乾 坤容我静 名利任人忙
(旧)教育基本法(1947〜2006) 改正に反対した文化人129 名の声明 憲法改正反対(九 条の会こちら

また眞理を知らん、而して眞理は汝らに自由を得さすべし。ヨ ハネによる福音書8章32節)

メ ディアはコミュニケーションの道具という素朴なイメージがあるが、もっともこの言葉は「中間」という意味であり、二つのものの間を取り次ぐという意味で はコミュニケーションの道具となるが、同時に最初は一つであったものを二つに分けるという効果ももたらす。メディアは、それがもたらす情報を共有し仲間意 識を持つグループと、そうしたものに無関心、あるいは反発するグループとの分裂をもたらす。メディアが発達すればするほどこの分化は進む。だから、メディ アの発達がコミュニケーションを豊かにするというのは幻想にすぎない。(佐藤卓己)

■ 富柏村の一連の写真画像はこちらで ご覧になれます。
■ 「はてな」の富柏村日剰・香港日記(テキストのみ)はこ ちらを ご覧 ください。

■最近のブログ化のご時世に敢へてブログ化せぬ日記を。の 心づもりでをります。敢へて全て讀むこと強ゐる日剩あつてもいゝのでは?と。
讀みにくいこと間違ひなきサイト乍ら今後とも御贔屓の程宜しくお願ひ申し上げます。

2000 年11月24日からおそらくあなたは番目の閲覧者です。

八月卅一日(金)快晴。アタシが香港で今、一番好きな随筆は畏友William鄧達智君によるもの。昨日の蘋果日報の「台北」と題した文章。
執筆忘記怎麼樣開始。五年沒來台北,一下間眼前景物以舊還新,欲説 無語;當然,來,是為公幹,才着地還是堤電話給老朋友,嗨!我來了。「我來了」其實沒甚麼意思。你來了如何? 生活還不一樣過,以為你自己是一道魔法?  時間將一切清洗,有首又甜又軟又不失感傷不算很老的老歌叫「冬季來台北看雨」,這種情懷莫以為只有台灣人有,但就是台灣人唱了,做了,就是你跟着他們一起 非情才不會覺的肉麻。在香港,我們只能說冬季來香港看珠三角毒霧。朋友說台北還是老樣子啊,你不是愛夜逛台大校園,散步陽明山竹子林,到金山泡溫泉,看宜 蘭水鄉……到記得很清楚,這麼近那麼遠五年沒來過……
と、この筆致、声に出して読むとこれがさらに良い。夜に台湾大学のキャンパス、陽明山荘の竹子林の散歩、か。M君より「珍しいお茶が手に入ったので」と連 絡いただき早晩にQuarry BayでM君と会い蜜香紅茶なる茶を分けて頂く。旭屋書店でアサヒカメラと日本カメラ受領。酒でも味噌でもそうだが二つ並べて嗜んでみてこそ違いがわかる わけで雑誌も同じカメラ誌を並べて読むとそれぞれの個性あって面白い。アタシは子供の頃に父がアサヒカメラ愛読していたのでその頃から馴染んでしまうと自 然にアサヒカメラを手に取る。時刻表がJTB版なのか鉄道弘済会版なのかみたいなもの、といぜん書いた、がふとしたきっかけで日本カメラとお近づき?にな り読んでみるとここ数ヶ月でいえば奇を衒わぬところとカメラ雑誌なのに写真の扱いが大袈裟ぢゃないところが気に入ってしまった。ジャスコで購入のCh Peyre-Lebade 03年を少し飲む。先に葡萄酒を購い旭屋書店に寄ったのだがジャスコでお買い物のレシート見せると雑誌が1割引きの由。でカメラ雑誌も1割引き。円高で換 算が0.11だかになっていた。ということは1000円の雑誌がHK$110で1,631円也。これじゃ雑誌購入も躊躇しよう、というもの。

八月卅日(木)こんにちは、安倍晋三です、と木曜朝。
先月の参議院選挙の結果で示された、国民の厳しい声を真摯に受け止 め、美しい国づくり、新たな国づくり、そして改革を再スタートさせるため、今週、内閣改造を行いました。これまでの、閣僚による不適切な発言、政治資金の 問題、年金記録問題などによって失われた、政治や行政に対する国民のみなさんからの信頼を取り戻すため、新しい内閣のメンバーとともに全力を尽くす決意で す。(略)今後、政治資金の問題が指摘されれば、閣僚には、国民に対してしっかりと説明をしてもらいたいと思いますし、十分な説明ができなければ内閣から 去っていただく。そうした覚悟で閣僚になってもらいました。(略)こうした反省の上に立ちながら、今後とも、改革は続けていかなければなりません。これ は、決して変わることのない、私の信念です。私たちは、将来の世代に対して責任を持っています。人口が減少し、経済がグローバル化する中でも、日本が今後 とも発展を続けるためには、厳しくとも、今、改革を前進させなければなりません。戦後つくられた、憲法を頂点とする様々な仕組み、教育や公務員制度などに ついて、時代の変化をしっかりとふまえ、原点にさかのぼって大胆に見直していくとの方針は、今も変わっていません。(略)参議院では与野党が逆転していま すが、国民のためによりよい政策を実行していく、との思いは与野党を超えて共通のもの。野党のみなさんと堂々と議論し、理解を得るためのあらゆる努力を行 いながら、国づくりをしっかりと前に進めていきます。
……とまるで「わかっちゃいない」。参院選挙で示されたのはお題目ぢゃない実務的な経営を期待する国民の阿部政権の「美しい日本」だか何とかの意味不明の 「戦後の見直し」の大風呂敷に対する三行半。それでもまだ「頑張り鱒」と。本日、早晩に中環はQueen Victoria街の集古齊に参る。此処で「當代扇骨雕刻藝術」と、ようは扇絵の掛け軸の展 覧即売会あり。先日、尖沙咀でライカレンズ修理の折、David Chan氏に教えられたもの。会場にいる主催者ら関係者の会話がまぁ賑やかで閉口。ふとマンダリンオ リエンタルホテルのChinnery Barに飲む。客は二 組で静寂が良かったがポロシャツに短パンの粗野な某国人二人が入ってきたらアメリカ訛りの英語の声はデカいし携帯は五月蝿い。ドライマティーニ飲む。「ジ ンでございますか、ウオトカでございますか? ジンの銘柄のご指定は? オリーブはお入れしますか、添えますか? レモンピールは?」と注文は慇懃で細に 至るが、そのわりに酒の作り方は大まかすぎ。金鐘で来港中のT君とZ嬢と待ち合せバスでCaine Rdまでのぼり坂を少し下って墺太利料理屋Mozart Stub'nに食す。七、八年ぶりか。T君の注文した Wiener Schnitzelがいくら薄く切った肉をさらにステーキハンマーで叩くとは申せ、ここまで平べったく、思わず料理で遊んでしまった。葡萄酒は墺太利の Leo Zweigeltの05年。珍しく前菜、お肉にデザートで満腹。
▼マカオでの大型娯楽宿泊施設Venetian Macaoの開業は宿泊がチェックインで2時間待たされただの、プールはシロナガスクジラ何十頭分だかの規模のはずが水深1.3mの小さなプール一つしか 出来上がっていないだの、と苦情も少なからず。ところで、このVenetian Macaoのある埋立地、いつの間にかCotaiという地名まで地図にあり。なかなか響きはいい地名、と思い、音の響きはラテン語か?などとすら想像した が、ふと思えば、Taipa島とColoane島の間の沼地にあるので、国分寺と立川の間で国立、大森と田町で大田区のように、どうでもいい安易な Taipa+Coloane=Cotaiで漢字も氹仔+路環=路氹なのであった。

八月廿九日(水)母より九月二日の信州松本でのサイトウキネンオーケストラ(小澤征爾指揮)でプーシキン原作でチャイコフスキーのオペラ「スペードの女 王」の公演、母の知る方が急用あり参観出来ずSS席が一枚あり、と連絡あり。好事家には垂涎三尺。荷風散人も大正15年9月29日に帝劇で観たこのオペ ラ、「この人ならご興味ありか?」と思って連絡さしあげた方のうちお二人が「昨日すでに観ました」と。さすが。アタシも、かつて大橘(十七代目羽左衛門) の半世紀ぶり の台湾は高雄公演に一泊で駆けつけた前歴はあるが、さすがに信州松本は週末に急には行けぬ。本日、晩に大會堂にて「戯 以人傳 崑劇四大承傳大匯演」あり参観。崑劇は元末より明初に江蘇の崑山一帯にておきた戯曲劇にて崑山腔と呼ばれる独特に高音をいかしつつ低音ま で音域の広い台詞まわしと歌唱に特色あり。明末清初に全盛を迎え、その後、清の時代は所謂、京劇に押され清中葉以降は徐々に衰退。但し廿世紀に地方劇の復 興あり。舞台装置はせいぜい小さな廟壇と机、椅子程度で演じ手の巧妙な会話と歌曲が主。音楽も絃や笛、琴の調べが優雅。いわゆる京劇の大掛かりな舞台やカ ネや太鼓の鳴り物勇ましさ、軽業や剣劇的要素は皆無に近し。その崑劇がむしろ今ではその洗練ぶりに関心もたれ、普段の粤劇の公演など爺婆ばかりなのに比べ 今晩もアート系の若者まで客席にはちらほら。この関心は何よりも作家・白先勇が崑曲の復興に努め氏による復活で青春版「牡丹亭」が評判になったこともあろ う。今回の香港公演は、崑劇の、上海崑劇団、 北方崑曲劇院、江蘇省崑劇院、江蘇省蘇州崑劇院、浙江崑劇団、湖南省崑劇団の六劇団の混成部隊によるもの。アタシは中国の伝統戯劇については、まだイヤ フォンガイドでもあればそれが要る程度の初心者で、当然、舞台袖の字幕の助け借りての鑑賞で劇の所作云々にコメントもなし。演目のみ綴っておけば「西遊記 より・胖姑學舌」「綵樓記より・拾柴」「雷峰塔より・断橋」「玉簪記より・琴桃」「單刀會より・刀會」と、「拾柴」「断橋」「琴桃」なんてお題はお能に詳 しい方ならこの題だけからも芝居が想像できるかしら。「胖姑學舌」は三蔵法師の天竺行きを長安で見送る者の立場より、その盛会ぶりを娘二人が祖父に面白可 笑しく語る話劇で、「拾柴」も貧者と寺僧の、いわば狂言。照明も明るい舞台なのに真っ暗な闇の中を表わしたりだの、観客としてインスピレーションが大切だ から慣れぬとならぬ。「断橋」「琴桃」がまさに能。誰よりも「琴桃」で男役演じた上 海崑劇団の岳美緹が見事。「刀會」だけがカネや太鼓も加わりの戦記だが、大将が率いる見方の兵の並び具合で船を現したり河から関への上陸など、道 具に頼らぬ様式美が興味深い。15分の休憩はさみ3時間10分の長丁場。一つ、崑劇に限らず京劇でも粤劇でも気になるのだが役者のワイヤレスマイク。拡声 された声がスピーカー通じて大音響で響く。アタシはもともと大音量が苦手で耳栓持ち歩くほど(ほとんど地下鉄などでの周囲の輩の大声や「猿の自慰の如き」 ゲーム機のピコピコ音対策だが)。この伝統劇でなぜマイクが必要なのか、歌舞伎でも能狂言でも地声でしょう、と思う。粤劇も地声で聴きたいもの。

八月廿八日(火)早晩に西湾河。小腹が空き太安 樓の基記水電工程の牛雑の串もの食べようと寄ったら夏は「牛 雑暫停」とあり食い逃し近くの屋台で魚蛋一串。Z嬢に会うといきなり「立食いしたでしょう?」と指摘されドキッとしたらシャツにタレの沁みあり。悪いこと は出来ず。成安街の珍香園で肉饅と葱餅。明記甜品で緑豆沙加湯圓。安くて美味。香港電影資料館。島津保次郎監督 の『浅草の灯』(1937年・松竹)観 る。十二階が六区の歓楽街の向こうにょっきり、ばかりか鴬谷の鉄道の跨線橋からも遠くの夜景に、で1937年の映画でも場面は大正の浅草、と「懐かしい ねぇ」。で六区の浅草オペラの小屋を舞台に売り出し 中のアイドル=演技が下手、は当然で高峰三枝子と上原謙の主演。なにせ俳優役の(老け役になる以前の)笠智衆が渋い役どころ。カッコいい。この『浅草の 灯』で杉村春子がオペラ女優役で映画デビュー。築地小劇場の一女優であった杉村が、性格のきつい浅草オペラの座頭役……ってほとんどニンどころか地で出来 る役どころ。寧ろオペラを歌って踊る杉村春子に驚いたが考えてみれば広島から上京して東京音楽学校の声楽家受験したくらいなのだから歌えて当然どころか、 それなりに美声。むしろ、けして演技が上手いわけでもなく、あの「フンっ!」とした憎たらしい表情を生涯、演じ続け、昭和史に残る大女優となったのだか ら、立派。で「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と文化勲章受賞断ったのは、さすが築地の出身、と最後は有終の美、か。あまりにも杉村春子の印象が 強過ぎるが、小津の映画ではお馴染の斎藤達雄や西村青児がワキを固め、とくに斎藤達雄のどこまでが脚本でどこからが即興なのかわからぬ、飄々とした様が実 にいい。でもね、アタシの贔屓は何といっても坪内美子(改め、坪内美詠子)。小石川の生まれで銀座のカフェで女給していたのをスカウトされての松竹蒲田入 り、の美子ちゃんが浅草の歓楽街の射的屋に働く娘役なのだから、もう適役中の適役。ヒロインの高峰三枝子と別れざるを得ず失望のどん底の上原謙が関西で新 劇運動する笠智衆のもとを頼りに東都から落ち延びる時、この坪内美子が「あたしも連れて行っておくれよ」と、そりゃ上原謙じゃなくても「ついてきな」とそ りゃ言ってしまうだろう。でこの映画、今どきの感覚からすると「えっ、こんな筋?」と言うくらい、筋は他愛ないというか、人物の描写など軽薄なのだが、で も昭和10年くらいの映画、テレビの火曜サスペンス劇場以上の量産で消費娯楽なのだから、あまり細かい注文つけちゃいけない。この映画に出る役者がアトに なって大スター、名優になったからこそ、こうして今でも香港ですら掛かる、というもの。それにしても坪内美子が銀座のカフェの女給姿、ってそりゃ見てみた かった。で、まるで地味な邦画でブラック師匠のような映画三昧だが、油麻地のBroadway Cinematiqueに急いで向う。映画館に着くなり大雨。国際短編映画祭の「三島先生、是你嗎? Is It You, Mr. Mishima?」で中村幻児監督『巨根伝説 美しき謎』は三島由紀夫と盾の会の姿をパロディでホモ映画仕立て。大杉漣が主演で三谷麻起夫役。三谷麻起夫先生が『ツィゴイネルワイゼン』にでも 出てきそうな、あまりにもいわゆる文学者っぽい文学者で貧弱な身体なのが一瞬、三島由紀夫と似つかず違和感あるのだが、あくまでこれはフィクションです、 で盾の会の制服のデザインといいクーデター計画の内容といい(市ケ谷でなく桜田門)どこか外してある妙。昼は軍隊的な訓練(といっても幼稚)を続ける三谷 先生の私軍、それが一旦、夜になると隊員同士の乱交の凄まじさ、三谷先生も腹心の若者に「先生じゃなくて、麻起夫って呼んで!」「もっと突いてっ」と、い ちおう、これでポルノ映画らしさ?か。三島由紀夫本人の死後とはいえ、それにしても失礼といえば失礼だが、あくまでフィクション(笑)。この私塾(いちお う軍隊だが)に入りたての若者と、それの指導役の先輩との熱愛、がいちおう映画の基本の筋、でこの二人が(以下、映画の筋、オチまで……でもこの映画を今 後観る機会のある方も少なかろうし、敢えて書いてしまうが)三谷先生のクーデター=自害の当日の精鋭部隊に選ばれ、明日はその決行という晩に、三谷先生に 「明日はもう散る命、今晩は二人で……」と励まされ、先輩のアパートで最期のコトに及ぶのだが熱中しすぎて朝の決行の集合時間に寝坊して間に合わず、で三 谷先生のクーデターに参加できず「あ〜!どうしよう、死に損ねた」がオチ。本当にここのオチが描きたくて、この映画を作ったのだ、というようなオチ。個人 的に好きだね。だがアタシなら、寝坊して目覚まし時計の時間確認しようとして慌ててテレビつけると、そこで臨時ニュースで三谷先生の警視庁乱入クーデター の実況中継、流したら良かった。「その二年後」の最後の場面が必要なのかどうか、疑問も残るが、死に損ねの二人の兵士がオカマバーで女装のママとチーマ マ、というのは、ちょっと筋としてやりすぎのようでいて、だが終戦直後にノガミの山には西郷さんの銅像のまわりにも南方から戻った兵隊上りの男娼が着流し で随分といたことなど思い出すと、この演出もありか、と思う。それにしても一晩で、なぜ香港でこんな稀な邦画が一晩で日本も観られるのかしら。幸せ。一時 間の映画が跳ねるとちょうど雨歇んだところ。廟街の昔っからある蠔餅を立食いする。脂っこいが年に一度くらい無性に食べたくなる。今日は阿部謹也『日本人 の歴史意識』読む。基本線は同著『「世間」とは何か』(講談社新書)で、それを歴史学者の目から、という感じ。明治に突然「個人」という言葉こそ輸入され たが個人というもの実際には知らず「世間」という枠の中で窒息していることも知らず、と。御意。
▼エドワード=サイデンステッカー氏逝去。享年86歳。今年四月に散歩中に転倒し外傷性頭蓋骨内損傷で昏睡続けた由。その散歩が上野不忍池というのがサイ デンステッカー氏らしさ。知己のJB君が十八、九年前だったか、興奮した口調で話してくれたのは、その不忍池湖畔にて氏と遭遇し先生の上野のお宅に招かれ たこと。氏についてJB君から聞いた逸話も今となっては貴重な記憶。

八月廿七日(月)早晩、銅鑼湾。雲行き怪しく一 雨来そうで(あまり理由にならぬが)久々にバーBに寄る。ドライマティーニ二杯。ご亭主に勧められカナダのCrown Royalのソーダ割一杯。晩に尖沙咀東。バンコクよりY氏来港。N君誘い日本料理の兎に角に食す。アタシも含め鉄ちゃんなので鉄道の話題で鼎談。帰りし なN君と銅鑼湾でバーSに飲む。
▼安倍政権組閣。舛添要一先生、今月初旬に週刊文春だったか「参院選当日にまだ開票作業中に「続投」表明した安倍三世に「バカにつける薬はない」「決定的 に資質にかける」と言いたい放題」だったはず。それが厚生労働大臣に就任。厚生担当大臣として首相に投薬か……選ぶ方も選ぶ方なら選ばれる方も選ばれる 方。
▼陶傑氏蘋果日報の随筆で「神童」について。9歳で大学入学し数学専攻する少年の登場で、大学医学部入学の14歳の少女はもはや色あせた感あり。こうなる と話題性として神童は年少化せざるを得ず、そのうち出生直後にかけ算九九が出来たとか、助産婦にGood Morningと挨拶したとか、そういう神童でも現れるか、と揶揄。
▼数日前の信報に「許仕仁任澳門特首?」という文章あり。マカオの行政長官の何厚鏵君特区成立以来対岸の香港の董建華君に比べ治世手腕抜群と北京中央の覚 え目出度く安泰であったが、最近になり、側近の歐文龍が収賄で逮捕され、マカオのカジノブーム沸き立つ反面待遇悪しき工事現場の労働者のデモ激しく、デモ 鎮圧で警官の撃った空砲で市民が怪我をし、何厚鏵君がカジノ事業会社の約1割の株式保有が暴露されるなど、綻び目立つ。でそろそろ行政長官も引き際か、で 後任人事が話題となるが、マカオ政府や財界に何厚鏵君に匹敵すうりょうな人材乏し(何厚鏵君自身はマカオ牛耳る銀行の御曹司)。で下馬評にあがるのが香港 政府で「橋王」(世渡り上手)と称される許仕仁君。香港政府の高官で最近までSir Donald行政長官につきChief Secretaryの要職にあり。とくに何もせぬのだが問題もなく無難に役職勤めては高職にありつく見事な芸風。で許仕仁君、実はマカオの有力家族の末裔 で香港に育ったがマカオに一定の人脈もあり、たかだか人口50万人の地方都市と思えば許仕仁君の行政手腕でやっていけるのでは?というのが中央の見立ての 由。これで本当に許仕仁君がマカオ行政長官になればまさに「世渡り上手」。
▼マカオといえば、明日、客室三千室のVenetian Macao開業。必要従業員数1.5万人!でマカオの就労人口の5%に相当。観光カジノ業で人手足りぬマカオでこのホテル運営に充分な職員が確保できるか どうか。中国本土との人の行き来は毎日27万人。香港などと結ぶフェリーも空港ももはや超過密で限界。昨年22百万人の来訪者が今年は26百万と予測され るが、もはや出入境者の捌きが限界では次々誕生するVenetian Macaoの如き大型娯楽施設も経営に難あり。

八月廿六日。裏山を小一時間走り回り昼前にジ ム。一時間の有酸素運動。午後按摩。帰宅。『対論 昭和天皇』再読、読了。示唆多し。着替えて晩にバスで佐敦。Z嬢と文化中心で慶祝香港回帰十周年暨中国人民解放軍建軍八十周年<長征組歌>大型合唱音楽会と いう、もう文字通り中国の愛党愛国のナショナリズム音楽会あり「怖い物見たさ」で参観。でも怖いから三階席西扉の隅で、そっと。まさに革命プロパガンダそのもの。中國人民解放 軍進行曲で始まり革命歌目白押し。で、「もうちょっと食傷気味」のところで、いよいよ「長征組歌」となる。「這是革命的大合唱、是大合唱的革命!」 この 組歌、1965年に紅軍長征30周年記念に創作された由。2.5万キロに及ぶ中国共産党の長征の苦難、不屈の精神、困難に打ち勝つ勇姿。長征が、勿論それ が実在したことは確かとしても、近年、共産党のプロパガンダ的な長征の「党史」の内容に虚実が含まれているとする論証など、いくつか「発掘」されてはい る。しかし、なにせ長征は遵義会議など通じて毛沢東の指導権の確立された、中共革命史にとっては最も重要な「史実」であるから、党の公式な史実以外、存在 してはいけない。で物語はずっと声高らかに歌い続けられなければならないのだ。しかも語り続けるとフィクションを含む物語も(日本の明治二十年代からの国 史の如く)それがあたかも事実と信じられる不思議。そして更にそれに酔いしれる怖さ。この物語に身を委ねることでの恍惚。ナショナリズムとはこのスペクタ クルそのもの(……と以上、実はこの音楽会参観の前に書いたのだが、大方、この通りで間違いないだろう)。……で実際、その通り。それくらいわかりやすく なければナショナリズムは通用しない。この音楽会、演奏は北京軍区戦友文工団管弦楽団で合唱は同団合唱団。そこに地元香港の「愛国心と国家への忠誠の表 れ」として香港合唱団協会から長征組歌では合唱に総勢五百名!が舞台にあがる。北京軍区戦友文工団は当時の紅軍の軍装(やめてくれ〜)。何度も何度も、偉 大なる毛主席、偉大なる共産党……と、あまりシツコイと逆になんか胡散臭く聞こえるのはアタシだけ、か。だろうね。みんな客も終演では(かなり動員かけら れた、っぽい老人会など散見されるが)晴れ晴れしい表情。このお年寄りたち、まだ十代、二十代の頃に、あの革命、あの共産党が怖くて香港に逃げて来た人も いるのだろうに。「いやー、あそこまでテンションが高くなるものなんですねっ」と水野晴郎か、「凄いですね〜凄いですね〜凄いですね〜」と淀川長治になる か、「ちょと!」とおすぎになるか、いずれにしても「アタシにはわからない」としか言いようがない、この愛国と党のプロパガンダのスペクタクル。少し音楽 的なことを綴っておくと、合唱曲で指揮した嚴良堃は1923年生まれ。子供の時から抗日活動で音楽隊に従事、八十四歳とは思える矍鑠ぶりで合唱指揮は見 事。ピアノ協奏曲「黄河」をピアノ独奏で聴かせた劉詩昆は1958年の第1回のチャイコフスキー=コンクールのピアノ部門で第2位。中国ではピアノ大師と 言われる由。でももしキョービのチャイコフスキー=コンクールに出場したら?……。ちなみにこの1958年の第1回のピアノ部門の第1位がヴァン=クライ バーンで、米国から参加のヴァン=クライバーンがソ連のこのコンクールで優勝し帰米後にどうなったか、は中村紘子が『チャイコフスキー・コンクール』に書 いている。

八月廿五日(土)好天。昼にかけて久々に裏山を 10kmほど走る。雲行き怪しくなり驟雨。落雷。雨を凌ぎ広 河隆一著『パレスチナ』(岩波新書)読む。地に足のついたジャーナリストの揺るぎなき視点。毎日のようにパレスチナや中近東の報道に接しても実は 何も知ら ずにいること痛感。岩波新書で中近東モノ読むのは卅年前に『アラビアのロレンス』を旧赤版で読んで以来かも。湾仔まで出て、そのあとZ嬢と柴湾で待ち合 せ。Z嬢が柴湾MTR站前の羅屋民俗館訪れたことがなかった、と言う。かつて中環のStanley街にあった神州書店が柴湾の工業ビルに移転したと知り訪 れるが午後五時でちょうど閉業時間。入れず。柴湾というところ、地下鉄開業前に工業団地が出来、その周辺にその後、公共団地が建ち始めた結果、工業団地に 接した地下鉄駅までどの団地からもかなり歩かねばならず。その駅前の工業団地とて史跡に指定されそうな、かなりの工場(こうば)が既に退去した柴湾工廠大 廈や、実質は倉庫街で、地下鉄駅の終点がなぜ此処になったのか、が不思議。周囲の団地に居住者多いが柴湾には「此処」という、地域の拠点がなく散漫とした 殺風景。この先には小西湾の団地があるが、そこの住人が柴湾に出て来ずバスで筲箕灣、太古城などに出てしまうのも首肯けるところ。この柴湾の宏徳居という 団地に眞好味焼臘店あり(創価学会東区文化会館のある建物の G階)。ここの焼臘美味で客足絶えず。白切鶏と鶏腎購う。柴湾のとなりに杏花邨という50棟のマンション群あり。あまり通る機会もなく、杏花邨を唯一通る 85系統のバスにわざわざ乗車して社会科見学。50棟とはいえ、このマンション群のために地下鉄站があるのだから凄い。幹線道路に面しておらず海が一望の 静かな環境(かつては啓徳空港離着陸の飛行機の騒音に悩まされたのだが)。帰宅して白切鶏と鶏腎で夕食。美味。『パレスチナ』読了。晩に原武史・保坂正康 『対論 昭和天皇』(文春新書)半分ほど読む。

八月廿四日(金)久々の快晴。昼に金鐘の Great Food Hallにて噂のTriple O'sのハ ンバーガー食す。ファーストフードとしては確かに段違いに美味い。夕方、養和病院で目頭傷治療抜糸済ます。看護婦に「で、書籍の片づけは終わって古本屋に 本を売り払ったの?」と笑われる。傷口は偶然にも眉毛の中にちょうど隠れる筋で「接吻の至近距離」にでも来ない限り傷の在り処さへわからぬ。高座に上がる 噺家にとって顔もまた大切で、安堵。尖沙咀のDavid Chan氏のカメラ店に寄る。店に入るなりご亭主、目敏く「その扇子、何処の?」と尋ねられる。「京都の宮脇はんどす」と答えると「柄もやけど、柄の竹の 反りといい細工といい、ええなぁ。今度、買うてきてもろてもよろし?」とさすが目利き。アタシの草臥れたパナマ帽もかなり興味もっていただく。高田馬場で 十七、八年前に買ったもの。老夫婦で営むその帽子店も今では店を畳んだのではないかしら。沈胴式のズミクロンの50mmレンズ、この店で購い多少動きが硬 く修理依頼したら今度は緩すぎて再修理請う。もうこれ以上直すとちょっとイカれてしまいそう。ご亭主に同じ50mmのズミクロンでも固定鏡胴式の、もう半 世紀近く前に製造されたレンズ見せられる。食指動くが値段がこのレンズの現行品の新品価格より1割安。古レンズの良さもあろうし、実際にR-D1sに装着 して撮ってみると(こういう時にデジカメは便利)ピントもばっちり、発色も柔らかい。でも中古市場でも垂涎の的というほど希少価値のあるレンズなら高値も 当然だが、ズミクロンの50mmという、ライカでは基本のき、みたいなレンズだと思うと鳥渡、値段で躊躇。思うところあり尖東の新冨山撮影器材公司 (New Francisco Photo)へ……以下、略(笑)。帰宅途中に北角の十三座牛雑でホルモン串立食い。美味。帰宅してハッシュド=ビーフ。二更に出かけてBroadway Cinematiqueにて野上正義監督の映画『愛 の処刑』観る。三 島由紀夫が『アドニス』なる好事家雑誌に榊山保なる筆名で寄稿の小説を三島の死後(83年)に映画化。今夏で三度目の国際短編映画祭、この『愛の処刑』と、中村幻児監督が三島由紀夫と盾の会を 姿をパロディでホモ映画に仕立て大杉漣が主演の『巨根伝説』の二本上映あり。而もこの二本に「三島先生、是你嗎? Is It You, Mr. Mishima?」つまり「これって三島先生ですか?」というタイトルをつける。絶妙。確かに『愛の処刑』は三島の匿名 小説(今では新潮社の三島由紀夫全集「補卷」にこの小説の収録あり)で、『巨根伝説』は三島死後のパロディ映画。ならばこのタイトルは文句のつけようがな い傑作。『愛の処刑』は(以下、筋書き)中学校の体育教師が可愛がる教え子を雨の中に立たせて肺炎拗らせ死に至らしめ、それをもう一人の美少年に叱責さ れ、その少年に促されるまま切腹し陶酔のうちに死に至る、という「もうとってもわかりやすい三島ワールド」で、辛く指摘すれば「他愛ない」筋。映画のほう は誠実に映像化しての正味60分。原作では切腹後の多少グロテスクな臓物の写実と、この教師の恍惚から興奮に至び下帯うんぬんの表現があったと記憶するが (この作品が三島由紀夫と証されてから何処だったかに再掲載されたもの、写しだか手許にあったはずだが見当たらず、詳細未確認)映画ではそういった部分を かなり抑制したことで予想以上に淡々と。あらためて、この物語に登場する中学教師、二人の少年(一人は殺され、一人は教師に死を促し最後は自害)その三人 三様の全てが三島自身の自己の投影なのだ、と思う。三島の面白いところは、これがたんに小説家の理想型なら、そう評して済まされるのだが、本人が最終的 に、この物語と同じ死に際を体現してしまったのだから(しかもクーデターのオマケつき)。撮影も余計なものを全て削ぎ落とし、カラーの色調も、前衛的であ りながら日本古来の楽器用いた音楽も良し。この映画、三島由紀夫自身が見たらどれだけ喜ぶか。巴里で上映などされていないのかしら。少なくとも大島渚『愛 のコリーダ』より、この野上正義監督の『愛の処刑』のほうがセンスがいい。それにしても日本でも観る機会など稀有のこの映画を香港で観られるとは感慨深い ものあり。今日は村上陽一郎著『安全と安心の科学』読む。最近、新書ばかり読んでいるのは先日、書架整理で「こんなに読みかけの新書があったとは」と反 省、で順番に読んでいる為。でこの本、少なくとも、MBAだか経営学修士だかでワケのわからぬケーススタディだのチームワークとリーダーシップ養う為とか の目的で下らないキャンプやホテルでの合宿などしているのなら、この村上先生の本で「リスクとは何か」「安全と安心はどう違うか」学んだほうがよろし。

▼香港で中国からの牛肉供給滞る。Happy Valleyの肉屋にてハッシュド=ビーフのために豪州産スキヤキ用牛肉購おうとしたら、通常HK$88/磅くらいなのに今日はHK$128と高騰(なん て高い、と驚きの日本の消費者の皆さん、1磅は453g、つまり100gが300円ですからすき焼用と思えば楽天最安値より安い)。
▼親中派御用政党・民建聯の馬力主席の通夜昨晩より営まれ本日、本葬。昼に荼毘に付される。地方自治体の一政党代表の身分ながら棺には五星紅旗かけられ北 京中央も哀惜の意を表す。馬力氏の生涯を一言でいえば「国家に死す」。果無し。死して尚、本人の蓄えと知人らの寄付により「馬力国民教育基金」創設の由。 なぜ教育基金でなく「国民」教育基金か。あの世に逝ったのだから、せめて国民やめればいいのに……。
▼昨晩、吉見『博覧会の』続き読んでいると、日本で博覧会の開催に熱心なのは百貨店、鉄道会社に続き新聞社が挙げられ、大正6年に上野公園で奠都五十記念 博覧会開催され読売新聞はこの博覧会に合わせ東海道駅伝競争実施とあり。こういった新聞社主催のスポーツ催事の先駆けして挙げられるのは日露戦争の頃の大 阪毎日新聞による鉄道マイル数競争や海上10マイル競泳の実施。それに続き大正初期の朝日新聞による全国中等学校野球大会が挙げられている。この野球大会 がone of themといってしまえばそれまでだが、競泳や駅伝に比べ更にチーム競技であること、地元の多数の中からトーナメント制で選ばれ地元を代表して参加するこ と、といった点で学生野球が(今日に至るまで)誰にも関心が持たれ共鳴をもたれる点で興味深いもの。
▼オリンピックも、実は近代オリンピック開催当時は万博のオマケ。運動能力の増進も、未開人の文明化と同じく社会進化論のイデオロギーと思うとわかり易 い。で第5回ストックホルム大会からオリンピックが万博から独立するが、これは、その場の参観者だけが洗脳される万博に対して、オリンピックはマスメディ アを通して、その興奮が世界中に伝えられる波及効果の大きさが注目されたがため。で、聖火リレーや表彰台、壮大なオリンピックスタジアムの建造や式典の演 出など、今ではすっかりお馴染のこの光景が誕生し、その段階で完成していたのが、ヒトラーによる1936年の伯林オリンピックなのは周知の事実。帝国の神 聖化、が戦後も、来年の北京だって活用され続ける。万博という「産業技能から運動技能への焦点の移行は、近代のまなざしが、われわれの身体をより直接的に 捕捉するようになったことを示す」(吉見)。このスペクタル的な権力の展開は、万博やオリンピックなど国家レベルのものばかりでなし。日本「特有の」明治 以来の小学校の運動会とて、実は「根」は一緒。すべて、近代の国家の<まなざし>によるもの。
▼陶傑氏、今日の蘋果日報連載で「小神童」。待ってました、の9歳神童の数日前に「発見された」14歳の女の子について。この子、将来は医者になりたい、 と香港中文大学医学部への進学表明(中文大医学部といえば香港政府教育局局長から更迭された李國章の故郷)。これに対して陶傑氏曰く医科で学ぶは、単にラ テン語で医学用語学ぶばかりでなく九旬の生死の際にある病人と語らいもあり。僅か14歳の少女に多少の人生経験積んだ程度でこれに能うか、と。御意。米国 を例にすれば医学を学ぶはたんに学士課程に非ず、まずは生物化学系の学位を取得し成績優秀で医学学びハーバードやプリンストンでは医科の1年次は21歳に ならねばならず、たんに中学でAがいくつあろうがダメ。医学はたんに医療技術に非ず生死彷徨う患者との前線にあって医者は哲学者たらんとするもの。14歳 の神童?、笑わせるんじゃないよ、このテの世界、つまり哲学者、宗教家、裁判官、小説家……は神童はいらず、ただ老う毎に人生の性(さが)知る者にこそ、 の叡知(こんな話は家元=談志師匠も言っていたっけ)。ほんとうにこの少女が神童なら、マスコミの取材に対して「将来は医学の道に進みたい、と思います。 でもまず哲学と歴史を勉強したい。将来、医者になるには、それが役立つと思うんです。それに私はまだ14歳。少し静かにさせていてもらえますか。それに、 大学に入るのは、まだ早いと思います。だって、大学の寮は新入生歓迎でかなり性的なゲームもして騒ぐみたいだし(といっても楊枝を銜え輪ゴムを受け渡しす る程度の幼稚なゲーム)、今、私が大学生になったら、大学1年と2年の間は、たとえボーイフレンドができてもセックスするのは非合法なんですよ、こんなの あり?って思いませんか? まだ雛っ子ですから。いいですか、オジサン、オバサンたち、わかってくれますか?」くらい言ってほしい、と……神童なら。まさ に。
▼独逸ハンブルグ大学の關愚謙先生が信報「愚公専欄」でチベット問題を語る。1950年代に北京中央でロシア語翻訳の専門職にあった關先生は中央政府の少 数民族政策など具体的に見聞していたが、それは確実なもので、少数民族の中に中央政府や毛沢東に対する信頼は大きなものであった。チベットと北京中央も当 時は蜜月。反右派闘争も運動は国家幹部に限定したもので少数民族に被害が及ばぬよう通達もなされていたはずだが、実際には青海省で筆者はイスラム寺院で右 派批判大会など開かれ、チベットに対する社会主義強要で1956年にはそれへの反発でチベット動乱となり翌57年にダライ=ラマはインドに亡命。この亡命 劇、当時の毛沢東の軍指導力を考えれば亡命を防ぐことは可能だったはずで、これはむしろ「逃がした」のではないか、と關先生。關愚謙自身、文革で被害を受 け亡命し独逸に旅居すること卅年以上だが、当時、苦学する自分に比べチベットからの亡命者は欧州でかなり歓待され「中国からの独立」が欧州の人々のかなり 同情を得たことを指摘。これの最高峰が、まさにダライ=ラマで、關先生はダライ=ラマの亡命当時、かなり同情的であったが、ダライ=ラマが反中国運動のプ ロ化(關愚謙はこんな言い方はしておらぬが、簡単に言えばそういうこと)する中でかなりその姿勢を疑問視。だが、独逸で国際問題の専門家から「(世界的に 注目される平和主義者としての立場にある)ダライ=ラマを生んだは中国政府なのだ」と指摘されたと言う。ダライ=ラマの一挙手一動、その言動に中国政府が かなり神経質に、過敏に反応する。すればするほどダライ=ラマに世界的に同情が集る。「ノーベル平和賞受賞できたことでダライ=ラマは中国政府に感謝すべ きだ」というその独逸人の皮肉なコメント。こういう見方も可能ではあろう。だがアタシは個人的にはこういう見方はかなり屈折しているような気がするのだ が、關愚謙ほどの碩学でも、中国人としてチベット問題となると、そう簡単にはリベラルに、中立的な立場では問題をとらえられぬのだ、と思わされる。

八月廿三日(木)曇。昨晩、吉見俊哉『博覧会の 政治学』(中公新書)読む。先日読了の『万博幻想』が日本の戦後と万博の具体的な分析なのに対して、こちらはより博覧会を「まなざし」からの分析。このテ の新書本は序章にその思想の全てが語られていること屢々。簡便といえば簡便だが本章がその論証、詳細に位置づけられてしまい本章が物足りなくなる処もあ り。で白眉の序章「博覧会という近代」より引用。
博覧会は、その成立の端緒から、国家や資本によって演出され、人々 の動員のされ方や受容のされ方が方向づけられた制度として存在したのだ。(略)人々はこのテクストに、自由にみずからの意識を投影する物語の作者として存 在しているわけではない(略)。このテクストは、すでに別種の書き手によって構造化され、その上演のされ方までもが条件づけられている。その書き手とは (略)近代国家そのものなのだが、同時に多数の企業家や興行師たち、マスメディアや旅行代理店までを含み込んだ複合的な編成体なのである。しかも、博覧会 における経験の構造は、これらの演出家によって一方的に決められているわけでもない。博覧会という場にみずからの身体をもって参加する人々が、この経験の 最終的な演じ手としてやはり存在しているのである。しがたって、博覧会とは、書き手としての国家や資本、興行師たちの様々な演出のプロセスと、演じ手とし ての入場者たちの様々なふるまいが複雑に交錯し、織りなされながら上演される多層的なテクストなのである。
……もう、これで充分というくらい。当然、フーコー的なまなざし。昨日は全国高校野球決勝戦あり。この吉見氏の一文はそのまま高校野球にも該当。全国的な イベント。文部科学省(政府)、興行主としての高野連、朝日新聞。もちろん「甲子園の熱いドラマ」、今年はまさに決勝での八回裏奇跡の逆転満塁本塁打でメ イク・ドラマ。「地道な努力」「やれば出来る」「地方の普通の公立高校生が」と、これで最近の言葉で言えば「元気をもらった」の人も多かろう。これは当然 「甲子園という場にみずからの身体をもって参加する人々が、この経験の最終的な演じ手としてやはり存在しているのである」し、球児ばかりか(球児というの も奇妙な造語)応援する生徒から地元民、テレビの観衆まで、このドラマ(テクスト)に何からの思い入れだの。それはそれでいいのだが、今の日本において、 国民の関心が一つになる<場>として甲子園はかなり稀。興味深いテクスト。第1回全国中等学校優勝野球大会の開催は1915(大正4)年。明治20年代に 近代国家としての<日本>の構築後、全国規模でこの各都道府県の代表が一堂に会し何かを競技する、而も将来の国家を担う旧制中学の若者が、ということで、 他にこの全国中学野球大会に匹敵するイヴェントが他にあったかどうか、或 いはこれより以前の有無。なぜ野球なのか。なぜ大阪朝日なのか、いろいろ考えるとかなり興味深し。で本日、昼食の約あり昼にFCCに行く途中、ちょいと時 間持て余し小雨のなか香港動植物公園を抜ける。Hong Kong Zoological & Botanical Gardensという、この今ではZooと略されてしまう、Zoological & Botanicalという語感に思わず<近代のまなざし>感じる。ちなみにこの公園、開設は1871年で、「恩賜」上野動物園開園の11年前。ヴィクトリ ア女王君臨。今でも少なからず年寄りが此処を広東語で「兵頭公園」と呼ぶのは、此処が南京条約で英国が香港を正式に清朝より割譲受ける1843年に英国軍 代表(兵の頭)官邸があったため。暫くは英国植民地政庁の管轄地で、まさにヴィクトリア朝真っ盛りの1870年代に市民に開放されたことも興味深いとこ ろ。近代の始まり。で動物園がなぜに前近代の動物見世物とは異なる<近代>か、と言えば、前近代の見世物は、まさに南蛮渡来の異形なる奇物としての獣がは るばる日の本の国で長崎より遠路遥々、江戸に上がった、と見世物小屋の唐十郎ばりの演者の「この機会逃さば一生の不覚、お代は見てのお帰りにぃ〜」と数奇 なる(半ば想像の)その獣にまつわる物語に語られるまま、見て「へぇ〜っ」と驚くのが見世物なら、霊長類は霊長類、ネコ科はネコ科ときちんと分類されラテ ン語の学名まで冠むり陳列されるのがZoologicalな動物園。そうしてみると、たかだか動物園が近代のまなざしのショーケースのよう。で吉見俊哉 『博覧会の政治学』は面白い。昼餉はFCCにて珍しくローストビーフとヨークシャープティング。智利のSanta CarolinaのCab Sauv 05年と豪州のBimbadgen RidgeのSauv Merlot 05年を一杯ずつ。昏時早々に帰宅。今日もまだ力んだり額に皺を寄せると目頭が多少疼き、結果、アルコール消毒のみ。モヒート二杯。傷口が痒いのは快方の 証左か。昼に重いもの食したので晩はご飯に味噌汁、鱈子とお新香で済ます。
▼14歳だかの少女が中学5年修了でのGCSE(The General Certificate of Secondary Education)に通り飛び級で大学入学許可されたとか話題になったかと思えば、今度は9歳の少年が香港バプティスト大学の数学系に入学の由。話題づ くり。またそれに大騒ぎする小市民根性の浅ましさ。江沢民的に「ナイーブ」とはこのこと。陶傑氏がこれを明日かアサッテの蘋果日報でどう嗤うか、が見物。
▼李怡氏が昨日だったかの蘋果日報(随筆)に「慰安婦的更大傷痛」という一文寄せる。米国議会での日本軍の慰安婦非難決議にカナダや和蘭も同調する中で、 先日も同紙に海南島の慰安婦生存者のルポも掲載されたが、最も被害の大きい中国がなぜ低調で、全人代でも非難決議などせぬのか、と。『中国慰安婦』(青海 人民出版社)という本によれば1940年4月に河南省新郷地区王各荘では82名の女性が日本軍により慰安婦として徴用された、とあるが、慰安婦にされたこ とより更に厳しい日々が待ち受けていた、という。それは同胞からの偏見、差別や政治的迫害。慰安婦にされたことは婦女子本人の罪に非ず、としつつ文革では 日本の特務、反党・反社会主義分子の烙印捺され、この地区で397名の婦女子が批判対象となり、内231名が自殺か自殺未遂。その14,563名の親族な ども「陰謀集団」とされ、これについては未だに名誉回復されておらず。「日本軍も恨むが、同胞たる中国人も更に恨む」と生存者。日本人による蹂躙は一時的 なものだったが中国人同胞によるものは子や孫の代まで続く、と李怡氏は結ぶ。……とこのような記述を日本の保守反動右翼のうち「つくる会」のような連中が 知ると「そら見たことか」と中国非難か。べつにこれで日本の当時の罪が軽減されたわけでないのだが。
▼マカオに誕生の新しい賭場、The Venetian Macau Resort Hotelについて。規模は人造建造物としては万里の長城、和蘭のアールスメール生花市場に次ぐ大 きさ。フロア総面積ではB-747旅客機が248も駐機でき、香港国際空港より広大。宴会場は6000人収容、香港展覧会議中心の5倍の広さ。 15,000人収容のスタジアム、4,100台のスロットマシーン、850台の賭場台に、お買い物は350店舗で。お子様お断りのプール(これは偉い)は シロナガスクジラが90頭、入れる由。客室は3,000室で、このホテル開業前のマカオのホテルの総客室数の65%に相応。……とまぁ破格。とにかく客を 飽きさせないアミューズメントが売り物だが、ふと、このホテルに3,000組の大陸の田舎漢が宿泊し大騒ぎ、と思うと、1970年頃の伊豆のハトヤホテルどころの騒ぎではなし。ぞっとして近寄りたくもなし。
▼八月十六日の信報に歴史家の高添勉君が「無碑可紀 有史待尋」という一文を寄せている。「数年前、日本人の友人に求められ、彼らが香港の日本軍占領期における戦争史跡めぐりに同行したことがある」という書 き出し。これは和仁廉夫さんによるものでアタクシも同行。そこで、この史跡めぐりの参加者らは日本政府が戦争責任の問題で曖昧な態度をとることに不満をも ち、自分たちが自分の目で戦争の歴史を見て事実をとらえ、という姿勢なのだが、と紹介した上で、但し香港で自分たちにそのようなことは可能か?と高君は自 問する。なぜなら香港にこの日本軍占領の三年八ヶ月に生命を失った市民の慰霊碑すら存在せぬのだから、と。香港には第一次世界大戦からの戦没者の慰霊碑こ そあるが、これは英国軍人と地元の華人公務員の殉職に対するもので、戦時中に命を失った市民は祀られておらず。市民が三年八ヶ月にいったい何人、命をおと したのか、も正確な数字は不明。高君の概算では、1941年の香港の人口は難民も含め160万人。1945年の日本降伏時に人口は60万人にまで減ってい るが、100万人の人口減の全てが戦死者ではなく、当時、日本軍が中国人に対して大陸への帰郷対策を強化しており、また香港脱出の難民もあり、かりに1割 が戦死者としても10万人とするのは楽観的なのか、どうか、と。戦時中の香港での様子を知る者も高齢化が進み、それを懸念し最近、当時の生存者から聞き取 り調査勧める高君によると、当時を知る市民が異口同音に指摘するのは、とにかく飢餓、疾病などで路上の行倒れの多かったこと。路上に行倒れの死体があって もけして珍しからず、その衣服を剥ぎ売り払う者も。また、日本軍の憲兵が市街で「犯罪人を処刑」する場面の目撃も少なくない。犯罪といっても窃盗などの軽 犯罪、また日本軍が禁止していた山での芝刈り、などで殺害。こうした戦争の記憶。香港では最近「集體回憶」と称し、ここ半世紀の建物や古い路上の街市など 保存運動に関心集っているが、日本軍による占領期の軍事史跡などに対して保存の声はけして高からず歴史の忘却の中に埋もれているのが現実。戦後建てられた 警察署など史跡に指定するよか、戦争時代の歴史をきちんと後世に残し、その犠牲になった市民の追悼碑の建立など検討するべきではないか、と。確かに。

八月廿二日(水)秋口にライカよりSummaritな るf値2.5のレンズ発売の由。往年のレンズの名の復活で、広告の何が「デジタル撮影にもふさわしい」の何が相応しいのか解らぬがf2.5は確かにデジタ ル向き鴨。傷の抜糸まで数日、汗をかく運動も出来ずサウナに一浴というわけにもいかず。で嘉次郎監督読み続けたからか「食べる」ことにかなり執拗になり、 早晩、中環のGraham街の街市でサラダ菜をいくつか購い(この街市が粗呆区の影響か他の街市にないサラダに使える野菜多し)エジプティアングレコ珈琲 焙煎店で珈琲豆求め、汗びっしょりでFCCに憩い葡萄酒を一杯、北角の日東パン屋、北角波止場の魚屋で晩の海鮮のパスタ用に活きた蝦と元貝を購い帰宅。ラ イムとミントでモヒートを飲む。美味。パスタのホワイトソースもちゃんとバターと小麦粉から丁寧に作る。太りそう。
▼歌舞伎座の先代萩。扇雀の八汐は松竹座で竹の間からは経験済み(大和屋のお声掛りとか)。いちおう、女形として三姫全部やった人が八汐とはちょっと変、 とT君。政岡が中村屋ならここは八汐は三津五郎。性悪の役が向いていそうでもニンなのか「地」なのか。ニンと地を履き違えていることが如何に多いことか、 とT君。御意。中村屋の政岡は確かに飯炊きがなければ表しようもないか。梨園の噂いろいろ聞く。驚いたり納得できたりするところ少なからず。中村屋と大和 屋。中村屋と播磨屋。播磨屋と高麗屋。播磨屋の目論見、等々。

八月廿一日(火)昨日の那覇での中華航空機の炎 上につき蘋果日報は巻頭含め三頁カラーの特集記事。日本の新聞には見られぬ具体的な写真、絵図など盛り沢山。緊急脱出は「何も持たない」が規則だが飛行 機から脱出した乗客の手には貴重品入ったハンドバッグどころか大きな土産袋まで。物欲の凄まじさ。日本の新聞、相変わらず百年一日の如く那覇空港の売店職 員のコメントだの熱心。ところで惨禍、災難続くと古来、改暦であるとか改名で禍事祓うもの。中華航空もこの際、正名運動の一環でもあり、いっそのこと台湾 航空にしては如何か。日曜晩よりバタバタとしていたが一先ず平静取り戻し、ふと刺身食したく夕方、ユニー(現Apita也)に寄るがスーパーで赤身など値 段も値段だし「これぢゃ鳥渡」のカジキマグロ。とりあえず赤身とカンパチ、蛸の刺身少し購い帰宅して赤身はズケにする。醤油はほんの少し酒と味醂加え、こ れにちょっと漬けるとまるっきし味のない鮪の赤身もそれなりになるのも江戸の知恵。そういえば嘉次郎監督が、昔は食い物屋なんてのは他人家の間口や軒を借 りるか、屋台、と書いていた。いつの間にか、寿司や天麩羅なんて湾岸のどうしようもない魚介をどう美味く食うか、の庶民の食い物が高級料理になったのも可 笑しいが、寿司と天麩羅といえば屋台でも、その屋台に店の者はきちんと正座して寿司を握ったり天麩羅を揚げていた、と。然り。であるから不自然なのはキョ ウビの(ってもうだいぶ昔からだが)「カウンター」料理。寿司、天麩羅から割烹まで全てがカウンター。目の前で新鮮な食材を見事な手さばきで……という が。あれは不自然の極み。寿司、天麩羅などの屋台物は作り手が坐し、それ以外は蕎麦から割烹まで見えないところで調理して運ばれるのが筋。何が基本か、 は、作り手が坐れること。ずっと坐っているか、客から見えないところなら仕事が一段落すれば腰をおろせる。それをまぁ立ちん坊にしてしまったのがカウン ター料理なのだ。……と嘉次郎監督のように一人合点。赤葡萄酒少々。久々にドライマティーニ一杯。カジキマグロが見事に美味なるズケに。鱈子と古漬の糠漬 け。NHKのNW9で(予想通りだが)中華航空機の事故につき東大の液体燃料の専門家だか招き事故原因解明。視聴者=トーシロー相手にある面では人災の事 故の事故原因の推理をして何になるものか不思議。
▼嘉次郎監督の受け売りばかりで恐縮だが「茶ほうじ」という随筆より。嘉次郎監督は小島政二郎の随筆から、政二郎が水上滝太郎に連れられ(いずれも三田派 の作家)泉鏡花邸訪れた時の話あり。鏡花夫人が底に美濃紙を貼ったヒノキのワッパの茶ほうじで長火鉢の埋れ火で丹念に精をこめて番茶を煎じ鉄瓶の熱湯で ジューンッと音を立てて出して頂いたその番茶がいかに美味かったか、と。夫人は客が喜ぶので、何杯もその都度、新しく番茶を焙して供した、と言う。嘉次郎 監督が重宝した石綿の茶ほうじは「女どもの乱暴な扱いで」壊れてしまったそうで監督方々探すが日本橋の三大デパート(三越、高島屋、白木屋)にも河童橋に も築地にも「茶ほうじ」はなく茶道具の専門店でも「なつかしい」と言われる始末。で川越の土蔵造の金物屋でようやくブリキ製のを手に入れた嘉次郎監督。こ れを細工して石綿底にするのだが……。後日、監督は京橋の茶舗で京都の石綿製の茶ほうじが入手可と知って、随筆は終わる。その京橋の池田園、懐かしいが今 は銀座1丁目のコージーコーナーが其処。池田園ビルという建物に名を残すばかり。
▼築地のH君より歌舞伎座の芝居の話。八月の三部制で出ずっぱりは「毎度何かとお騒がせいたします」の中村屋が三津五郎、福助と。今日、なんとなく久しぶ りに歌舞伎座で歌舞伎見物。中村屋、十月には演舞場でも出ずっぱりだそうな。昼は俊寛、連獅子に文七元結。夜は、これは凄いが「森光子 中村勘三郎 特別 公演」って新宿コマぢゃないんだから。ヒガシも飛び入りか(笑)。で今月の第三部の先代萩をH君参観。中村屋が下男小助、政岡と仁木弾正を三役。で八汐が 扇雀。立ち役が加役でやる(例えば松島屋)八汐を女形の扇雀演じる。今月は例えば橋之助とかH君の見立てでは弥十郎でもいいが、なぜか扇雀。きっと中村屋 から「浩チャン、八月の歌舞伎座の納涼なんだけど、先代萩でさ、八汐やってくれいない?」「えー!? 兄さん、アタシはもともと女形ですよ。そんな殺生 な」「洒落だよ洒落。夏芝居なんだからさ。それにアンタ、そんだけ柄がありゃあ、いまさら女形もねえだろう」「やだな、それは言いっこなしですよ」てなコ トで。
▼大江健三郎、小田実追悼の文章(本日の朝日新聞衛星版)の最後に綴る。
選挙で発せられた国民の声は聞かず、不思議な確信をこめて語る首相 に、私はこの人の尊敬するお祖父さんの、60年前の声明を思い出します。……声ある声に屈せず声なき声に耳を傾ける。
「戦後レジームからの脱却」というあいまいな掛け声が一応の魅力を 持つのは、じつは脱却した後のレジームが具体的には示されていないからです。それだけに、政府が変わっても生き続けそうな気がします。これに対抗する手が かりの実体は、戦後の民主主義レジームに勇気づけられた世代から手渡してゆかねばなりません。
アタシのような戦後日本の一番美味しいところを享受して好き勝手に育ってきた世代にとって戦後の日本ほど(ある面では戦前でも特に教育や文化などの「いい 部分」は含め)ありがたいものなし。それをありがたいと思うからこそ、それに固執する。これは愛国。それをまぁよくもシャーシャーと「戦後レジームからの 脱却」などと呆けたことをヌカす御仁は信じられず。大江君は安倍三世に祖父を彷彿しているが、岸信介は少なくとも安保反対の世論(せろん)に耳を塞ぎつつ 確信をもち戦後レジームの確固たる構築目指し安保改正に踏み切ったわけで、それを非難するのは易しいが、その体制に甘んじた者が実際には大多数(安保反対 した世代のどれだけがこのレジームで糊口の凌ぐどころか人生安泰か)。
▼生死の淵を彷徨う香港鼠楽園、ついに出血大安売りで年間パス、学生料金でHK$460発売の由。儲けなど二の次で兎に角、地元のお客様皆さま千客萬来期 待。南無阿弥。

八月廿日(月)曇天。気温摂氏卅度に至らず涼し げ。旧暦も七月に入り初秋思わせると言えばいいのか異常気象なのか。諸事忙殺され晩に至る。久々に養和病院の滑鶏煲仔飯食す。医院飯ながら美味。オコゲも良し。嘉次郎監 督の『洋食考』読了。続けて『日本三代洋食考』読み始める。
▼湯桶について。久が原のT君より。茶懐石では「焦がし米の塩湯」が湯桶で供され一口残せし飯と香の物で湯漬けをし、その湯で最後に飯椀・汁椀・向こう付 の皿を清め、全部飲む由。そもそも禅寺の食作法なり。今は洗米を炒って塩湯に入れるところが多いが、本来は飯釜に水を入れ底のお焦げを剥がしつつ煮立てて 塩加減して出すもの。釜洗いと廃物利用の一石二鳥で炒り米よりもよほど風味よし。で、この塩湯のことも「湯桶」と言う。であるから飽くまで食器が代用語に なっただけ。湯桶という品物と言葉そのものを知らぬと「ユトー=蕎麦湯・お焦げ湯」のことと誤解される鴨。ところで嘉次郎監督が「蕎麦屋の湯桶は安物だか ら」四角で隅に口がついている、と書いていたが、茶懐石の湯桶は檜曲を黒塗にした(精進の場合は朱塗の)丸い利休型だそうな。

八月一九日(日)変な天気の良さ。朝から読書。 吉見俊也『万博幻想 後政治の呪縛』読了。
万博はある意味で、膨大な観客を会場のスペクタクルに動員していく メディアであるという以上に、地方の行政システムが、中央の官僚システムと補助金、そして多数の大企業を巻き込んで地域のインフラを整備し、開発の基礎を 固めていく重要な「動員」の仕掛けなのである。ここにおいて、動員するのは地方と一部の中央の行政システムの複合体であり、動員されるのは国家予算と企業 の広告費である。この後者の「動員」のメカニズムにとって、万博への観客動員はイベントの成否を量る決定的な尺度ではない。
結局、政府は国威発揚、地方はインフラ整備、企業は宣伝、で儲けるのは電通、躍らされるのが市井の人々、ということ。木曜日にするはずであった書籍売却。 新刊書から文庫本まで約60冊を銀座久乃屋の大風呂敷に包みキャリーに乗せて尖 沙咀のTomato Booksなる日系の書店へ。合計でHK$180ほど。5,000円超える新刊書も含め平均すると1冊3ドルだが、線を引いたり書き込みしたり、の本、だ と思えば引き取って頂けるだけでも幸い。この書店、新書も古本も扱い漫画も含め立ち読みどころか坐り読み可で購入前の書籍持込み可の喫茶コーナーまであ り。並ぶ書籍は売れ筋の新刊書やビジネス本多し。何も買わず中環の擺花街にある英文の中古書店に寄る。ペーパーバック10冊ほど売却。日焼けどころか本頁 も赤茶けた本ばかりでHK$15と言われ、その程度であろう、と思ったらHK$50で1冊HK$5とは景気のいい話。久々にFCCに寄り伊太利の Cuvee Brutをグラスで、涼をとる。昼食にサラダを食し仏蘭西のBichot CotesのDe Duras Rougeの05年を飲む。最近、FCCはハウスワインも赤だけで十数種あるだけでありがたいが、グラスとボトルの間にPublisherと銘打ち大振り のグラスサイズあり(通常のグラスの2杯分ほど)これがお値打ち。帰宅して午睡。田中彰著『小国主義』を読む。小国は孟子の言を借りれば「覇道」に対する 「王道」で「君主のとるべき道」。覇道は大国の瞰む利で王道ならば小国でも能う。老子の「小国寡民」は河上肇もそれに着目。明治維新史の碩学たる著者は岩 倉使節団が欧米歴訪で和蘭、瑞西など小国の隆盛を見、日本はアジアの覇権国家の道を選んだが、自由民権運動や植木枝盛、中江兆民の「三酔人」の南海先生な どに小国主義の思想が定着したことに注目。石橋湛山などの言論、そして何よりも日本国憲法こそ押しつけ憲法に非ず、日本のそうした明治からのリベラルな小 国主義の伝統の産物、とする。晩に薮用出来、松竹映画の『忠臣蔵』上下二本通しで観るはずが能わず。1941年の溝口健二監督の作。内蔵助が河原崎長十 郎、で共演は中村翫右衛門、河原崎国太郎ら。二更、帰宅途中に嘉次郎を読んでいたら無性に酒が飲みたく北角でバス降りて寿司加藤で熱燗と赤身、赤貝をつま む。さっと三、四十分で帰途につく。
▼嘉次郎監督の玉ノ井に関する文章より。昭和14年、伯林に続き東京オリムピック開催ひかえた頃、嘉次郎監督ふと「オリンピックを迎えて、濹東の巷、玉の 井は果たしていかなる受け入れ体制を整えているであろうか」とふと考え(これだけでも可笑しいが)、助監督の黒澤明、谷口千吉らを連れ濹東へ。すると路地 の入口にブキリ製のアーチが立ち、五輪マークを五色のペンキで描き、その下にローマ字で NUKE・RARE・MASU と書かれていた、と(笑)。出来 過ぎ。可笑しくて涙が出る。ところで嘉次郎監督のこと、数日前に実家は銀座采女町で飲食業、と書いたが誤り。監督自身の「親子どんぶり考」によれば、監督 の父は懐かしや「天狗煙草」の製造販売元・岩谷の営業宣伝担当(永井竜男の小説「けむりよ煙」の山本支配人のモデル)。かなり羽振り良く銀座で歌舞伎座の 前に家を構え、そこで監督が生まれた由。親子丼というと人形町の「玉ひで」だが、監督によれば父親が知己の株屋や相場師と料理好きの会をつくり、そこで親 子丼が考案された、と言う。

八月十八日(土)嘉次郎監督の食の随筆を昨晩読 んでいて、ふと自らの幼き頃のこと思い出す。嘉次郎少年と同じようにアタシも父が特急列車で父は自分が酒をのんびりと飲みに食堂車にアタシを連れてゆく。 アタシにはチキンライスか何か注文してくれて海老フライか何かを肴にビールを一本、そして熱燗。海老フライなんてそれなりに高級であったから、それを貰え るのが嬉しかったし、やはり父のビールを大人を真似て飲んでみたりする。それでもすでに戦後は食堂車にスタウトなんてない、どころかレストランでも酒場で もなか なか出てこない。アタシは今はQuarry BayのEast EndやFCCのバーの冷蔵庫にずらりと白耳義や英国のスタウトが並ぶから、それを眺めているだけでまるで画廊にいるみたいで愉しいのだが。で本日。朝、 Z嬢と湾仔の龍門大酒樓。早茶で點心の飲茶はアタシらは客人 のある時くらいのもの。昨日来港の客人の住まうサーヴィスアパートがこの近くがゆゑ。昨日午後からの炎天下。客人といくつか雑事済ませる間に昼過ぎとなり 天后の天后叻沙で蝦のラクサ食す。帰宅。午睡。天気のいい折 角の土曜日でも怪我していては外を走って汗もかけぬしジムにも行けず。晩にZ嬢と湾仔の芸術中心で野村芳太郎監督の『砂の器』観る。中 学の時に国語の時間、方言の話からS先生が松本清張の『砂の器』の話をされ、それがきっかけでその小説を読む。読み始め、癩病の話が出てきて、あ、この小 説が「あの映画の」原作なのか、と知ったのだが、それほど映画が(まだ観てもいない)アタシに印象的だったのは加藤剛が演じる主人公のピアニストでもなく 緒形拳演じる刑事でもなく、何といっても加藤嘉が演じた父と子が疾病を差別され放浪の旅を続ける姿のスチール写真だったか予告編だったか、これが脳裏に焼 き付いたのは事実。であるからこそハンセン氏病の患者団体がこの放浪シーンや疾病の過去隠蔽のための殺人といったモチーフが偏見助長と抗議せし事実も理解 できるところ。原作を読み、そしてこの映画を日曜夕方のテレビ名作劇場だかで見て、加藤嘉の父子がモチーフの一つである、と理解。いい役者がチョイ役でこ れだけ出演する映画も稀。しかも社会派作品。70年代らしさ。ところでミステリーでどうしても納得できないのが決め手となる部分での「偶然」。この映画で 言えば、近い将来に関わる犯人と刑事が偶然に羽越本線の急行列車の食堂車で遭遇するくらいは筋に直接関係ないので許すとしても、刑事が偶然読んだ新聞の随 筆が迷宮入りしかけた捜査を解決に結びつける重要な手がかりとなり(その随筆に描かれた女性が犯行幇助)、銀座のバーでまた双方が遭遇し、伊勢の映画館で の出来事も(被害者といい事件を追う刑事といい)偶然すぎるきらいあり。そして、この映画でも数回見ていると、実は、殺人犯である音楽家があの放浪の乞食 父子の息子と同一人物、を確証する決めてがない(原本ではどうだったか、手許にないので確認できないが)。まだ存命であった父が二十数年ぶりで当時六、七 歳であった息子の今の写真を見て「こんな人は知らない」と号泣する、それだけでその少年とこの音楽家が同一人物と断定して逮捕に至れるのはちょっと難しく ないか。今さら三十年以上前の映画をどうのこうの言っても仕方ないのだが。ところで映画の冒頭、羽後亀田の駅を降りた、俳句好きの警部(丹波哲郎)に若い 刑事(森田健作)が「何か一句、浮かびましたか?」と尋ねると丹波哲郎が「ちょっと浮かばない」と答えるのだが、この部分、英語の字幕は「インスピレー ションがわかない」とあり中文字幕は「霊感がわかない」であった。丹波哲郎を意識しての訳か(まさか)。二更に藝術中心を出ると台湾南部襲った台風の影響 か風強し。驟雨。遅い夕食済まそうと上海三六九飯店に寄るが 爆満で永華麺家に食す。

八月十七日。夜半より明け方まで下雨沛然。さま ざまなことあり。夕方客人を迎えに空港へ。突然の快晴。雑事済ませ晩に客人お連れして湾仔の杭州酒家に食す。紹興酒を乾杯でお猪口に少し。同席の食通A氏曰く滬菜 で雪園飯店は「北角が」味が落ちたのだと思ったが銅鑼湾でも駄目であった、と。然り。余はかつて銅鑼湾の店で「冷えたオコゲ」出され呆れ果てたり。唯靈氏 は雪園を未だかなり誉めるが……。食後、松竹映画『わが生涯の輝ける日』見終わったZ嬢と湾仔の地下鉄駅ホームで待ち合せ。吉村公三郎監督、新藤兼人脚 本、で出演が森雅之、山口淑子、滝沢修に宇野重吉というだけでたまらない昭和23年の映画。山本嘉次郎著『洋食考』少し読む。
嘉次郎監督のこの名著。すまいの 研究社刊、昭和45年の初版本。佐々木久子女史により昭和30年春に創刊された雑誌「酒」。創刊から1年、部数低迷し廃刊か、という時に火野葦平が救いの 手を差し伸べ一流の粋人が酒肴にまつわる文章を読めることで趣味の雑誌として定着し五百余号。平成9年休刊。その中でも嘉次郎監督の連載は名文ばかり。嘉 次郎監督といえばアタシにとってはエノケン映画。とくに『エノケンの近藤勇』はいま観ても笑いを越えたセンスの良さ。で銀座采女町に生まれ実家は飲食業、 の慶応ボーイ、1920年に映画『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビューしたほどのナイスガイ。もうこれだけで「書いた文章は面白そう」。読み 出すと、その文章の全てが面白く全てを書き写したくなる。が自戒。それでも連載第1回の「子供の頃の味」をかなり長めに引用すると、ソースというのも、最 近は「ダブダブと掛けなければ用を足さないように出来ている」が「むかしのソースは、塩味は食塩でとり、香りつけに、ちょっぴり掛けたもの」という持論を 披露したあとで
父は私をよく旅行に連れて行ってくれた。商用の旅行だが、一番の楽 しみは食堂車に行けることだった。食堂車の一車輌手前くらいから、洋食の良い匂いが漂って来た。
父は晩酌では、いつも狼や猫の絵の描いてあるスタウトを飲んだ。 シャンパンのように瓶の口が針金でカラメてあった。食堂車でもスタウトを注文した。そして、体のためになるから、少し飲んでみろとコップについでくれた。 ニガイからガブガブ飲むなと注意した。怖わごわ口にすると、ニガさより、こんもりとした重厚な香りが鼻を衝いた。外人のブカブカの外套に包まれた感じだっ た。ほとんど一息に飲んで「もう一杯」といったら、父は眼をとがらせて「いい加減にしろ」と叱った。
たしか六歳頃で、これが私の酒歴の第一頁である。それにしても、い まの銀座の一流と称する洋食屋でスタウトを注文すると、ボーイがスタウトと申しますと? と問い返えす。ひどい世の中になったものだ。
父は晩めしのたびに「春さきの鯛のサシミと冬場の平目のサシミが天 下一品だ」などと私たちに講義した。父のいうことはすべて本当だと信じた私は、学校で君たちは何が一番好きかと先生から問われたとき、みんなは卵焼とか、 アンパンとか答えていたのに、私は春先の鯛のサシミ、冬場の平目のサシミと答えて
、みんなに笑われたことがあった。(略)
シュウクリームを買ってもらって、母がケチケチして一つしか呉れな いので、いまに見ろ、大人になった直径三尺ぐらいのシュークリームを作らせて、頭を突込んで食って見せるぞと発奮したこともある。
……いやいや、敬服。こんな人が食べ物と酒について毎回さまざまな物語を語るのだから面白くない筈なし。
▼嘉次郎監督の文章から一つだけ。蕎麦について。「蕎麦屋で酒を呑む」ことが通、と思われている。事実、その通り。遅い午後、のんびりと蕎麦屋で卵焼や鳥 ワサなんかで酒をちびちび飲んで最後に蕎麦で〆る、のが通だ、と思われてる。だが嘉次郎監は「ヌキ」なんてのはダメ。ヌキとは天麩羅蕎麦なら「天麩羅蕎麦 の蕎麦抜き」。高橋義孝先生なんかでもこれをやるから通だと思われているがアタシも久が原のH君となぜヌキがいいのかわからない、と話していたが、さすが 嘉次郎監督、あんなもの味が強過ぎてダメ。で嘉次郎監督は何を肴に蕎麦屋で酒を飲むかといえば、蕎麦そのもの。蕎麦屋で「お酒とざる」と通す(注文する) とまずお酒が出て、酒が済んでから蕎麦になるので蕎麦が酒の肴にならぬ。「ざるで、お酒」と通すと蕎麦とお酒が一緒に出てくるとか。ただ嘉次郎監督の世代 でこれを並木の薮でやっていたら並木の老主人に「近ごろは蕎麦で酒をやる方が少なくなりました」と言われたそう。なるほどねぇ、と感心するばかり。嘉次郎 監督の蕎麦の話はまだ続く。蕎麦屋の符丁。「天ツキざる一マイ」は天麩羅蕎麦が二つとざるが一枚。「ツキ」は二つの意。「月見ガチ、もり五マイ」は計5つ だが月見の「勝ち」で、つまり3:2で月見蕎麦が三つでもりが二枚。「マクで願いまして」は「芝居の幕」のことで一段つける、から「別のお客さん」の意。 であるから応用問題になるが「天ガチおかめ三バイ、マクでねがいまして、タヌキとキツネ一杯、そば台で」は「天麩羅蕎麦二つにおかめ一つ。改めて別のお客 はタヌキとキツネ一つずつで蕎麦でお願いします(うどんじゃございません)」となる。……いいねぇ、この世界。そして「そば湯」について。そば湯を「湯 桶」なんて言うのが通、だが、蕎麦湯は「ぬき湯」。そば湯を入れる木製の器が湯桶でそば湯=湯桶に転じたが、桶なら丸くていいが「蕎麦屋の湯桶は安物だか ら」四角で、隅(角)に口がついている。それで「蕎麦屋の湯桶ぢゃあるまいし、隅のほうから口を出すな」なんて表現もあり。本来の蕎麦の美味さは、北海道 でも会津でも九州でもいい、火山灰地の痩せ枯れた土地でいつも風に吹かれ霧にまかれたところが美味い蕎麦の条件。苛め抜かれて蕎麦が美味くなる。そういう 産地で挽きたての蕎麦粉をすぐに打ってすぐに茹でて水でサッと冷やしたのが一番美味い。産地の農家では「出汁の良し悪し」なんて不要。痩せ枯れた土地には 細いネズミの尻尾のような大根しか出来ない。そのおろし汁はめっぽう辛い。それを自家製の味噌か生醤油で割る。葱もトウガラシも不要。「そばと大根とは、 ふしぎに合うものである。昔のそば屋では、かならず大根おろしを出したものである。大根おろしの汁でそばを食うと、すこし食いすぎたと思っても、間もなく 腹が減ってくるものである」と嘉次郎監督。「薮系のたしかな店では、ざるはない。ノリをかけることをきらう。そばの香りの邪魔になるからである。ざるのか わりに、せいろうという。もりそばを盛るウツワである。あれはむかし、そばのツナギの知恵のないころ、ゆでないで、蒸したその名残りなのである」と、この 話を結ぶ。むしょうに、蕎麦で酒が飲みたくなった。
▼昨日追記。その一。怪我して出血に足も竦みつつ「すわ病院へ」と思った時にちゃんと厚着。我ながら冷静。映画館と病院は冷凍庫の如し。もう一つは養和病 院にて麻酔の同意書に署名させられ、目頭縫うだけでも全身麻酔か、と思ったがさすがに部分麻酔。幼稚園児の時の深い切り傷で縫う際に泣き叫んだ記憶あり。 当然、麻酔なし。香港の麻酔の感覚は日本で麻酔なし=部分麻酔、日本で部分麻酔=全身麻酔、日本で全身麻酔=いったい何だろう……阿片?といった感じ。
▼日本航空、経営不調だの大変だが、今年の私の疾病の如く「ついていない」のは機内誌でも一緒。日本航空のエグゼクティブ機内誌Agora8月号ぱらぱら と頁めくっておれば「旅への一冊」という見開き頁で山岡荘八『徳川家康』紹介するのは「白い恋人」でお馴染、石屋製菓の社長。「創意工夫」だの「振り返る と、どれもこれも自分で考え出したアイデアを飽きることなく繰り返してきた」といった文句が全て悪い方に読めてしまうから。

八月十六日(木)午後より大雨。日本は酷暑。香 港は気温摂氏廿六度と涼し。本日「書禍」あり。狭い書斎の本、書禍より溢れんばかり。未読と再読期し本のみ残し売却処分と考え整理始める。高い処の書籍整 理する間に脚立から重心崩し倒れ上手く狭き床の空間に倒れたつもりが書禍の棚に目頭を強く打つ。一瞬、痛みもなく九死に一生を得たかと思ったが瞼にたらり と、手で拭えばかなりの出血。指の感触で一寸ほどだが深い切り傷とわかり鏡を見ると身が縮まってしまいそう。玉に瑕か。血が止まるのを待ち消毒して応急措 置。近隣のC医師の診療所も傷を縫うくらいの外科対応する筈と訪れるが生憎、三時間の昼休み。診療所並ぶビルのフロアだがどの診療所も朝と夜遅い分、昼休 み長く一時間以上も待てず公立の東區医院(Pamela Youde Nethersole Eastern Hospital)にタクシーで駈ける。救急で登記。初期対応の愛想悪い看護婦に問診され「きちんと首を振らぬと、はい、か、いいえ、かわからぬ」と苦言 され「目頭に傷があり片目瞑り頭を傾げる患者に、その言い方はないでしょうに」と諭す。傷も見ぬまま応急措置で腕に化膿防止の注射。初期判断は「半救急」 で待つこと暫し。傷が痛むので診療を早くできぬか、と請う。「半救急」はあの掲示が見えぬか、今、80分前に登記の患者の対応が、とその看護婦が言うの で、そりゃわかるが内科と外科を一緒にするな、こっちは傷が痛み、だいたい傷口も見もせず(アタシが応急措置したバンテージ貼ったまま)どうして半救急と 判断するのか、と苦言し返す。傷口も見ぬのか、と言ったものだから相手は「見ない」と売り言葉に買い言葉。拉致開かず。どう考えてもこのまま二時間待たさ れてはたまったものぢゃない、と診断こちらから願い下げ、病院を出てタクシーでHappy Valleyの養和病院へ。怪我してからすでに小一時間近く。養和病院、さすが私立高級病院で緊急で対応即刻。病院へ着き一分後には看護婦に呼ばれ主任看 護婦が「まずは傷口を見て」血圧や体温など測りながら外来のちょうど手すきの医者が出てきて「縫う」と判断し暫し待って診断。外来用の簡便な手術室に通さ れ麻酔(さすがに全身麻酔に非ず……笑)して針縫処置。医者と雑談しながらで結局7針縫われる。……が日本なら3針くらいぢゃないかしら、この幅一寸の傷 なら。一週間後に抜糸、鎮痛剤あげるから、お酒は控えてね、と(辛いが)。大きなバンテージ貼られ赤城宗徳君の如し。今年はトラコーマに胃潰瘍、でこの傷 でもう二ヶ月くらい休肝。大厄はとうの昔に済んだはずが。帰宅して珈琲沸し昼も食しておらぬのでチョコレート頬張る。途中になった本の片づけ済ます。本来 なら今日のうちに古書店に本売り払うはずが本は大きなカバンに詰める。凡そ六、七十冊。書架少しすっきりとして本の陰から本も現れ「あら、こんな本もあっ たか」と喜んだり。五組ほど同じ本が二冊あり。音楽CDでもそうだがすでに購入のものを「持っていない」と思って又た購入。だいぶ片づいてもまだ読んでな い本がこれだけ……と我ながら半ば呆れつつ日本の実家に自宅に前回の帰省以後、本屋から届いた本が数十冊貯まっていると思うと、さすがに少し書籍購入を手 控えようかしら、と思う。自己責任だが、もはや書禍。日本にいたらきっと文庫本一冊すら手放さぬだろう。築地のH君の家は屋根裏の倉庫に十代からの書籍だ の満載で、最初から重荷に耐えるような建築もさすがに梁が軋んだと話を聞く。庭に書庫を建てた知人もあり。
肉体は悲し、ああ、われは すべての書を讀みぬ   マラルメの「海の微風」より
いつかは蔵書を手放せねばならぬ時あり。いぜん久が原のT君と書架に鷗外、荷風、露伴の全集があればそれでいい、と話したが、欲を言えばこれに折口信夫、 読物で馬琴があれば良い。紅葉はアタシには人生最後まで残る作家だが全集といっても小学館で日記含めても三冊揃。悲しくもあり、寝たきりになり枕元に置く には良いか。晩にカレーライス食す。先日購入の廉価版ロストロポーヴィッチのチェロ名演集。録音は劣るがチャイコフスキーの「ロココのテーマによるバリ エーション」が1960年のソ連国家シンフォニーオーケストラでグラズノフのチェロとオケのための吟遊曲が1949年のソ連国立シンフォニーオーケストラ の演奏。浅学の余にはState SOとNational SOがどういう関係なのかもわからぬが、いずれにせよ両曲とも愉しく聴く。麻酔も切れ鎮痛剤服んでもさすがに傷が微かに疼き臥床し読書。いぜんより読もう と思っていたロジェ=マルタン=デュ=ガール(M.D.G.)著『アンドレ・ジイド 1913年より1951年に至る覚え書』読む。昭和28年に文藝春秋 新社より発行の初版本。福永武彦の訳というだけで、どこか安堵。訳者あとがきでこの翻訳は夷齋先生より勧められしもの、とあり。さすが夷齋先生。ジイドこ そ此処で紹介の必要もなかろうがマルタン=デュ=ガールは『チボー家の人々』の作者。確かジイドより13歳だか若く1913年に40代ですでに巴里の文学 界で彗星の如き存在であったジイドに出会った二十代の文学青年にすぎぬM.D.G.が小難しいジイドに気に入られ文学の先達との親友のような付き合いをジ イドの死まで続けた断片録。M.D.G.の日記からの抜粋をもとにジイド自身の日記からの引用もM.D.G.による原註にあり。興味深い記述の一つにジイ ドの日記(1936年10月2日付)からの引用で
ロジェは、どんな心理的問題に対しても、(小説家としてでも、い や、寧ろ、特に小説家として)例外的なものはことさら排除する、少しくらい例があっても、やはり排除する。彼の登場人物達が少々月並なのは、そこに基因す る。
とあり。M.D.G.自身が自分へのジイドによる批評を引用とは。だが『チボー家』の読者としては、このジイドの指摘は「ご尤も」と膝を打ちたいほどの 妙。『チボー家』の物語で主人公のジャックはじめ全てにこの指摘当てはまる。だが逆に個性の強いキャラばかりは『モンテクリスト伯』のような大衆小説に なってしまい『チボー家』の荘厳さは出ないの鴨。ちなみにM.D.G.は『チボー家』の第7話?「一九一四年夏」で1930年代にノーベル文学賞受賞して おりジイドの同賞受賞は1947年。ジイドのほうが名声得たのはずっと早いが「悪徳の」文士に対してM.D.G.は『チボー家』の反戦、平和志向により 1937年という「きな臭い」時代に同賞の対象となったもの。
▼香港の公立病院、危篤や重傷で救急車で運び込まれれる場合は対応良い。寧ろ、そういう深刻な場合は間違っても私立総合病院は避けるべき(外科の担当医不 在などあり)。だが香港の公立病院の問題は、専門医の予約済みの診療以外は「全て緊急」扱い。緊急も「危篤」「重傷・緊急」「半緊急」「その他」にわけら れ、通常の風邪や眩暈、下痢など軽い症状では何時間も待たされ、半緊急でも本日の我が症例の如く不愉快な職員にあたると、このハメに。
▼香港鼠楽園開業第二年目の入場者数は目標5.5百万人に対して4百万が実績とSCMP紙伝える。一日の入場者数は3.4万人収容可に対して1.1万人と 閑古鳥。今後入場者激増も見込まれず閉園も視界に入るか。ディズニーの策略にまんまと引っかかり我々の税金浪費の政府高官は誰も責任とらず。愚か。

八月十五日(水)小雨。東京の最低気温摂氏廿九 度が香港の最高気温。帰宅途中、北角街市に寄る。麺麭、水菓など購ふ。香港で何の変哲もなき路上の市場も徐々に排除の運命にあるかと思ふと早くも郷愁感じ ざるを得ず。帰宅して文芸春秋九月号読む。芥川賞受賞の諏訪哲史『アサッテの人』全く読めず。我が感性の欠如か。石原慎太郎と村上龍の選評に同感(……と 言ふとそれぢたひ感性の欠如?と普段なら嘲笑しさうだが)両君の指摘ご尤も。同誌に小林信彦と井原高忠(元・日テレ制作者)の対談面白く読む。内容は本旨 からすれば「いかに自分たちが活躍のテレビ黎明期が面白かつたか」であるが(それぢや読者の感心引かず)対談のタイトルは「吉本興行がテレビを駄目にし た」となる(実際に「間接的な」吉本批判などほんの数行なり)。このセンセーショナリズムこそマスコミの、殊に菊池寛君の文藝春秋が世に広めたる弊害な り。最近、宅にて独り葡萄酒飲む習慣あり。どこの醸造所だの風味が黴だの土の匂ひだの柑橘系だのと五月蝿いこと言はずコップ(葡萄酒杯に非ず)に注ぎグビ グビと好きに飲む。酔ひ心地良し。夕餉。先日バーSにて帰りがけにご亭主より「持つていきます?」と言はれしSpring Bankの12年物のボトル、僅かに酒が残り飲み干す。白倉敬彦『江戸の男色』読了。眠気逸し氏家幹人氏の『武士道とエロス』も一気に読む。
▼終戦記念日。安倍三世参拝取り止めも冷静な判断のやうだが「外交を考へると」と所詮、本心とは裏腹に外交問題になること考慮しただけの参拝遠慮に過ぎ ず。本来のconstitutionalな「一貫」に非ず。参拝されたゐなら参拝すべき。小泉三世靖国参拝。首相退任後あれだけ世捨て人気取りの人(参院 選では公明党の松あきら先生の応援などあるが)。個人の思想信条の自由ゆゑ靖国参拝ぢたひ批判はせぬ。が、ならば横須賀の町を歩くが如く一個人であるべ き。リムジンで乗りつけ礼服姿であゝもたいさうに参拝すべきかどうか。NHKのNW9の終戦の日の報道。戦没者記念式典での安倍首相の登壇を見守る陛下の 目線に厳しいもの感じたはアタシだけか。戦没の息子への「101歳の母の悲しみ」だの「絵手紙に見る戦士した兵士たる父」への息子の思ひなど報道も大切か もしれぬが、それより「反戦平和が大切」と直接述べるでき。良心こそあるゆゑ、その直接話法ができぬから「101歳の母の悲しみ」に主張「託す」がNHK の限界か。
▼白倉氏の著述。江戸の陰間茶屋の舞台子、陰子らが京大阪よりの「下り子」であり、上方の浮世絵師である月岡雪鼎の艶本『女大樂寶開』などには衆道の画ば かりか淫子の謂わば養成法まで記述あり
十三四より上は患ふても口ばかりにて深き事なし。これハ、若衆も色 の道覚ゆる故、我が前ができると、後門を締める故、客の方には快く、又客荒く腰を遣へば、後門の縁を擦かし、上下のと渡りの筋切るもの也。是には、すつぽ んの頭を黒焼にして、髪の油にて溶き、つけてよし。
といつたノウハウには驚くばかり。白倉氏はこの上方流の実証主義は「江戸っ子の「鯉の吹流し」では、こうは行くまい。第一、腹ワタがないのだから、忍耐力 にも欠けるきらいがあるようだ」と指摘。御意。江戸浮世絵、春画では当代きつての碩学の著者がこの本を上梓する切掛けになつたのは『尻穴重莖記大成』とい ふ本(欠題本だが内題がそれ)が最近見つかつたが為。好事家以外には「それがいつたいどうした?」の世界だが日本の男色画が肛交ばかりであることに筆者か ねがね疑問抱いたが『重莖記』で初めて口交の画と接し、またその書に巧みな?三人取組みだの満載で、これを世に紹介したかつた、と。著者によれば実は江戸 の陰間茶屋は女客による役者買ひが主流で江戸時代通じて徐々に女色が広まつたことが陰間茶屋衰退といふ説も興味深いところ。ところで当時の陰間茶屋の「料 金表」
直段昼四切夜四切         予約なし 昼は金四分=一両 夜も同じ
但しもの日は昼六切夜六切也    但し祭日は昼は金一両二分
○仕舞二両二分、片仕舞一両一歩  ○一日買ひ切り二両二分、半日 は一両一分
夜一両一分外に小花一歩ツヽ    夜は半日でも一両一分に一分追 加
当時、吉原の高級遊女を「昼三」といつたは昼の上げ代が金三分だからの由。それが陰間では金四分で歌舞伎の舞台子となると昼六切。いかに陰間の値段が高か つたか、と分析。たんに高尚な趣味だけに非ず、陰間など受け手とはいへ女郎と違ひ自らが「役に立たねば」商売にならず、で直段の「ちよいの間」と片仕舞= 半日の料金がほぼ同じなのも道理。半日が一分だけ高いのは「予約料」といつたところ。而も著者の指摘通り陰子として働けるのが十三歳から四、五年の十七、 八歳で女郎と違ひ陰子は年季明けでも行き場もなし、と思へば玉代が高いも当然か。世の中、経済なり。
▼氏家さんの『武士道とエロス』も面白い記載多し。一つ忘備録的に綴つておけば与論島で同性の親友を「アグ」と呼ぶといふ記述。これで瞬時、想像したのが 中国語の「愛哥」。「哥」の字の意味は「兄」。「愛哥」はさしづめ愛しき兄貴。「愛哥」は現代中国語では「アイゴー」だが与論島に近い台湾語なら更に「ア ゴ」に近くなるか。邪推ではあるが。

八月十四日(火)雨。ジムで一時間の有酸素運動 済ませ帰宅。季節にはまだ早いが秋刀魚焼いて食す。萱野稔人『国家とはなにか』と松山巖『乱歩と東京』の二冊読了。前者は、その国家観にアタシは個人的に 馴染む。非 常に偏向した=学者なら許容できるが政治家や官僚にとっては「それを言ったらお終いってもんよぉ」な<国家の仕組み>なり。スピノザ、フーコー、ドゥルー ズ=ガダリらの国家論から美味しいところ抽出して著書の考える国家観に上手くまとめた感あり。最終章の「国家と資本主義」はちょっと解釈しきれておらず。 それにしてもその章末がドゥルーズ=ガダリの『千のプラトー』からの長い引用で終わってしまったのには驚いた。後者『乱歩と』は「あと一つ踏み込まない」 ところが多少物足りないようで松山巖の良さか。乱歩であるから、当然、そのレンズ、人形、少年といった偏愛や蒐集癖などいくらでも言及しようと思えば易い のだが、敢えて乱歩の小説に著されたものと
1980年代の現実にある風景=東京の「都市の貌」にだけ焦点を当てて、それ以上は語ろうとせぬ。乱歩の『陰 獣』と同潤会アパートの関係について(第5章:路地から大道へ)はさすがに著者の推論がかなり出てはいるが。ところで今となってはこの80年代の東京も、 もはや過去の彼方。松山氏の撮影した多くの建造物がすでに存在せず。この『乱歩と東京』は1984年にパルコ出版からの刊行。著者はあとがきでパルコの増 田通二氏に謝辞を述べる。当時、どちらかというとビジュアル系の出版社であったパルコ出版がこの『乱歩と東京』を出したことがアタシにもかなり新鮮であっ た。70年代後半から「渋谷の街を変えた」パルコがこの『乱歩と東京』出したのも皮肉か、と思ったが、その<パルコの渋谷>すらすでに鬼籍に入るかと思う と時代の目まぐるしさ。白倉敬彦『江戸の男色』(洋泉社新書)読む。著者は江戸春画研究の第一人者。同じ洋泉社から新書で上梓の『江戸の春画』は圧巻。江 戸の性風俗は凄すぎ。江戸といえば氏家幹人氏からメール頂く。アタシの如き端末の読後感が著者ご本人の目にとまってしまうネットの時代。甚だ恐縮。

陰暦七月初一。薮用あり旺角。かなり久々に陽 光。旺角の繁華街をArgyle街より廣九鉄道の橋桁潜り暫く歩くと中華電力の本社ビルが左 手に。昨晩、松山巖の『乱歩と東京』読み始めたからか、この中華電力にせよ街並みがどこか乱歩的に見えて仕方がない。路地の闇。Kadoorieの丘に登 る坂道が迷宮の入口のよう。Waterloo Rdを渡る。政府の肺病診療所。結核が死の病だった頃を彷彿するような古い建物。待合室は外に向けて扉が開け放たれ、通道の移動式のベッドには死んでいる ように眠る老人。半世紀タイムスリップ。肺病診療所の隣は西九龍診療所。公立の診療所で診断と配薬は一律HK$84で、この建物もかなり古めかしい。この 診療所の背後の丘に大型の九龍医院がそびえるが、なぜ肺病診療所も西九龍診療所も、この大型病院に吸収されずにひっそりと二つが現役なのかしら。車で通り 過ぎても歩くのは、このあたり初めて。興味深い地域。Argyle街をさらに九龍城のほうに向けて進むと、かつて英軍の軍営であった一帯は今は医療管理局 の大本営。軍営が医療機関に置き換わるのもフーコー的に面白い。此処から北に折れてJunction Rdに入る。何がjunctionなのかと、歩いて考えてわかったが、Argyle街の軍営から九龍塘の九龍東軍営をぐるりと結ぶ軍用道路か。かつて「九 龍城砦」があったことなどまるで忘却の彼方、の公園。結局、樂富まで歩く。かつて樂富邨の公共団地のあたりは再開発されジャスコの入居する商場となった (といってももう十年近く前の話だが)。ずっと記憶を辿りつつ歩く。汗ぐっしょり。晩にF氏に招酒を受けS氏と三人で寿司加藤。F氏宅にまでお邪魔し鼎談款語三更に至る。タイより戻り雨が 初めて終日降らず。

八月十二日(日)夜半に雨音で目醒る。今朝、香 港仔にて8kmの南区越野賽(Cross Country Run)あり。参加申込済みのところ数日来の悪天候にて経路の内、かなり泥濘みありそう。そこまで悪条件で走りたくもなく参加断念。読書。昼にかけジムで 筋力運動と有酸素運動各一時間。昨日、旺角のDundas街の仁安大廈通り抜ける際にオタクなショップの並ぶ通道入口に芳しい香辛料と小麦粉の焼ける匂 い。新疆回族薄餅店という店。気になり今日ジム帰りに寄る。薄餅はParata(パラタ)のことで羊肉のパラタ食す。最初、箸だのフォークが出てこないと ころまで本格的なHK$10で量は充分のパラタをカレーにつけて食す。美味。煙廠街の市場で果物購う。香港の路地のこうした市場がだんだんと歴史の一部に なろうとしている。帰宅。読書。夕方、ほんの数分、暗い室内がふわっと明るくなる。雲の絶え間に西の山影に隠れようとする直前の 夕陽。二更に香港電影資料館にて渋谷実監督『本 日休診』(1952年、松竹)観る。佐藤忠男をして「渋谷実はその時代時代の風俗を喜劇的に描くときにとくにはつらつとした才気を見せた皮肉屋の 名監督だった。井伏鱒二の小説によるこの映画は彼の代表作と言っていいだろう。東京の下町の、貧しい人たちの住む町で開業している医者の三雲先生(柳永二 郎)を主人公としてくりひろげられる、ユーモアとペーソスとヒューマニズムの庶民生活スケッチ集であり、敗戦後、ようやく最悪の生活状態からは回復した時 期の人々の生活を見事に活写した傑作である」。柳永二郎が老医者を好演。三國連太郎、鶴田浩二、淡島千景、佐田啓二らが光り、ワキをかためるのが中村伸 郎、長岡輝子、十斗久雄、多々良純に望月優子と芸達者ずらり。
▼香港島に戻ろうとバスに乗ると紅磡から「好運北京ー香港回帰十周年盃」という揃いのシャツを来た若者数人あり。車中でも忙しく携帯で仕事の連絡とりあい 何かと思えば北京五輪で香港にて開催される馬術競技の関係者。本番開催一年後に控え昨日は沙田競馬場、今日は確か上水雙魚河の香港ジョッキークラブのカン トリークラブにて馬術競技開催。「好運」と「すばらしいオリンピック(奥運)」で掛け詞か、これは上手。国際馬術競技連盟だかの代表は香港の馬術競技環境 に「充分に満足」と答えていたが猛暑も辛かろうし多少涼しくてもこの悪天候ではいずれにせよ理想的な競技環境とは言えず。報道によれば本日は悪天候祟たり 入場券千枚配布で四百人台の観戦者だったとか。たかだか馬術競技でも入場者の携帯品だのX線での荷物チェックだの「本格的」。馬術競技の行政総裁「六本木 で不倫発覚」林煥光君は五輪本番では保安の更なる徹底を言及。
▼中国の官方英字紙China Dailyが先週八日の北京天安門広場で挙行の「北京五輪まで365日」祝賀会の報道で“Security was tight around Tiananmen Square, where troops crushed pro-democracy demonstrations in 1989 with huge loss of life, as crowds gathered for the celebrations”と天安門は1989年の屠殺に言及。これがネットの人民網の英語版(People's Daily Online)にも転載される。中国政府が北京五輪前に政治的言及緩めたか……というと左に非ず。蘋果日報曰く、この記事の多くの部分がロイター社配信記 事の受け売り。で「政治的に好ましくない」余計な部分までコピー&ペーストの結果、中国の官方新聞にこの「天安門事件で市民殺害された」の表現が掲載され 而も人民言及、批判することを「オリンピック開催を政治化することに憂慮」などと指摘。だがオリンピックを最も政治的に利用しているのは当然、開催国(今 回に限らず)。
▼先週金曜の信報によれば(周楚奇氏の文化欄での記述)香港芸術館で展示されし北京故宮博物館よりの<國之重寶>の国宝級絵画の多くは香港での展覧終え北 京に戻ると最長十年の「休養生息」に入る由(香港芸術館虚白齋博物館館長の話)。幾多の持ち主を経て戦乱を潜り、で保存状態不佳。周氏曰く香港芸術館の展 示はひどく、展示品の図巻のうち例えば宋代の「百花圖巻」など全景の三分の一ほどしか展示されず、本来絵画にとって大切な款印なども多くが「巻かれた」ま ま。話題の「清明上河圖」も(これは余も気になったが)圖巻を参観者が覗き込むと照明が反射しちょうどガラスに自らの影が映り、また圖巻の核心たる虹橋の ちょうど真上にガラスの継ぎ目があり、これが虹橋の袂に縦線の陰影となるお粗末さあり。

八月十一日(土)台風の8號警報は昨晩二更に解 除される。本日も降雨続く。昨日の信報文化欄に夏の映画祭紹介の評あり。上映作品はきちんと目を通したつもりでいて探し損ねた上映作品あり。ちょうど九月 のルイス=ブニュエル監督の特集上映のチケット購うのにTom Lee楽器店(プレイガイド)に行く用あり。そこで尋ねても「そんな映画はない」と言われ前述の信報の映画評をよくよく見れば「夏の2つの映画祭」で国際 映画祭と別に国際短編映画祭あり(ややこしい)。後者のチケットはネットで発売中。確かに成人映画で松竹に非ず。Tom Leeを出てPacific Coffeeでそのチケットをネット予約。午後ジムで筋力運動と有酸素運動を各一時間。油麻地のBroadway Cinematiqueまで散歩。チケット受領。この辺鄙な場所の映画館、十年ほど前であったか「よくぞ造った」と感心したが映画館ばかりか文化系書店も カフェも香港では最も充実した映画DVD店のどれも大雨のなか盛況。台湾の誠品書店の雑誌バックナンバーを立ち読み。昼飯を逸し空腹で油麻地のラーメン 店・横綱に寄ると午後四時というのに満席。大したもの。葱 ラーメン食す。夜食用にと、ふと景記粥王の粥が食したくなり 雨のなか旺角迄戻り廣華病院裏の景記に向うと「確か此処のはず」の場所は明 園なる茶餐庁あり。三、四年ぶりでは致し方なし。その明園なる店に「生滾粥」と景記の時のままの看板も残り粥を供しているので試しに購う。 この廣華街や煙廠街に抜ける商業ビル一帯にプラモデル屋やモデル銃、軍事オタク用品、ラジコン飛行機などの専門店数限りなし。大人の客でたいそうな賑わ い。数年前よりかなり拡充。帰宅。はっと思い返せば、上環の粥の名店・生記の 職人が共同経営でこの景記を始め数年で独立して湾仔で李景粥品専家を 開店していたのだった。ならば景記は閉業も当然。すっかり失念。だが、その明園の粥もそれなりになかなか。煲仔飯が美味いと評判、と雑誌紹介の記事も店頭 に貼られてはいたが夏では時季に非ず。晩に萱野『国家とはなにか』読む。引用の仕方が気になりフーコーだのドゥルーズ=ガダリの本など久々に書架より取り 出しては参照しつつ、で萱野本読み進まず。
▼げに凄まじきは役者の意識。
今、自分で新作を演出し、主演し、スターになろうという気はさらさ らない。50、60になった時に自分のせがれや後世の團十郎、海老蔵君たちがやりたいことに挑めるようにする力を己に蓄えないと。時代や文化にぶっとい芯 を通すこと、それが一番重要でしょう。(市川海老蔵、朝日新聞の取材に答え)
若いのにさすが成田屋、といえばその通り。だがまだ自らが未だ團十郎の名を襲わず父が健在の中で、しかも50、60になった時に倅がいるのは当然のように そうであってほしいが(もうすでにいるか……笑)、後世の團十郎のため、海老蔵「君」とはよく言ったもの。この自意識過剰は海老蔵君らしさか。会社の跡継 ぎ息子が未だ部長クラスで「ぼくの後継者がゆとりをもって会社経営が出来るように」などとほざこうものならどれだけ呆れられるか、だが。
▼北京オリンピックまであと1年。懸念されるは深刻な大気汚染と交通渋滞。北京市当局は強制的な自動車閉め出しで大気汚染改善に望むことも検討中の由。マ スコミに対し、この発案を否定的に報道せぬよう通達とか。オリンピックといえば象徴的な国立競技場(鳥の巣の如き建造物)の建築に加わった建築家の艾未未 氏が、その競技場が中国の発展の象徴の如く言われることに否定的見解表明。瑞西の建築設計会社Herzog & de Meuronによるこの体育館設計プロジェクトに加わった艾氏は(自らの設計はあくまで建築美術であるという理念に基づくのだろう)中国を代表する現代詩 の詩人であった艾青が文革で被害被り自らも辛酸を舐めた経験から、自らの(政府の過ちなど)過去すら無視する=正当な評価もできない国家がどうして発展を 祝賀できようか、と指摘。指摘はわかるがオリンピックのための国立競技場という建築に加担する時点で、それがどのような政治的目的のものであるか、は理解 できようもの。
▼香港大学教育額院の陳介明院長が「文盲」について論じる(信報)。文盲はilliteracyだが識字率との違いに着目。中国語で現代の生活で充分な識 字対象を二千字とした場合(日本の常用漢字は1945字)問題はその漢字がわかっていても文章が読み取れない、書けない者が増えてはおらぬか、と指摘。識 字率に基づく文盲は減ってはいるが。

八月十日(金)夜半より雨歇まず。本日より日曜 まで湾仔のコンベンションセンターにて香港高級視聴展(HK High-End Audio Visual Show)開催あり。参観。我が家は十数年前に深水埗の鴨寮街にて購入せしSansuiの中古真空管アンプが当然のように数年前に壊れ、これがいずれ壊れ ると見越し日本から運び込んでおいた30数年前のヤマハのA-1なるアンプ(当時10万円)で今も急場凌ぐまま。すでに不調箇所幾つかありLPも聴けず。 そろそろ買い替えねば……と想うがアンプは伊太利の真空管のUnisonが 美しいとかスピーカーはThielが欲しいとか。それぢゃ「ライカ より高い」。さすがに、展示会場でハイエンドな現品を眺めてその音を聴いてうっとりするばかり。それにしても欲しい。オーディオテクニカは中国語だと「鐵 三角」なのだ(カッコよい)。この展示会、オーディオメーカーだけでなく何故か地場のCD屋も何軒か出店しており信昌唱片のブースで全く得たいの知れぬBrilliant Classicsというマイナー レーベルのHistoric Russian Archivesというシリーズ(どうも莫斯科放送かどこかの放送局に眠っていたコンサート実況録音かき集めた物らしき)でロストロポーヴィッチの10枚 組とキーシンの4枚組、14歳からの若きキーシンの演奏収めた5枚組を購う。外れてもCD1枚HK$40くらいだと思えば。ところでこの展覧会の入場料 HK$50で試聴用CD1枚付き、信昌唱片でもHK$300以上お買上げで試聴盤CD2枚くれるが、いずれも聴くに値せず。ただ信昌唱片でくれたバスター =ウィリアムスのトリオで“Griot Liberte”というCDは聞き応えあり。なぜそれが無料で?と思えばSA-CD(スーパーオーディオCD)という企画で香港ではほとんど普及しておら ず(アタシも初めて手にした)その再生機能のプレーヤーがないとただのCDなのだが。で香港ではデッドストックとなったSA-CDのため無料で放出の由。 ジムで一時間の有酸素運動。なんだか世の中の動きが慌ただしい、と思えば台風の8號警報発令。台 風は香港掠めるどころか遠方を抜け一昨日であったか1號警報で終わった筈。また次の台風?と思えば一旦通り過ぎた台風が香港から160kmだか西南で 180度折り返しての逆襲。かつては台風が初夏に当たり前に何度も襲った香港で8號警報発令が3年ぶり!も異常気象だが一旦通り過ぎた台風の折り返しも、 その迷走ぶりもこれも異常気象ゆゑか。台風でも済ませばならぬ用事済ませている間に緊急帰宅の交通機関の混乱や道路の混雑も解消の幸い。中環ではMTRの 混雑で2時間の混乱続いた由。幸いジャスコの食品部が午後6時まで営業しており晩に冷奴と鰻丼にありつく。鰻はアタシの好物は築地の宮川本廛の蒲焼きだが まさか香港でそういうワケにもいかずスーパーの鰻の蒲焼きを「ためしてガッテン」で紹介された「調理済みの蒲 焼きをおいしくする方法」で調理してみると実際に美味。台風の晩で珍しく午後七時からのテレビ観る。翡翠台にて香港電台製作の「想一想香港」とい う社会派番組がそれ。今晩は「香港と中国の関係を密接だが自由の尺度や社会通念など差異もあり」といったところで上手にまとめてはいるが確かにこの内容は 親中派から見ると「癪に障る」もの。だから香港電台が首根っこ押えられ悲鳴を上げるハメとなる。今日購入のCDから14歳のキーシンの演奏でプロコフィエ フの協奏曲3番とピアノソナタ6番、ロストロポーヴィッチのプロコフィエフの「チェロとオーケストラのための協奏曲」(莫斯科フィル)など聴く。
▼安倍内閣全閣僚靖国神社15日参拝見送り、50年代半ば以降初めて(共同通信)。
塩崎恭久官房長官  「私の信条でいつも決めていること」
伊吹文明文科相   「宗務行政の所管大臣として、公平を期すた め」
冬柴鉄三国土交通相 「宗旨が違うから」はさすが公明党。
溝手顕正防災担当相 「行ったことがない」
山本有二金融担当相 「公的立場の参拝は歴史的経緯からアジアの政 治的安定を害する」
外遊など公務で参拝できぬとせしは麻生太郎外相、高市早苗沖縄北方担当相、柳沢伯夫厚生労働相ら。この判断はこれはこれで良いが参拝する時はずらりと居並 び参拝せぬとなるとまた同調。参拝するもせぬも、いずれにせしても、そのブレが節操の無さの証左なり。

八月九日(木)台風近づき三号警報発令されるが 小雨程度。宿酔少々。早晩に按摩。帰宅して麦飯で薯蕷を食す。萱野『国家とはなにか』第2章(暴力の組織化)読む。早寝。

八月八日(水)裏山を走るがさすがに暑い。プラ トンの『饗宴』数十年ぶりで再読。ギリシャの古典も今の時代にあっては「哲学の名を借りた変態ホモ学者らの少年への性的虐待」になってしまうか。学校図書 館から排斥されたり。K氏より招飲あり晩に尖沙咀東の日本料理屋、兎に角。 某一流ホテル勤務のY嬢の知遇を得る。日頃、焼酎は三人で飲んでいればさっと飲み終わってしまうのに随分あると思えば四合瓶にあらず「いいちこ」は五合 瓶。深更まだK氏誘い銅鑼湾のバーSに飲む。
▼親中派御用政党・民建聯の主席、馬力氏逝去。55歳。広州の大学病院で抗癌治療続けたが延命ならず。五月に「六四非屠城」(天安門事件にて人民解放軍に よる市民屠殺はなかった)と発言し世間を唖然とさせ翌日、治療のため広州に赴き七月朔日の香港特区成立十周年も民建聯の結党十五周年も姿見せず。あの発言 が遺言になろうとは馬力ほどになると骨の髄から親中派。

八月七日(火)朝は晴れた傍から大雨。午後にな りカンピーな快晴。不安定な天気には変わりなし。今月12日までに台風襲来なければ1946年の気象台の観測史上初めて「一度も台風の来ない1年」になる 由。香港といえば5月から9月まで台風は風物詩であったが。昨年 度の確定申告に基づき所得税の請求書届く(支払いは年末)。政府財政黒字還元にて還付あり(実際には今年の納税から差し引き)。それなりの金額で税金「は らったつもり」でライカのレンズでも買ってしまおうか。昼前に銅鑼湾のLeighton RdのDanish Bakeryの前を通りがかり十年ぶりかでHot Dog頬張る、というと聞こえがいいが「丹麥餅店の熱狗」と書いてしまうと「Danish Bakeryのホットドッグ」とイマージュにどれだけの隔たりがあろうか。この店のホットドッグ、斜め向いのビルにある某日系進学塾に通う子供らご用達。 マクドなど食すより地場のこの汚いパン屋の美味なるホットドッグこそ彼ら食すに値す。ジムで小一時間走る。晩にZ嬢と湾仔の北京水餃皇に食す。芸術中心で映画『安城家の舞踏会』観る。監督は吉村公三郎。 1947年の戦後間もない時期に没落華族を舞台に。観るのは三、四度目。香港でも二度目。90分の映画の心地よさ、で何度観ても飽きない。映画としてとて も好き。何といっても新藤兼人の脚本がいいのだろう。小津作品と違い躍動的に動く原節子が印象的(それが小津作品より原節子が美しいかどうかは別にし て)。自分で思うままに演技しているようにも見える(それが上手いかどうかは別にして)。この『安城家』も一昨日の『大日本人』も香港で夏の恒例となりつ つあるSummer IFF(夏の国際映画祭)での上映。『安城家』と『大日本人』に何の脈絡も感じられぬが実は、この映画祭の今回の特集は「松竹映画」なり。それでも山田洋 次特集なんてやらずに極端なところが立派。萱野稔人『国家とはなにか』読み始める(一昨年評判になり購入してあったのをすっかり忘れており先日書架で発 見)。気鋭の社会哲学者の国家論に関する論文集めたもので内容は平易。大学生の入門書には良い鴨。第1章「国家の概念規定」読んだ限りではウェーバーやス ピノザなどの国家論を引用しつつ「やはり」フーコーで、わかりやすく「国家と暴力の系譜」まとめた体裁。だが30数頁語ってはいるが第2章の冒頭に「国家 は暴力の実践に先だっては存在しない。暴力が組織化され、集団的に行使されることのひとつの帰結として国家は存在している」と述べてしまうと、第1章で延 々語った(繰り返した)内容がこの2行で要約されてしまうと、それじゃ第1章はいったい何のための饒舌だったの?となってしまうような感じあり。
▼先週のThe Economist誌にカバー写真は、今にも泣きだしそうな(日本人らしい)赤ん坊が写り“LIMITED EDITION  Made in Japan”(日本産の限定品と張り紙あり。記事は“How to deal with a shrinking population”と日本の老化と少子化を憂う。定年退職年齢の引揚げ、保険や年金の問題、労働人口の減少に伴う移民受け入れなど検討すべき事項は多 いが、欧米各国がこの人口老化と少子化の中で人口減少を抑制できた最も大きな作為は「子育てをしなががら働く親たち」に対する公的支援であり、企業の支 援。子育てをすることが社会的にマイナスに作用するような国で(それが東アジアの儒教圏なのだ、ふと思えば)どうして子供が育まれようか。
▼自民党では石破さんが参院選大敗で安倍三世に対して「国づくりが私の使命だとおっしゃるけれども、総理大臣は王様じゃない。国民の信任のもとにあるのが 総理です。「私の使命」だなんて、何か勘違いをしているんじゃありませんか?」と安倍三世に首相「辞めろ」と。閣僚経験者でそう明言するのは石破さんは自 分くらいで、としつつ、その物言えぬ自民党の体質こそが「そもそも異常なこと」で「意見を言えないのなら、何のために政治家になったのかわかりません」と きっぱり。大敗の自民党では比例区トップ当選の舛添教授は参院選当日にまだ開票作業中に「続投」表明した安倍三世に「バカにつける薬はない」「決定的に資 質にかける」と言いたい放題。だが安倍三世がいかに総理に器ではないか、なんて今更わかった話でもあるまいに。結局は安倍三世を総裁、首相に推せる体質こ そが自民党の問題であることを石破さんも舛添教授も考えるべき。ところで参院選の投票日、昼すぎには谷垣派の面々が都内のホテルに陣取り大敗後の対応話し 合ったそうだが(福田康夫君擁立の意見もあり)谷垣氏が相変わらず「煮えきらず」地元の京都に引き上げてしまった由。この人らしいとしか言えず。(以上、 週刊文春8月9日号読みつつの雑感)
▼朝日新聞によれば先日の参院選挙での当選者のうち憲法改正に賛成な議員は48%で過半数割り、非改選議員と合わせた新勢力でも改憲派は53%に対して反 対26%で改憲派が三分の二に届かず。ちなみに04年の参院選の時は改憲派が71%であった由。
▼昨日、日本共産党が宮本元議長の党葬。朝日新聞に立花隆氏は「民主集中制を捨てよ」と提言。名大の後房雄教授は98年の首相指名で不破氏が民主党の菅君 に投票したことを挙げ野党共闘への方針転換を提言。衆院の小選挙区で共産党候補が勝てないのは明白。躍起になって小選挙区で独自候補擁立するが、それが自 民党を勝たせる原因と有権者が見れば「共産党は邪魔」「自民党を助けている」と思われるだけ。次の衆議院選挙こそ共産党の最後のチャンス。野党連合に加わ り地方区に候補者を立てないだけでも「比例区は共産党に」と思う有権者はいるはずだ、と。御意。
▼プロレスの神様、カール=ゴッチ氏逝去でふと思い出したのだがジャーマン=スープレックス=ホールド、あのプロレスの真骨頂のような完成度の高い技が日 本語では「原爆固め」と言われていたが「原爆」という言葉があのように使われることに「被爆者の方々の……」といった<配慮>は当時なかったのか(今の配 慮が異常といえば異常だが)。カール=ゴッチがプロレスに取り入れた技で神様自身が独逸系(カール=クラウザーという名)でジャーマン、でスープレックス =ホールドが日本語に馴染まないため米国でアトミック=スープレックス=ホールドと言われていたので「それじゃ原爆固めだ」となった由。ところで「スープ レックス」という語、suplexという字のようだが知らぬ語で辞書を引いても出ておらぬような……。

八月六日(月)天候不良。朝は小雨のあと曇る。 昼は中環の陳成記に牛腩伊麺。Rolexで腕時計の修理出 来、受領。中環は(先週だったようだが)埋立反対派が座り込み続けていたQueen's Pierも立ち入り禁止となり着々と埋立工事稼働。ジ ムで久々に一時間の有酸素運動。中環で写真の現像受領したり久々にFCCで喉が渇きジントニック二杯。HMWに寄る。というのも昨晩、松本人志の映画『大 日本人』観ていて松ちゃん演じる大佐藤の、変身せぬ市井の風貌だ誰かに似ている……と思えばジャコ=パストリアス。そのJaco Pastoriusも9月21日で亡くなって20年。高校の時にベース奏でていたK君にWeather Reportを教えられ18の時にK君となけなしのカネはたいてJaco Pastorius Big Bandを武道館の1列目で観たあの日がほんの数日前の如し。ジャコのビッグバンドは仙台にも巡業ありホテル仙台プラザ横のラーメン屋でジャコは飲んだく れ。ジャコの市販のCDはそのほとんどを持っているつもりでいたが昨日のSCMP紙のCD評でジャコ逝去20周年取り上げられ、そこで推奨されるは 1979年の玖馬はハバナでの実況録音盤でTony WilliamsのドラムとJohn McLaughinのギターでトリオによる“Trio of Doom”というアルバム。今日、中環のHMWに寄るとこのCDがあり、これを購う。Tony Williamsもすでに他界。他にコロムビアレコードのコルトレーンとマイルスの1955〜61年のベスト盤、バレンボイムのベートーベンのソナタ全集 (EMI盤)とロストロポーヴィッチとピアノがルドルフ=ゼルキンのブラームスのチェロソナタも入手。夕方大雨。雷鳴轟く。晩はQuarry Bayの金峰靚靚粥麺でテイクアウトの及第粥。昨日から読んでいたロラン=バル トの『映像の修辞学』(ちくま学芸文庫)読了。夜は雨が歇み飛行機が眺められるほど晴れたが夜半にまた本降り。
▼久が原のT君と何かの話から周恩来が若い頃に京劇で女形に挑みかなりの美貌だった話からT君が「周恩来の政岡、江青の八汐、毛沢東の栄御前で先代萩御殿 が見てみたい」と。御意。で日中政治家文化交流の文士劇ならぬ「政客劇」で中国側が歌舞伎の先代萩に挑むなら日本側は返礼で舞台にかけるとしたら「貴妃酔 酒」。日中国交回復で当時なら田中角栄が玄宗皇帝か。だが楊貴妃演じられる女形はおらず。でキョービなら鳳千景先生に引退前、連立の形見の一世一代で楊貴 妃。玄宗皇帝は日中友好ならいっそのこと池田大作先生にお願いしては如何か、と。
▼ロラン=バルトの「写真のメッセージ」という文章の中でアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真(リジューの信者たちがパチェリ枢機卿を迎える風景)を例 にして
写真が絵画……すなわち《こね合わせた絵の具の厚みのなかで》意識 的に処理されたコンポジションあるいは視覚的素材……になるのは、それ自身《芸術》を意味しようとする時か、あるいはふつう共示の他の手法が許す以上に精 緻で複雑なシニフィエを押しつける時である。
と語っている。その精緻で複雑なシニフィエが計算されて生産されたものなのか、偶然の産物なのか、それがアタシにはわかららないが東京では折りから東京近 代美術館で「ア ンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌」展が開催中。香港には巡って来ないかしら。

八月五日(日)さすがに旅の疲れか(って疲れる ような旅でもないが)昨晩二時過ぎまで片づけものしていたから今朝起きたら八時。朝は晴れていたが曇り始め小雨から本降りとなり昼には雷雨甚だし。午後ま た晴れて裏山に入り10kmほど走る。ここぞという時に(体重が多少軽いと体力消耗も少ないから)疲れておらず速度が上がるのだから楽しい。書店で朝日カ メラと日本カメラの8月号受け取り。ジムに一浴し帰宅。早晩に科学館にて松本人志『大日本人』映画上映ありZ嬢と参観。週刊文春だったかしら、この
映画に対して酷評あり。岡田斗司夫は絶讃。アタシは「面白 い」。『大日本人』を映画か、笑えるか、の尺度で測れば、なんで1,800円も出して(って香港ではHK$50だが)、とか「どこが面白いねん」だが、イ ンタビュー形式のドキュメンタリーに仕上げたセンス、それがまた冒頭のカメラ回しながらのインタビューアーと大佐藤(松本人志)のまだ打ち解けなぬ雰囲気 が取材を通して最後にはタメ口になり大佐藤の表情が豊かになってゆくところ(きちんと順撮りの由)。大日本人が日本を救うために戦っているというのがタテ マエで実は事務所に抱えられ戦闘場面中継のテレビ番組(深夜枠)の視聴率が重要でスポンサーの宣伝シールを身体に貼る(そのスポンサーが「白い恋人」だっ たり「カバヤのジューシー」や線香の春日香……と面白い)。大日本人が日本を救うがために闘う敵に「北朝鮮が出自らしき獣」がおり、それに大日本人は立ち 向かえず助けてくれるのが「米国が出自らしい」ウルトラマン一家(この発想がじつに政治的)。そしてエンディングでの延々続くM78星雲でだろうか、大日 本人招いたウルトラマン一家の楽屋話的な会話の可笑しさ。映画終わりAustin街の北京水餃に食そうと向えば廃業か、確かこの場所という店舗は漢方薬屋 あり。並びの豊圓という韓国料理屋に食す。かなりの賑わい。かなり塩辛いのがアタシらは鳥渡、閉口。
▼小田実の先月末の逝去を今日の新聞で「葬儀のあとに追悼デモ」という記事で知る。葬儀委員長が鶴見俊輔。大江健三郎、井上ひさし、加藤周一、土井たか 子、ドナルド=キーンと錚々たる中道左派の面々。高校の頃に小田実、小澤征爾、本多勝一あたりは「なんでも見てやろう」的必読図書であった。
▼黒門町といえば八代目文楽師匠。黒師匠といえば快楽亭ブラック師匠、の「出直しブログ」が面白い。ブラック師匠が色紙に何気なく書いた一言だけ抜いても 「皇室民営化」「共産党に乳頭」と笑わせられる。
http://kairakuteiblack.blog19.fc2.com/

八月四日(土)熟睡し久々に起きたら七時。朝食 済ませZ嬢は土曜市へ。余は昼すぎまでプールサイドに寛ぎ読書。好天気。肌を炒るほ どには暑からず。桂文我『落語「通」入門』読了。昼過ぎ部屋に戻り荷造り済ます。佐伯順子『遊女の文化史』(中公新書)読み始める。Z嬢戻り午後2時にホ テルをチェックアウト。タクシーで空港へ向う。成田ほど遠からず、かといって旧空港ほど至便に非ず。香港空港への道程ほどのダイナミックさもなく単調な風 景はパッとせず。だらだら、と空港に到着。今回は「怖い物みたさ」で破竹の勢いの格安航空Air Asiaで帰途につく。「危 ない」だの「かなりひどいサービス」だのと噂ばかりで「一度は乗ってみないと」での選択。だがバンコクから香港には就航なく(香港の空港経費が高いゆゑ) マカオと深圳への便があり今回はマカオへ。運賃は片道一人1,900バーツ(わずか7,539円!)と売り出してはいるが何かと諸経費込みで二人で6.7 千バーツ(2万6千円)。それでも安い。チェックインカウンターは銅鑼湾の安売りDVD屋の店員の如きニーチャンが担当。当然「ご搭乗ありがとうございま す」でもなく、ただ手際よく搭乗手続き済ませ搭乗券代わりのレシート!くれて終わり。バンコクのこの新空港、到着はかなり貧弱であったが出発ロビーはそれ なりに華もあり。搭乗までラウンジ、といっても当然、格安航空はラウンジがあろうはずもなくPriority PassでCIPラウンジへ。それにしてもこの 空港、すべてがタイ航空のために設計されており此処にも彼処にもタイ航空のラウンジばかり目立つ。でご搭乗。搭乗時間が16:50とあり出発時間17: 20であるから「出発時間30分前には搭乗口へ」も当然か、と思い搭乗時間にゲートに到着せば待合室はガラガラ。遠くで「ほら急いで」と職員が呼ぶファイ ナルコール。マジかよ?と驚いたが離陸遅延で空港使用経費が増えるわけで格安航空はいかに早く飛び立つかが命題。で実は「搭乗時間の30分前にゲートへ」 の指示であったとは。で当然、格安であるので飛行機はゲートに横づけされようはすもなく(これも経費削減)今どきバスで遠方に駐機中の飛行機へと向う。中 国の国内線か?と思んばかりに中国の田舎漢旅行者多し。B737-300で148席。全席自由だが「1列目を除いてとっととお坐りください」の指示。一応 「自由席なの?」と乗務員に(英語で)尋ねると「英語がわかりますね?」と聞き返され「1列目にどうぞ」と。意味不明。とにかく「だーっと乗って」数分後 には離陸へ。駐機位置が滑走路のすぐ横なので飛び立つのも早い(笑)。で3−3の座席配置で1列目の3人席にZ嬢と余の2人で、これならエコノミーでもま だ快適。1列目に「英語ができる搭乗者」としているのは「万が一」で緊急脱出の場合に機長の指示は英語を基本とするため英語のわかる客には緊急脱出の場合 など他の乗客=言葉のわからぬ者の模範となるべく協力してもうらうが為に前方に着席願っている、但し「安全には最大の配慮をしていますので、そんなこと= 緊急脱出などないですが」と説明あり。納得、というか複雑な気持ち。搭乗者は客席のほぼ8割。で機内乗務員は3名のみ。148人満席の場合、服務員1名あ たりの客のratioは49.3名で「40人学級」も実現できぬわけで、しかも言葉も通じない生徒が多いのだから大変だが、機内では1度だけ軽食とお飲み 物の販売があるだけで、これぢゃ「おせんにキャラメル、冷たいお飲み物はいかが〜」で寄席の中入りだよ。格安航空は「機内への飲食物の持ち込み禁止として 機内で高い物売りつける」という噂も聞いていたがコーラが40バーツでカップラーメンが50バーツなのだからマカオフェリーより安く、これじゃかつての中 環〜佐敦のフェリー並み。それにしても格安航空ほど「テロ対策」の恩恵受けている航空会社もあるまい。なにせ「機内への飲食物の持込みは禁止」はかつては 社内規定だったのが今じゃ「テロ対策」で空港が勝手に荷物検査で液体没収してくれるのだから。テロ対策が実は格安航空に利潤もたらすだけとは、いかにも呆 けた話。で2時間50分のフライトのはずが2時間10分余でマカオ到着。航空会社にとって燃料こそ「主な支出」でフライト時間短縮で経費削減か。で搭乗し てみての評価は「簡便、格安でこの内容」なら充分に合格。余計なサービスもなければかなり無駄の出る機内食も短時間のフライトなら無くて結構。マカオ空港 に到着。ここも当然、タラップ降りて歩いて建物へ。空港バスでフェリー乗り場へ直行。空港に到着してからフェリー出航まで1時間15分。しかも路線バスで の移動。これも簡便。香港に戻るフェリーで佐伯順子『遊女の文化史』読了。新書にしては読みごたえ充分。
▼ふだんあまり取り上げぬ河野太郎代議士の「ごまめの歯ぎしり」より。河野君は自らを初当選から十年で「自慢ではないが委員会、本会議を通じて、僕が最も 造反の多い議員」だとしつつ、このように述べる。
つまり、議員は人形のように国対の指示通りに立ったり座ったりして いればよいという、自民党国対のやり方には我慢できなかった。議員は選挙で選ばれて来た以上、重要だと思う法案にはそれなりの姿勢で臨むべきだと僕は思っ ている。しかし、今の国会運営ではそれはなかなか受け入れられない。なぜならば、55年体制下での自民党国対のやり方は、議会制民主主義を理解していな い、自民党式議会運営だったからだ。だから、今度の衆参のねじれを奇貨として、国会運営を正常化するべきだ。総理大臣以下政府の一員である議員は、政府の 決断に従う必要がある。それが政府の連帯責任という奴だ。しかし、与党議員には政府の方針を無条件で受け入れる義務はない。政府は与党を説得し、時に脅 し、ときにすかし、時に懇願して政府の提案を通す。同時に野党にも必ず政府案に反対する義務はない。だから政府はベストと思う提案を出すが、必要ならば国 会で与党も野党も修正し、採決する。今の国会では、夫婦別姓法案やサマータイム法案、民法改正案、死刑廃止法案などなど、政党内で、特に与党内で、意見が 一致しない法案は審議すらできない。どんなに社会的にニーズが強くても、国会で、審議し決定することができないというのは、国会の怠慢である。社会的に ニーズのある問題に関してきちんと議論して結論を出せる国会にできるだろうか。決められた法案を一刻も早く成立させるだけの国会から、問題を議論できる国 会に変われるだろうか。国会は、議論する場になるだろうか。今の国会は、質疑はするが議論はない。政府や与党や野党が出したいろいろな案を前にして、それ ぞれの長所と短所を議員が議論し、自分の意見を述べる本会議ができるようになるだろうか。そういう委員会審議になるだろうか。そういう国会ができるような 気がする。
と。
▼桂文我『落語「通」入門』 桂文我なる噺家 ぢたいあたしは知らずにいたが師匠の枝雀から最近は米朝師匠のように落語の史料蒐集し歴史を語られるような噺家ががいないと言われたことで一念発起しての 勉強。大したもの。それにしても柳家小せん(三好町、1883〜1919)が凄い。若い頃の廓通いが祟り脳脊髄梅毒症の悪化で歩行不能になり白内障で失 明。37歳の若さで亡くなったが抜群の噺家で稽古つけた弟子が文楽、志ん生、圓生、金馬に柳橋ってんだから昭和の落語界の大御所がずらりと並ぶ。アタシの 場合、ぎりぎりで文楽、志ん生の二大巨匠の話をぢかに聴けていないのが残念。金語楼に金馬なんてテレビの常連で、柳橋、圓生、小さんが普通に寄席でトリを とっていたのだから今にして思えばなんと贅沢なことであったか。
▼佐伯順子『遊女の文化史』 噂には聞いていたが新書とは思えぬ「たっぷり」の内容。「序章」「1章:イシュタルの章−古代における性と遊びの位相」で佐 伯女史本人の論文としての主眼がきちんと提示され、内容的には近松の曽根崎をテクストにした「9章:お初の章」と濹東綺譚の「10章:お雪の章」が面白 い。古代、神と人々を結び歌舞音曲に長け且つ性を売る、旅もするハレなる「聖なる遊女」が時代を経ることに足枷をはめられ廓に囲まれ、単なる買春として宗 教的側面が失せる経緯を古事記から一葉、荷風散人から吉行淳之介まで取り上げて文学作品から、その「歴史」を見事に分析してみせる。これが筆者26歳の時 の修士論文をもとにしたものなのだから敬服。

八月三日(金)朝四時半に目覚めてしまいホテルより歩いて10分ほどのルン ピニ公園に行きまだ暗い五時頃からまだ薄暗い公園を一週半ほどジョギング。公園にはお達者倶楽部で頑健すぎの老いた男女の人出数多た。この 公園もすっかり整備され「陰」というものなし。木立はすっかり見通しよく灯が公園の隅々までをも照らす。都市行政は公園の整備は大事。東京の日比谷、新宿 公園、紐育の中央公園、香港のヴィクトリア公園……公園はブローニュの森やハイドパークなど一旦陽が暮れれば「悪所」たり得たものをすっかり整備すること で社会の健全化を図る。ルンピニ公園もご多分に漏れず。まだ暗いシーロムの通りに出る。バンコクのオカマも眠る、と形容したい時間だが、路上には深夜まで の繁華街の賑わいの残余としてのゴミ、ゴミ、ゴミ。掃除する人の横で今度は朝食からの屋台が店を開く準備。朝までドロドロに遊んだ若者が朝食(夜食か)を 貪り食す。ソイ13あたりの路地に入ればシーロムのこんな街中にこんな市場があったのね、と初めて知ったが店開く支度に忙しい。ホテルに戻りスパに一浴。 朝食を済ませネットで築地のH君と民主党政権となった場合の組閣作業な ど済ませる。バンコクも今更何かしたい、という予定もなくZ嬢につきあいお出かけ。ホテルを出てサートーンの通りをチャオプラヤー河の波止場に向おうと路 線バスに乗ったが22系統のバスは西に直行せず市街南部の軽工業の工場多いサートーン区をぐるぐる走る。ぐるっと走ってやがてチャオプラヤー河に近いとこ ろに出たので1kmほど歩きタクシンの水上バス乗り場に着く。ラーチャウォンで水上バスを降り幅一間半ほどの狭い通りに布地屋など密集するSampheng Laneを歩く。か つてはこの路地は遊廓並ぶ淫売街の由。インド人多きパフラット市場の布地屋でZ嬢買物。ここまで来るとラーチャプラナ寺院もすぐそこ。アユタヤ王朝末期に建立の由緒ある寺 院。日本人物故者の納骨堂あり。この堂は物の本によれば1933年に建てられ尾張の八事(やごと)にある日泰寺より鎌倉時代の木彫仏像が贈られ此処に安置 され高野山より遣られた僧侶が供養する由。境内の麺屋台に昼を食す。50バーツ。昼の混雑する中華街、ラーマ4世通りをタクシーでホアランポーン駅。地下 鉄でシーロム。スカイトレインでZ嬢はスクンビット、余は昨日健康診断のBumrungrad病院に向い診断書など受け取り。まったりと午後を過す。昏 時、シーロムの路地の歓楽街、路上のテラスにハッピーアワーのビール二杯を飲む。ぼんやいりと路地の態を眺めれば、それぞれの店の者、路地に水を打ち掃き 掃除。そのなかをゴーゴーバーの若衆らが眠そうな顏でご出勤。ふと余の幼き頃の花街の風情彷彿。小唄のお師匠さん宅から流れる謡曲の稽古の調べ、美容室で 髪を結った芸妓の艶やかさ。小料理やの若衆が暖簾をかけ行灯に灯を点す。そろそろ家に帰らないと叱られる時間。バンコクの芸妓ら、今晩どれだけの客をとる か。客を引けば「父がなくなって」「故郷の兄弟姉妹に仕送りが」「昼間は専門学校に通い」と何かと客に人情話、「今月はあたいの誕生日」と祝儀をねだる。 いったい今までに父親を何度殺し、誕生日も「毎月は誕生日」が毎月続けば18の小娘も一年で三十路で薹が立つ哉。一旦ホテルに戻りZ嬢とシーロムに復た戻 りバンコク在住のY夫妻とタニヤの歓楽街の焼肉屋に食す。ホ テルへの帰りがけシャーベット食す。
▼折口大人が座談で「素人の劇評はディレッタンティズムだ」と指摘したことを久が原のT君に教えられる。小宮豊隆、「ボクはね、吉右衛門が文化勲章受賞の 晴れの日に下痢がひどいんで武見太郎君を紹介したんだよ」と、今の時代ならテレビのワイドショーででも活躍しそうなキャラ。ところでいま流行の白州正子も Z嬢など「このオバサンのどこが一流なのかわからない」と首を傾げるが、確かに「批評家にもディレッタントにもならなかった」「好きなものに味噌糞一緒た だ貪欲にガブリ寄った」「最期まで素人性を失わなかった」ところが、批評はおろか、ディレッタンティズムすら「わからない」と忌避される時代にウケる原因 なの鴨。T君に我が祖母は時代物が好きじゃなかったのでは?と指摘受ける。確かに。橘屋とは別の意味で一にも二にも口跡の役者であった播磨屋は七代目幸四 郎と同じくベタなところはあっても子供芝居から叩き上げた腕で見せるから十五代目や高麗蔵時代の海老蔵とは陰翳が違う、と。なるほど。
▼築地のH君との民主党連立内閣。目玉は自民党からリベラル派が離脱し暫定的に自民新党結成し連立内閣に参加。新党大地や沖縄から社会大衆党も巻き込んで の「平成の人民戦線内閣」がこれ。
総理   菅直人(民主) 
官房長官 枝野幸男(民主)
外務   加藤紘一(自民新党)
財務   岡田克也(民主)
経済産業 亀井静香(国民新党)
厚生労働 長妻昭(民主)
法務   福島瑞穂(社民)
総務   田中康夫(新党日本・参院)
防衛   山崎拓(自民新党)
文部科学 内田樹(民間)
農林水産 山田正彦(民主)
国土交通 馬淵澄夫(民主)
環境   金田誠一(民主)
国家公安 河村たかし(民主)
沖縄   糸数慶子(沖縄社会大衆・参院)
北方   鈴木宗男(新党大地)
金融担当 榊原英資(民間)
女性担当 岡崎トミ子(民主・参院)
格差担当 喜納昌吉(民主・参院)

民主党総裁 小澤一郎  菅先生に首相の座を譲ることで党総裁とし てゴッドファーザー役
民主党代表 鳩山由紀夫 民主党大幹部だが今一つ役割はっきりせず 表向き「代表」スポークスマン的役割
衆議院議長 渡部恒三  

文化庁長官 平田オリザ
教育問題担当首相補佐官 保坂展人

八月二日(木)列車の揺れに任せ寝入ってみたが個室の冷房寒く八つもある冷気口のうち六つまでは「閉」に出来るが残り二つは毀れていて冷気出たまま。長袖 羽織り靴下まで穿いて寝たもののタオルケット一枚で凍えるように朝四時頃目覚める。車窓から白い月が見事。古い夜汽車思い出す橙色の暗い電燈つけて小宮豊 隆『中村吉右衛門』の続き読む。読了。小宮先生、播磨屋への賞讃に比べ六代目はかなりお嫌いで六代目について「菊五郎の芸には抑揚はあっても、極まり処は 的確に極っても、緊張感にムラがあって、高潮を経験することは出来ない」と酷評。弁慶役者と呼ばれた高麗屋ですら「幸四郎の弁慶は、あの白痴らしい気の抜 けた処のあるのが第一の欠点」で「いつまで経っても舞台が熟して来ない」「しかもその少しも気のないくせに、台詞を言ったり、思い入れをしたり、極まった りする角々に来ると、いかにも気が這入るように粧うというところが第二の欠点」で「故に、一々の言語動作が不自然となり、離れ離れとなり、故意となり、衒 気となってしまう」として弁慶が「ことごとくはまざまざと虚偽を意識せざる内容の貧弱な表現」になってしまう、とまで断言してみせる(一瞬、当代の高麗屋 のことか、と思って読んでしまった……笑)。初代吉右衛門という役者は小宮先生のようなインテリにはかなり面白いのだろうが、やはり十五代目(羽左衛門) がどれだけ美男子か、若い頃の海老蔵(十一代目團十郎)は、成駒屋(五世歌右衛門)は、と楽しんだ祖母には初代吉右衛門はあまりピンとこなかったのかも。 この我が母方の祖母の叔父にあたる我が祖父(ややこしいが)は終戦後、川瀬巴水をどうやら水戸に招いたりするほどの旦那衆の一人で自ら水戸の花街の芸妓ら で素人歌舞伎を企画すれば自分で直次郎役をするような芸達者でもあったが、この祖父は吉右衛門は(好きだったかどうかは別にして)吉右衛門の芝居が「わ かった」ことであろう、と思う。なんだか寒さで熟睡できぬまま朝を迎える。列車は午前7時にバンコクに到着のはずが6時すぎにまだアユタヤで「こりゃ、ま ずい」。タイの鉄道など「遅れて当たり前」が普通、という意味では覚悟できているし通常なら朝など別にすることもないし……でいいのだが今日に限ってマズ いのはBumrungrad 病院での健康診断の予約が午前9時。前回の経験から1時間列車が遅れたにしても朝の渋滞でも1時間あればHua Lamphong駅から病院までタクシーで行けるだろう、と思ったのだが終点のHua Lamphong駅まで駅の数であと4つ、わずか15kmと思ってもHua Lamphong駅のホームの発着順待ちも含め、あと30分かかるのは覚悟。こりゅダメだ、と8時10分くらいに終点の一つ手前のSam Sen駅で列車を降りタクシーに乗る。朝の渋滞もあり焦ったがどうにか渋滞切り抜け8時50分に病院到着。五つ星ホテルのロビーといった雰囲気の Health Screening専用病棟(あの「人間ドック」という言葉はどうにかならぬものか、日本語)。日本人は私らと「タイで地場のメーカーやってます」の我が 侭な社長と上品な奥さんの二組。欧米人も少なからず。大部分は中近東から。Z嬢の話では女性はみんな黒いベールで全身を覆い超音波検査や胸部X線の時も病 院が供する上下のスウェットは「身体の線が出るから」と着用厭いずっと黒のベールのままなので、いちいち検査の度に着脱でかなり時間も要すそうな。スチュ ワーデスあがりのような日本人女性スタッフ数名ありかなり親切。医者も頼んでもいないのに「阪大医学部ですねん」みたいな日本語堪能のタイ人の医師が今日 の担当医。問診、血液検査、超音波、胸部X線、心電図、検尿検便等々……混雑してはいるものの2時間で終了。これで6,300バーツ(約25千円)。超一 流の病院で混雑しているが職員の客への細かい気配りが見事でさっさと検査が進み、と思うとタイの医療観光の隆盛も納得。診断の結果は見事に「正常、ぜんぜ ん異常なし」で合格。日頃の摂生?の結果か。タクシーで今回バンコクの宿泊は12年ぶりか?でThe Sukhothaiへ。「あ いにく満室でお部屋のアップグレードは致しかねますが」と謝られTANSTAAFL(There ain’t no such thing as a free lunch)と思ったが、通された部屋は(データによれば)客室(Foyer含む)が76平米、浴室が25平米で計101平米のExecutive Suite、これで更にアップグレードしたらちょっとおこがましい。ホテルのLa Scalaでかなり遅めの昼食。病院での身体検査のため朝食も抜きとはいえ二日連続で昼に伊太利料理となったのはチェックインの際にホテルでのご昼食券ま でいただいたため。ここの竃焼きのビザもなかなか美味。食前のスパークリングワインと赤葡萄酒一杯でけっこういい気分。ホテルのヘルスクラブのスパに一 浴。プールサイドで読書。朝からの健康診断とこの夕方でハーバード=アズベリー著(富永和子訳)『ギャング=オブ=ニューヨーク』(早川文庫)読了。紐育 を舞台にギャング団が抗争に明け暮れる時代や中国系マフィアの登場といった話より、導入部の19世紀初頭の紐育の貧民窟の野蛮ぶりを興味深く読む。工業産 業勃興期の倫敦の貧困さに、さらに暴力沙汰加えた壮絶さ。部屋にBangkok PostとThe Nationのタイの英字紙2紙、それにTWSJとIHTの計4紙も置いてあり新聞好きには格好。予定通りマードック氏に買収されたTWSJ紙は125年 に及ぶダウ=ジョーンズ社の歴史回顧の2頁特集記事あり。晩遅くシーロム通りの繁華街まで歩きソイ10の屋台街で魚蛋米粉を食す。一杯25バーツで二人で 200円。パッポンの屋台で買物するわけもなくホテルに戻りさっさと寝る。桂文我『落語「通」入門』読み始める。
▼1882年にチャールズ=ヘンリー=ダウ氏とエドワード=デイヴィス=ジョーンズ氏によって設立されたDow Jones社はBarronsという高級読物紙も発行しているが1902年にダウ氏とジョーンズ氏の会社買収したのがバロンズ氏。そういえばThe Far Eastern Economic Journal誌もDJ社参加であったし香港のSCMP紙もDJ社が大株主であったが1986年にSCMPの発行株式の19%をマードック氏に売却した DJ社で、その時にまさか自らの巨大ニュースメディアがマードック氏に買収されようとは思いもしなかったのだろう。今日のIHT紙(The NY Timesが親会社)は“there is little doubt that Murdoch will directly aim at luring readers and advertising away from The New York Times and the Financial Times, The Journal's closest rivals”と意識する。このIHT紙でボストン大学のジャーナリズム学部の部長であるLou Ureneck氏が米国では“The Constitution protects the press against government intrusion but it doesn't lift it out of the marketplace” と指摘。御意。
▼タイで一昨日であったか“Thaksin, Where are you?”という本が出版される。首相失脚してからの倫敦での奢侈なる生活の中が紹介され本人からの取材もあり。この本の著者はLt Sunisa Lertpakwatというチャンネル5の記者。ジャーナリストがスキャンダラスな前首相をネタに出版、といえば「さもありなむ」で済む話。だがこの記者 についてタイ軍の懲戒査問始まる。……というのはタイが軍国主義で軍が言論の自由に介入、ではなく、チャンネル5が軍の運営する放送機関でこの職員は軍の 関連職員。休暇をとり英国に行き取材始めタクシンの取材可となり休暇延長。この休暇中の公道につき上司に報告がなく軍の規律違反で処分対象の由。軍に影響 力ある前首相ゆゑ軍首脳もそれに触れることには神経質か。
▼本日の安倍三世のメールマガジンより。「覚悟を決めて」と題した安倍首相の決意を皆さんにぜひ知っていただきたく全文引用。
こんにちは、安倍晋三です。先日の参議院議員選挙の結果は、極めて 厳しいものでした。年金記録問題を引き起こした政府への怒り。相次ぐ閣僚の不適切な発言や政治資金の問題に対する、いい加減にしろ、との怒り。こうした国 民のみなさんの怒りや不信が、今回の結果につながったことを厳粛に受け止め、こうした厳しい声に真摯にこたえていかねばならないと痛感しています。私自身 の進退も含め、いろいろとご批判があります。しかし、改革への流れをここで止めるわけにはいきません。教育再生や公務員制度改革、新成長戦略の推進、地域 の活性化・再生、地球環境問題の解決に向けたイニシアティブ、アジア外交の再構築、憲法改正に向けた取組み。先週号のメルマガでお伝えした、私の改革への 決意に対して、力強い応援メールをたくさんいただき、御礼を申し上げたいと思いますが、この決意は、今でもまったくゆらいでいません。改革の中身につい て、これまで十分に説明できず、政策論争を深めることができなかった点は、率直に認めなければなりませんが、私が進めつつある改革の方向性が、今回の結果 によって否定されたとは思えないのです。今、政治の空白をつくることは許されません。ましてや、政治が混迷したために改革が遅れた、あの90年代の低迷期 に後戻りさせるわけにはいかない。今後とも新たな国づくりを進めていくことが、私の使命であり、責任であると考えています。「政府や政治に向けられた不信 すら一掃できないようでは、新しい国づくりなんてできないぞ。」これが、今回の結果によって示された、国民の強い声だと受け止めています。人心を一新しま す。改革をさらに前進させることができ、国民からも信頼される体制へと、内閣の陣容を改めていきます。政治資金の透明化をさらに高めます。政治家自身がま ず襟を正し、あらぬ疑惑をもたれることのないよう、オープンな仕組みをつくらねばなりません。そして、今回の選挙で示されたもう一つの声、すなわち、改革 の痛みを感じている地方の声にも、改革の果実をさらに地方の実感へとつなげる努力を尽くすことで、こたえていかねばならないと思っています。まさに、今回 の厳しい審判を、信頼される政治、真に改革を進める体制づくりを行うきっかけにしなければならないとの思いを強くしています。私は、ここで逃げることな く、自らが先頭に立ち、国民の厳しい声に正面からこたえていく覚悟です。そして、ゼロから出直す気持ちで、新しい国づくりに向けた信念を貫いていきたいと 思います。
……と。自らの内閣に対する国民の不信感はわかる、が「改革を止められないから」我が内閣が続投する、と、この論法は「中国で社会の混乱を招かないために は共産党による専制政治がまだ必要」とか広域暴力団の必要悪とか、それに近い発想。中国共産党なら「貧困に苦しんだ革命前の社会」とするところを安倍三世 は「まるで暗黒の」1990年代(笑)。90年代ってそんなに低迷していたかしら。英米も同じで経済先進国は必ず直面する長期的な経済低迷にすぎず。さら に「人心の一心」と言うのなら農林大臣の更迭に済ませず首相自らの進退も含め人心の一心が必要なのでは? 民間企業なら経営責任者は一度でも会社に大きな 損益を与えたり不祥事があれば即刻、辞職。やり直しはきかず。続投に固執するならせめてペナルティで朝青龍を真似て三ヶ月間の首相休職とかも如何かしら。

八月朔日(水)午前五時起床。内田樹先生の『街場の現代思想』読み日記綴る。夜明け。部屋はネットがモデム接続しか能わず朝餉の食堂がようやく灯を点し準 備に入るを見つつオープンエアーのロビーにてWi-Hi接続。朝食。曇り空をいいことにプールサイドで朝寝貪りつつ『街場の現代思想』読む。読了。言わん とするところはわかるし我々が非常にプチブル的な文化資本主義であることも否定せぬ。がそのプチブル的な文化教養主義が日本で人々の間に定着することが今 後の日本社会の活性化云々と言われても「そうかしら」と疑問。それは、結局、資本主義というか消費文化の中では、まるで80年代のセゾングループ提唱の 「おいしい生活」の如し。まぁアタシだって暇にまかせて読書だ、映画だ音楽会だ、美味しい料理に酒、旅……と別にそこから何を生産するでもなく、これは総 じて「消費活動以外の何ものにも非ず」で、だから内田先生の指摘する「主義」を「否定せぬ」と前述したのだが、ホモルーデンスが「遊ぶ人」だとすれば、ア タシなど「遊んでいなければ=楽しくなければいつでも自己決定として死んでしまう」と小学生の頃から覚悟しているので遊び続けているわけで、ただ、それは 「好き勝手」がいい。それを内田先生の提唱のようなgeneralizationすると今迄楽しかったものなんてひとっつも楽しくなくなってしまうはず。 敢えて本音でいえば地下鉄の中でピコピコと電子音うるさいソニーの携帯用ゲーム機などにいちいち目くじらを立てつつ内心、実は「自分はあんなゲームに現を 抜かすほどバカじゃない」と思っているわけで(内田先生もこういう差別意識を指摘していたが)その自己と社会の差異の存在こそ実はアタシの<自我>なの だ。厭な奴だが。昼近くまで宿でのんびりと寛ぎ荷造り。チェックアウトして荷物を預けThe Wokに近いLa Villaなる伊太利料理屋に昼を食す。チエンマイでは評判の自 然食材系の、所謂スローフードな食肆で、パスタとピッザ食したが実に美味。伊太利人のオジサンの経営でワインも0.5Lがデカンタであるのが嬉しところ。 珈琲も秀逸。午後はZ嬢と今回の旅で初めて別行動。国立チェンマイ美術館参観。夕方ホテルに戻りZ嬢と落ち合い鉄道駅に向うのだがホテルの出口で客待ちの タクシーが100バーツ、トゥクトゥクなら80バーツと嗾けられ「トゥクトゥクなら(外国人だって)40バーツの距離」と出しても50バーツのつもりでい たら運転手のほうから「行かない」と言うので「どうぞ」と、若い坊さんが一人乗った乗合のソンテウで行くからいい、と言えばホテルのスタッフもこのホテル の客で乗合のソンテウに乗る客は珍しいそうに眺めるばかり。チエンマイ発17:55の特急バンコク行き。バンコクまでの所要時間は13時間。この列車、バ ンコク発 のチエンマイ行き(下り)の列車番号が1、この上りが2であるからタイ国鉄を代表する幹線(……だけど単線)の旗艦列車。自動車道もバンコクからチエンマ イより更に北のゴールデントライ アングルに近いチエンライに向うのが国道1号線。タイの王朝も南下であるし、タイが北、つまり政治的に中国の方を向いている証左。で、列車は一等二人用個 室に乗車。外見で判断するとボロい客車といえばそれまで。実際に内装もけしてきれいとは言えないが(1996年の韓国、現代グループ製にしては草臥れてい る)、晩は二段ベッドになる個室で洗面施設はあり一等車両にはシャワー設備あり。二等とて通道をはさみ向かい合わで二人が座り晩は二段寝台になる形で、こ れは日本の寝台客車特急でいえばかつてのA寝台。二人用個室だと運賃は一人1,350バーツ、二等なら870バーツ。鉄道好きにはたまらない格安。だが飛 行機なら運賃こそ一等個室での倍近いが僅か1時間。高速道路を10時間で走るバスも日本同様に高級化が進み24人乗りのVIPバスでも800バーツで特急 寝台の二等より安いとなると列車で旅するのは酔狂な外国人旅行者か急がぬ老人ら、となり、外国人も仏語や和蘭語が目立つ。タイの鉄道事情、将来の改修や整 備など期待できるはずもなく、この列車の老朽化進めば将来は廃止か。列車がチエンマイの停車場を発ちビールを飲みながら夕陽に染まる田園風景を眺める。野 良仕事帰りの百姓、牛を追う少年。やがて日暮れて食堂車へ……と気分は内田百閒。灯時降雨。このタイの東北本線、チエンマイの南60〜70kmほどで (ちょうど一昨日訪れた象保護センターの近くで)海抜1,300mほどの山越え。といってもチエンマイぢたい海抜1,000mほどであろうから大した上り 坂でもないのだが崖の谷間のようなところに単線の線路でがけ崩れでもあれば列車は立ち往生。で雨は怖い。小宮豊隆先生の『中村吉右衛門』(岩波現代文庫) 読む。アタシ自身は昭和29年に亡くなった播磨屋の芝居を当然観てはおらぬ。だが舞台を実際に観てはおらぬ役者でも十一代目(成田屋)であるとか十五代目 (羽左衛門)であるとか勘弥とか祖母の話によく出てきたので「まるで観たように」印象深いのだが播磨屋だけはなぜか祖母の素人ながら幼い頃から芝居を観続 けた彼女の話に出てきた記憶がなく(先代の勘三郎や扇雀(現・坂田某)などにはまるで幼なじみのように言いたい放題であったが)今になって「なぜ?」と故 人にも聞けず。小宮先生は従来「型」が大事の歌舞伎に役柄に関する自己の解釈を加えたのが九代目(團十郎)なら吉右衛門こそ「型」の芝居に「心」を吹き込 んだ、と指摘する。当代の播磨屋など先代のそれを意識してこそ、のあの芸風なのだろう。だがどうも初代吉右衛門という役者はアタシにはわかりづらい。だか ら小宮先生の本まで読もうと思ったのだが、この播磨屋に関する小宮先生の記述はご本人も吉右衛門賞讃の詩である、といい、小宮先生の師、漱石大人も敢えて 酷評通り、これは評論に非ず。贔屓による役者讃える文章が延々と続く。まぁそれでいいのだろうが。
▼Z嬢がチエンマイ市内に星の数ほどある旅行代理店で見かけたタイ国立の象保護センター半日周遊のお値段は一人500バーツの由。実際に乗合バスで往復す ると入場料(外国人料金)込みで170バーツ。


日記インデックスに<戻る>