ヶ池」は春猿をば抜擢、「海神別荘」が大和屋で相手は海老蔵。夜の部は「山吹」にご存知「天守物語」で富姫は当然大和屋で図書之助は海 老蔵。玉三郎が海老蔵相手に沢瀉屋一門率いて、という数年前には考えられぬ木挽町の七月。京屋が足穂の世界の人となりつつあり大和屋まさに君臨。五月には 世田谷で鼓童と競艶の「アマテラス」。すごすぎ。還暦 にはぜひ鬼太鼓座と一緒に。
▼ところで久が原のT君と海野弘先生の話となり博覧強記の大変な人ではあるが文章が愛を語っても愛の喜びや悲しみに深入りせぬところが海野先生らしいとこ ろ、と感じる。T君も我もお互いが遭遇する十年近く前なのだろうが中学生の頃にアールヌーヴォー手ほどきは同じくこの方。ビックリハウスや面白半分読みな がらも月刊太陽がけっこう好きで目黒のウエストでシュークリーム食すのが幸せ、な中学生であった。
▼昨日綴った都立高の元校長先生の発言。一つ気になったのは「挙手採決は学校の場に馴染まない」という主張。これは何通りかの意味がある、と市民運動家で ある武蔵野のD君より教示あり。「多数決でホントにいいのか?」ということ。多数決が民主的なようでいて「数が多い方の意見にしたがう」ということぢたい の教育的意義。寧ろ少数者には多数決でも奪えない権利がある、ということの方が重要、と。御意。例えば労組でスト権をたてて会社の最終判断を受けたあとス ト突入が収束かをきめるとき挙手採択せず。全員の意見表明をまわして、まず討論。もちろんここで一人一人が「収束すべき」とか「ストうつべし」とか意見述 べるがそれぞれに理由を述べるので全体の意見は何パターンかに収斂される。大勢が収束となっても何人かはなお納得せず。さらに議論を重ねるなかで「収束に 反対する意見に対して、どのように納得させることができるか」という点に論点が集約され、最後は「〜という点を留保するなら、収束に賛成」とか「〜という 少数意見を明記する条件で、賛成」とかいうふうに「全員一致」の結論にもっていく、と。全員一致という一党独裁国家が連想されかねないが実際には「民主主 義的な運用」というのも有り得る。それには「組織内の意見対立が先鋭化するのを防ぐ」という目的があり、現実には「組織内に意見の対立がある」ことを前提 として、その上で組織の統一を守るための手法でもあり。で、学校という場でも本来なら「挙手採決」はしないで済むならそれに越したことなし。教員同士に意 見の違いがあることはいいとしても、それによって対立したり人間関係がうまくいかなくなるのは望しからず。勿論、日の丸君が代などでは最終的に受入れるか 拒否か、で拮抗すれば「挙手採決」とならざるを得ぬわけで、そもそもこういった政治的issueを学校教育に持ち込む方が拙いのだが。で、この校長先生の 「挙手採決はなじまない」がどういう意味での発言なのか、正確にはよくわからぬ。少数意見の尊重云々に言及しておらぬので多少、否定的にもとったのだが、 実はこの校長先生、東京都の教員処分命令とその取消し求める訴えについて今年に入り開かれた都人事委審理での校長尋問で東京都の教育の異常ぶりに言及し処 分差し止め求める教員から拍手が起きた、という。その報道を見てはおらぬが、そういった経緯あった上での今回の朝日新聞での発言。まさに良心の呵責に耐え かねて、だろか。東京都であるから退職したとはいえ元学校長のこの発言では年金取消しくらいの処分にされたり、とか。
▼朝日が一面トップで「靖国」日米にも影、米の歴史観・アジア戦略と対立、と東京裁判六十周年特集の記事。「靖国」は対中韓だけでなく対米にも凝りあり、 と中韓と対峙する対局としての親米派に対して「ほらほら、やっぱり靖国は面倒でしょう」と警笛のつもりなのだろうが「靖国」の問題解決に中韓であれ、米国 であれ外圧をば用いなければならぬこの意気地の無さ。確かに米国にとって日本の親米派が実は靖国に通じる、米国に戦い挑み真珠湾奇襲の人たちで、親米など としては見せるが内心は小狡いと思われているのは明らか。
▼羅馬天主教で香港の歯に衣着せぬ陳日君枢機卿となりバチカンの対中関係どうなるか興味深きところ中国が中国天主教愛国会副主席(全人代でもキリスト教界 代表)の神父(馬英林)をバチカンの反対押しきって勝手に昆明教区の主教に任命。バチカンは「教会への介入」と反撥。中共もチベット教といいキリスト教と いい宗教への介入お盛ん。今回の勝手な任命、なにが興味深いか、といえば推測ではあるが教区の主教勝手に任命することなど中共にとっては日常茶飯事のは ず。なにせ中国国内は公式には中国天主教愛国会の傘下。それゆゑバチカンもいちいち中国政府の勝手な措置に反撥しておらぬのでは? しかも今回は場所が昆 明(雲南省)。愛国会副主席で全人代代表というほどの中共系カソリックの要人をばこの雲南省の辺鄙なる地に遣るのはまるで左遷だが中国のカソリックにとっ て四川省(成都)、重慶(直轄市)、雲南省(昆明)、広西チワン族自治区(南寧)は伝統的に伴天連多き土地。北京から遠きこともあり比較的、愛国会の傘下 にならぬ風土。その昆明に対しての今回の介入。60年代後半の組合自治のNHK徳島放送局(掃除婦のオバサンまで番組制作に関わったという)に神南から親 方組合の幹部乗り込むようなもの。だからこそ、のバチカンの反撥。……以上推論だが恐らく間違いあるまい。

四月廿九日(土)先帝陛下生日。昨日の折口先生(釈迢空)の色紙は所有者のT君によれば
いにしへゆ やまに傳へしかはいかり このこゑを われきくことな かりき
と書かれているそうで、漢字を当てれば
昔ゆ山に傳へし河怒りこの聲を我聽くことなかりき
となり、太古以来の本邦山岳河川の荒れぶりを詠んだか、と。本日昼まで諸事済ませ昼にHappy Valleyの上海弄堂にて菜肉饂飩(雲呑)。秀逸。雲呑の本来の飴の旨味。午後ジム にて一時間余徹底して有酸素運動。尖沙咀。スターフェリー埠頭のXTCに てチョコのジェラート食す。中国の労働節の大型連休の始まりで香港に大陸からの旅行者多いと期待してか法輪功の反中共政府の抗議アッピール活動尖沙咀にて 徹底した盛ん。香港芸術館。Mark Rothokoの展覧会(米国華盛頓国立芸術ギャラリーからの作品提供)見るつもりが見 逃して三月で終わっているはずの05年香港アートビエンナーレ未だ開催中で先ずは参観。勝手に「面白くないだろう」とタカをくくっていた自分が恥ずかしい かぎり。香港の都市生活モチーフにした実に香港らしい作品多くかなり楽しめる。でMark Rothokoの正直言ってアタシには「さっぱりわからない」。大画面を二つ三つの箱形に区切りに区切って彩色の抽象画が不思議な詩情と崇高さを湛えてい ると言われても感性乏しくそれが感じられず。今回の個展では寧ろ四十年代からの抽象主義に至る以前のヘタウタなシュールレアリズムのほうが「パンに生えた 緑やピンクの黴」のような淡い色彩で印象的。夕方、ペニンスラホテルのバー。 バーカウンターの奥の角席がいつも空いているのが嬉しいところ。ドライマティーニとハイボール一杯ずつ。尖沙咀の地下道の大道芸人っぽい物乞いがハモニカ と二胡で中島みゆきの「ひとり上手」演奏。上手。Z嬢と待ち合せLangham Hotel地下のMain St. Deliというデリ。いぜんから一度来よう、来よう と思っていても紐育のデリなんて銘打つかぎり一人前のポーションもかなりのもの、と二の足踏んでいたがZ嬢と二人ならシェアしていけるか、と。室内は ちょっとツメが甘いが紐育のアールデコな内装。予想通り前菜からかなりの量でコンビーフのパテとパンは手をつけずにお持ち帰りにしてもらいメインのビーフ バーガーも二人でシェア。それでも老人には十分な量。これまで香港でのバーガーはDan Ryan'sが一番美味いかと思っていたが此処のバーガーの瑞々しさ、あっさりとした味付けはかなりイケる。MTRで葵芳。葵青戯院。ccdc(城市当代 舞踏団)の舞台で《風・水》参観。一ヶ月前の舞台《剛柔流》Iron and Silkは正直言って落胆したが今回の《風・水》のうち《風》は余が香港の舞踏家のなかで最も期待のDaniel楊春江君の演出(本人が舞台に出ず演出に 徹するを観るも初めて)。《風》は何よりも照明(Billy陳焯華)秀逸。奇を衒わず基本的なライティングなのだがこの劇場の照明設備の充実を見事に使 う。奈落の使い方も面白く、敢えて不便なこの劇場使う意図に納得(葵青戯院は九十年香港バブルと今はなき市政局の徒花的公共施設)。ccdcのいつも見慣 れた踊り手らも総監であるWilly曹誠淵氏やHelen黎海寧女史の演出を離れDaniel楊の(楊君本人は否定するだろうが)かなり台湾の雲門舞集を 意識したような気功の世界で活き活きと舞う姿が新鮮。但し雲門舞集の踊り手らがもはや一つの有機体の如き態に比べればまだまだ個々に動いている感は否めぬ が。照明と映像の使い方もピンクフロイド的な幻想の世界。残念なのは途中から、気功の世界がなんだか「未知との遭遇」みたいになってしまったこと。いずれ にせよさすがDaniel楊と思わせる見事な演出。すでに年齢的にも本人が跳んで刎ねてではないであろうし香港で舞踏演出家としてWilly曹誠淵を越え ていってもらいたいところ。後半は梅卓燕演出の《水》。この劇場は間口も20m近くあるばかりか奥行もバックステージまで舞台として使えて同じくらいの深 度ありこの《水》は舞台の奥行上手に用いたことは評価できるが道具や装置、収音などの効果に凝りすぎダンスというよかドラマの如し。それならそれで《水》 というテーマであるから映画でいえば「雨」に拘る蔡明亮的なこれでもか、の「本水」期待したが実際の水の用い方も洗面桶でちゃぷちゃぷで中途半端。あれな ら本水にせず水の見立てでよかった筈。本日朝から合間合間で松葉一清の『帝都復興せり!』文庫版を読み深更に読了。1935年に発行された『建築の東京』 なる震災復興後の帝都の建築紹介した本を松葉氏が八十年代に再び歩き、それをもとにした都市論。97年に発行の文庫本読んだがすでにその新刊から文庫への 十年でいくつもの帝都の建物がこの世から消える。松葉一清であるから当然、この本は単なる懐古主義や帝都万歳、アールデコへの耽美主義に終わるはずもな い。都内の小学校の建築に完全なまでに近代の思想が反映したこと、四谷第五尋常小学校(現在の新宿区立花園小学校、現存)の建物に象徴されるインターナ ショナルスタイルが「インター」ゆゑ赤化思想の建築様式として弾圧されたこと、帝国主義と「自由」と「倫理」の鬩ぎ合い、その復興建築の自由が収斂されて ゆく態、建築での国粋主義の登場までを見事に紹介する。結局、その自由闊達なる帝都の建築が最後は新古典主義(例えば安井武雄、満鉄東京支社ビル)や帝冠 様式(渡辺仁、東京帝室博物館、満州新京(長春)の旧満州国務院などまさにこれだろう)に陥ったことをファシズムの思惟の現われ、と結ぶ。月刊『東京人』 での巻頭エッセイで松葉一清という人の筆致に憧れ氏の連載中断とともに長年購読の同誌をば購読断ったほどの「松葉好き」には勉強になる一冊。アントニン= レーモンドという建築家の存在はフランク=ロイド=ライトの弟子ということで知ってはいたが聖路加病院の旧舎が実はレーモンドの原案が他の外国人建築家 バーガミニーによって奪われた経緯や帝都の戦前の米国とソ連の大使館がいずれもレーモンドの設計であったことなど興味深く読む。都市論として一級の教科 書。
▼アンソン陳方安生女史の創価学会訪問という話。畏友より聖教新聞の切り抜きいただき子細知る。創価大学での名誉博士号授与がそれ。創価学会とは彼女の母 である方召リン女史の個展開催したりの親密さだが、もともとは96年に池田大作君が香港大学で名よ博士号授与の折にアンソン陳方安生と母の方召リン女史も 一緒に名誉博士号授かったようで、それ以来の仲か。今年二月の方召リン女史の逝去でアンソン女史が絵画や遺品など池田先生に贈られ、今回は創価大学での名 誉博士号授与と「新しい時代の女性の生き方」だとか記念講演したそうな。創価学会のサイトばかりチェックしていたが創価大学のサイトにこの記事あり(こちら)。
▼日本政府は教育基本法改正案閣議決定し国会に提出。小泉三世国会会期延長せぬようでこの法案が果たして会期内に成立するのか、会期延長してまで通すの か、継続審議か微妙。いずれにせよ自民党にとって「戦後憲法に沿った教育基本法が行き過ぎた個人主義横行させ教育を歪めてきた」わけで、若者や子どもによ る凶悪犯罪、学級崩壊からいじめまですべて行き過ぎた個人主義に原因があり公共性軽視のつけ、と見る。自民党のセンセイ方こそ政治家として公共性無視して 行き過ぎた個人主義で勝手気儘のやりたい放題で利権特権の横暴少なからず。若者の心の荒廃どころか寧ろ戦後のその行き過ぎた個人主義(=自分勝手)の恩恵 をば得たのが誰か胸に手を当てよく考えてみるべき。教育基本法改正して社会の若者とりまく問題が解決できるとはちゃんちゃら可笑しい話。それにしても改正 に賛成の日本会議など会長(三好達)は元最高裁長官。最高裁長官が不偏不党どころかここまで偏っているのだから日本など三権分立などありゃせぬ。
▼朝日新聞の「私の視点」に渡部謙一という元都立高校校長が東京都の命令で都立校の職員会議での「挙手や採決を禁止」について「現場の校長の深いため息」 が実感であり「自由な議論を深め、互いに学び合い、より質の高い合意形成を図っていく」ものが職員会議であり「意向が反映されないで誰が意見を言うでしょ うか、意見を言えないでものを考えるでしょうか。これは、ものを言うな、ものを考えるな、黙って従えというに等しいこと」と指摘し「特定の教育観をおしつ けるために、異論を排除するものとしか考えられない」と主張。この元校長は戦後すぐの文部省の通達を引き合いに出す。
学校の経営において、校長や二三の職員のひとりぎめで事をはこばな いこと、すべての職員がこれに参加して、自由に十分に意見を述べ協議した上で事を決めること、そして全職員がこの共同の決定にしたがひ、各々の受け持つべ き責任を進んではなすこと。(1946年「新教育指針」)
真の指導性は、外的な権威によって生ずるものではなく、人々の尊敬 と信頼に基づいて、おのずから現われることが、その本質をなすものである。(1949年「小学校経営の手引き」)
この元校長がすでに二年前に引退し自由の身であるから、ここまで言えたのは事実。現役で新聞に、しかも産経新聞に都教委の命令に理解示す論調ならまだし も、朝日新聞に反対の主張では、まず現役校長なら「指導性に疑問あり」で自殺行為。ではこの校長が「都立校でもこんなアカ先生が校長になれたのか!」と思 うのも間違い。この校長先生自身、「職員会議での採決決定」については学校に馴染まない、と一定のところには理解示す。だが良心の呵責に耐えかね、の今回 の主張であろうし、現役校長のなかには溜飲が下がる思いの方も多かろう。

四月廿八日(金)大雨。焼酎の酔いこってりと残り二日酔いの不快感どころか未だ心地よき酔いに朝から銅鑼湾の文輝にて紫菜墨丸河など食す。早晩にジムに行くにもまだ足許がふらつく 感じもありPacific Coffeeにて早晩に珍しく珈琲など飲みながら新聞数紙に目通し帰宅。NHKのNW9で横田めぐみさん母が米国議会公聴会に出席の報道20分ほど続くが 華盛頓支局からの生中継にめぐみさん母に対して神南のスタジオのキャスター二人は質問がずっと「どのくらいお母様の気持ちが伝わったと思いますか?」幾度 となく聞き返すばかり。キャスターも未熟だがこの話題で20分引っ張る制作にも難あり。硬派の報道番組というわりにはいつも「被害者の悲しみ」に頼るばか り。
▼旅券といえば武蔵野の住人D君三月上旬に旅券取り直しの際「受領を20日までお待ちになれば、ICチップ入りが発行されるんですが、それ以前ですと従来 通りのものしかお出しできないんです…」と担当職員に「数日違いで最新式のパスポートをお出しできなくて申し訳なそうに」言われたそうな。壁のポスター見 ればテロリストが偽造できなくなりますくらいのことしか書かれておらず。それで困るのは国の方で利用者側のメリットに非ず。国益に貢献できるってのが国民 の幸せ、か。
▼今月の歌舞伎座での六代目歌右衛門の追善興行。昼夜随一の出来は当然京屋、とT君讃める。京屋のカタチの美しさは先だっての豊後道成寺と変わらず、更に 無常感すら漂う内的風情。舞いでいえば内も外も静止画像的な武原はんに対して京屋の凄さは外は静止していても内は物凄い速さで動いているところ。もはや 「地球」、とT君形容。固い地盤の秘奥には灼熱のマグマが滾り回流る。星になった京屋。播磨屋の「井伊大老」も加賀屋相手に地味に抑えた演技に身近に迫っ た死を感じ取る賢人の心理横溢、という。三谷や串田とは無縁の「歌舞伎役者の旧手法でしか生きない新作歌舞伎」も捨てたものではない、とT君。草 彅剛君の菊池寛原作「父帰る」「屋上の狂人」も予想上回る見事な舞台だったそう。演技にハマッタ時の集中力と、自己解放の自然さとの同居。「父帰る」で家 長代行をしてきた長男の、父に対するルサンチマンと焼け付くような愛情は前者の美点が生き、「屋上」で、24歳になるまで金比羅さんの天狗舞を空中に幻視 し続けた幸いなる狂人の明るさは後者の美点。……嗚呼、東京で芝居がもっと観たい、と痛感。
▼そのT君より神田で購った折口先生(釈迢空)の短冊と色紙のうち色紙(画像)見せていただく。昭和七年の筆。短冊は折口先生が卒業生によく贈ったという 「さくらのはなちりぢりにしもわかれゆくとほきひとりときみもなりなむ」だったそうで、それにしてもあまりに独特の書き振りの折口先生、この色紙など余に は正直言って全く読めぬ。

四月廿七日(木)晩にA氏のお誘い受けS女史と三人で銅鑼湾のまだ開店早々の湖 舟といふ日本料理屋に食す。Quarry Bayの太古坊にあった料理屋Sの親方がこちらに。美味い海鞘のつきだしに始まり馬刺しなど頬張り届いたばかりの鰹の刺身。美 味。三人で吉兆宝山という焼酎を一升ぺろり。バーSに寄るが いきなり足にキテバーのカウンターの椅子に坐ろうとして思いっきりコケる失態。
▼小泉三世メールマガジンにて首相就任五年振り返り景気回復や不良債権などにつきさんざん自画自賛。その上で今日日問題の「社会的格差」につき
最近、格差についての議論をよく耳にしますが、格差というのはどの 時代でもどの国にもあるものです。かつては、悪平等という批判もかなり言われていました。努力しても努力しなくても同じというのでは、悪平等になってしま います。一人ひとりが持てる力を発揮できる社会、努力が報われる社会というのは、世界中どの国でも好ましい社会と言われているのではないでしょうか。力の ある人には、努力して、もっとその力を伸ばし、思う存分発揮してもらう。それが社会の活力になるのだと思います。
と宣う。不思議はこの社会的格差につき「力があり努力すれば報われる」層と「報われない」層で、この報われる層は首相など誰でも報われているわけでいちい ち小泉三世だからと支持しまい、どうも報われる層より報われない層に小泉支持があること。この五年で生活が厳しくなった人たちが素直に小泉三世支持という のは、まさに「痛みを分かち合おう」の結果か。とても嗤えぬ。怖さ。
▼外務省がこの春から導入の新型IC旅券。 Z嬢の新規発給のものを見せてもらったが、ひとこと結論を言えば「きわめて使いづらい」。問 題はICチップと恐ろしや「通信を行うためのアンテナ」埋め込んだプラスチック製の頁が「こともあろうに」「誰が考えたのか」旅券の中央頁に。折り曲げ厳 禁の厚い頁のため、何が不便かといえば「旅券の頁を捲れない」こと。入出境の手続きの時にイミグレ職員が入境スタンプや渡航ビザ確認のためパラパラと旅券 の頁を捲る機会は多々あり、かなりの不便。ICチップや恐ろしいことだが通信アンテナなど「我が国の高い技術力」からすればかなり小型薄型化できるわけ で、例えば曲げても平気とか、旅券の表紙の裏の片隅にでも埋め込むとか、出来よう筈。それをまぁ何が悲しくて旅券中央に厚さ1mm近い一頁大なのか。「ど うぞ、この頁が大切ですから複製できるならしてください」と言わんがばかり。しかも重く、嵩張る頁が旅券本体に糸綴じされているだけのため旅券が何年も酷 使されれば頁ぢたい捥げることも明らか。もうズボンのポケットにいれることもできぬ。拙策としか言いようなし。かりにズボンのポケットにいれて坐った拍子 にプラスチック頁が割れて破損した場合、やはり再発行は利用者自己負担なのだろうか。……と不審なる点多く外務省のQ&A読めば更に、この旅券の くだらなさ明らか。
Q IC旅券になると空港などの審査が速くなるのですか。
A IC旅券をどのように活用して本人確認するかは各国の入国管理 当局の判断によりますが、IC旅券の利用方法としては以下のことが考えられます。
(1)これまでと同じように、入国審査官が旅券の顔写真と本人を見 比べて同一人であることを確認する。
(2)ICチップの画像を読み出してディスプレーに表示するととも に、本人及び旅券面の写真とを入国審査官が目視により比較し、同一人であることを確認する。
(3)本人の顔をカメラで撮影しICチップの画像と機械により照合 することで、入国審査官の目視確認を支援する。
(4)IC旅券を利用して出国・帰国審査を自動化する。
(2)〜(4)の利用方法については機器の開発や設置などの準備を 必要とするため、直ちに入国審査を迅速化することは困難でしょうが、少なくとも(2)の機器が設置されることにより、旅券の真正性の判断(偽造や改ざんが なされていないことの確認)が容易になり、その点に関しては審査がスピードアップする可能性はあるでしょう。
と全て「想定」での話なのだが、外務省は(2)だけは明らかに審査円滑化として挙げているが、これは明らかに間違い。だいいち空港のイミグレなどで担当官 が旅券ぢたいの偽造の有無などこれまでもきちんと確認しておらず。これまでの旅券でも旅券番号や氏名、生年月日など基本データは旅券表紙裏の顔写真頁の下 部にある数字化されたデータ情報で機械読み取り可であり広く実施されており、寧ろ旅券の印字記載情報とICデータ情報と本人確認で審査が複雑になるのも明 らか。
Q ほかにIC旅券を持つことのメリットは何かありますか。
A 偽造や改ざんが困難なIC旅券を持つことにより、万一、旅券が 盗難にあっても、貴方の身分を装った不正使用に対する抑止効果が期待されるのです。その結果、日本国旅券の信頼性が向上し、出入国手続がスムーズになると ともに、我が国に対する査証免除の維持や拡大につながることが期待されます。
これも「座布団一枚!」くらい大笑い。かりに自分の旅券データが複製され自分本人を語るテロリストが活動し自分が国際氏名手配か、米軍の射殺指令対象とで もなっていれば別だが、不正使用の被害に遭う確率など0に近いほど低い。その結果「日本国旅券の信頼性が向上し」「我が国に対する査証免除の維持や拡大に つながることが期待され」など雲をつかむが如き空論(我ながら「雲をつかむが如き空論」の比喩はきれいだ)。
でICデータの破損については
Q IC旅券で外国に入国するとき、その国にICの読み取り装置が なかった場合は、審査に時間を要したり、入国できないということにはなりませんか。
A 読み取り装置がない場合は、入国審査官がIC旅券もその他の旅 券も同様に審査を行いますので、IC旅券であるために不利益を被るような扱いを受けることは考えられません。
Q もし、出入国審査時にICチップが壊れていることが分かったと きはどうなりますか。
A ICチップに書き込まれた情報は旅券面の情報を電磁的に記録し たものです。IC旅券はICチップの情報と券面情報を比較して偽変造の有無を確認することができますが、ICの情報を見なくともこれまでどおりの審査を実 施することができます。したがって何らかの事情でICの情報を読み出すことができなくとも、それのみをもって入国を拒否されるということはありません。 (略)
と、結局、ICデータなど実はどうでもいい実態。それなら「なぜ、こんな面倒な旅券」と思うが、このIC旅券は宗主国たる米国の旅券対策、ビザ条件に従っ ただけのもの。情けないことに
Q 米国のほかにIC旅券でないと入国が制限される国はあります か。
A IC旅券でないとビザを要求する旨発表している国は、現在のと ころ米国以外にはありません。
だそうな。米国のためだけにいったい何億の公金投じてのIC旅券化なのだろうか。私のように「米国へは断固行くまじ」という者にとってはただのいい迷惑。 我が国の国民にとって国家への帰属をもっとも強く意識する、菊のご紋章いただく旅券においてこの単なる米国追従の情けない態。保守反動右翼の諸君は何故、 外務省に対して「我が国の旅券の米国追従反対!、誇りを持て!」と主張せぬのだろうか不思議。ちなみにEUが確かIC化に応じていないのではなかっただろ うか。中国も香港特別行政区も私が調べた範囲ではIC旅券化は想定外。……で最後の猜疑(笑)は
Q ICチップが壊れたときは新しい旅券と交換しなければなりませ んか。
なのだが、もう上述の消極的な現状で答えは明白、
A 上記のとおりICチップが作動しなくなっても旅券として無効に なるわけではありませんので、新しい旅券に切り替える必要はありません。
というのが結論(笑)。つまり「壊れてしまったら」そのままでよし。米国に行かないのなら尚更のこと。個人情報管理強化に反対の人士であるとか、旅券を意 図的に破損してはいけないが、不可抗力で自然に毀れてしまえば、それまで哉。極端な話、上述の、旅券が傷みプラスチック頁が捥げてしまった場合、そのまま でいいのかも知れぬ。
▼築地のH君より中井英夫の戦中日記の記述を貰う。(「中井英夫戦中日記 彼方より<完全版>」河出書房新社)
(昭和十九年)十月三日
新しい小學校の三階。校庭では體操の時間で二百名くらゐの女の子男 の子が騷ぎ立てゝゐる。水色、赤、青、黄、華やかな彩どりのいきものが、この二三日、兵器ばかりいぢくつてゐた眼にいとほしい。
集つて、あしぶみして、歌を唄ひ出す、「豫科練」を「七つ釦は櫻に 碇」を。ふいに先生の鋭い聲がする。じつと指さゝれてゐる、一人の子が。
──あの子はうたつてない。
その子よ、わづかにめぐみ出した嫌惡の心を、ひとりしづかにつちか ふがよひ。やがて咲く不幸の花にいくたび涙させられることはあつても、そこにこそ詩の故郷はあるのだから。そこにおまへが、詩人の名を得られるのだから。
このさはやかに晴れわたつた秋のひとひ、空には飛行機雲がいくすぢ か絲をひゐてゐる。賑かに、邪氣もなく(?)群れてゐるみんなの中でたつたひとり、歌をうたはなかつた子供、萬歳。
あの子はうたつてゐない、その聲にたぢろいではならぬ。
ヘイ、をかしくつてうたへません、ト。
わたしはひとりでゐたいのです、ト。
必要ならばいつでも列を離れてしまへ。
六十年前の懸念が今の世なら独り国旗、国歌に反撥する子や教師の如し。H君曰く今日日の「惨状」をば先の大戦で「負けて目覚めるしかない」と思い託し死ん だ臼渕大尉に見せられるかしら、と。『男たちの大和』観て過去に感動し泣いている場合ぢゃない(しかも、かなり脚色された過去だ)。この書籍「完全版」刊 行は昨年の六月。今春の卒業式シーズンに、この日記一節紹介のコラムが新聞に載ったかしら。ちなみに中井英夫は「虚無への供物」書いた推理作家で山田風太 郎と同年生まれ、終戦時は廿二か廿三歳。昔の青年は大人だ。
▼昨日の朝日外報面の「特派員メモ」で巴里から沢村瓦なる記者が巴里のデモの「共感の輪」かなり好意的に紹介。支局長冨永某とは産経と朝日の如き異説。一 方、東京新聞には経済部(久原穏記者)が
「社内では「あの民衆パワーはすごい。日本も少し見習うべき」なん て見方がある。確かに、あの政治的意思表示の行動力は日本にない。でもベクトルが間違っている。改革を阻める状況かと問いたい」「EUで、ひとりグローバ ル化に背を向けていられるわけがない。なのに内向きの保護主義を進めるばかりだ」「改革をたたきつぶしてばかりの”ノンの国”は衰退する」
と書いているそうで、まるで富永的。それにしても「みんながやってるのに」「世界の流れは」……の論調の思考力の乏しさ也。

四月廿六日(水)小雨。早晩にジム。一時間半の有酸素運動。帰宅してカレーライスなど食す。競馬中継あり。春風化雨(Rain in Spring)という、この季節に風流な名前の馬が参戦し今晩はこれに賭けようと思っていたら退出。第6、7レースのDT(2レースの三連複連勝)は二頭 ずつ当っても「あと一頭」当らず(たられば、だが当っていればHK$10が1,000倍くらいになるのだが)。二日も続け平日の晩に運動したせいか身体が 慣れ ず睡魔に苛められる。
▼信報で曹仁超氏の連載に「四萬赴日攞大奨」と見出しあり何かと思えば陳四萬(元政務長官陳方安生女史)が創価学会から何だか表彰受け訪日中と曹氏昼飯の雑談で耳 にしたそうな。まだ創価学会サイトでもアンソン陳女史訪池は確認できず(英語サイ トのほうが何かとこういった情報早い)。池田先生来港の時には政務長官官邸で夕食、歓談するほどでアンソン女史の学会訪問も今更驚かぬし世界中の VIPにとって創価学会から受勲も珍しい話でなし。ただアンソン女史が香港の民主化につき発言も増えておりポストSir Donaldでの行政長官選挙に民主派統一候補で出馬?などという噂すらあるなかで、この受勲はそれなりに注目される話。創価学会側も親中姿勢堅持するな かで敢えて「香港のオバサン」に授勲することは多少なりとも徒に北京刺激しないものだろうか。
▼朝日新聞でイタリアのMarco Bellocchio監督の“Buongiorno, Notte”を紹介。今月末より渋谷ユーロスペースで上映。邦題は素直に「夜よ、こんにちは」。78年の「赤い旅団」事件を題材に 監督曰く「思想に縛られて身動きがとれなくなった悪しき左翼の姿」を描く。中道左派聯合から伊下院選挙に出馬の Bellocchio監督は「今の政治には思想がない。思想があるところには人間性と愛がない。でも私は、思想と愛は両立すると信じている」と恰好いい。 映画にはピンクフロイドの“Shine on Your Crazy Diamond”、“The Great Gig In The Sky”などが劇中歌に。香港国際映画祭で掛からなかったのが残念なところ。
▼25日のSCMP紙Life面に一面大で“A cry from the dark”という記事あり子どもの性的虐待について。Kelvinという二十歳だかの青年の悪夢は七歳の時にピクニック先の郊外で年上の従兄に「レイプ」 された時から始まった、と。これがトラウマになりずっと精神に毀傷を生じ青年時にカウンセリング受け慈善団体の指導で同じような被害にあった者と痛みを分 かち合うことでようやく立ち直りの兆しあり、子どもの性的虐待の実態を広めようと今回そのキリスト教慈善団体のCaritasから手記とか。一瞬、子ども の心の傷、立ち直り、社会的正義など想像するが、言葉ばかり格調されるキョービの世界では何処までが異常なのか、何処からが寧ろ異常なのか、いろいろ慎重 にならざるを得ず。まずこの「レイプ」がどれほどのものか。レイプというとレイプだが、例えば我々がまだ子どもの頃の「お医者さんごっこ」、年上の近所の 子や親戚などに教わった性的な悪さ、けっこう際どいところ迄もありやなしや。今でこそ言葉の氾濫で性的虐待から「プレイ」の戯さまでレイプ、レイプと言わ れるが。昔であれば言葉の氾濫もなく、年相応で経験する様々なことが言葉と情報の横行の結果、例えばキョービの二十歳の青年が七歳の頃といえば僅か十三年 前。かなり慎重に見るべき。中上健次なら小説の物語のエピソードにすぎず、ミシェル=フーコーならむしろ慈善団体のまなざしに視点を当てるはず。この手記 を読んでおらぬので断定は避けるべきだろうが、不幸な環境の子どもが売春強要させられるなら大事だが、かりに昔からあった自然な性的な悪戯の類いまで性的 虐待と判断されるようなことがままあるのがキョービの世界。「……なことして」だの「……なことされて」が昔なら親に言っても「何をバカなことやってんだ ろうね」で「さっさと勉強しなさいよ!」で終わっていたであろうし、教会で懺悔などしてしまったら聞いた神父様が悪い人で……という更なる危険に晒された り(は冗談にしても)、今はむしろ慈善団体だのマスコミだの公共広告機構だのが「こんなひどいメに遭っていませんか?、大丈夫ですか?」と質すことで 「あ、ある、ある」で事態が「発覚」し問題視され社会不安を煽る、という社会が此処に。で煽られたところで世の中など、そう簡単に健全になり不安が解消さ れる筈もなく、ただただ不安増大し脅え続け、さらに社会の健全化への徹底した管理など厳しくなるばかりか。

四月廿五日(火)百年ぶりに早晩にジム。湾仔の春園街の楊春雷にて涼茶を飲んでからジムに行くお決まりのコース。一時間徹底して筋力運動。帰宅途中に食材 購い自宅で豚生姜焼きと有機野菜沢山鉄板で焼く。NHK4月番組改編にてニュース10の今井環氏のあの「人の良さ」、悪く言えば毒にも薬にもならぬアエラ 的な姿勢も番組打ち切りで見られずニュース番組はNW9となりNHK の堅物記者「会津の男」柳澤秀夫のアンカーぶり初めて眺める。NHKにしては「皆様の」でないクセのある姿勢もいいが晩9時のニュースというわりには華が ない鴨。いずれにせよ日本の「報道」番組のいい加減さ、役立たずはご他聞に漏れず。例えば大型連休の海外旅行という報道で成田空港から中継。「大型連休を 前にすでに海外旅行に向かう人たちが……」と画面には出境手続きに向かう人たち写すが、普段の成田となんら変わらぬ風景。実際にこの人たちのどれだけが 「大型連休前の観光旅行」なのかなど誰もわからぬ。がテレビ側が勝手に「大型連休前の……」にしているだけ。続いて「海外でのリゾートなど観光地狙ったテ ロ」の話題。大型連休で海外に渡航する人も多いわけですが、と最初に旅行代理店の担当者に取材。「最近の情勢を見ていますとネパールやフランスでの反政府 デモなどは事前に状況がわかっているわけですから現地の情報を入手できますし、海外渡航の場合は事前に外務省の渡航情報などを参考にして……」とこんな 話、旅行代理店に言われる必要もなし。会津の柳澤氏は顔に「くだらないコメント流すなよ、まったく」と明らかに書いてあり憮然とした表情で「海外での安全 は、確実な情報なんてないわけですよ。自分の身は自分で守る、結局はこれしかないわけで……」と、おっと、NHKにしては「皆さんのためにならない」本音 トークと期待。だが続けて「海外に出たら、海外は日本じゃないわけですから危険がともなうわけで……」と、おいおい、結局ここに落とすか、で残念。さんざ ん高校生の老人殺害だの12歳の母親殺害など一連の少年殺人報道した上で未だ「日本は安全」でコメントまとめるとは。こんなことが報道番組で流れるのは世 界でも日本だけだろう。これは報道ではない。ただ幼児相手の「お出かけする時は沢山の人がいるから気をつけてね」。それを晩の9時に報道番組として流し視 聴者がバカ真面目に見ているのがちゃんちゃら可笑し。JR福知山線の脱線事故から1周年、も延々と悲しみも癒えぬままの遺族の姿映すばかり。補償がどう なったのか、JR西日本は何がどう改善されたのか、など一切「報道」なく、被害者の遺族をば同線の列車に乗せて不安など語らせる悪趣味。制作サイドも制作 サイドなら遺族も遺族でよくしゃべる。不思議な世界。
▼着々と教育基本法改正に向けて動く。自民党の安倍某も「自民党結党以来の悲願」と、このへんは自主憲法改正は自民党結党での党是であったはずだが教育基 本法は果たして「結党以来の」悲願であったかどうか。保守派の間で「癪に障る」教育基本法改定の動きが今日に至ったのは事実だが。このへんいついては小熊 英二先生あたりに解明してもらいたいところ。ところで自民党は教育基本法改正に熱心だが昭和22年の衆議院での教育基本法案委員会での討議記録など読んで みると第十条の「教育行政」について「不当な支配」とはどういうものを指すのか、という質問に対して政府(文部省調査局長辻田力氏)は
第十條の「不當な支配に服することなく」といふのは、これは教育が 國民の公正な意思に應じて行はれなければならぬことは當然でありますが、從來官僚とか一部の政黨とか、その他不當な外部的な干渉と申しますか、容啄と申し ますかによつて教育の内容が隨分ゆがめられたことのある。(中略)そこでさう云ふゝうな單なる官僚とかあるいは一部の政黨とかいふゝうなことのみでなく、 一般に不當な支配に教育が服してはならないのでありましてこゝでは教育權の獨立と申しますか、教權の獨立といふことについて、その精神を表はしたのであり ます。
と答弁。キョービの自民党、改正に熱心な文科省官僚はこの先達の言葉をばよく読み返すべき。
▼教育といえば小学校での英語導入も争点。朝日新聞でも「相変わらずチェック柄の背広がお似合い」の中嶋嶺雄センセイ(推進派)と立教大学の鳥飼玖美子教 授が英語教育の専門家ながら反対にまわるのは「通訳翻訳」のプロとしての利権維持が目的か(笑)。個人的には幼稚園生の頃に「カソリックの幼稚園にて日曜 学校で優しい神父様に英語教わった」(今にして思うと妖しい)経験からすれば英語習ったところで別に「日本語で考えること」に支障もなし。別に週3時間だ か英語習ったところで何の影響があろうか。逆に小学校で英語習わずとも英語だろうが中国語だろうが達者な人は達者なわけで、よーは外語に接する機会がある か、必要の有無にすぎず。「日本人は外国語が下手」というが香港に暮していて英語だろうが広東語だろうが北京語だろうが上手な人はいくらでもいるわけで会 議など日本人同士でも他の参加者の手前、英語で話す機会もあり。英語をどう学ぶか?など検討する前に、実際に英語に接すればいいわけで、例えば、あの大量 の翻訳情報をば止めてみるのも一興。海外からの情報が欲しければせめて英語と漢文くらい解せ、と。それで明治の頃は上手くいったわけで、好奇心あれば外語 を習得せねばならぬくらいに。
▼hatenaのブログのほうの富柏村日剰で富柏村に辿着いた検索語を集計していみると今年2006年の検索語トップは片岡郁美(219回)。言わずとし れたフジモリ夫人。で「片岡郁美」に続き10回以上検索された単語は、香港(209)、香港日剰(49)、ホテル(48)、富柏村(43)、安璋煥 (26)、上野富吉(25)、マカオ(13)、片岡(13)、ホテル三條苑(12)、中国(12)、寿司加藤(12)、在日(11)と、13語のうち6つ がフジモリ夫人絡み。これ以下
9回 leroy、写真、山崎晃嗣、プリンセスガーデン
8回 安藤政信、李嘉誠、梅原、検索、粉嶺、陳日君
7回 nhk、tumi、キーシン、ホテルプリンセスガーデン、三條苑、叉焼の作り方、大浪湾、尖沙咀、朝日新聞、益新美食館
6回 ジャズラーメン、光クラブ、北角、宮崎陽介、富柏村香港日剰、尤敏、文化横丁、日剰、梅原市長、雲門舞集、香港マラソン
5回 ハイアット、マラソン、五明祐子、北海道、同楽軒、呉彦祖、大喪の礼、旺角、映画    、柏村、癒信、直島    、社長、雲陽閣川菜館、黄油蟹
と続き以下、4回以下で目立ったり可笑しいのは、サインバック、 李景粥品専家、肛交、那須ご用邸、鄭富吉、ブラザー軒    、中電国際、夜総会    、大江健三郎、、泰昌餠家、結婚、花はさくら木……等々。無節操といえば無節操。

四月廿四日(月)夜半に甚だしき雷雨。雷鳴轟くこと間髪入れず窓打つ大雨。殆ど眠れずまんじりともせぬままに朝。雨は小止み。山の渓流眺めれば瀑布の如き 水嵩に明け方迄の雨の強さあらためて知る。香港島の降雨とくにひどかったらしく各地で浸水。未明には「黒雲」の大雨警報出て降雨量200mm越えたそう な。朦朧としたまま終日過す。久 々にアミノギア飲み晩の高座にて一席。銅鑼湾のVCD屋にて先の映画祭で観たシンガポール映画“I Not Stupid Too”の前 扁にあたる“I Not Stupid”購い尖沙咀のHMVにてレスリー張國榮とダニー陳百強という已に他界のお二人の共演作『失業生』とジェームス=ディーンの『ジャイアンツ』 のDVDも購入。“I Not Stupid”は四年前だかの小学校高学年だかの少年二人が中心の話で、そのまま主人公の子役が成長し今回の“I Not Stupid Too”に繋がるという。『失業生』は81年の作品で邦題は相変わらずお粗末で『青 春の光と影』という。80年の『喝采』とこの二本がお二人の共演青春映画。『ジャイアンツ』はジェームス=ディーンが若くして他界、ロック=ハド ソンが亡くなりエリザベス=テーラーがAIDS撲滅運動に関わり始める、という実話だけでも興味深い。ロック=ハドソン逝去の折に「ロック=ハドソンが なぁ……」と先学が若かりし頃の憧れの米国映画のスターの死に感慨深げに何か言いたそうだが何と言っていいのかわからぬ表情も懐かしい思い出。

四月廿三日(日)。快晴。競馬日和通り越し気温摂氏33度の暑さ。昼過ぎ沙田競馬場。本日国際G1のQE II Cup開催日。QE II Cupは75年にエリザベス二世女王来港祝しハッピーバレー競馬場で開催が始まり。99年だかに国際Gレースとなり確か02年からだったか国際G1で World Champion Series入り。98年のOriental Expressはダービー馬、99年の仏馬Jim and Tonic、00年には簡調教師の実業家(Industrialist)、01年には独馬Silvanoで02年から2年連続でエイシンプレストン、04 年にRiver Dancer、05年には98年のOriental Expressに続きVengeance of Rainがダービー馬でQE II Cup制覇。今年はダービー馬Viva Patacaに期待集まる。そして昨年の香港ヴァース一着のOuija BoardはDettori騎手。実力的にはOuija Boardのほうが上だろうが上り調子のViva Patacaの国際レースデビューで昨年のVengeance of Rainに続きダービー馬のQE IIへの連覇となるかどうか。これに南アフリカ馬のIrridesceneが余の贔屓のMarwin騎手騎乗でどこまで絡むか、に期待。結果、 Irridescene一着。喜 びたいところだがOuija BoardにViva PatacaもいてはIrridesceneの単勝に勝負賭けられず、この三頭での三点買いの結果が二着に香港馬のBest Gift派入ってしまい三着がOuija BoardでViva Pataca五着。6R(Class-2の芝1600m)にて知己の馬主W氏の「有資格」が二番人気で前回同距離で快勝もあり期待したが14枠からの出走 で後塵に位置したまま上がれず(翌日の新聞にはこの走法にかなり疑問の声あり)同じCruz厩舎の「糖果精英」が24倍で一着。騎手は見習いの徐君禮君で 初勝利。この馬、Class-3からの持ち上がりでハンディキャップも有利ではあったが見習いの徐君で更に10磅の軽減が功を奏す。Cruz氏のお見事。 昨晩、競馬談義したT君がQE II Cupの直前に競馬場に来て一緒に観戦。競馬取材していた斉藤さんと晩に中環の鏞記酒家(Yung kee、文字化けの場合のために示 せば「金」扁に旁が「庸」の「金庸」と綴る)に食す。鏞記といえば知らぬ人おらぬ広東料理の老舗で香港の旅行ガイドに必ず紹介される名 店。観光ズレという印象もあり誰でも選べる店ゆゑ香港に住む日本人は自らあまり足を運ばぬし日本からの客連れてゆくのも此処ぢゃ余りに個性もない、と思 う。我も足かけ16年の香港居住で此処に食すのは三度目か四度目(持ち帰りの焼鵝飯などは別として)。普段まず選ばぬ名店だが唯霊や蔡瀾といった「食家」 がやはり絶賛する店であり何かの機会に再訪と思っていたが斉藤さんとの食事も黒服給仕のS君が競馬通でワインも充実の新同楽、益新、雪園などマンネリ化も 事実。何処か別の料理屋に、と思ったが奇を衒うよか敢えて鏞記にした次第。選択にやはり間違いなし。皮蛋、焼鵝に始まり例湯、蝦仁豆腐、野菜、禮雲子炒飯 まであっさとした上品な味付けにあらためて納得。葡萄酒もちょっとお高めだが充実。斉藤さんに中華に合う葡萄酒の選び方、意味を教わり納得。この鏞記、給 仕らの慇懃さも納得。マナーも気遣いも他の店との格の違い見せつけられた思い。誰でも選べる店ゆゑ意識してではないが結果、選択から避けているが(実際、 何人か香港に居住長き而もマスコミ関係の知人に確かめたがやはり誰も頻繁になど行っておらず)名店にして「金持ち食堂」だの「観光レストラン」と皮肉られ ても一流として長年続く名店侮ってはいけないと痛感。FCCのバーに 葡萄酒をさらに飲む。斉藤さんとは競馬で知り合ったが料理からあらゆる趣味の話で話題尽きず。湾仔のホテルに送りタクシーでそのまま帰宅。
▼香港鼠楽園、三ヶ月前のManaging Directorの辞任に続きマーケティング担当の副社長と営業部長も辞職。もはや死に体か。鼠本社はもはや気持ちは上海での大型楽園の開業。香港は所 詮、中国の鼠市場の事前調査ゆゑ小規模で而も建築コストの多くが香港政府捻出で鼠本社に痛手も少なし。見事。

四月廿二日(土)ほぼ毎日のことながら早朝五時半頃に一旦目覚めるともはや二度寝もできず臥床のままもただ何かと諸事脳裏を過り目は刻々と覚め落ち着かず 結局起きてしまったほうが楽かと新聞の届く音に起床。朝 食前にあらかた雑事片づけ。銅鑼湾に薮用。一旦帰宅して午後遅く湾仔の某ホテル。斎藤さんと再会し斎藤さんの薮用に旺角ご 案内。MTRで東涌。タクシーで長沙の海岸。日暮れに南アフリカ料理のStoepに 食す。南アフリカ産のワインを白と赤一本ずつ。バスで梅窩。午後九時前のフェリーで中環。斎藤さんと別れバーYにハイボール一杯だけ飲んでバーテンダーの T君と明日の競馬の話少しして帰宅。
▼日本海での排他的経済水域問題日韓でひとまず妥協。韓国訪れ協議にあたるは外務省事務次官。首相が出向くほどではないにせよ外相が創氏改名発言など韓国 刺激し隣国を訪問できず。
▼ネパールではギャネンドラ国王が国王専制反対の民主運動に妥協の姿勢みせ各党諸派に首相指名など民政実施求める。宮廷クーデター、だが公式には「当時の ディペンドラ皇太子の銃乱射により国王ら王族のほとんどが皆殺しとなり皇太子自身も自殺」によって王位についた王弟の現国王にとっては国王に在位できれば 民主化にも妥協か。ただし王制廃止求める世論も高く事態は沈静化せず。

四月廿一日(金)かなり忙殺され疲弊のままジャスコにて刺身いくつか購い帰宅。晩飯。刺身盛り合わせはどれもサーモン入りでうんざり。サーモンの入らぬ刺 身三点セット(鮪赤身、鯛、紋甲烏賊)は一つだけ売れ残りあり。これに池魚(これは縞鯵)と貝柱をそれぞれ別に。盛り合わせが並んでいるのに細々と揃える のは当然そのぶん値段も張る。NHKでかつて偶然、成駒屋の大檀那に岡本町の自宅で山川静男がインタビューする画像を見たNHK映像ファイル 「あの人に会いたい」で大檀那以来偶然また見れば今度は長沢節。あ の鮮烈なるキャラと流れるような線のイラスト、随筆や雑誌「装苑」に連載の「セツのシネマ・セミナー」等々。逝去から早七年だそうだが長沢節本人の声や語 りを聴いたのは今日が初めて。大正六年に会津若松の生まれ、とプロフィール紹介だったがセツ・モードセミナーの師も語り口調はやっぱり会津弁。福島でも会 津の人は(渡部恒三は極端にせよ)故郷を離れいつまでたっても語尾より会話の中の単語ひとつひとつに独特の強いイントネーションあり。それが普通なら余り 気にならぬものが長沢節であるから強烈なオシャレモードとしなやかさの全人格化に会津弁のミスマッチが実に可笑し。
▼朝日新聞の「海外の提携紙から」という社説紹介(18日)でシンガポールのストレーツタイムズ3月26日社説「10代の秘密の生活」あり一読して呆れて 嗤うとともにシンガポールらしい建前健全主義に唖然とする。余談だがストレーツではstraitsが海峡とわかってはいてもstraightsとも読めて 紛らわし。この社説、要旨は、18歳の成績優秀な女の子が「実は」15歳の時から週末ボーイフレンドとセックスしていたことや17歳の南洋技術高専(実名 だ!)の17歳の女子高生のセックス場面の画像がネットに流れ「世間の注目集めた」ことなど綴り「この国の少年少女はまじめで勉強家だという神話は吹き飛 んだ。親や学校は長年無視しようとしてきた実態、つまり、ごく普通の10代がセックスをしているという事実に直面している」と嘆く。10代の男女各10人 にStraits Timesが取材したところ「驚くべき発見」は「いまの10代はセックスをするということに全然抵抗がない」ということで「こうした奔放な若者はまだ少数 派だとしても」民間団体の調査では10代の4人に1人は性体験あり。これまで17千人の学生に性に関する講演会実施した「禁欲を訴える民間団体」の話では 性交は結婚後にすべきと思っているシンガポール国民は4割で、初体験の平均年齢は18.4歳だが、これは周辺諸国では最も若い、と憂慮する(だが周辺はモ スレムであることを考慮すべきだろう)。続いて「若者の健全育成を目指す子どもソサエティー」の幹部の話として若者が性にオープンになる風潮や環境を認め つつ「でもまだ、禁欲は良いと信じる人は多い。すべてが失われたわけではない」と結ぶ。10代がセックスをする、ということにこれだけ大袈裟に懸念表明し てみせる真面目。フーコー的には最もエロチックな「禁欲を訴える民間団体」だの「若者の健全育成を目指す子どもソサエティー」が機能し人民行動党の集票マ シンか。禁欲のエネルギーを勤労に結びつけ李王朝の反映に寄与するのがシンガポール国民の義務であろう。中国や北朝鮮よか、健全に見せかけるだけこっちの ほうがずっと不健全。10代がセックスをする、ということは寧ろ「しない」ことのほうが不自然。自然には昔から「する」のが当たり前だったが「しないよう にする」戒律を作ってみせたのが近代。しかも一般の人々にそれを道徳や教育で強いる、まさにシンガポール的な社会健全こそ近代の怖さ。
▼胡錦涛主席訪米。ホワイトハウスでの歓迎式典にて司会が中華人民共和国国家吹奏を間違えて中華民国と言い報道陣のなかには法輪功信者紛れ込み中国政府非 難。セキュリティチェック厳しいはずのホワイトハウスにどうやって法輪功信者が入ったのか、抗議中もシークレットサービスが取り押さえるような事なく一通 り抗議演説終わったところで連れ出され中国側は不快感。

四月二十日(木)木曜日といえば小泉メールマガジンで朝が始まるが今朝はまだ昨晩の柳町光男監督の映画のことが頭から離れず。昨晩はひとまず「あの映画は 実質的に学生の制作である」としたのだが、やはり柳町氏は早稲田で客員教授をしていて(こ ちら)この作品の公式サイトには柳町監督のコメントあり大学生との接触が映画生んだということを「それは(大学生たちが)面白かったからですよ。 最近の若者はどうしようもないとかっていう部分はもちろんあるけれど、一方で付きあってみれば現代の若者たちの居様が見えてくるし、悩みもあるし。この時 代を生きてきたわけだからね。そういうのを見ていると可愛いところもあるし、物語の舞台を大学のキャンパス内に限定して、大学のキャンパスってとても映画 的な場所なんですよ。彼らがそこを右往左往しながら走り回る青春映画を作ったら、充分に今の若者たちは映画的に主役として成立すると。かといって、学生た ちに擦り寄るつもりもなくて、若者が作る青春映画じゃない、僕が作るんだからそこに僕なりの視点も当然入れています」と語る。監督自身が学生の制作作品で なく自分の、と強調しているのなら我の認識は否定される。もう『十九歳の地図』の頃とは違う、嗚呼……と思っておれば、ふと「あっ」と思い出したのが90 年の初夏、新宿でのこと。すっかり忘れていたが『十九歳の地図』から『火まつり』への我にとっての柳町光男はすでに過去のものだったのだ、と痛感させられ たのは今回が初めてでなく『チャイナシャドー』 であった。忘れもしない90年の初夏、新宿の歌舞伎町はミラノ座?、我の香港移住直前にZ嬢と此処で『チャイナシャドー』観る。監督は「あの」柳町光男、 主演は「当時は大人気の」今は何処?のジョン=ローン、で97年の「日本人にとっては世紀の一大事」の香港返還を控え日本は香港ブームに沸き、映画は香港 舞台に中国の元紅衛兵が云々。満席の映画館でこの映画観たのだが、我の映画鑑賞で人生でただ一度だけ「映画の途中に離席」がこれ。映画の筋の陳腐さ、ジョ ン=ローンの演技の下手さだけなら赦せたのかも知れぬ。が、我にとっては「青春の最も影響受けた映画監督の一人である柳町光男がこれだ」で怒りにも似た心 境にて映画館を出でる。夕方の新宿、恐らくZ嬢とはその足で南口のまだ戦後の名残ありし一杯飲み屋の「日本晴」か薄汚いが味は絶品の台北飯店か、或いは通 り向かいの「五十鈴」に飲んだはず。柳町監督はこの頃から映画制作の現場から遠のき映画制作を学生指導する道に進む。それはそれでよい。が映画の中で本田 博太郎演じる教授が映画制作から退き退屈なる生活続けるがあくまで学生のワークショップでの映画制作になると生き生きと制作現場にいたが如く柳町光男の往 年のファンにしてみれば、もう撮らずに、この作品もできれば制作総指揮か何かでいてほしかった、と思うばかり。……というわけで木曜日といえば小泉メール マガジン。中国の胡錦涛氏が訪米、米中の政治的思惑の中で小泉三世は「Furoshiki展に行ってきました」と。「一枚の布が、かたちを変えていろいろ なものを包む」と風呂敷の見事さ語るが「一人の政治家がかたちを変えていろいろなものを包む」のが小泉三世。というわけで本日、 晩に映画鑑賞と言いたいところだが香港国際映画祭は昨晩が最終日で終幕記念上映もあり。それを外しての柳町光男。早晩に銅鑼湾の献血センターにて献血。常 連で職員の気さくな対応受けるが問診にてこの二週間に鶏肉食した?と鳥インフルエンザ対応。そりゃ食した、と答え、まさかそれで献血不可になる由もない が、ちゃんと高温で処理してましたよね?、それなら問題ない、ところで日本では生で鶏肉を食べるの?、と看護婦。そりゃ鳥刺、蕎麦屋で鳥わさで日本酒をく いっというのが美味い、それも夕方なんかにちょいと一杯が最高、と話すと、看護婦、生でねぇ……と言いつつ新鮮な鶏肉なら醤油に山葵で美味しいかも、香港 でもあたしが子どもの頃は地鶏なんてずいぶんよく食べたし、さっと炒めたくらいで美味しかった、と看護婦の昔話。献血後には水分をじゅうぶんに補給しま しょう、と献血センターで言われ、隣のビルがバーYなのも幸いに、とバーYに てハイボール一杯。獺祭(だつさい)という山口は周東町の旭酒造の純米酒を一合。帰宅してかなり久々に自宅にて夕食。
▼胡錦涛訪米といえばシアトル入りしヰンドウズ社のビル=ゲイツ氏私邸訪問。中国にとってブッシュ大統領よかゲイツ氏のほうがなにせ国内のネット管理で大 事。李鵬家族が中国の二十世紀の基幹たる電力事業独占なら胡錦涛氏は娘婿の茅道臨君は中国のIT企業大手「新浪網」の元CEOなり。茅道臨なる人は上海の 出身で上海交通大学にてコンピュータ専攻し卒業後に米国スタンフォード大学のエンジニアリング経済の修士。国際投資会社のWalden Int'lにて中国や香港 のIT企業投資に従事し、この会社の副総裁にまで出世。88年に中国で新浪網を企業しUS$6000万の資産家となり中国のIT長者番付11位とか。この 人が胡錦涛の娘・胡海清の亭主。胡海清女史はちなみに北京清華大学卒、昨年上海の中国欧州国際商業学校でMBA取得。というわけで着々と胡家のIT化着 実。米国にしてみれば米国の基幹産業たるボーイング社に対して中国の旅客機購入は今年の発注分だけで150億米ドル。マイクロソフト社もヰンドウズの受注 は10億ドル。

四月十九日(水)ふとマルタン=デュガール『アンドレ=ジイド 1912年より1951年に至る覚え書』福永武彦訳(文藝春秋社、1953年、当然絶版) は「日本の古本屋」で初版本見つけ、ジッド『一粒の 麦も死なずは』堀口大學訳(新潮文庫、1969年)はamazon.co.jpにてわずか199円の古本を注文。古本屋巡りもそりゃ楽しいが海外にて立所 に欲しい古書入手可能もまた嬉し。マルタン=デュガールは15歳の頃に母に『チボー家の人々』勧められ読んで以来。18歳くらいの時に代々木だったかユー スホステル投宿の折、同宿のフランス人青年が文学をやっているというのでデュガール持ち出したら知らぬと言われフランスでも今どき(といっても数十年前の 話だが)凡そ読まれてはおらぬのか、と。『チボー家』の面白さは読み方によって青春小説でもあり革命家の物語でもあり禁断の恋愛小説にも読めること。デュ ガールは寡作な人で初めて日記のあることを知り『ジイド』はその日記からの書き抜きと海野弘氏の著述から知る。晩遅くFCCにてハイボールとドライマ ティーニ各一杯。Z嬢来て夕食済ます。アイリッシュシチュー。午後九時半よりZ嬢と一緒に市大会堂にて柳町光男監督の『カミュなんて知らない』観る。六年前に愛知で起きた高校生の老婆刺殺 で、その少年の「人殺しを経験してみたかった。人を殺したらどうなるか、実験してみたかった」をモチーフに都内の大学の学生がワークショップとして映画制 作に取り組む話。この作品のオフィシャルサイトの紹介は学生らが「彼らの<殺人>をめぐる動揺や、<犯人>に対する共感と反撥、そして映画製作と濃密な関 係を深めるにつれ、私生活で複雑に錯綜してゆく<愛>のゆくえ。現代を生きる等身大の若者像を鮮烈に刻印した、新しい青春映画の誕生である」とか「映画と いう集団作業における非日常環境に置かれた学生たちは、一方で、恋愛問題や就職活動といった個人的な現実に苛まれている。ごく平凡な高校生が犯した殺人や 暴力について、喧々諤々と口論を繰り返すうちに、彼らの立ち惑う青春の焦燥や奔放な愛のエネルギーが、映画製作の現場に大きな影響を与えてゆく。そして取 り返しのつかない決定的な出来事が!青春の無軌道さと生真面目さを同居させた彼らが、<不条理殺人>の向こうに見い出したものとは?」と大袈裟に言うが柏 原収史、吉川ひなの、前田愛、田口トモロヲら演じる大学生のキャラに全く映画の登場人物として魅力は微塵もなし。本田博太郎演じる、このワークショップの 指導教官である大学教授はそれなりに面白く、タイトルバックからの五分ほどの大学の正門からキャンパスを延々と撮影し様々な情景を見事に繋げる映像(撮影 は藤澤順一、立教大学で全編ロケ)は見事だし、途中途中にベスコンティの『ベニスに死す」や食事のシーンでの対話は小津的なカット割りで往年の名画の演出 などのパロディなど様々な工夫あり。幕末の殺人現場が劇中劇なのかハプニング的に起きた現実なのか錯綜させる演出など見事。だが、そういった玄人好みの技 術論としての面白さ除くと映画としてどれほどの面白さか?と問われれば首を傾げざるを得ず。何よりも、これが実際に若い映画製作者らの作品であれば何も言 わぬが、柳町光男の作品であると思うと、の話。なにせ我らが世代にとって柳町光男は中上健次の短編小説を原作に撮影の『十九歳の地図』の衝撃。当時、情報 誌『ぴあ』全盛。『十九歳の地図』は東京都北区を舞台に新聞配達する若者の心の葛藤だの在日など社会の様々な様相をば見事に描く。そして根津甚八、秋吉久 美子の『さらば愛しき大地』に中上健次の書き下ろしによる『火まつり』。ところでこの『火まつり』の北大路欣也が冒頭のシーンで沖から熊野に裸で対峙する シーンなど先日の三池崇史の『46億年の恋』の導入に(あくまで導入のモチーフだけに)通じるところもあり。共演の太地喜和子も懐かし。その柳町光男監督 が寡作で、実に十余年ぶりの作品なのだから期待せぬわけにはいかず。となると、なぜ十余年ぶりがこの作品なのか、この十年、何が柳町監督の生業だったの か、と映画観ながらずっと考え倦めば、本田博太郎演じる大学教授は元映画監督で暫く映画制作から遠のき大学で映画論など教えており、そういえば柳町監督が 早稲田だったか客員教授で映画論やっていたような記事新聞で読んだ記憶もあり。映画のロケは古い校舎のミッション系大学で明治学院か?と思ったが(実際に は立教)雰囲気的には早稲田、だが映画映像や音楽専攻も同居しているキャンパスから江古田の日芸か?などと映画の筋とは関係ない想像ばかり。はぁ、この映 画は柳町光男「監督」であるが監督の存在はワークショップの映画制作に参与する本田博太郎の演じる大学教授と同じような立場であり映画の実際の制作は学生 が主体になったものなのか?と思えば敢えてこの映画を『十九歳の地図』『さらば愛しき大地』『火まつり』の柳町監督の続編と考えなければいいのか、という ことで一応、個人的に自らを納得させる。帰宅して新潮社の季刊誌『考える人』の1962年特集少し読む。

四月十八日(火)早晩にFCCに寄りハイボール二杯、貝柱とバシルのパスタペンネ。中環の市大会堂にてハンガリー映画“Black Brush”観るつもりが太古UA映画館でIsabella Rosselliniの監督作品“My Dad is 100 years old”上映と知りIsabella RosselliniはRoberto Rosselliniの娘で父の百歳を祝しての16分の作品に続きRoberto Rossellini監督の“Viaggio in Italia”(イタリア旅行)上映だそうで、こ れを観ることにする。主演はIngrid BergmanとGeorge SandersでIngrid BergmanはIsabella Rosselliniの母。で父の百歳祝賀の作品は彼女がヒッチコックやフェリーニに扮して父のネオリアリズム映画について巨匠らに語らせる、似ていない が茶プリンの扮装まで。けっこう可笑しい。これに続き『イタリア旅行』初めて観る。個人的にはあまり楽しめず。倦怠期の英国の有閑階級の夫婦がイタリア旅 行通して離婚寸前の危機からまた愛を取り戻す、と。それもイタリアの古い町でのマリア像御輿に担ぐ祭りの行列の中でなぜかまたお互いを愛するようになる、 というお話。ネオリアリズムだから何かここから読み取らねばならぬの鴨しれぬが、強いていえば「情事のない渡辺淳一」。だからつまり面白くない。帰宅して ずっと読みかけてになっていた海野弘の通史本読了。文春のTitle誌の4月号「デ ザイン全開なエアライン選び。」など読む。
▼小学校での英語教育導入について。我もかつて文科省の提唱が「英語が使える日本人の育成」という発送に「英語が使えれば日本人でもアイヌ人でも朝鮮人で も何人でもよし」と述べたがホンマノオトと いお受験関係のブログで「教育と経済」という視点から大切なことが語られている(こちら)。 そしてこの英語教育導入については東京都知事が首都大学東京の入学式で「日本で一番バカな役所は文部(科学)省。あれはまったくナンセンスだ」と批判と か。「日本人がものごとを考えるのは、やっぱり日本語で考えざるをえない。日本語のもたらす語感、日本人独特の感性、情緒を皆さんが持たなければいけな い」などと吠えた。これについてもこちらの「教育のヒント」というブログに的確な指摘あり(こ ちら)。明治の先達らがあそこまで外語駆使して我が国の産業文化の発展に寄与したことを考えれば「日本人は日本語で」などと吠える都知事らのチャ チなナショナリズムを嗤うばかり。凡その日本人は英語に限らず外語苦手が現状で、つまりは思考は日本語だけのはず。ならば日本語だけでものごと考えていて 果たして現実にキョービの日本人の日本語に美しい語感や感性、情緒があろう、などと誇れるだろうか。ない。ならばそういった美徳と日本語の徹底や英語導入 の可否など関係のないことは明らか。ただ頼るべき母なるものの不在に脅え国旗だ国歌だ、日本語だ、と騒ぐばかり。最も大切なことは精神的な自立、独自の思 考力、そして母語でも外語でもいいから豊かな語力、それだけ。そこから自然に風土だの、社会や文化、言葉などへの愛おしさが現われればよし。それが故郷だ ろうが。

四月十七日(月)昨晩深更に雑誌『世界』五月号読む。Bernard Stieglerなるフランスの哲学者の「『象徴的貧困』というポピュリズムの土壌」という話とても興味深。「象徴的貧困」とは「過剰な情報やイメージを 消費しきれない人間が貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった現代の心的生活の悲惨」のことで「テレビやインターネットが大衆の欲望を生み出そうとす ればするほど人々は逆に欲望や想像を自己のものとする契機を失い」「社会現象は衝動のレベルへ退行し、理念的なものや理性的な判断はなし崩しにされシニシ ズムやニヒリズムが瀰漫し」てゆくとする(石田英敬氏による)。ゴーマニズムや2ちゃんねる現象、バッシングや小泉三世に象徴されるポピュリズム、等々。 Stiegler教授によれば19世紀はプロレタリアの誕生、作る知であった産業が人が機械に仕えるようになり、20世紀は生産性の向上で社会が生産物を 消費しきれなくなりプロレタリアが生産者から消費者になり、「生きる知」ですら本人の経験や思考ではなくマニュアルや産業社会のマーケティングに支配さ れ、それから逸脱する個にはもはや「衝動」しか手段なき社会。そういった意味では昨晩の映画『疾走』などいいテクストかも知れない。本日久々に快晴。排ガ スも普段よかマシなようでトラムで中環へ。昼 から市大会堂にて匈牙利のPeter Gardos監督作品“A porcelánbaba (The Porcelain Doll)”観る。ハンガリーの村の人々の間の生活史のような伝承のような物語。出演するのは全て村人。現実と超現実や自然など折り重なり、ふと ガルシア =マルケスの『百年の孤独』彷彿。そう、あの世界。いくつも今回の映画祭でも現実と空想の世界の「ごちゃまぜ」は見たが(ことに安易なる制作の邦画!)マ ルケスやこの映画の物語のもつ超現実性よ。午後遅い次の映画まで少し時間あり久々にFCCのバーで少憩。ドイツのHolsten麦酒。FCCへの道すがら Ice House街の坂道にあるClub Lusitanoの建物の礎石を眺める。現 存のビルは2000年に新築の重厚なる石棺の如き建築であるが一番古い礎石は1920年の建築の際のものでマカ オ総督来港にて建築披露。当時の香港総督はStubbs氏。Club Lusitanoがマカオのポルトガル政府の香港に置いたクラブハウスであることがわかる。尖沙咀に渡りZ嬢と『スクールデイズ(School Daze)』(守屋健太郎監督、主演は森山未来)観る。他愛なき学園コメディかと思いきや金八先生パロディの学園ドラマの制作現場と、それに出演 する元天 才子役の若者(森山未来)の役者としてのプレッシャーや現実の学校生活(いじめに遭っている)との心理的混乱など実にうまく一つの物語にする。金八ドラマ のパロディも笑えるし、主人公の若者の起こした事件までドラマの筋でどう片づけるかまで展開が可笑しい。主人公の父母が金八先生出身の鶴見辰吾と「高校聖 夫婦」のいとうまい子というキャスティングまでパロディか、と。中環に戻り晩の映画に間に合わせるべく市大会堂のレトロ調マキシムにて早めの晩飯。美味く はない。晩の映画は園子温監督の『紀子の食卓』 で、これは宮台真司が試写を見てご本人の05年邦画ベスト10の1位にした上で彼の戦後邦画ベスト5に入 る」とまで絶賛しているのだが今回の映画祭で「家族崩壊」はいったい何本観たのだろうか(『スクールデイズ』もやはり同じ主題あり)、もうちょっと精神的 に家族崩壊はいい加減にしてくれ!で165分の長編に耐える自信もなくZ嬢に観劇談だけ聞こう、と帰宅。ハイボール何杯か飲みジャズなど聴きながら机上の 雑事片づけ。今日出かけがてらずっと途中途中読んでいた長谷川恒男『山に向か いて』読了。先日、山歩き仲間のY氏が「読む?」と貸してくれた文庫本。長谷 川恒男氏は生前の、まだ二十代の氏の講演を聞いたことあり。当時我が地元では中学二年の冬「自己を見つめる月間」だかというのがあり、よーは数えの15歳 で昔なら元服、もう大人ということで「自己を見つめなさい」と講演の拝聴だの教育関係者の訓話、自己との対話という作文だの続くのだが、そのなかで長谷川 氏が市民会館で市の全中学2年生集めての講演。けして話上手でなく、ぼそぼそと、自分が何故に山に登るか、と話された記憶。子どもながらに明らかにこの人 は話したいから、よりも寧ろ登山のための資金稼ぎにこうして講演しているのだ、と思われ、その「目標のためには嫌なこともやならければならない」のだ、と いうようなことを勝手に学んだつもりで、とてもそれを講演会後の感想文には書けなかったが(書いたらどうせまた「なんだこれは!」と教師に罵声浴びること も明白)このエベレストに登った長谷川恒男という人の講演会あった話を親にすると「きっとMさんのところにも寄るんだろうね」と。Mさんは『山に向かい て』にも名前が出てくるマッターホルン北壁日本人初登攀のY氏。我が先学はY氏のマンションで一緒に痛飲するほど酒仲間でもあった。「煙草の火なんかテー ブルの端で揉み消しちまうんだから」と先学笑ってY氏の真似などしていたのも懐かしき話。で長谷川恒男氏は講演の朴訥なる話を聞きながら、この人も山で命 をおとすのが宿命なのか……などと幾許か不安が脳裏過りもしたが、氏はこの講演会の数年後にマッターホルン北壁、アイガー北壁の冬期単独登撃を成し遂げ る。そしてこの『山に向かいて』の文庫本後書き(91年正月)に90年9月パキスタンのウルタルII峰(7,388m、当時7千米級の未踏峰としては世界 第三位)の頂上直下300mにまで達したが遭難寸前で下山し「私はこの秋、この山にもう一度、新たに加わる隊員とともに出かけることになっている。心が躍 る山登りを、私はいつまでも続けたいと思っている」と結ぶ。そしてこの文庫本(初版本)の発行がその年の2月。長谷川恒男氏はこの年の10月10日ウルタ ルⅡ峰登山中に雪崩により遭難。享年43歳。余が香港に住い一ヶ月半ほどの時のこと。当時この遭難知らずだいぶ後になって訃報知る。この本では79年冬の グランドジョラス北壁の単独初登攀での食の話がいい。
登りはじめて三日目に、壁の途中のわずかなスペースでビバーグし た。夕食の支度をしようと、お湯を沸かしていると、その暖かい蒸気が、冷えきった私の顔に あたった。さきほどまでの登攀も忘れて、私はこのとき、本当にわが家に帰ったような安堵感を初めて味わうことができたような気がした。そして、スープをそ のなかに放り込み、スプーンでかきまわし、すくったスープを口もとまで運んだとき、私は、食事を全身で楽しんでいることに気づいたのだ。湯の沸く音を耳で 楽しみ、湯気で暖をとり、においを鼻で楽しみ、そして舌で味わい、のどや胃で楽しむというように、私はグランドジョラスの北壁のなかで本当に生涯忘れられ ない素晴らしい食事を楽しむことができたのだった。私たちはときとして、義務のように感じながら食事をすることがある。日に三度の食事もそうである。時間 がくれば食事をすることに、何の疑問も感じていない。それに、私たちは食べることの本当の意味での楽しさを忘れてしまっている。(略)し かし、わずかなス ペースのなかで、ひとりで、あるいは仲間と身を寄せ合うようにして、お湯を沸かし、紅茶を作るとき、そしてわずかな食料がのどを通るときの、からだ全体が 受けとめるあの幸福感、満足感だけは、日常、決して味わえないものである。
長谷川恒男は高い山で聴くバッハやバロックがいい、と本に書いていたが キース=ジャレットの演奏でハイドンのピアノ組曲を聴く。ウィスキーを何杯か飲む。
▼IHT紙に紐育タイムス紙の記事で日本社会の経済的格差の記事あり。かつて一億総中流と言われた日本がキョービの社会的格差。「一億総中 流」は経済大国 なのに中流生活に甘んじる、という自嘲的意味もあったが今に思えば皆が中流であるだけ真っ当だった鴨。で現実の数字を見れば90年くらいまで日本の世帯で 貯蓄0(つまり収入で食いつなぎがせいぜい)は全世帯数に対して凡そ5%であったものが90年代のバブル崩壊と不況で貯蓄0世帯が増大し2000年には 12%ほどにまでなっていたが注目すべきはこの5年でそれが25%にまで上昇(日銀の調査)。四分の一の世帯が貯蓄0。常識的には時の内閣は総辞職で政権 交替、デモにストライキ、最悪な状況が克服できない場合クーデターなどあっても不思議ぢゃないが、何が摩訶不思議かといえば、この未曾有の社会経済の深刻 な状況変化に小泉三世の政権は長期化し支持高きこと。亀井静香チャンなら開き直って「国民がバカだから」と言うであろう。

四月十六日(日)午前中に太古UA映画館に“Geminis” (Albertina Carri監督、亜爾然丁、05年)観に行ったつもりが昨日の上映で“Something Like Happiness”(Bohdan Sláma監督、Czech、05年)観る。Czechに暮す普通の友人三人の生活は内一人の女性が生活に破綻来すことで縺れるのだが淡々 とそれを描く。かつてのATG映画の如し。昼から尖沙咀の文化中心でポーランドのKrzysztof Zanussi監督の“Persona Non Grata”観る。 Persona Non Grataはラテン語で「好ましからぬ人物」で外交用語でもあり(こ ちら)。ポーランドのウルグアイ大使が主人公。Zbigniew Zapasiewiczというポーランド代表してしまうくらいの俳優がこの、元国家諜報部員の老外交官役を完ぺきに演じる。妻を亡くしたことを契 機に親しいロシア外務副大臣(かつてのソ連KGBのスパイ)に妻が横恋慕かという疑い生じ、モンテビデオの大使館は立ち退き問題だの大使館員の麻薬密輸や 大使館員のロシア人妻の諜報活動だの難題抱え、その中で大使自身がかなり精力的に動くのだが(Zbigniew Zapasiewiczが実に精悍に演じる)大使の精神力もついに破局迎え、と。きちんと古典的な作風。午後遅くZ嬢と一緒に同じ文化中心で『46 億年の恋』を観る。梶原一騎と真樹日佐夫の『少年Aえれじい』が原作で、これは奥多摩の少年院で実際におこった殺人事件がテーマだそうな。それを 三池崇史が松田龍平と安藤政信を主人公に映画化。安藤政信は役に嵌っているが松田龍平という役者の魅力はあたしゃよくわからぬ。どうもピンボケした感あ り。少年院舞台に衣装や大道具などかなり抽象化して、導入にある、主人公が少年時代に大人になるために海で強いられる儀式という話から少年院の精神世界ま で、はいいが、話が宇宙だとか生命だとかにまで飛んでしまって取繕えておらず。原作の、その「少年Aえれじい」ぢたい知らぬが、少年院での危険性、見方に よればエロスが劇画『あしたのジョー』では見事に抑制され表現されていたが、この映画では残念ながらどこかB級映画的に展開されてしまった感あり。同じよ うな話を中上健次の原作、蜷川幸雄演出で舞台でみたら面白いかも。Z嬢と尖沙咀をぶらぶらと歩きMiramar Towerの一平安にてらーめん食す。映画祭では京 笹、一平安(本来は尖沙咀東の本店だろうが)が定番。三度文化中心にて晩にSABU監督の『疾走』観る。この映画祭の常連であるSABU監督 舞台挨拶あり。岡山の瀬戸内の干拓地舞台に毀れてゆく少年の話。キャメラのホワイトバランスを意図的にちょっとおかしくしている? そのホワイトバランス のズレが少年たちの心の靄のようでもあり、これはいい演出。重松清の原作で、これでもか、と不幸の連続。少年の兄の放火が原因での家庭崩壊だけで充分の気 がするのだが少年は大阪でヤクザ絡みの殺人、東京で恋い焦がれる同級生の女の子絡みでまた殺人、而もカルトっぽい演出など加わってしまい結末は「やはり」 の展開。正直者がちょいとした事で悪の業が業を生み坂道転がる如く谷壺に嵌ってしまい、の地獄絵図という話なら歌舞伎や落語などいくらでもあるが、いちい ち聖書に救済求めたり、第三者に語らせたり(この映画では豊川悦司演じる神父)、後日談をつけたりせず、徹底的に(談志師匠などそのへんに厳しいが)人の 業というものの理不尽さを語り尽くす。それを、どこか救済のような、主人公への暖かい眼差しのような、そういうものを見せようとするところが好かぬ。また <不自然>も気になるところ。例えば大阪で、急場でヤクザが予約させたホテルの部屋にSM用の道具や紐などが散乱していたり、そういうことは象徴性とし て、それはいい。だがウィスキーを一瓶がぶがぶと飲まされた12歳の少年が正気に戻り(というか狂気でもあるが)ヤクザを絞首したり(普通なら急性アル コール中毒か気を失っているであろう)、12歳の少女が新宿で再会した少年をいきなりラブホに誘ったり(そういう娘もいようが、この筋で松葉杖ついた少女 が歩いていて「ちょっと疲れたから休もう」とラブホ街で、つまり新大久保くらいまで歩いて)はやりすぎ。この映画でも主人公の少年(ジャニーズの手越祐也 なる若衆)がかなり作品の中で成長を見せるが人の「業」の見せ方では昨日の『頼小子』をあらためていい作品であると感じる。どうせ何も解決できないのな ら、まどろっこしく語ることをしないほうがいい。晩遅く旺角に行けば今回の映画祭の授賞式(どの映画や俳優の誰が何の受賞かもよく知らぬが)の記念上映作 品となったタイのPen-Ek Ratanaruang監督の“Invisible Waves”なる浅野忠信主演の映画上映あったがRatanaruang監督は「タイのタランティーノ」だそうで、各国の主演級の役者揃えたそう で、「まぁ、いいか」と、Z嬢とTaikoo PlaceのEast Endでエール二杯飲み帰宅。
▼朝日の投稿欄「声」に東京都の都立高校PTAの役員もしている東村山市在住の公務員の男性(51)が「卒業式などを通じ、「指導」の名の下に、愛国心を 強制しようとする動きに違和感を感じ得ません」という投書あり。この投書から「反体制的な者が公務員をしながら積極的にPTA活動に参画することで教育現 場にまで介入しようとしている」という悪の図式が受け取られるのがキョービの世の中で「公務員にはアカがまだ多い」と思われ都教委は学校管理の次にPTA 役員も地区の教育委員会からの任命制にしたほうが教育正常化になるのではないか?とか真剣に考える。このバカな流れが現実になりかねず。南無阿弥。
▼朝日の「動く民営郵政」という経済面の特集で新西蘭が87年に郵便局の銀行部門を一旦は豪州系銀行に売却し新西蘭は当時「規制緩和」の優等生と思われて いたが、この銀行部門はすぐに支店削減始め国内金融機関の総資産の9割が外資系になるに至り99年の総選挙で「新西蘭資本の国民の銀行への復活」主張した 左派政党に支持も集まり01年に郵便局参加に小口の銀行業務復活したそうな。タイのタクシン氏も結局はタイの通信事業という国家のインフラ事業のシンガ ポール政府への売却が失脚の要因。日本の郵政民営化も結局は郵貯という贅沢な国民資本を米国の投資に解放するものだが国民はそれを理解できず。

四月十五日(土)昨日気温下がり薄ら寒さに簡単に悪寒。今朝から怠さ。気温も今朝は摂氏17度と冬に戻る。日刊ベリタに『蟻の兵隊』香港で上映の記事送 稿。昼から科学館にてビデオ映画作品『頼小子』観る。監 督は韓傑でプロデュースは賈樟柯。今春のロッテルダム国際映画祭で金虎賞受賞。九十年代初と思われる時代の田舎の炭坑の集落。ふらふらする若者三人。三人 の言葉の訛りから山西省らしい(と思ったが上映後に映画資料見たらその通りだった、と多少自慢)。気に入らぬ同世代の中学生をば成敗と学校に押し込み傷害 事件起こし三人で集落を逃げ出し都市の黒社会(ヤクザ)に身を寄せようとするが街道筋にていくつかの窃盗や傷害、はたまた三人の間で仲間割れ、結局、主人 公の少年一人が集落に戻ってくるのだが今さら身を寄せる場所もなし。監督の韓傑が山西省の生まれで故郷で同級生三人の故事を映画化とか。主人公の喜平演じ る白培将なる若者の演技が白眉。これから芸人として多くの映画だのに出演するのかもしれぬが、恐らくこの人にとってこの映画が最良であろうと断言しても良 い。それほど役にハマっている、というかこの喜平になりきっており、ニンもある。それが、この白培将君はなんと撮影開始三日前にようやく見つけた若者だそ うな。その凡そ素人がこの作品のなかで喜平になり切る見事。ふらふらしてはいるが、せいぜい隣家の若妻相手に亭主の居ぬ間にほんの数分の性事済ますくらい が悪さの、あどけない表情の少年が悪業続けることで、その人相に険が出てくるのは、これが芸道の極み。科学館隣りの香港歴史館で開催中の鄭和「揚帆 萬里」の特別展参観。鄭和の1405〜1433年の七次に渡る大航海は南京より南はインドネシア、西は驚くなかれインドからアラビア半島、果ては アフリカのケニアに及ぶ。而も船の規模は当時の欧州船の数倍の大きさで一艘に千人の乗組員すら搭艦の巨大船舶まであり。鄭和の興味深き点は先日も某博物館 の副館長のW君と語ったが鄭和の出自。朱元璋が明朝を建てるが元朝の強き影響下にありし雲南は明軍の討伐を受ける。鄭和は原名を馬三保と云い、馬哈只の 子。イスラム教徒。馬なる姓は預言者ムハンマドの子孫と云われ、父の名・哈只はイスラム教の聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称ハッジに由来。先祖はチ ンギス=ハーンの中央アジア遠征でモンゴルに帰順し元の世祖クビライの世に雲南開発に尽力せし色目人政治家サイイド=アジャッル(賽典赤)と云う。これほ どの雲南モスレムの名家に生まれたは少年は明軍に捕らえられて去勢され宦官として当時の燕王・朱棣(のちの永楽帝)に献上される。朱元璋の死後、永楽帝が 帝位奪取し靖難の変において功績挙げた馬三保、永楽帝より鄭の姓を下賜され宦官の最高職である太監となる。この鄭和が明朝の大航海の主役となるのだがW君 との話で興味深いこといくつか。まず鄭和の艦隊の統率ぶり。よくある話は大航海時代の欧州艦隊など野蛮の極みの仲間割れだの「野蛮」から略奪の財宝の取り 合いだの、長い航海に欲求不満で野獣の如き態などなど。それが鄭和の艦隊にあってはそういった野蛮が記録に殆ど残っておらず七次にも渡り統率のとれた艦隊 での大航海。その原因の一つに鄭和自身が子どもの頃に虚勢された宦官であり鄭和の率いた軍隊だの艦隊には同じ雲南省出の兵隊や乗組員多く、而も明朝の雲南 征伐において元朝の復興恐れられ果敢なる雲南の若者の多くが子孫残さぬよう虚勢されたと云う。その若者らが鄭和に従う。宦官というと女性化したヲカマの印 象強く宦官多き艦隊などQueer船だが鄭和の軍隊が所謂「女々しい」どころか功績挙げたり寧ろ猛者であった不思議。いずれにせよ性欲処理が水と食料に勝 るとも劣らず大問題の大航海において「宦官の船」の意味合いは興味深いもの。科学館に戻り先日観た『少年花草黄』改めて観る。先日どうも筋の徹らぬところ あり途中微睡んだこともあり。今度は微睡まぬよう観たが居眠りの所為ではなく脚本(ホン)に唐突なところあり、とわかる。姉弟が一卵性双生児であること、 別居する母の突然の登場、弟の親友の少年のこの姉弟との位置関係など。ビデオ作品で会話が聞き取り難いこともあり英語の字幕が会話とかなりズレていること で前回誰の科白かで誤解あったことも気づく。いずれにせよ記号論的に見るとかなり面白い作品であると改めて感じ入る。早晩に別の映画観ていたZ嬢と待ち合 せ尖沙咀の京笹に食す。毎年この映画祭の期間に必ず一度は訪 れるのがこの京笹と尖沙咀東のらーめん一平安だろう。京笹ももう少なくとも15年以上の老舗。今のスタッフももう何年も変わらぬからどこか落ち着く。風邪 気味で帰宅後『世界』五月号など読みながら早寝。
▼今日の朝日の社説(こちら) が東京“ファシス”都が都立学校の職員会議で教員の挙手や採決禁止について語る。都は学校運営の決定権は校長にある、として職員会議は校長の仕事を補助す る機関にすぎぬのだから校長が職員会議の意見に影響されないように、というもの。これについて朝日は「あきれる、というよりも、思わず笑ってしまう、こっ けいな話ではないだろうか」と述べたが笑ってなどいられぬ話。それでも実態は263校のうち学校行事のやり方などについて職員会議で採決していたのは十数 校にすぎず、その「弊害校」粛清徹底のための措置。先日もある人と偶然に教育現場の話になった時に、その人が教員への罵詈雑言の中で「ったくアカどもめ」 と口にして余は思わず椅子から扱けそうになったが教員=非常識というその人の見方はそれはそれでいいとして、どうしてそこに教員=非常識=アカがついた か。こういう常識的な人にとっては東京都の決定はそういった非常識なアカ教員に教育が撹乱されぬためには真っ当な判断と映るのかも。勿論、公教育という制 度の歴史的な成立過程と意義、その公教育で「式」という学校行事の目的や作用を考えれば、その「式」の運営が教員と生徒が手作りで、であったり「日の丸や 君が代に懐疑的な人の意見も汲入れて」なんてなるほうが奇跡。だが、余が幼き頃に小学校で学んだのも、社会や組織の運営に積極的に参加する、自分の意見を もち積極的に発言する、多数決と少数意見の尊重等々のまさに戦後の民主主義。それが今では教える側にこのファッショ徹底、そしてそれを誤解して「正しい措 置」と受け取る人々。
▼築地のH君の郵便局での話。郵便局で郵便振替の用紙を出せば局員がすまなそうに4月から振替手数料値上げにてATMなら据え置きだがその局の機械は対応 しておらず大きな局なら従来の値段で処理可能、と。30円だか40円のこととはいえH君ふと値上げの理由尋ねればその局員堰を切ったように語るは昨年から 「例の騒ぎ」でいろいろ制度変わってのコスト削減。「ええ、サービスは低下させないという話でしたんですが、なにせ致し方ありません。うちの局でも従前 は……」と詫びる局員。郵政民営化、民間にさえすればサービスは向上する、という百万遍の空念仏。嘘を百万回唱えても本当にはならなかった、とH君。その 嘘をまんまと信じる、あるいは関心がない人々。フランスならデモだのストに突入か。だがこれも「そんなことは社会のためにならない」と思うのが今の日本の 常識。そも「国民主権」とは文字通り主権が国民に存することを明らかにするものであって(仮構ではあるが)「主権者である国民は自身の幸福を追求するのが 本務であって、政治のような雑事に時間を割くことができないから、仮に代議員を選出して、これに政治業務を委嘱する」が原理に即したあり方。であれば主権 の行使は投票に限るべきなどという主張は暴論珍論に類にすぎず少なくとも民主主義の名において語るべき議論にあらず。

四月十四日(金)耶蘇復活節連休一日目。朝寝貪る。昼から科学館にてフィリピンのAuraeus Solito監督の“The Blossoming of Maximo Oliveros”観る。マニラ郊外に住む12歳の少年の物語。少 年であるが気分的には女の子。盗難携帯電話の売買が生業の父親、兄は兄で映画のコピーVCD売ったりとヤヴァイのだが、この少年が家事を切り盛りして実に 仲良く暮している。この少年が警官に恋して家族の生業に疑問抱くところから話が展開するが、十数日でビデオで撮影された作品にマニラの下町の暮らしもよく 描かれる。九龍の知る風呂屋に垢擦り、按摩。早晩にZ嬢と待ち合せ太古城のUA映画館に『スクラップヘブン』観る。監督は李相日。主演は加瀬亮、栗山千明、オダ ギリジョー。想像力だとか、世の中を変える、とか何かメッセージばかり口にするのだがキャラクターにあまり魅力なし。寧ろ柄本明演じるベテラン刑事に魅力 あり。

四月十三日(木)憂鬱なる曇天に湿気。木曜日恒例小泉メールマガジンにて小泉三世春の交通安全運動の宣伝がため都内の小学校訪れ交通安全教室で子供たちと 一緒に「青信号を確認してから横断歩道をわたる練習」したそうな。これまで赤信号で横断していたのだろうか。「交通事故にあわないように気をつけましょ う」と小泉三世宣うが彼のこの治世にて明らかなことは郵政民営化といい自民党の組織改革、構造改革といい「赤信号で横断歩道を渡って例え怪我をしても結果 的に被害者にならなければいい」ということかも。フランスでは政府の労働政策につき大規模な反対世論に対して政府は初回雇用契約(CPE)撤回。これを朝 日は巴里の富永なる特派員が「水平線/地平線 楽しく危うい「街頭政治」」(2日外報面)。「ニュースがわからん!フランスの若者、何に怒って街頭デ モ?」(6日第3社会面)と産経新聞の如き論調。それに対して都新聞が「仏デモが政府動かすワケ 街頭訴え共鳴社会」(東 京新聞)と「まるで変節せぬ朝日」の如き論調で四月十三日の「筆洗」など、日本の現状をば
何かを変えようと声を張り上げるのが時の首相で、選挙期間中も街は いたって静か。メディア映えのする見かけの争点ばかりに関心が集まり、いつの間にか構造改革も進んで、気付いてみれば格差社会。
と嘆く書き出しの名調子の文章も天声人語とは格段の差。できれば都新聞を香港でも購読したいところだが空輸で一カ月HK$1,000だか。四月二日社説 「“自由”を問い直す」(こ ちら)など記念碑的ですらある。
権力者の思うままを許さないことが憲法の役割です。強い者と弱い者 の共存を目指すのが真の自由社会です。小泉流の憲法観には“異議あり”です。「自由」について考えさせられることが続きます。まず最初に、中国などの反発 を招いた小泉純一郎首相の靖国神社参拝とムハンマドの風刺画の報道を取り上げましょう。首相は「小泉純一郎も一人の人間だ。心の問題、精神の自由を侵して はならないことは憲法でも認められている」と言い、イスラム文化を見下した問題の風刺漫画を掲載したメディアの関係者は「表現の自由」を唱えます。
どちらも他人の心の内を理解しようとせず、自分の気持ちのままに振 る舞う権利を主張する点が似ています。強者、優位にある者のごう慢さを感じます。不思議なのは小泉首相が日の丸、君が代の強制に何も言わないことです。入 学式や卒業式で「日の丸掲揚に起立できない」「君が代を歌えない」という先生が処分され、「心の自由」が押しつぶされています。反戦の落書きをしたりビラ を配ったりした人が逮捕されています。「こころ」を重視するのなら、これらのことに何らかの言及があってしかるべきでしょう。そこで「自由」について基本 から考えます。一般の国民と同じように内閣総理大臣にも心の自由があり、自分の心に従って行動してもよい。これが首相の展開する論理です。しかし、国王の 権力を法の力で制限しようとしたのが近代憲法の淵源です。憲法が保障しているのは「権力からの自由」であり、権力者の自由ではありません。それは政府や権 力者を規制する原理です。権力者を縛る憲法を、首相という最高権力者にかかる制約をはねのけるために持ち出すのは矛盾です。
日の丸、君が代の強制に続いて、国民の内心を管理しようとする動き もあります。国民に「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務」(自民党の新憲法草案)を押しつけ、教育基本法改正で子どもに愛国心を植え付 けようとする人たちがいます。法規範で人間の「こころ」の在り方にまで踏み込み、特定の方向へ引っ張っていくのは、立憲主義の考え方とは正反対です。「お よそ立憲の政において君主は人民の良心に干渉せず」−百年以上も前の政治家、井上毅がずばり言い切りました。小泉構造改革の柱、規制緩和や市場原理の基本 である自由競争に関しても疑問が浮かびます。(以下略)
で本日。晩に銅鑼湾時代廣場(Times Square)の某京川滬料理屋に て宴会あり末席を汚す。京川滬である、それなのに晩六時から満席で宴会も二時間の時間限定、店外には数十名の待客あり。驚くばかり。宴会のうち八名ほどでバーYで二次会。畏友B氏と遭いカウンターで物語る。同行の数名をタク シーでお送りしてからバーSに戻り独りアマレットでリンスし た氷でウオツカ二杯。
▼朝日のパリから富永なる記者の論調は「パリの街頭が盛りあがってきたころ、欧州最後の独裁国家、ベラルーシで大統領選があった。首都の広場で、独裁者の 再選に抗議した何百人mの学生が拘束された。デモさん、ストさんは本来こういう国のためにいる」となる。どうもフランスのデモは気に入らぬらしい。いくつ かある不満の一つは「失職の心配のない公務員が、大衆を泣かせるストで勤労者代表のようにふるまう」こと。だがあたしがCNNだのBBCだののテレビ ニュースで見た画像では市民はゼネストに耐えていた感あり。武蔵野のD君(久々に登場)の指摘の通りだと思うが「そもそも大衆の支持なしにかくも大規模な ストを実行することは不可能」なわけで「ほんとうに大衆が泣いているのであれば与党は微動だにせず法案も撤回されずストは収束してる」はず。どうもこの記 者には「ストは大衆が泣くもの」であるとか「官公労は勤労者の代表とは見なされない」という思いこみなかろうか。D君曰く「公務員の労働条件が低下すれば 連動して民間企業でも切り下げがすすむことがわかってるからフランスの労働者はみな官公労を支援する」もので「失職の心配がないからこそ官公労は勤労者を 代表して戦える」「公務員は税金で養っているのだから、いざとなれば国民のためにゼネストで戦え」ということ。「俺のとこなみに公務員からも搾取しろ」 は、さもしい。そういうことを「伝統的」なんて誇るとフランスは「世界標準」から取り残されるんだ、というのが富永記者あたりの主張かもしれぬが英国を除 けばフランスほどでなくてもこうした思考は多かれ少なかれ欧州の社会の常識。D君の話では同じ時期にドイツで清掃労働者のストがあり収集されぬゴミが街角 に山積み、だが、市民の声は「夏じゃなくてよかった。臭わないから」「ワールドカップまでには片づくといいけど」というくらい鷹揚なものだった、と。

四月十二日(水)映画祭はあたしゃどうしてもアジア映画への関心が高く欧州作品も共鳴するところ多くいくつか観るが最も関心ないのは米国映画であろう。そ れが今晩は尖沙咀の文化中心に上映開始に少し遅れて先ず観たのが米国作品で“Good Night, and Good Luck”(監督はGeorge Cloony)。マッカーシーの赤狩りは米国50年代。これに毅然と立ち向かうCBSテレビの報道部描く。米国の良心。対共産主義は共産主義が「張子の 虎」であったがために少なくともマッカーシズムに対して理性が動いたが、対テロ(という摩訶不思議)に対しては具体的な暴力の恐怖も重なり良心や理性も作 用せぬようになったか。次の映画までの幕間に晩飯喰らう気分でもなく(尖沙咀の突端のこの界隈にまともな食肆もなし)ペニンスラホテルのバー。客はフロアに一組しかおらず閑静。ほんのたま にしか行かぬがバーテンダー氏に常連の如く扱われやはり気分よい。新聞に目を通しながらFamous Gooseのハイボール一杯。二日続けてバーのおつまみ夕食がわり。文化中心に戻り次の映画はAbel Ferrera監督“Mary”(伊仏米/2005)。耶蘇がテーマ。話 は映画撮影現場から始まり、胡散臭き俳優が脚本、監督にて自らキリストに扮した映画制作あり、の劇中劇。これまでもキリストの殉教物の映画はあるが、この 映画はキリストに纏る女性など登場。かたや紐育にて宗教や倫理などテーマにするテレビ番組のキャスターおり、この二人を中心に、そこにその映画に出演した 二人の女性のうち一人は映画撮影終了後にエルサレムに留まり、もう一人の女性はこのキャスターの恋人となっているところで話が展開するのだが耶蘇教の原罪 であるとか贖罪であるとか耶蘇の愛であるとかあたしゃどうもピンとこず映画の真意まで理解できず。終わって深夜帰宅しウオツカにポートワイン加え一飲。文 藝春秋六月号読む。この雑誌ほんと読んでいて、頭が良くならない、というか、ためにならることのない、読み物な菊池寛の限界。ただ「われわれの昭和30 年」という特集で矢野誠一氏が買いている「ヒロポン芸人」という文章面白い。当時の芸人のヒロポン中毒を浅草の森川信から紹介し始め「呑気節」の石田一松 は昭和21年の戦後初の総選挙で東京第一区で鳩山一郎、野坂参三や浅沼稲次郎ら錚々たる顔ぶれに並んで当選、タレント議員第一号だが、議員バッチつけたダ ブルの背広姿で新宿末広亭の高座にも立ち代議士当選記念してヒロポン用の注射針もプラチナ製をば特注(さすが!)。「打ち過ぎ」で皮膚が固まってしまい国 会質問に立つ前にワイシャツの上から「エイッ」と渾身の力込め針を刺す姿見た親友の三木武夫が世話して治療入院させた、という。またその一松師匠のプラチ ナ針を見た三亀松師匠も人の顔を見れば「お茶がわりに」とヒロポン一本勧めるほどかなりヒロポンに入揚げており呑気節に負けてはおれぬとヒロポン針を自ら も特注したそうで悪戯けて猫に一本ブスリとやったら「猫が鼠を捕りまくり始末に困った」などと人を笑わせていたという。上方の松鶴師匠も若い頃に始めて東 都の高座に上がった時には上野鈴本の楽屋で三亀松師匠に「おまえか、そこの薬局のヒロポン買い占めたのは!」と言われ「見どころのある奴」と大枚の祝儀を 振る舞われたそうな。はぁ呑気だねぇ、の時代。

四月十一日(火)長崎からの来港者に長崎ちゃんぽん(即席麺)いただく。同じものいただいた台湾人の知人に「なぜ「ちゃんぽん」の言うの?」と尋ねられ調 べたら(こちら)明治時代に当初「支那うどん」と呼ばれていたものが明治後期に「ちゃんぽん」と呼ばれるようになり、どうやら中国語で挨拶がわりに「吃飯 了没有?(ご飯食べた?)」というのを聞いた日本人が福建語で「吃飯(シャポン)」が長崎の人の耳にとまり「支那うどん」と同義語になった説もあり(こちら)。「吃飯」が「ちゃんぽん」の語源とは。 偶然のことに台湾人も驚きだが、正確には「吃麺」だろう、と。確かに。晩に銅鑼湾UA戯院滑り込みAbolfazl Jalili監督のイラン映画“Gol ya pouch (Full or Empty)”観る。日 本でも『少年と砂漠のカフェ』(01年)とか公開あり。ネオリアリズムとか称される部類。教師志願の若者がペルシア湾岸の小さい町に現れ教師になるべく努 力するが社会の弊害もあるが根本的にどこかキテる少年。天才なのかも知れないが行動が軌道逸するところ多し。17歳の主人公演じる若者は全くの素人。その 彼が演技というよりまさにそのニンで切なく奇妙に可笑しい。晩飯済ます時間もなく尖沙咀のコンビニで青島麦酒一缶立ち飲みで晩飯かわり。文化中心にて Aleksandr Sokurov監督作品“Solntse (The Sun)”を観る。日 本では『太陽』と呼ばれているが未公開、公開未定なのは、この映画主人公は畏れ多くも先帝陛下なり。昭和20年の先帝の一日をじっくりと見せるが宮城の御 殿地下の防空壕での御座所で迎える朝飯に始まりポツダム宣言受諾での終戦をば陛下が希求される御前会議、そして地上の御殿に出て研究所にて生物学のご研究 に余念がない。そこに侍従長が「アメリカ軍の隊列が東京に近づいております。至急、退避壕にお戻りください」と述べ地下壕へと潜る。ここでふと「空襲なら わかるが米軍上陸の地上戦はあるまひ」とふと不思議に思う。午睡。お目覚めのあと皇太子に手紙認めるが文中には「敗戦の原因には」とあり、まだ終戦前なの にもう陛下のご決意は敗戦か、と怪訝に思う。そこに侍従が現れ黒のフロックコートに山高帽の陛下を御殿正面玄関に導くのだが御殿の庭には米軍兵の姿。米軍 の自動車に乗せられ向かう先は進駐軍総司令部のマッカーサー元帥もと。ははぁ、とこのへんで、この映画、朝からずっと陛下の一日を追う展開だが時間の流れ はずっと早く進んでいる。遅晩には皇后と皇太子が疎開先から戻り天皇の人間宣言まで話が進み、そこで終わる。この長い一日が厳粛にただただ厳粛に過ぎてゆ くのだが特筆すべきはイッセー尾形の昭和天皇役の見事な演技。この映画に表れる陛下の姿は奇妙な言動のなかに特筆すべき語学力や自然科学の知識など天才と 奇妙の紙一重。それに陛下独特の表情や仕草(果たして若い時からこれほどだったのか、と思わされもするが)、それをどうとらえるか。いずれにせよ日本では 公開されず。この映画紹介するサイトも見当たらず。天皇という題材もさることながら戦争責任にかかわる言及もあり而もAleksandr Sokurovはヒットラー、レーニンに続く三部作の最後に「裕仁」を題材にしており、この並べ方だけでも日本では受入れ難い鴨。但し映画観ての感想は予 想以上に先帝が興味深き人物として描かれており、単なる独裁者であるとか、あるいは無力に非ず。右翼からすれば陛下を勝手に映画にすることぢたい赦せない だろうが、反面、左翼にしても天皇の戦争責任追求するような内容でないことから(寧ろ先帝の再評価につながるところあり)これもまた赦せず。かといって中 立でもなく、独自の天皇観といか言いようなし。文化中心のシアターにかなりの観衆あり映画終わると拍手。予想以上にエンディングで席を立つ客少なくクレ ジット眺めている。香港のこの場に居合わせた人にとって、中国侵略の日本軍の最高総司令としての、軍国主義の象徴たる天皇という(ステレオタイプな一面的 な)印象とはかなり異なる、先帝がかなり把握には難しい興味深き人物であることは印象づけられたであろう。この映画祭のパンフレットの記載によれば「皇居 でこの映画が内々に上映された」という噂もあり、と書かれている。深夜11時半すぎ帰宅途中に不図、銅鑼湾で途中下車してバーS。かなり映画の印象が強くとても白面では帰られぬ、というのが言 い訳。サントリー角のハイボール(氷なし)一杯。Hennessy Rdからタクシーに乗ろうと思ったが途中、バーYに寄りオールドパーでハイボール同じく一杯。帰宅。

四月十日(月)甚だしく蒸す。母より初めてメール届く。母が初めて打ったメール。父が亡くなりせめてもの暇つぶしにと(夢は歌舞伎のチケットのネット先行 予約が出来るようになる哉)iMacをばネット購入して実家に送り付け父一周忌の帰省にセットして二時間ほど操作法教えただけで一週間ほど前に AmazonにてiMac使い方本購入し自宅にこれも送り「あとは自習で」としたのだが、なんの相談もなくメール届き感激す。「桜色の美しい季節となり福 島の白河の関に行き楽しんできました!」と母。!マーク付きとは頼もしい限り。本日寄席3ツで高座に上がり而も円朝の牡丹灯籠ぢゃあるまいに二時間、二時 間、三時間の長い話三本で疲労困憊。晩遅くZ嬢の 観ていた鈴木清順『オペレッタ狸御殿』に途中入場で参観のつもりが断念。
▼仙台U市長が市議会2月定例会で演説した2006年度施政方針について市は原文を紹介する異例のパンフレットを作製(河北新報7日)。市議から「具体性 がない」と批判が相次いだことに対し町内会会合などで配布して浸透を図る、とする。パンフレットは24頁だてカラー版。歴代市長には例のない取り組み。全 世帯配布の案もあったが三千部の発行に落ち着く。市長は施政方針で「日本人の伝統的な価値の尊重と継承」を基本姿勢に掲げ「世界に通用する活力、個性、品 格を持ち、強く安定した都市を目指す」と述べ、都市づくりへの決意には仙台市出身の井上成美・海軍大将が日独伊三国同盟の締結を阻止しようとした例を引く 時代錯誤。外国籍者も含む住民の福祉と利益を擁護すべき地方自治にあって「日本人の伝統的な価値の尊重と継承」とは。地方自治とは何か、基本的なことがわ かっておらず。市長の母校が仙台一高なら吉野作造でも読んで一から勉強すべき。
▼土曜日に九龍の下町Sham Shui Poの土地造成工事現場にて六百発近い爆弾が土中から見つかる。第二次世界大戦での対日戦期に英軍が埋蔵。MTRの長沙湾站近く、福榮街と東京街の角。 「東京」とは歴史の皮肉だが、これは日本の東都にあらず北京、南京に対しての北宋の汴京(べんけい)、東京開封府。

四月九日(日)SCMP紙にRajeshree Sisodiaというライターがタリバーン崩壊後のアフガニスタンの女性社会について長文の記事あり。ブッシュによるアフガン社会の民主化により女性解放 されたというが現実にはカブールの女性で売春婦になる者少なからず。社会の混乱期に売春というのは、ある面もっとも「手っ取り早い」職なのかも知れぬが地 域独特の売買春の流儀で女性がとても自立できるようなものでなし。午前、Z嬢と中環。市大会堂。池谷薫監督『蟻の兵隊』観る。日本での公開がこの映画を「観る会」がボランティア で動きようやく7月に公開決ったというのに香港でが完成作品の初上映という幸運。対中戦争で山西省に遣られた奥村和一氏(80)ら北支方面軍第一軍の将兵 数千名は終戦後、帰国せず国民党軍に加担しての対共産党軍戦に動員される。敗戦から九年して日本に戻った奥村氏らは志願して大陸に残ったとして軍人恩給の 支給も受けられず。国がこの老いた元兵隊らへの恩給支給になぜ応じられぬか、といえば、日本軍が実はポツダム宣言受諾後も実は武装解除せず皇軍の復活を目 指し軍事力維持のために大陸で対共産党戦で国民党軍に加担したからで、これを認めるような判断は一切できぬため、この兵隊らへの恩給しら支給されぬ。実際 に参戦した八十歳になる彼らが「あれは侵略戦争以外の何ものでもなく、なぜ侵略した兵隊が神様になるのか」と説く。我が大叔父もそうだが自分たちの青春を 犠牲にして多くの戦友が死んだ戦争の事実解明に余念なし。戦争を終わらせず追求続ける、というと映画では『ゆきゆきて、神軍』の印象が強烈だが、この映画 の奥村氏の頑固だが理性的で飄々とした感じで、それを(今日、会場にも来臨の)池谷監督がとてもニュートラルにドキュメンタリーとしている。二時間に及ぶ 作品だが昼からの上映に間に合わず最後三十分は惜しんで観られず。Z嬢は残り、独り高速フェリーで尖沙咀東。新文華中心の青見青見車仔麺に食す(「青見」 は一文字)。科学館にて昼から崔子恩監督『少年花草黄』観る。崔子恩は一昨年 のこの映画祭で『瞼不変色心不跳』を観たのが最初、昨年は北京の男色客相手の若い男娼のドキュメンタリ『哎呀呀、去哺乳』。いずれもビデオ作品。『少年花 草黄』の筋はちょっとややこしいが一卵性双生児の十代の男女、その女の子のほうに恋人が出来、それが不満の男の子のほうが嫉妬して……と。ビデオ作品とい うと実験的でも筋が弱いような印象あるが崔子恩ともなると、この一卵性双生児に、双子の男の子の親友(これが双子の男の子の方を恋している)や娘の彼氏に 絡む母親の登場まで筋立て見事。ビデオであるのは低予算云々より中国であるから、の事情ととるべき。『哎呀呀、去哺乳』に比べれば実に社会的であるが、こ れでも映画上映としてはとても許可されまい。フェリーで中環に戻り市大会堂にてRay Yeung(楊至偉)監督の“Cut Sleeve Boys”観る。このタ イトル“Cut Sleeve”は文字通り「断袖」。香港生まれで英国に学んだRay Yeungはロンドンで弁護士から転じてQueer Filmの世界に入った人で、ロンドンのチャイニーズのゲイ二人を主人公に、断袖の故事もうまく挿入され「オカマのセンスの良さ」の賢い笑い。市大会堂の 図書館に書き物によるが午後5時に閉館。早晩に銅鑼湾に行きUA映画館でブラジル映画、監督はAndrucha Waddingtonの“Casa de Areia(The House of Sand)”を観る。ブラジルの砂漠を舞台に、砂漠の女といえば当然、安部公房の『砂の女』で映画なら勅 使河原宏監督(64年)で岸田今日子の名演をば思い出すが、この映画もFernanda MontenegroとFernanda Torresという二人の女優が、後者が若い時の母とその後は娘、前者が年老いてからの母と更に年老いた娘を見事の演じる。ただただ砂漠のなかで世の中か ら隔絶して暮す母娘、生きるために奴隷上がりの地場の(って正しくは砂場か)男に身体を赦し、月の砂漠を遥々と、の1910年から世界大戦で飛行機が砂漠 の上を飛び、ジープが現れ、老いた母は数十年ぶりに再会する娘から、その月に人類が企った事を聞かされる。で月には何があったの?、何もないわ、ただ砂漠 が続くだけ、と。思わず目頭が熱くなる。バーYに寄りハイボール一杯。昨日に続き午後九時から金鐘のTamar広場でZ嬢と待ち合せ、今更説明も要らぬだ ろうが山崎貴監督の『ALWAYS 三丁目の夕日』観る。我々の世代には、自分もあのようなガサツな 横丁で育った我にはまさに子どもの頃そのものの光景。時代は少し下るが、カラーテレビが家に届いた時の家族の興奮(家で初めて見たカラー番組が芝居好きの 家のため歌舞伎中継)、カラーテレビ購入しただけで岡本太郎のブロンズ製の「太陽の塔」がもらえて伊豆のハトヤにお二人様ご招待で祖母と出かけたこと、届 いたばかりのスバル360で幼稚園に迎えに来た父の笑顔、上野駅のコンコースの列車の時刻板の並んだ光景など、さまざまな思い出。香港の観客も時代は少し 違うだろうが同じような経済成長期の同時代体験あり、で楽しめる。21世紀の未来社会描いた作文の話でスクリーン一面に高層ビルの間をエアカーが走り(飛 び?)チューブの中を車や列車が走る風景。それがスクリーンの背後には香港の金鐘の高層ビルが建ち並んでいるから、スクリーンと背景の景色が一体化して、 エアカーは走っていなが「そういや、もう21世紀であった」と思い出す。

四月八日(土)午前、先日上映取消しで見逃しの“One Day in Europe”を銅鑼湾UA映画館で観る。期待通りの秀作。モスクワで欧州サッカーのリーグ決勝戦が開催される日、モスクワ、イス タンブール、Santiago de Compostelaとベルリンを舞台に「旅人が旅の途中で携帯品を盗まれたり保険金目当てで盗まれたことにしたり」という同じ設定で話が進むのだが、欧 州のどの都市でも市民も警察もサッカー中継に釘付け、それぞれの土地の人柄も見事に描く。こういう作品ができる欧州が羨ましい、とアジアで思う。映画が終 わり突然リカーが飲みたくなり(恐らくモスクワのシーンでオバサン二人の飲んだウオツカに触発されたのだろう)Citysuperでドライジン小瓶購い (ウオツカの小瓶なし)クイっと一杯。昼から同じUAで李玉監督『紅顔』を観る。これも当たり。中国映 画の洗練ぶり。四川省の美しい川沿いの古鎮を舞台に16歳の少女の妊娠から話は始まり10年後、とありきたりのような筋だが少女、10年後にはどさ回りの 川劇の女優役の劉誼と子ども役の少年の演技の見事なこと。何洪記に て牛南カレー飯を食す。昼遅くなのに行列。此処の牛南カレー飯はHK$46と普通の茶餐庁の倍の値段。それぢゃ「2倍美味しいか」と言われると返答に窮す る。銅鑼湾の老舗だが新宿中村屋のカリーとか、銀座で資生堂パーラーなり煉瓦亭でハヤシライスなど食する時ほど納得もせぬのだが。尖沙咀に渡る。香港文化 中心にてメキシコ映画“Batalla en el cielo(Battle in Heaven)”観る。奇才Carlos Reygadas監督。あたしゃどうもこのテの観念的な作品はよくわからぬ。映画は冒頭からいかにも卯建の上がらなそうな中年のデブ親父を美女が口交する シーンから始まり而もデブ親父は軍隊の運転手で美女は上官の娘ときたもんだ。絶対にあり得ない情事なのだが、その常識を超えて成立してしまっているこの情 愛が革命的なのだろう、きっと。後半は贖罪にテーマが移るし。口交シーンありで三級(成人)指定、で香港旅行中の大陸の田舎漢のオヤジ数名が旅路の記念 に、と三級片を、と参観したようで上映後に「???」な表情もさもありなむな話。映画上映の間は海野弘の本など少し読み文化中心に戻り晩に監督は張元の『看上去很美』を観る。これまで社会派作品多く、公園で相手探し中に 警官に捕まったゲイと警官の交番での徹夜の会話が続く『東宮西宮』など『蜘蛛女のキス』に匹敵の会話劇もある張元監督が保育園舞台に幼児をば主人公にし て?というのはかなり驚く、が、さすが張元、こう来たか、とファンとして納得の保育園映画。舞台はおそらく北京の全寮制の保育園。孤児院でないのは主人公 の方槍槍は両親とも党政府の上級職。両親が仕事に忙しく地方にそれぞれ配属されたりで党政府の高級公務員の子女多き保育園であることは、その古い祠堂を用 いた校舎といい北京の中南海のような赤い壁に囲まれた緑多き静かな環境といい明らか。幼児であっても効能主義と賞罰が徹底し<教育>が施される様はフー コー的で張元の徹底した保育園の教育のディテールは大西巨人の『神聖喜劇』の域で管理徹底の教育が可笑しさすら映る。最初はこの保育園に溶け込めず教師を 恐れていた槍槍君がご褒美の「赤い花」をもらうために「良い子」ぶり、次第に仲間を形成して奇妙なほど刑務所の監視人的な教員に幼児が集団で悪戯を仕掛け るほどにまでなるのだが度が過ぎると集団から隔離され反省を強いられ孤独の怖さに戦慄き集団に戻ること請うが今度は集団は上部(教師)からの命令で槍槍と いう造反者をシカトするよう仕向けられており造反者は集団で孤独なままに日を過すことになる。保育園舞台によくぞ此処まで撮った、とさすが張元と驚くばか り。珍しくマクドナルドラ イスバーガー食す。夜遅く香港島に戻りZ嬢と待ち合せ金鐘のTamar広場に特設の野外映画上映でシンガポールのJack Neo(梁智強)の“I Not Stupid Too”を観る(公式サイトは制作会社版配給会社版)。15歳の中学生の男子2人 の「大人はわかってくれない」で非行に走る「中学生日記」だがシンガポール社会の直面する問題などもテーマとして大きく、しかも面白可笑しさは父親役で出 演もしている梁智強の強み。この作品は三年前だかに“I Not Stupid” という作品あり12歳の少年二人と年下の弟を主人公にした映画があり今回はその時の主人公の少年3人がそのまま3年後、のお話。梁智強監督はこの映画はこ れからも4年に一度で少年たちが成長する姿を作品にしたい、と語る。シンガポールではRoyston Tan監督が先日観た“4:30”で11歳の少年の葛藤、二年前には文字通り“15”で15歳を描いているがRoyston Tanは両作品とも家族などいない。少年たちは個として孤独に社会で踠かなければならぬ。それに対して梁智強の一連の作品は少なくとも家族がいて家族も問 題多いのだが最後はハッピーエンドなだけ、まだ「健全」というカテゴリーか、そういう意味で「中学生日記」だね、とZ嬢と話す。カタログには95分とある が2時間たっぷり。弟役の子がトリックスター的に物語の語り部なのだが、途中、中学生のお兄ちゃんと友だちの非行に走るエピソードが饒舌すぎてもっと整理 すべき。

四月七日(金)晩に旺角UA映画館。若松孝二監督『17歳の 風景』。会場で映画評論などされる畏友S嬢と邂逅。Z嬢来る。会場に若松監督来臨。上映に先立ち挨拶あり。岡山で母殺しの17歳の若者の逮捕される秋田ま での17日間の旅がモチーフ。17 歳の風景というタイトルから、大江健三郎の『セブンティーン』や尾崎豊、そして学校をさぼって二回観た柳町光男監督の『十九歳の地図』を思い出しながら少年(柄本 佑)が東京から信州を越え日本海に出て冬の厳しい寒さと風雪のなか自転車でひらすら北上する風景をスクリーンにぼんやりと眺める。若松監督も17日間で撮 影した、という。それにしても少年が偶然に出会う人は左翼的な老人(針生一郎)、政府の海域政策に愚弄される漁民、在日の老女(演じるは関えつ子、日本に 強制連行され子どもの産めぬ身体となったものの結婚した夫は「北」へ渡ったまま、という) 。「つくる会」的な右翼の思想統制も不快だが、このモチーフにされた少年は北上の逃避行の最中に左翼的に目覚める必要もないわけで、そういう意味では映画 の話は教条的。17日間も旅をするから、といって顔や服装が汚れたりヒゲが生えたり、そんなリアリズム(例えば北野武『Doll』や是枝裕和『誰も知らな い』等での「汚れ」)はこの映画ではけして必要とは言わぬ。だが昨晩のSABU監督のV6映画でもそうだが、筋に重要に関わるところで、この『17歳の風 景』では少年が自転車から転げ落ると自転車はそのまま坂道を下り続けガードレールにあたりチェーンが切れ前車輪破損。そんな、Dettoriのジャンプ じゃないんだから(笑)自転車も倒れます、って。それに丈夫なロードバイクが坂をよろよろ走ってガードレールにぶつかって大破とは。演出のために自転車の 車輪止める軸ネジなど外している撮影現場など想像すると「若松孝二のこの映画であるからこそ」興醒め。上映後に監督との質疑応答の時間あり。但し映画ぢた いの好き嫌いの関係なく映画の上映で監督や出演者が語ることを聞くのが苦手なので終演後すぐに会場を出てしまう。たとえ大好きな映画監督であろうとも映画 は映画、であるから監督の映画についての語り、など聞きたくはない。この映画のシーンに17歳の親殺しの新聞読みながら同じ年くらいの高校生三人のラーメ ン屋でのラーメン食べながらの親や社会への不平不満の鼎談あり。この場面もあまりに高校生の会話が脚本で出来過ぎていて不自然。兆民の『三醉人經綸問答』 ぢゃないんだから。ただこのシーン眺めていてZ嬢が「ラーメン食べたい」と所望し旺角UAより風俗街Portland Stをば社会見学しながら散歩して油麻地のらーめん横綱に食 す。十人ほど店外に待ち客ありの繁盛。隣店で麦酒購いちびちび飲みながら入店を待つ。結局あちこちに日本らーめん専門店出来てはいるが結局、この横綱と尖 沙咀の一平安が香港で普通に落ち着いたらーめん。地下鉄で中環。市 大会堂。三池崇史監督のホラー映画『Impact』 観る。工藤夕貴主演。原作は岩井志麻子『ぼっけ え、きょうてえ』(角川ホラー文庫)。で制作は角川ヘラルドでキャスト全てが英語で語る完全な米国向け(欧州ぢゃない)ホラー映画。どうでもいい けどセンセーショナルにするしかないジャンル。米国映画で中国の女優使った花魁芸者映画には日本でかなり批判もあったようだが、日本の花街だの貧困だの、 この『Impact』もかなり米国人が喜びそうな恥部世界で描いてみせているわけで、そういった意味ではこの映画こそ保守反動右翼の諸君など角川書店に何 故抗議せぬのか不思議……というか日本では北海道の映画祭でこの春上映されただけか。例えば米国や中国やフランス、その他どの国でもそうだろうが、例えば 他国に偏見的に自国を描かれることはあっても、自国をばここまで徹底的に恥部的要素で描きホラーとして楽しい、と感じられることぢたい日本は(昨日の日剰 に綴った劉健威兄の感想の通り)かなり変であるのは確か。

四月六日(木)毎週木曜日恒例の小泉メールマガジン。「初心忘れるべからず」という題に確かに小泉三世ほど5年前に総理就任での野望忘れておらぬ人はある 面では大したもの。今日の話題はやはり先日の荒川きん嬢とのプッチーニのオペラ「トゥーランドット」観賞。やはり「これは私の大好きなオペラの一つ」で、 首相在任が中曽根大勲位抜いて吉田茂、佐藤栄作に続いた小泉三世「出演者の熱唱と力強いオーケストラの演奏、金メダリストとともに最高のオペラを鑑賞でき るとは、私には運がついていると思いました」と有頂天。確かに運がいいことだけは認めよう。
総理に就任して5年近く。一人の平凡な人間が、ここまでやってこら れたのは、多くの国民のみなさんのご支援、ご協力があったこと、そして運が良かったということだと思います。いつも何かに守られている、国民のみなさんが 支持してくれている、運がいいな、と思いながら、精一杯頑張らなければならないと思っています。
そう、確かに。彼がここまで長期政権で絶好調なのは国民の支持があるから。小泉三世本人に罪は無い。で本日、諸事忙殺され滑り込みで銅鑼湾UA映画館。SABU監督のV6映画“Hold Up Down”観る。長蛇の列。ほとんどがV6のファン。SABU監督は堤真一主演の“Monday”という作品からこの映画祭常連。前作“Hard Luck Hero”だったかに続くV6が出て犯罪おこしたり巻き込まれたりのドタバタで……は同じ。前回の作品がカーチェイスにこだわったのに対して今回は若い強 盗(井丿原、三宅)、警察(坂本、長野)に神父(森田)とヒッピー(岡田)という配役で彼らが事件に巻き込まれ、の展開はけっこう笑えるドタバタ喜劇。だ が残念なのは彼らがハプニング的に巻き込まれる処までは良かったのだが全員が同じ方向に向かって追いかけっこ始めてからは筋が収拾つかなくなり香港の三流 アクション映画の如き乱闘シーンや幽霊シーンなど意味不明。当初からかなり爆笑していた館内も途中から「V6が出てきただけでウケるファン」除き笑いが停 る。あらためて007シリーズやスピルバーグ作品など最初から最後まで「手に汗にぎる」凄さ痛感。この映画の筋であればハプニング的に事件に巻き込まれた 素性異なる6人が大騒動のなか仕方なく協力し警視庁あげての捜査線掻潜り逃げ切るような展開のほうがよかったはず。冷凍になったヒッピーがなぜ溶けぬの か、冷凍の臭かったはずのヒッピーが溶けたらなぜ小奇麗なのか、なぜ彼らが乱闘始めたのか、幽霊シーンは何なのか、なぜ警察の追っ手が朝まで到着しないの か、なぜ神父だけが刑務所に入っているのか、などドタバタ作品とはいえ辻褄の合わぬ点多すぎ。SABU監督には監督自身に堤真一と共犯役で出演望みたいと ころ。尖沙咀Citysuperのフードコートで評判の鹿児島阿久根らーめ ん銅鑼湾に開店と聞き旧・華潤百貨のビルに向かうが階上への入口いっこうに見つからず三越側の狭いエレベータでようやく上がる。阿久根らー めん初めて食す。店員頗る愛想よし。店を出てからこのフロアへは銅鑼湾広場からの横断歩道橋から直接入る、と知る。UA映画館に戻る。鈴 木清順監督『オペレッタ狸御殿』。傑作。清順監督、老いて尚お 痛快。映画で「狸御殿」と聞くと「ひばりの」とすぐに連想し「七変化狸御殿」など口ずさむのは余の齢ゆ ゑ。佐藤忠男氏は清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』で
鈴木清順監督は、リアリズムが嫌い、建設的なテーマが嫌いで、もっ ぱら遊び三昧の境地に至るために映画を作っている稀有の映画作家である。めざすは現実を超えて夢見ごこちの世界であり、官能的であって、しかも魂が浮遊す るような喜びを与える時間空間である。その鈴木清順の美意識が長い模索をへてついに到達した最も○○な作品である。 ……○○ は富柏村自らの抜き書きの乱筆読めず
と評しているが『オペレッタ狸御殿』こそ鈴木清順の美意識と芸術性の極致であろう。この映画は奇想天外であるように見えてシェークスピア以来の非情劇の伝 統をきちんと押え、而も現代演劇で蜷川幸雄や鈴木忠志などが目指す地点と同じところを「落とし所」にしている。而も、この鈴木清順初の時代劇を観ている と、この作品が「巨匠」黒澤明の『影武者』や『乱』への「痛快なるオマージュ?」であることも読み取れる。誤解していけないのは、黒澤時代劇へのアンチ テーゼなのではない。鈴木清順は黒澤明を相手に戦わない。土俵が違うのだ。「こういう世界もありますよ」と見せてくれる。その世界が素晴らしいから観てい る我々は映画を観ている間は幸せになれる。終わって「なんだ、ありゃ」と笑顔になる。……とか佐藤忠男先生ならこんな調子で書くかも知れない。オダギリ ジョーに章子怡を王子様とお姫様の主人公に、シェークスピア劇的なる父に平幹二朗と妃は由紀さおり、すっかり濃い役に馴染んだ薬師丸ひろ子、高橋元太郎 (水戸黄門のうっかり八兵衛)、山本太郎、そしてキーシン……否、パパイヤ鈴木など錚々たる顔ぶれの清順ワールド。清順監督は「わけのわからない映画を作 る」から日活から放逐されたが今では「わけのわからない映画を作る」ことで香港の観客も心底楽しむ。愉快。深夜帰宅。SCMP紙に映画 “Isabella (伊沙貝拉)”について2本映画評あり。畏友Paul Fonoroff君はレンズを通してこの映画を評し、Clarence Tsuiなる評論家は主演の杜汶澤(プロデューサーでもあり)のこの映画に至る心の経緯、模索を語る。
▼「伝説のバンド」などという陳腐な言い方はしたくないが村八分のCD 全集と山口冨士夫の回 顧本。村八分、ハードロックでは「紫」、しばらくしてPantaの頭脳警察くらい迄は凄かった。
▼信報の林行止専欄にてタイのタクシン退陣の下りで、タクシンの曽祖父が広東省梅県出身の客家人とあり。税吏で財も残すがタクシンの生れた頃から家計傾き タクシンは中学卒業後に父の経営する珈琲屋など手伝い二十歳でバンコクの警察学校に入校。その後頭角表わし米国に国費留学で犯罪学などで博士号まで取得 し……の、これ以降は有名な話。林行止曰く事業に成功し億万の財を得たものの心得は政界に進出せぬこと、と。香港の李嘉誠など見ればわかる通り。董建華は 別(笑)、ありゃ億万の富を無くしての藁をも掴む中共からの庇護。
▼信報に時どき卓南生という京都龍谷大学教授の政治論評あり。ポスト小泉の自民党総裁レースにつき語るが題名が秀逸。阿倍小鷹與福田非鴿、と。タカ派だが ヒヨッコの阿倍に対してハト派ではないがハト派という見方に納まった福田、と言い得て妙。
▼同じ信報の随筆で劉健威兄が日本の自衛隊の滑稽話を書いている。日本の劇作家の知人が取材で得た話、だそうで、福岡の自衛隊で取材してみると、自衛隊は 専守防衛が建前であるから自衛隊は絶対に先に開槍はできず相手が発槍したら反撃できること。それゆえ軍事訓練もまずは「相手の攻撃を避けること」の大事。 福岡の基地といえば、もともと在日米軍基地跡地だが米軍撤退の後にここにはまず幼稚園と中学、老人ホームなど社会施設が建設され自衛隊は結局、敷地内のビ ルに納まる。福岡空港は民間の国際空港で自衛隊は空港の一部を借用。自衛隊本部から空港まで3kmあり空港では十数枚の書類に許可を得なければ空港自衛隊 の飛行機は飛ばせず、その間に敵の攻撃受ければ福岡は廃虚、と。また海上自衛隊も日本離れ平和任務についてはいるが小型艦での出動で大海の大波に揺られ船 酔い嘔吐も実は甚だし。戦艦の便所で嘔吐し続ける部下を上官が「それでも自衛隊にいたいのか?」と問うと敬礼して「他の仕事が見つかりません」と部下は素 直に答えたと言う。中東に派兵されたくなければ命令は絶対だがスーパーで万引きでもすれば数週間、牢屋に入るだけで中東への任務も取り消される、という話 もあり。劉兄曰く、日本の自衛隊の海外派兵だの軍国主義復活だのと中韓は憂慮するが、最も不思議なのは、そんなことより、日本人の考え方でその奇妙なとこ ろが時たま理解に苦しむことである、と。

農暦三月初四。清明節。掃墓に向かう家族連れ多し。尖沙咀では民主諸派が合同で天安門事件慰霊。今年は周恩来逝去に始まる第一次天安門事件三十周年。お若 い人はご存知なかろうが文革に続く四人組の時代に周恩来逝去惜しむ市民らが清明節に合わせ天安門広場の人民英雄記念碑に周恩来追悼をして四人組これを弾 圧。鄧 小平三度目の失脚(79年の三中全会で復活)。当時、まだ若き我も短波ラジオで北京放送のニュースに耳を澄ませたのも懐かしいこと。で第30回香港国際映 画祭、実は昨日開幕。トラウマか開幕上映作品=山田洋次という印象強烈。今年は香港映画の「黒社会2」と「伊沙貝拉(Isabella)」だそうで開幕式 典に赤いカーペットなど敷いてスターが来場なんて野暮な開幕につき合う気もさらさらなく当然のように同じ文化中心のコンサートホールで(映画祭はシアター ホール)キーシンのピアノ独奏会をば聴いた次第。で本日から十九日迄毎年恒例の如く映画漬け。で午前十時半からシティホールでの“One Day in Europe”観ようと出かければ 会場閑散としており「ん?」と思えば上映取り消し。すでにだいぶ前から告知あったらしく知らずに出かけたのは数名のみ。出ばな挫かれる。取りあえずスター フェリーで尖沙咀に渡るが香港太空館では1968年の張徹監督の武侠映画『金燕子』上映されているものの武侠映画の古典秀作ながら武侠物ぢたい興味なく、 もう一つは科学館に行けば『黒社会』上映しているがわざわざ行く気にもなれず、でジム。昼からシティホールに戻りFred Kelemen監督の“Krisana”(2005) 観る。ラトヴィア舞台に都市の「個人の存在」について。監督や出演者来ているわけでもないのに上映後に拍手あり。午後遅く文化中心で昨日の開幕上映作品の “Isabella (伊沙貝拉)”を観る。彭浩翔(Pang Ho Cheung)監督、主演は杜汶澤と梁洛施。1999年のポルトガルから中国への回帰直前のマカオ舞台に杜汶澤演じるダメ刑事と突然表れた私生児の娘の物 語。杜汶澤がすっかりお父さん役で好演。黄秋生が相変わらず助演でさすがこの人、の筋に直接関係ないのだが、絶対にいてほしい存在。あの刑事事件をこう題 材にしたか、で余りにも「マカオらしすぎる」演出だがベルリン映画祭でも好評であったのも頷ける。香港映画の一つの可能性でもあり。晩に旺角UAにてシン ガポール映画“4:30”観る。二年前のこの映画祭に“15”が上映され、我自身にかなり衝撃的であったRoyston Tan監督の新作(この監督のサイトは必見)。15ではシンガポール の怒れる十代が主人公であったのが今回は11歳。母が北京に仕事で孤独な存在。咳止め薬でどうにか毎日を生きている。これ以上、何も語れぬ。ただ絶望的な なかでRoyston Tan監督の主人公への愛おしさだけが救いか。晩遅く文化中心に戻りホラー映画“Black Night”観る。香港、日本、タイの三本のホラーのオムニバス映画で日本から瀬戸朝香、柏原崇なる二人の俳優が来港し舞台挨拶あり。ホラーはどうも興味 持てず。ただ香港のホラーが三級ホラーに徹しており、日本作品(秋山貴彦監督)が心理物なのもお国柄か。本日映画五本のはずが四本で意外と疲れ知らず帰 宅。
▼タイのタクシン首相が退陣表明。国会下院選挙にて野党ボイコットで事実上の信任投票となりタクシン率いる与党過半数を得てタクシン続投表明していたが 「国の団結のため」と退陣表明す。タクシン氏4日午後プミポン国王滞在されるホアヒンの離宮を訪れており「何らかの形で辞任を促された可能性もある」(朝 日)。退陣も6月のプミポン国王戴冠60周年記念式典を平穏の実施するため、と言う。確かに王室中心に動く政局なのは事実。だがこれが朝日が3月下旬に社 説で述べた「国王に頼る切なさ」なのか、「民主主義の成熟覚束ぬ」と言い切れるものなのか。まず何といっても下院選挙で出身地のチェンマイ中心に北部で田 中角栄的に圧倒的支持の高いタクシンの与党がかなりの得票を得ると確信されていたものが野党ボイコットのなか都市部を中心に反タクシンの世論が選挙で積極 的に白票投じた結果、白票が与党得票を上回った事実。この国民の政治への関心と積極的な動きのどこが「民主主義の成熟覚束ぬ」なのだろうか。日本のほうが よっぽど民主主義は成熟などしておらず。で、その世論の意思表示に対してタクシンは選挙結果での与党の勝利(そりゃそうである、野党がボイコットしたのだ から)を理由に首相続投と居座り決める。こうなると反タクシン世論は何ができるか。選挙での意志表示反古されたのだから次はデモやストライキ、反政府抗議 運動か。となると世情不安定となる。ここで国王に謁見のタクシン氏に国王が退陣を示唆。タクシンもメンツもあろうし選挙で与党が議席占めた「事実」もある が「6月のプミポン国王戴冠60周年記念式典を平穏の実施するため」に譲歩。タクシン派も反タクシン派も「国王戴冠60周年記念式典を平穏の実施するた め」で居り合いがつき実際に6月のこの記念式典を盛大に、厳かに開催することでタイがタイらしく平和な時となる。これでいいのではなかろうか。このタイの 動きが見えもせずに、勝手に「国王に頼る切なさ」だの「民主主義の成熟覚束ぬ」などと言ってみてしまう我が「民主主義国家」の誤謬甚だし。ちなみに朝日は 今日の社説でこのタクシン退陣を受け退陣に至る事実経過を述べタイの政治安定の東南アジアにおける重要性を説き「20世紀の初め、タイの近代化を担ったダ ムロン親王は「独立を愛する心」「寛容の精神」「和解する力」の三つの大切を説いてやまなかった。タクシン首相の退陣で、その教えが実現できるかどうか。 見守っていきたい」と社説を結んだ。あれほど「国王に頼る切なさ」を説きながら日本でいえば明治帝の如き親王の言葉を用いてタイのその大切が実現できる か、と問うことの矛盾。しかも最後は「見守っていきたい」と、これは記者が記事を書くときに絶対にこれで〆てはいけない、と教えられる、誰でも使える陳腐 な表現であることは言うまでもなし。

四月四日(火)民主党代表に小沢氏支持強まる。旧社会党系グループ小沢氏擁立に積極的とは二十年前の政局知る者は隔世の感あり。昨晩小泉三世荒川金嬢連れ プッチーニのオペラ“Turandot”観賞(こ ちら)。お姫さまを得るか処刑されるかの一か八かの物語……小泉三世満喫であろう。本日も気温は摂氏28度くらいか。晴天で昨日よりかなり猛暑に 感じる。もうスーツなど着れぬ夏。早晩に某お三方と打ち合せと称し改装中のFCC のバーにステラ三杯ずつ飲む。Color Six現像店にNikon F2で撮影のポジの写真出来受け取り。尖沙咀でZ嬢と待ち合せ「尖沙咀の」Jimmy's Kitchenに食す。ドライマティー ニ。二人で「アボガドと蟹肉の前菜」と「菠薐草のパイ」半分っこ。年老いてこれで充分。生姜プティングと珈琲。香港文化中心。Evgeny Kissin君のピアノ独奏会。神童と八十年代に日本で大評判のキーシン君も三十五歳。ベートーヴェンのピアノソナタ3番と26番、休憩挟んでショパンの Scherzoの1〜4番。正直言って我は「コンサートで聞きたい」という演目に非ず。だがキーシンであるから、というZ嬢の期待。さ すがパパイア鈴木、否、キーシン君であるから「まいう〜」とため息の出る演奏。ベートーヴェンも3番はやはりコンサートの初っぱなには似合わないと思うの だが26番は「はぁ……」と聞き惚れScherzoも2、3番がお見事。技巧は我の如き素人が評す言葉もないが文化中心のコンサートホールでここまで音が 響くかと驚くばかり。アンコールも2曲目のショパンのエチュード、リスト?であろう3曲目でようやくキーシン君の顔に笑顔が漏れ始め「さぁ、これから」で 4曲目はショパンのマズルカ(だと思う)。だが香港の客は2時間半のリサイタルで「まさかこれから」とは思わずアンコール4曲でお開き。三十代のとにかく 働き盛りの演奏をば堪能。キーシンはこれから春の日本巡業の始まり。
▼東京で「春樹を巡る冒険」と題した国際シンポジウム開催された由。人間の中の迷宮、難民、無国籍性など村上春樹めぐり。柴田元幸氏が冒頭で「単なるファ ンの集いではないが村上さんの小説を愛する者が多い。一読者としてチェコのフランツ=カフカ賞の受賞をお祝いしたい」と挨拶すると五百人の参加者から盛大 な拍手、と(朝日)なんか「思いっきり」だが四方田犬彦氏も「初期を除くと村上氏は自作の映像化を拒絶している」にもかかわらず映像界の村上ワールド的な イメージは「香港映画などに表れている」と言う。王家衛などなのだろうか。よくわからぬ。

四月三日(月)気温摂氏28度。春通り越し汗じんまりの暑さ。諸事忙殺され晩に至り尖沙咀のFurama Hotel地下美食大都会にてカレーライス5分で喰らい更に晩の高座に上がり一日が終わる。それだけ。ところで昨日空港で日本からの某団体のツアー見かけ る。ツアーくらいなら着目もせぬが何と観光バスが余が目にしたかぎりでなんと「19号車」。いったい何号車まであるのか知らぬが少なくとも19号車である から30人ずつ乗ったとして600人弱のツアー。10年ほど前のジャッキー=チェンのファンの集いだかで日本からB747機で2機がチャーターで飛んだか したが、今回のこの数百名の団体はいったい何れか。ふと脳裏過ったのは珠海のホテルでご乱痴気の某リフォーム会社の社員旅行。だが昨日のツアーの客は中年 のオバサンが主流。バスのツアー名は「○○○コンテストご一行様」とあるが聞いたこともない団体。で、ふと思いだしネット検索してみればGoogleでも 3件しか引っかからず、それほどマイナーな団体が数百名でツアーしている、と思えば余計に怪しい。それゆゑ「○○○コンテスト」としか綴らずにおくが、マ イナーな宗教団体か、特定商取引法で定義された「連鎖販売取引」を行う会社、所謂マルチ商法なのかもしれない。わからないし余計なトラブルに巻き込まれた くないので、あくまで憶測。でこのフランス語で言えば“Le concours pour les fleurs blanches”か、の団体の親睦旅行。ちなみに三月下旬に日本から数百人だか千数百人だかが来港の台湾芸人F4の香港コンサートであるが「F4、香 港」とGoogleすると270万件ヒットである。これくらいが「関心と規模」の適正比だとすれば「Googleで3件が数百人で香港旅行」がいかに不思 議なことか。

四月二日(日)晴。午前書類片づけ昼に空港。空港のアイリッシュパブKatie O'connor'sに一憩。客人出迎えホテルに送る。夕刻束の間の自由時間。晩に客人らと銅鑼湾の新蘇浙に食す。かなりの賑わい。Rugby Sevens最終日にて銅鑼湾にご乱痴気の人多し。警官もかなり出勤。イングランドが連勝の強豪フィジー破り優勝とか。日本は予選の結果第2組に入ったが カナダだかに破れる。客人を湾仔のホテルにタクシーで送り帰宅。
▼川崎での男児転落死で容疑者の男出頭し逮捕。付近の住民「これで安心です」「子どもの通学にずっと付添っていたけど、これでもう付添わなくてもいいと思 うとホッとする」と。本当はこれで安心などできないはずもなし。香港では日本より子どもの誘拐や殺人など圧倒的に稀で安全ではあるが学校に通う子どもの送 り迎えなど日常的。悲しくもそれで安全保たれる。何か事件が起きて対策講じても致し方なし。
▼Financial Timesの記事でネットのポルノサイトの普及に社会的問題の長文記事(Not tonight, darling, I'm online)あり。ポルノ関連サイトの数は98年に1,800万サイトが03年には2.6億サイトと1,800%の増長みせネットの有料ポルノは年間 25億USドルもの巨大産業(ちなみに音楽ダウンロードは11億USドル規模でしかない)。それぢゃ若者がネットポルノの虜かと言うと実は青年から中年男 性で“The man who tells you he hasn't looked at pornography on the web is the man who tells you he hasn't masturbated”という普及は家庭や対人の性関係が“Not tonight, darling, I'm online”となる。

四月朔日(土)晴。朝寝貪る。柳浪短編『雨』読む。芝は新網の長屋に住ふ娘夫婦。若い頃から好き勝手のうえさんざん苦労かけた娘にたかる老母にせがまれ娘 婿連日の雨に仕事に溢れ日銭も入らぬなか厭わずカネの工面が不幸の始まり。柳浪の雨の描写がこれまた見事なる筆致。この短編、現代に焼き直し台湾の蔡明亮 が撮ればかなり面白かろう。昼に裏山に10kmほど走る。午後遅く中環。Color Six現像店に現像出来の写真受領。ニコンのF2、ContaxのG1とT2で撮影のポジ、白黒、カラーネガのフィルムながら何れも36枚撮り昨年8月よ り撮り終わらず。現像出来上がりの写真見て我の素人撮影ながらデジカメに比べどれほど美しい哉。沙田にて競馬開催あり。競馬新聞読み本日の主戦R8の HSBC Premier Plate(HK$2m)のみ一番人気のFlaming Lamborginiしっかり外し三番人気のBeethovenの単勝一発勝負で中環場外にて馬券購入。Rugby Sevensの中日で恐る恐るFCCに参れば土曜日の午後とは思えぬ程の閑散。どうやら「彼ら」香港スタジアムの現場にてご乱痴気の由。丁 度セブンスは日本対新嘉坡の試合始まる。Famous Gooseのハイボール飲みながら静かに観戦。さすがに新嘉坡には快勝。実は強豪新西蘭相手に日本隊24対19とほぼ互角に戦った由。バーの別な画面に辛 うじて競馬中継。HSBC Premier Plateは三着につけたBeethoven第四コーナー曲がると内枠から見事に抜け出し三馬身差で快勝。6.5倍で水曜日の大負け精算。結局ハイボール 三杯。Dunhillに何気に入るとiPodNano用のレザーケースあり衝動買い。Oliver'sでNoilly Pratのベルモットとオイスターベイの白葡萄酒購ふ。全館閉鎖改築中のMandarin Oriental Hotelに人ごみあり何かと思えば四月朔日はLeslie張國榮の命日。忘れもせぬSARSの年のエイプリルフールの投身自殺で早三年を経つ。ファン数 多く集い花束だの往年の写真にメッセージなど多数路上に並ぶ。帰宅。豚 肉と茄子のPieや沢山のサラダなど食しNapa ValleyのGrgich Hills01年の白葡萄酒。あらためてカメラ手入れ。思いきってF2、ContaxのG1とT2に加えニコマートELにもフィルム装填してしまふ。いっ たい何時撮影するのだろうか。下弦の月佳し。
▼ヘラトリ氏の漫画欄を見ていてふと思ふ。スヌーピーの出てくる“Peanuts”は幼稚園生の時に新宿の伊勢丹に当時サンリオなどまだない時代に Peanuts関連グッズを伊勢丹が独自に仕入れていたのだろうか、米国製のスヌーピーの縫いぐるみ、当時で三千数百円とかなり高価だったが、を母に買っ てもらいPeanutsなる日英併文の雑誌も何冊か持っていた記憶あり。そして“Blondie”は戦後朝日新聞に連載で米国の生活様式かなりこの漫画で 知ったもの。夫のダグウッド氏がいつも深夜に寝室のベッドで妻が隣で熟睡のなか寝つけずに妻を起こさぬよう気遣いながら新聞読み腹減っては台所でサンド イッチ作って喰らう。当時、このサンドイッチの豪華さが戦後の日本で羨ましがられたものだが幼き我の関心は何故に大人はその日の新聞をば夜遅く読むのか、 と。それぢゃ新聞の意味ないぢゃないか、と思ったものだが自分自身大人になってみれば新聞を読む時間もなく一日が終わること屡々。そしてDoonesburyはどうもずっと好きになれずにいたが(というかど こが可笑しいのか解らないことも少なからず)経済ネタの多かったものが最近は米国のイラク進軍などかなり皮肉的に扱い、これもまた興味深い。漫画だけは米 国が
▼昨日FCCにて夕食の間際、隣席にガイジン数名が「いかにも大陸の中国人」のオジサン囲み談義。「いかにも大陸の中国人」のオジサン、それなりに英語も 巧みにてどこかで見た顔……と思えば今日のSCMP紙見ればInternational Chinese Pen CentreのZhang Yu(張宇)氏と紹介あり写真を見れば昨日のその人。だがネットで検索するとIndependent Chinese Pen Centreの張裕氏ではなかろうか。 今回の来港、中国にて昨年国家転覆容疑にて逮捕され懲役十年に服役中の新聞記者師濤氏の救援。師濤記者のYahoo!香港通じての天安門事件に関しての ネット上の中国民主運動サイトへの書き込みにつき中国公安当局の求めに応じ、こともあろうにYahoo!香港が師濤氏の個人情報をば提供し逮捕に至る。こ のヤフーによる情報提供は香港の個人情報秘匿条例に違反するとして師濤氏の代理人と弁護士が中国より来港し香港で提訴。Zhang Yu氏の来港もこれの支援。

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