教育基本法の改「正」に反対〜! 反対はこちら。文部科学省の中教審答申はこちら。ちなみに文部科学省サイトには教育基本法の原文すらないのが事実。
文部科学省は他にも「英語が使える日本人」の育成のための行動計画……だって、ダサ〜!、英語が使えれば日本人でもアイヌ人でも朝鮮人でも何人でもよし。
 
富柏村日剰サイト内の検索はこちら
既存の新聞に満足できないなら日刊ベリタを読みませふ。富柏村の記事も「稀に」あり。

2000 年11月24日からおそらくあなたは 番目の閲覧者です。

   
十一月三十日(火)晴。橋本龍太郎的に表現すれば、余は本日は行動予定表や手帳に記載に基づけば早晩に中環に行ったのは事実だと思う。ふと思い立って献血した事実は否定しない。通常以上に時間がかかり行ってから献血終わる迄八十分を要した記憶がないわけではない。それからハリウッドロードの額縁屋に頼んでいた鏡の直しを受け取ったという記録もある。そのあとFCCに寄っていつものようにドライマティーニを二杯飲んだのではないかという疑いもあると聞いてはいるが実際にはそれは事実ではない(とここだけが威張れるところ)。帰宅経路は今となっては記憶にないが帰宅したのだろう。……とこれじゃボケ老人か、たんなる嘘つき(笑)。それが元首相。子どもに「嘘をついてはいけない」とか「自分の行動には責任をもて」などとは誰も言えまい。香港は香港で、ホンハムに建てられた公団住宅が政府の二年前の不動産価格下落時の公団住宅の販売中止で売られぬまま放置されてきたが、それを財閥系民間デベロッパーが買収の上で取り壊して高級マンション建設の「再開発」をば批准する方向。さすがに世論の非難を恐れデベロッパー側は環境保護と資源再利用謳いすでに室内に整備された浴槽や冷房機などは新中古で売り出し売り上げ慈善団体に寄付だとか、建物の混凝土は埋め立てに使うとか、建物資材の九割以上が再利用可として建物取り壊しの工事も付近の環境保護優先して最新の工法だとか。そこまでするのも結局は不動産価格の再びの上昇で既存建物の取り壊しと再建築でも六十億ドルだからの利益が見込めるそうで。この無節操なる「開発」問題で政府の愚鈍なる役人ら誰も責任もとらず。西九龍には巨大文化施設建設だとか、思慮と感性に乏しき者が弄るなら単に公園にでもしておくことが後生へのせめてもの遺産のはず。金陵の純米酒でおでん。映画撮影師・西本正を山田宏一と山根貞男がインタビューしてまとめた『香港への道』(筑摩書房)読む。旧満州で満映で映画撮影の道に入り戦後新東宝で中川信夫監督『東海道四谷怪談』の撮影をした西本正。話は飛ぶが80年に第4回の香港国際映画祭で中国チャンバラ映画の巨匠・胡金銓作品上映があり、この映画祭訪れた山田宏一と山根貞男は胡監督にインタビューするのだが二人が英語難あり日本語堪能だからと通訳で紹介されたのが当時ショウブラザース映画の撮影所所長であった蔡瀾。蔡瀾との話でブルース=リーの映画の撮影をした賀蘭山といふキャメラマンが実は日本人で西本正と言うと聞き、帰国してその西本が上述の如く『四谷怪談』で注目浴びた西本正だと判り山田と山根の二人による西本正への取材始まる。二人は92年には同映画祭に「発見された」小津の『突貫小僧』など映画持って来港もしている(この上映を余も92年い見た記憶あり)。で、西本の話だが五十年代末にショウブラザースからの招聘で香港に数作の撮影に来た西本は李翰祥の名作『梁山伯與祝英台』などを撮影。一旦帰国するが日本映画斜陽に見切りつけ再び来港。66年には勝新太郎『座頭市』に影響受けた前述の胡金銓の名作『大酔侠』撮影。西本によれば、胡監督はショウブラザースと袂を分かち台湾に渡り『龍門客桟』(邦題『血斗竜門の宿』)を作ることになる。この作品は数年前に徐克(ツイ・ハーク)によりリメイクされ、蔡明亮は台北の閉館する映画館舞台にした『不散』でこの映画を映画館の最終上映作品に用いているが(『不散』で主人公演じる苗天の俳優デビュー作がこの『龍門客桟』)。その後も西本は香港で活躍続け日本から、小林旭映画などで著名の井上梅次招聘するなどにも尽力。で西本にとって最も大きな仕事となるのがショウブラザースから独立したレイモンド=チョウによるブルース=リー作品の撮影となる。日本での公開順でいうと2作目の『ドラゴン危機一髪』、3作目『怒りの鉄拳』で初作『ドラゴンへの道』となるのだがた西本のカラー撮影技術はブルース=リーをかなり満足させる。西本の膨大な語りのなかでブルース=リー十五、六歳頃のデビュー作『雷雨』など興味深い。で西本はその後マイケル=ホイの『Mr.Boo』シリーズなど撮ることになるのだが、あの当時、マイケル=ホイの怪しげな香港映画大笑いしていた余もまさかこの撮影が日本人キャメラマンなどとは知る由もなし。ところで西本によればマイケル=ホイはもともと李翰祥の『大軍閥』72年という映画に主人公として俳優デビューだったそうな。この本からかなりいろいろなことを知る。蔡瀾氏がショウブラザースからゴールデンハーベストに移る当時の逸話なども興味深い。その西本は九七年一月に香港で没くなるのだが、インタビューの中で八七年の当時すでに日本で脚光浴びる香港映画のレベルが落ちていると嘆き、監督が素人で編集でどうにか作品に仕上げてはいるがベテランの編集技師がいなることを憂慮。実際にその通りの現状。ちなみにこの秋、西本の生まれ故郷の福岡で福岡市総合図書館で西本正撮影作品特集上映が開催されたそうな。
▼秋篠宮誕生日にあたり記者会見で兄宮の先頃の皇太子妃に絡む人格否定発言につき秋篠宮は驚き陛下にも事前に相談なかったこと残念に思ふ、公務は受け身的なもので云々と兄宮の「身勝手」に比べ実に優等生的なるお答え。宮中事情察し得ぬが希臘劇とシェイクスピア下敷きに蜷川演出で平幹二朗?……は否、それぢゃ絮すぎるから敢えて鈴木忠志演出でオイディプス王ならぬ宮中劇は如何だろうか。父親役は加藤剛か中村敦夫、兄は宮脇康之で弟にはいしだ壱成を敢えて抜擢。

十一月廿九日(月)快晴。昼にFCCにてWHOのアジア地区の最高責任者であるWHO西太平洋事務局長・尾身茂氏の講演あり。WHOは先週、近くインフルエンザの新たな大流行が起こる恐れがあり最大で世界人口の3割が発病し200万から700万人が死亡すると警告発したが、尾身氏は、このインフルエンザがSARSに比べても深刻なものである見解を示しSARSは結果的に約800名の死亡を出したものの動物の感染源が特定でき感染は感染者との至近距離での直接接触などに限られ特定のマンションや病院の院内感染など感染ルートの把握もできたことが被害を最小限に留めることが出来たが、それに対して今回のインフルエンザは鶏インフルエンザと言われているがすでにトラやガチョウなど動物間の感染が多種ありどの動物からヒトに感染するかが特定できず動物によって症状が異なっており空気感染で容易に拡散する。動物によって症状に違いがあったり鶏の間で感染が広まっても鶏肉の生産農場で従事者に感染がないケースや直接に鶏と接触の可能性のない小児に感染者が出るなど把握がかなり難しい。……といふ話を聞いて余はSARSの時はほとんど感じぬ恐怖感あり。SARSの時は特に日本の大騒ぎに「アホか」と思ったが今回は日本のあまりの関心の低さ。講演に先立つ昼食で隣席にDrという肩書きで医者とわかる若者おり食事中の気軽な会話で「インフルエンザと、よく医者の使うFluという名称はかんぺきに同じものなの?」など質問せば「厳密には同じであるべきなのだが、医者も含めヒトは風邪の初期症状の場合などにFluという名称を使う場合が屡々あり混用もなきにしもあらず」など的確に教えていただき、向かいの席の医者にも「SARSに比べ市民の関心が低すぎる」などと話しておれば、隣席の若医者は政府の衛生署の主任医師で而も昨年SARSの際には「疫埠」騒ぎで水際にあったであろう港湾衛生の専門医務官、向かいも政府の衛生防護センターの流行病学の主任医師で、かなりの専門家であったこと名刺交換で発覚(笑)。荷物多く一旦帰宅後に夕食前に近所のジムに参れば医者に会うのが多い日のようで政府の公立診療所の医師B君に会う。現場の医者の立場で昨年はSARSと対峙し今回のインフルエンザの所感問えば本当にこの流感爆発あるかどうか、爆発せばWHOの予測も正しいとなるが、最悪のケース想定と理解、と。だが実際に今年正月から春にかけてインフルエンザの流行あった折には医者の間では実際に流行した場合にSARSのような対応が実際には出来ないことでかなり不安あったのは事実とB君。自宅に戻りインフルエンザに対してのアルコール消毒必要と思いドライマティーニ二杯。居間の掛け軸を冬の落ち着いたものに替えようと豊山長谷寺の観音菩薩のもの選ぶ。ビビムバ食す。ニュース見ていればウクライナの大統領選挙で国を二分するかの如き与野党対立。選挙の不正もあり。米国大統領選挙の伯仲といい高知県知事選挙といい、もはやかつての米ソ冷戦構造の如き資本主義と共産主義の仲良し時代は過ぎ去り、今の対立こそ根本的に相手の存在など全く認められぬ絶対的対立。インフルエンザも怖いがこれも怖い。怖いといえば日本で導入をば画策中の陪審員制度も怖い。真当な市民革命すら経ておらぬ国家は陪審員制度などやらぬほうがよし。あれは、それがいいのかどうか余はわからぬが陪審員が個々人であっても少なくとも基督教なら基督教という基本価値観があり、それに基づく正義であるとか公平であるとか、一応はそれが司法をば支配する中でだからこそ、一定の信頼?が置かれるのではなかろうか。国の普遍法たる憲法や現行法令の理解もじゅうぶんに為されぬ国家ではやはり怖いものがある。福島の大叔父八十八歳で逝去。父母の従兄弟にあたる方に書状認る。尾身医師の講演につき日刊ベリタに久々の送稿(こちら)。翌日の蘋果日報にこの講演「WHO、SARSが冬に到来と語る」と記事あり(唖然)。確かに尾身医師は講演の冒頭でSARSがまた発生する可能性もあるが感染者はごく少なく昨年の如き拡散はあり得ないことで極度の心配は不要、とわずか数分コメントしただけで「今日お話したいのは、そのSARSに比べもっと深刻なこと」とインフルエンザについて講演の大部分の時間耗やす。それがどうしてこの記事になるのか、さすが蘋果日報で、インフルエンザよりSARSのほうが記事として関心集めるといふ発想か。
▼かつての香港競馬花形騎手で現在は競馬調教師の告東尼(クルーズ)九肚山の豪宅に賊押し入りクルーズ調教師頭部損傷。これまでも落馬事故などで後頭部などかなりの治療受け骨もつないで形をば保ってきたそうで、それに重大な影響懸念されたが翌日の新聞報道によれば大事に至らず数日で退院、歩行なども可と。デットーリ騎手といい福永騎手といい死にはけして至らぬ幸運のようなものあり。それが天才の所以。

十一月廿八日(日)快晴。雲一つなき絶好の快晴乍ら知人の代理で昼まで北角でお座敷あり。芸者勤めの辛さか。昨日の疲れあり午後帰宅して身辺の諸事片付けつつテレビで競馬観戦。ジャパンカップはゼンノロブロイは当然の強さだが二着にナリタセンチュリー選び×。夕方中環に出てハリウッドロードの額縁屋に寄る。FCCでドライマティーニ二杯。恰度競馬最終レースにて咄嗟に駆けるが連複とトリオ狙えば一、三四着。パイプ煙草吸ってふと思い出すは十四年程前か当時の興銀香港支店にU氏といふ紳士ありお会いすると美味そうにパイプ吸われ余もパイプ嗜むではいたもののU氏がパイプも十年吸えば格好つくと言われまだまだ若輩と念じる。あれ以来香港にて邦人でパイプ吸ふ方はかつてのM総領事(その後田中外相時アジア局長)くらいか。レストランでは当然御法度であろうし酒場もパイプの煙をば芳香と思ふだけの素養ある酒場も少なし。紙煙草のそれも最近のマイルドセブン系の不味さに比べられず。昨晩も長沙の海岸より梅窩に戻るバス待ちの停留所にてT夫妻に香りの佳さ褒められる。実はパイプ煙草も余の好みの調合。読んだSCMP紙にインディペンデント紙からの特集記事で紐育マンハッタンのレストラン起業家Keith McNallyを語る。“Bright Lights, Gib City”といふMcNallyを主人公にした本の紹介記事だが“A recent October evening in New York: McNally is sitting in Odeon cradling his farst martini of the day.”といふ書き出しあり。何でもない一文だがぐっと引き寄せられ、続くは
"It's  a shot of alchol in the vein that keeps you going" he says, grinning fondly around his lold hangout, the decor unchanged from his less solvent years in the early 80s, before a string of events -starting with his failed first marriage, and culminating four months after his mother's death- gave birth to his first hit.
と実に変哲ない、だがやはり紐育舞台にマンハッタンのダウンタウンでレストラン経営に成功する中年の男をそれを倫敦のインディペンデントの記者が書くと、と読ませる記事になる。SCMP紙など発行部数でいへば僅か数十万部の、だが貴重なのはインディペンデントであれ紐育タイムスであれルモンドであれ世界中の新聞の一流の特集記事は編集もせずにそのまま掲載できること。日本の新聞は世界中に特派員置いたところで外国の一流記事をそのまま載せる器量なし。実に嘆かわしき事。風邪気味のZ嬢にFCCのジンジャープティング。帰宅してGlenmorangie飲む。雑煮。『新撰組!』少し観る。若い俳優が頑張っている、といふそれ以上の印象なし。脚本の三谷幸喜氏が朝日新聞に随筆連載するが暫く前にこの番組の収録終わっての役者の打ち上げでの感無量の状況など饒舌に語り原作者だの映画なら監督が内幕をばそう易々と語っていいものかと感じる。ニュースで「若い女性が不審な男に」といふ表現あり。「性」がつけば丁寧で「男、女」は容疑者だの蔑称か。むかし男ありけり、はキョービのニュースなら男性なのか男なのか。それに比べ同じNHKの「おしゃれ工房」で茶器袋物、巾着袋の永井百合子女史の日本語。誰よりも丁寧な美しき日本語だが「初心者の方にはナントカがよかろうかと存じ上げます」と所詮突っ放したところがまた美しゅう存じ上げます。言葉の厳しさ。
▼中山文相「自虐的」歴史教科書に「慰安婦とか言葉減り良かった」と発言(朝日)。従軍慰安婦だの強制連行の言葉減れば民族や歴史に誇りもつ国家観培われようか。海外進出で「よいこともやった」と言われるのが鉄道建設だのインフラ整備では当然の事ながら産業開発での利潤が目的。中山某本人は自らの史観をば「中立的」と表現。ただ嗤わされるばかり。
▼新国劇俳優島田正吾氏逝去。享年九十八歳。歌舞伎座での歌右衛門との「建礼門院」後白河法皇役がもう九年前。香港に住まい観劇逸す。歌舞伎といへば中村屋の十八代目勘三郎襲名披露来年三月の歌舞伎座で一條大蔵譚に盛綱陣屋。小学生の頃から芝居上手の勘九郎君であり敢えて勘三郎にならねばならぬのか。先代の勘三郎が三代目歌六の三男坊で長男が中村吉右衛門、次男が時蔵(当代の祖父)と名前の派生する家にて勘三郎も十七代目と賑やかだが明治初期に途絶えし名跡の復活。勘九郎君の今風にいえば平成中村座だのプロデューサとしての才覚思えば猿若勘三郎を祖とするといふ中村座の座元の名跡といふ意味で勘三郎襲名も意味もあろうが永山松竹の傘下に企画買われ座元とは言い難く辰之助の松緑襲名といい松竹の兎に角襲名披露公演で賑わせようといふ襲名デフレなり。

十一月廿七日(土)ランタオ島にてPhoenix Walkathonの催事あり参加。梅窩より大澳までの22.5キロで距離は大したことなくも梅窩の海抜0mよりサンセットピークの山頂近くの800mまで上り一気に500m下りランタオピークの934mまでまた上りと高度差あり。気温は予報が摂氏十五度のところ十九度で安心したが梅窩から寒く曇り空で気温上がらず山頂では凍えるほど北風も強し。レース後半になり観音山から姜山の高原で見事に晴れる。T君サンセットピークと姜山の先から余の伴走。ピークの上では体力消耗ひどき折に栄養補給食頂き姜山からは最後集中力欠ける時に走りながらの雑談に付き合ってもらい有難いかぎり。平地と下りは走り続けたが上りでの体力のなさに普段の、とくにここ一ヶ月の筋力鍛錬の不足実感。五時間四十九分で大澳に到着。結果はまずまず。途中で二度サポートについてくれた三名の女性とT君、Z嬢とバスで長沙湾の海岸。夕陽が見事。The Stoepで南アフリカ風のステーキ、馬鈴薯料理など食す。十六夜の月佳し。昨晩遅く永井荷風断腸亭日剰読了。いつも臥床し睡魔に襲われる寸前に開くばかりで一頁も読み進まぬこと多し。読了に三年だか要す。
▼銅鑼灣の南亜餐庁今月末にて閉店と新聞に記事あり。海南鶏飯ではマンダリンオリエンタルホテルのザ・カフェの凋落でこの店が香港一の美味。昼も夜も盛況で経営難しとは思えず何事かと記事読めば股東(出資者)のうち一人除く全員この南亜餐庁の土地売却に意欲。銅鑼灣のかつての裏町霎東街が今ではタイムズスクエア横の一等地と化しレストラン経営などよか土地売却で巨万の利を得るが得策か。嘆かわしき話なり。

十一月廿六日(金)晴。WHO専門官この冬の流感世界的蔓延につき警告発す。これの感染者六十五億人と推定される世界人口の四分の一から三割に及び死者も二百万人から七百万人。流感三十年に一度の周期で世界的に流行し廿世紀では十年代末のスペイン風邪は二〜四千万人亡くなり十四世紀のペストによる黒死病髣髴させ五十年代末にはアジア風邪に世界の人の一割から三割半感染し推定で最低十万人が死亡。六十年代末の香港風邪では七十万人が死亡しこのH3N2型ウイルスは未だ世界に蔓延。今回は家禽インフルエンザの影響懸念される。今晩より気温下がるらしく已に昨日晩より悪寒あり。水曜日に中環に豪州人M医師を訪れインフルエンザの予防接種こそしたものの感染惧れるばかり。市街に聖誕祭まで一ヶ月と生誕賀ふ飾り目立ち異教徒らの蛮習に只だ呆れる。荷風日剰読む。昭和廿九年一月廿三日の記載に歌舞伎座裏天國に天婦羅とあり。余の祖母よく「昔は歌舞伎座で芝居見物終わってよく天國」と口にしていたこと思い出す。天國(てんくに)といへば銀座八丁目の新橋に近し。当時天國に連れていかれる度にその話聞かされ幼くも余も健脚の祖母とはいへ芝居終わってからよくもわざわざ天國まで足を運んだものと感じたが天國が歌舞伎座裏にあったとわかり祖母も其処に食したかと納得。新宿の寺にて曾祖母の法事終え采配振るった祖母ハイヤー数台仕立て参列の縁故者をば首都高抜け銀座の天國まで招き現在のビルになる前の大きな数奇屋風の和風建築の三階だかの広間にて法事済んでの一席設けしはもはや三十年以上前のこと。

十一月廿五日(木)晴。晩食逸して二更に独り佐敦にオースティンロードの好好上海小食店に一年ぶりかで食す。盛況ならが食した担々麺も水餃子も塩辛すぎ。開業の頃はもっとあっさりした味のはず。店には「地元日本人もお勧めの」などと日本の旅行雑誌の紹介記事も少なからず余もかつて紹介したことあり今はこれではとても紹介できぬ。遅晩に荷風先生日剰昭和廿七年読む。元日に浅草に遊びし荷風の記述に松竹演劇館大利根純子。浅香光代。とあり。一瞬「あの」光代かもしかすると先代か?と勘ぐったが浅香光代が昭和六年生まれで終戦の年十四歳で浅香一座組むと知る。その荷風先生の日剰に名前挙がった三年後の昭和三十年に大江美智子らと共に女剣劇全盛時代迎えるは人の知るところ。
中国外交部といふと失礼だがアホの坂田似の外交部長と連日の外交部発言人の笑み一つなき記者会見の印象強し。香港返還の頃は地方のナイトクラブのムード歌謡歌手の如き濃い顔立ちの沈国放氏が目立ち沈氏中国駐国連副代表となった(現在は外交副部長)後襲ったのが章啓月といふ女性。雰囲気は「七十年代の東欧の女子オリンピック選手」っぽさ。かつては英語で行われた会見も沈氏の途中から中国語だけとなり章女史といふと沈氏以上に表情なく英語も聞けずどういふ人なのかも余はいっこうに知る由もなし。その章女史がベルギー大使になるとか(廿五日のSCMP紙報道)。当然これがベルギーに本部置くEUとの関係強化のための人事。でその要職が何故に章女史かといへば余は全く知りもせずにいたが四十五歳のこの人の父親が中国外交部のかつての主要官僚の章曙氏。この父は七十年代に中国の国連代表部付の領事となり二十一年前に駐ベルギー大使となっており主要公務は当時のECとの工作であり八十年代後半にはこの人は駐日大使となった章曙氏。その娘が三十代で父と同じく国連代表部付の外交官も経験し今回はベルギー大使。このサラブレッドの牝馬?ぢたい十四歳で国費派遣で紐育に英語を学び中国外交学院卒業後は紐育と瑞西の寿府での対国連機関との通訳とか。章女史将来の外交部長候補か。沈氏、章女史といふ濃いキャラに日本の外務省がどう対応できるか今から気になるところ。
▼歴史家高添強君が信報の連載にて「緑化の起源」と題して香港動植物公園について語る。植物園なるものが英国にとって世界各地の植民地より多彩なる樹木草花収集し倫敦の植物園に茂ることが帝国の威光であることは当時の動物園だの博覧会だの百貨店だのも含め全て十九世紀的なる国家主義の産物。この大英帝国の主義は海外にも及びニューデリー、マドラス、シンガポールと英国植民都市にも植物園設けられ香港もご多分に漏れず香港開闢から僅か三年後の一八四四年にすでに植民地開設の提案なされ五五年には当時の総督より英国政府に予算要望されるが当地での財政難あり六一年になりようやく開園を見る。この植物園開設の目的はもう一つの事由こそ興味深し。香港といふと今でこそ日本よりの来客もピークなどから眺め「さすが南方だけあって樹木が鬱葱と茂っておりますなぁ」などと感心されるが十九世紀どころか一九四〇年代の写真など見ても香港島はピークまで岩山で草木も茂らず。荒涼とせし岩肌の禿山こそ当時の香港。そこに植物園をば設けることにて少しでも香港の好印象といふのが当時の発想。現在の樹木茂るは植林の成果だが高君に先日聞いた話によれば樹木に詳しき方が見れば香港など本来、一緒に茂る筈なき異なった風土の樹木が混在しており一見して植林と判り而も英国が当時どれだけ世界各地より採取したかの結果だと。

十一月廿四日(木)昨日のペニンスラホテルの話。ホテルの日本人職員のMといふ人と話す。この人が確認のところ予約係は余をアメックスの職員と勘違いしてあれこれ要求、説明との由。余は何度もカード保持者であり客であると説明しており釈然とせず。要はこのホテルカードの保持者も少なく況してや飲食ならともかく地元で宿泊予約するも少なく予約係もどう対応すればよいかわからず、が実のところとか。東京よりN氏来港され昼にN氏宿泊のマンダリンオリエンタルホテルにて二年ぶりに再開しFCCにて昼食。N氏は父上が大正期より香港で雑貨貿易をされおりN氏昭和初めに香港に生れ香港にあった戦前の日本人学校(当時は国民学校)に昭和十年から十六年まで学び支那事変にて戦況ひどくなり父上会社畳み帰国。学校も廃校。翌十七年には香港をば日本軍占領。国民学校再開されるがN氏家族は香港に戻らず。それゆへ当時の貴重な史料などN氏多く保管される。当時のことなどいろいろ話聞く。日本人墓地にN氏父上いわゆる丁稚奉公して商売覚えた荒川商店といふ店の家族の墓残る。N氏墓参される。学び昭和骨医梁仲偉にて弟子錦宗氏による治療。足首の痛みも殆ど失せる。晩にかなり久々にハッピーバレー競馬場。K氏に男の子生れ妻子は依然日本だがK氏香港に戻りI君の仕切りでカナダ系秋田人T君、O君、Z嬢集ふ。馬券惨澹たる結果。
▼「獅子山下」などの作詞家黄霑氏逝去。享年六十四歳。翌廿五日の蘋果日報に一九八八年に黄霑氏の主宰にて始ったテレビ番組『今夜不設防』の当時の若き黄霑氏、倪匡氏、蔡瀾氏らの写真あり。その日のゲストは羅大佑。想像しただけで内容興味深し。蔡瀾氏この番組始る経緯語れば、その当時にこの三人でナイトクラブに遊べば料金は高い、ホステスは不細工、酒も不味い、で三人でテレビ番組持って酒飲みながら別嬪侍らかせ酒飲んで好き勝手に話したらかなり面白いのでは?と意気投合し、それで誕生したのがこの番組、と。余は何度か日剰にも録したが勝新太郎がゲストの回の抱腹絶倒。黄霑といへば作詞だが余にはこの『今夜不設防』の他、『城市追撃』『三個光頭老』など氏の番組での司会ぶりを惜しむ。その蘋果日報の特集十六頁に及び陶傑、蔡瀾に梁文道の三氏長文の追悼を載せさすが蘋果と思わされる。

十一月廿三日(水)薄曇。十六日に京都ブライトンホテルより久が原のT君宛に送った品物T君に届かず。発送されたことは間違いなく実は十六日の午後、余の携帯にホテルより電話あり切手代を多く頂戴してしまい申し訳なく返金したいとの事。数百円の話でお気持ちだけで結構と答えれば確実にお送りしますので、とホテル側。でそれが届かず普通郵便では追跡も無理かと思いつつダメモトでホテルに本日電話せばまず電話交換手から律儀にて簡単に用件伝えるとお名前は?と尋ねられ須臾待てばフロントに電話繋がれ余が一切説明もせぬのに「お客様が十六日に発送された郵便物ですが昨日届け先不明で戻って参りまして此方で住所確認しましたら久が原にこの五丁目はなくお客様の書き間違えとわかりましたのでご連絡を差し上げようかとしていた矢先でございます」と。余がT君の住所のうち丁目以降を築地H君のものと書き違えと判明。それにしても余が封筒に送付人の住所氏名も書かぬのに何故に戻ったかと思えばこのホテルの封筒使ったため郵便局側が消印とホテル封筒に機転効かして返送した由。フロントの職員は「こちらであらためて送付させていただきますので」と。而も確実に届くように宅配便とさせていただきます。お代はこちらで払いますので結構です。と余は恐縮するばかり。実に立派なホテル。あとで知ったが京都のホテルランキングでは好感度で「あの」俵屋を抜いて一位といふ評価すらあり。意外と京都の人でもこのホテル知らぬ人あり嘗ては修学旅行相手の旅館か何かの新装開店かと察したがホテルの電話交換手に尋ねればすらすらと1988年の開業で場所は学校跡地に建設でございます、との事。でこの京都ブライトンホテルに改めて敬服の至りのあと本日唖然とさせられたのが香港のペニンスラホテルについて。知人がこのホテルに泊まる予定あり余がアメリカンエクスプレスのこのホテルと提携のカード所有するため宿泊の割引特典あり昼に電話せばかなり割安の料金提示。旅行代理店通した価格も比べものにならず。で晩に再び電話せば予約係曰く特別割引レートのため予約は電話で出来ずファクスで必要事項記入の上申し込め云々と説明あり何故ホテル予約が、それもそのホテルのカード所有でそこまで面倒なのかと尋ねるが予約係の説明で理解できず態度も横柄にて他の職員と電話変わるよう求めれば別の職員の説明では特別料金のためコミッションが云々だのこの料金での提示をホテル側の経理部の許可取らねばならぬだのファクスにはFine Hotel Resort ProgramだったかFHRPでの予約と記入せよだのと説明。余は客でありアメックスとホテルが提携のカードでの割引特典がために何故にファクスで許可を請い、何故にホテル側の経理部との云々などの説明を受けねばならぬのか全く理解できぬ話。しかしそれをホテル側に伝えたところでこの予約係の見当違いでは説明しても理解される筈もなし。アメックスに電話してこのホテルとの提携カードの担当マネージャーにこの不可思議なる事情を説明。マネージャー曰くアメックス側としては寝耳に水の全く理解し難きホテル側の対応で余の指摘通り電話一本で予約可のはずがファクスだの経理部の批准など言語道断。明朝早速ホテルの営業マネージャーに質し改善図るとの事。東洋にペニンスラホテルありと謳われしこのホテルでこの様。惨め。早晩にI君と太古坊のEast Endに会い地ビール飲む。自宅に誘い先日東京からのK君に頂いたサントリーの「響」飲み魚のアラ煮、里芋など食す。
▼香港ネズミーランド来年9月12日だかに開園決定。反ネズミでささやかな行動をば企画中。
▼シンガポールの一党独裁担ふ人民行動党結党五十周年。李光耀曰く“The people of Britain of the 1940s where I was a student were a cultivated people, polite and well mannered. Now the texture of British society is rougher. Courtesy is less evident.”だそうで嘗て標榜せし日本も“Today's Japanese are different from thier fathers and grandfathers who were in Singapore in the 1940s as conquerors and from those I met in Japan in the 1060s, who were hard-working and dediacted to companies and departments”と指摘。実際その通りだろうがシンガポールが何を最も恐れるかといへばシンガポール国民のこの英国化、日本化であり、働かず納税もせずのフリーター群現れば人口数百万のこの都市国家にとっては日本など比較にならぬ打撃ありといふところ。

十一月廿二日(月)Trailwalkerの時にだか左足首痛めたようで関西旅行中にとくに痛み昨日走っても下りでは痛みありQ姐の紹介にて湾仔洛克道の註册中医梁仲偉医師の診断請ふ。梁大夫は南華体育會だの香港華人蹴球聯誼會などの医事顧問にて多くのスポーツ選手ばかりかサラブレッドまでの打撲治療に当たる。湾仔の古い造りの医所訪れれば実際い治療に当たるは息子で弟子の錦宗なる師傳にて梁仲偉大夫すでに高齢で日常の診断には当たらぬことを知る。足首に膏薬塗り十分ほど薬塗り込むように按摩続け薬草の膏薬たっぷりの湿布をば貼る。余は香港でこの「跌打」の治療は初めて。何処の跌打の診療所もかなり盛況だが余はこれが中医と同じく保険対象外と誤解。晩に多少時間あったがジムで運動するわけにもいかず帰宅。ドライマティーニ二杯飲み鮭の粕漬焼、モツ煮などで夕餉。今晩も睡魔に襲われひたすら眠く転寝続けた挙句に廿二時には臥床。少し読み残しの金子光晴『どくろ杯』読了。上海から香港訪れた当時の「貝やぐらの街」はとくに興味深く読むが勝丸事件といふ実に恐ろしき話あり。南方に密航思い立った三人の娘貨物船勝丸に忍び込み何も知らずに隠れたは飲料水の水槽。次の港で水を張られ娘ら溺れ死に次第に崩れし肢体から濁った水や髪の毛が蛇口に出るようになり船員が水槽開けて真相解ったといふ次第。光晴の綴る香港は
なじみある香港の港に着いたのは朝方で、まだふかい霧のなかで、島全體が階段でできた山巓から麓まで、燈火が眠りからさめきれないで、寶石凾のやうに燦ゐて、夢現の境界をうたうとゝした恍惚をむさぼつてゐた。
と何とも見事な詩人の筆致。
短艇(ランチ)でエスプラネードに着く。芝生のみどりがあかるい。軒廊のあるしづかな通りを、船からあがつたばかりの三人は、幾日ぶりの定着感に足をたのしませながら、上海の煤でよごれた街とはうつて變つた洗ひあげたやうな卵黄色の、イギリス風なきれいな街をみてあるゐた。燈籠や、絹のうちはをうつてゐる土産物の店もあり、表からみえる生簀に、ふと股ぐらゐの大きな鰻が、いつぱいになつてとぐろを卷ゐてゐる廣東料理の店もあるが、あるゐてゆく石疉のうへに、浮浪人たちがごろごろと寢てゐて、足のふみ場をさがしながらあるかねばならない。料亭のやうな間口のひろい日本旅館があつたが、手持ちの金の心細さをおもふと、休息することもためらはれた。街を左に出外れたとろこに、海をすぐ眼の前の廣場に沿ふて建つたうすぎたない旅館を見つけて、ともかくもそこに一泊することにした。島には眞水といふものが乏しく、わづかしか出ないふかい井戸に、朝晩、石油の空罐をさげた市民たちが、その水を汲みにきて列をつくつてゐる。從つて、水の値段が高價で、罐一杯の清水が十錢、二階まではこばせると廿錢、三階なら三十錢となり、山頂まで、何十百層の高所でくらすものたちは、一杯の水におびたゞしい錢を拂はねばならない。それに準じて一切の生活が高價で、おなじ支那でも上海とは變つて、ひどくくらしにくい土地であることが、旅館の人のことばでわかつた。 (略)
香港は花のやうにきれいなところではあるが、金でもなければゐるにいられない、八方ふさがりなぎりぎりな場所であつた。
と綴る。ところで光晴が金策で向おうとした広州の知人、欧陽予倩といふ人は欧陽應齋君の大叔父にでも当たるのか余は知らず。
▼サイレントウィットネス馬の馬主Archie da Silva氏の珍しい名前と風貌に、一瞬、風貌からはゾロアスター教のパールシー族かと察したが“da Silva”の名はポルトガル人でブラジルのF1ドライバー故セナもAryton Senna da Silvaといふ名。Archie da Silva氏は競馬場でレープロは『大勝』読むことも見逃さねば、この人がポルトガル系で漢字すら解す香港にかなり長く住まふ一族であること推測も易し。マカオに非ず香港のマイノリティとしてのポルトガル人にも詳しい歴史家高添勉君に今度尋ねてみるべきか。
▼ところで久が原のT君より金比羅さんなど大神社と「本庁」との関係につきいろいろ示唆あり。結局はカネに纏る話ながら歌舞伎も海老蔵襲名巴里公演には松竹LV間にいろいろあったとか。「鳥辺山心中」と「鏡獅子」が巴里の芝居好きにどれだけウケたか知る由もなし。

十一月廿一日(日)快晴。朝九時に目覚め十一時間睡眠といふ余にとって実に何年ぶりかの熟睡。と言いつつ実は今朝本来今頃はNike主催のNike香港10公里挑戦賽04といふレースにて走っている筈で昨晩早く出場断念は10km走ることより朝五時半だかに起きて銅鑼灣始発のバスで天水圍に参ることの疲労感でレース前にゼッケン受け取りで已に参加者特典のTシャツ受領せしことも「もうこれでいいか」と出場に消極的になる事由と認めざるを得ず。本来ゴールしてこそ受領できるべき記念品ながら主催者にしてみれば開催前に配布することで当日の参加などせぬ若者かなりの数に昇る筈でそれにより実質的に当日の混雑混乱をば避ける意図もあろうか。いずれせによ余も出場断念して朝寝貪る。ゆっくりと朝食済ませ貯った新聞に目を通し金子光晴『どくろ杯』続けて読む。光晴香港に至る。実に見事な文章に読み入る。昼前にかなり久々にマウントパーカーロードから大潭を抜けリパルスベイからサウスベイに走る。いつもはマウントパーカーロードへの上りは流石に歩くが本日は実にトレイルウォーカー以来二週間ぶりの運動で最初こそ息がかなり乱れたが上りも何故か走り続け大潭からの下りも引水路も順調にいいペースで走り七十分といふこれまでの時計大幅更新。海岸につき缶ビール一飲。金子光晴『マレー蘭印紀行』少し読み浜辺に微睡む。十一月下旬とはいへ風も弱く陽光は優しくも肌を灼き海岸には人も算える程で閑かさに波の音まで弱し。その海岸では光晴であるとかやはり放浪する詩人の文章は読んで実に心地よし。スタンレイ経由で西湾河。この季節、太陽はかなり南へと傾き長き夏の間はすっかり強烈な陽光に曝される町並みがこの季節は珍しき方角から照らす光に今まで見たこともなき光と陰影のコントラストを見せる。Shau Kei Wanの古めかしいビルの並ぶ電車通りも夏には期待できぬ何ともいへぬまさに「光景」でバスの車窓から眺めるも楽し。西湾河の順興潮汕滷味専門店にて滷水鵝購ひジムに一浴して夕方帰宅。恰度競馬中継は十二月の香港国際に向けての香港スプリントの予選で当然の如く一番人気は初戦から十一連勝中のサイレントウィットネスで単勝1.2倍でそれに釣られ出場馬全てが複勝は1.0倍からといふ状況。サ馬の一着は動かし難いとして二着、三着をどう選ぶかが焦点と、余は慌てて新聞見て二番人気のScintillationも堅実だが調教の時計の良さからマルチダンディとエイブルプリンスに注目。連複はサ馬から倍率狙いでマルチダンディとエイブルプリンスに流してTierceとTrioはサ馬軸にScintillationとマ馬、エ馬の三頭を脚にせばサ馬は敵なしで余裕の十二連勝を果し二着にレース引っ張ったエイブルプリンス残り三着がScintillationと予想見事に的中。サ馬の強さで配当はけして高くないが予想的中で満足。続く香港マイル予選も一番人気のスーパーキッドに女王エレガントファッションで冒険で16倍のメリディアンスターを入れたが「まさか」でザ・デュークが一着で余の三頭は二着から四着的中で一銭にもならず。競馬も見つつ明日までの急ぎの仕事片付け一先ず終わったのを幸いにドライマティーニとバランタインの17年をすかっと飲んで日本酒でモツ煮、滷水鵝、いくつかの香の物など食す。『新撰組!』が余の印象とは異なり面白いといふ人少なからずちょっと見てみようかと思ったがケーブルテレビのディスカバリーチャンネルにてバリ島のサーフィンをネタにした番組興味深し。今でこそサーフィンのメッカたるバリ島で七十年代後半に地元の若者らの間で初めてサーフィンが流行り、バリ島のヒンズー文化は聖なる山に対して海は悪魔が住まふと近寄らない場所だったそうだが、この時にサーフィンの俘になった若者ら撮した貴重な映像あり、これをもとに彼らの今日の姿を追ふ内容。登場するバリ青年のうち二人だかが妻が日本人女性といふのも興味深し。文化人類学的にはバリといふ島が西欧の文化人類学者に「発見」され、世界中から観光客押し寄せるようになり、ここでバリは「見られる対象」となったわけだが、それがネガティブな側面であれ、それと同時にこのバリの青年らがサーフィンに覚醒てゆくといふ主体的な部分を拘えている部分が面白い番組。NHK特集だかでキトラ古墳の壁画保存だかの番組見て東北高校の投手ナントカディッシュ君だかのドキュメンタリ眺める。『どろく杯』の続き読む。

十一月廿日(土)快晴。かなり珍しく朝八時まで一度も起きず熟睡。日向たに出れば日差しじりじりと肌灼かむばかり。空は高し。この季節であればこそ海岸でのんびりと過ごしたきところ晝すぎまで某事濟ますべく机に向かふ。午後A君と會ひFCCにて印度料理。午後灣仔に遊ぶ。無印良品で作務衣購ふなどして歸宅。モツ煮と雜煮。睡眠十分の筈が睡魔に襲はれNHKスペシャルのローマ帝國の云々も半ば朧げで夜十時には臥床。
▼恒生銀行四大元老の一、何添氏六日に逝去。本日殯儀あり。享年九十五歳。祖籍廣東番禺。同銀行創辧人何善衡と同郷。善衡の内地での兩替商に職を得、三十三年の善衡恒生銀行創設を佑けたは弱冠二十五歳。

十一月十九日(金)快晴。多忙極まりなし。連日電気系統だの線路だの故障にて列車不通となるMTRの電光掲示板(写真)直島のベネッセアートサイトにそのまま展示したき電光の美しさ。帰宅してパイプ煙草に火をつけ書斎の椅子に腰を降ろし暫し憩ふ。究極のドライマティーニをば先日ふと思いつき今晩試し飲み。グラスにジンを注ぎ極少量のベルモットを加え氷も置かず氷で撹拌もせずただそのまま常温で飲む。それだけ。美味。このサイトの内容量が100MB越える。日剰の文章量などメモリではタカが知れているが過去の雑誌掲載記事がjpgファイルであることや画像の多さ。このサイト維持のため毎月HK$200ほど費やしていると思ふと年間費用ではけっこうバカにならぬわけで一瞬最近流行のBlog化などアタマ過るが矢張り内容をばBlog的にきちんと整理するよか読むこと強いるこの日記形態こそこの日剰の基本かと思ふ。
▼朝日新聞の「三者三論」にて自衛隊イラク派遣延長につき自民党の古賀誠君、早大教授で国際政治史の田中孝彦君及び元防衛施設庁長官宝珠山某が持論述べる。古賀君は日本遺族会会長といふ肩書きで余は勝手に「その筋」と誤解あり。イラク特措法と自衛隊派遣承認の衆議院採決では退席。政府が「イラク国民に喜んでもらっている」などとしか説明できぬ派遣。古賀君は大東亜戦争の原因が政治の貧困と国政に携る者の個々の責任が明らかにされぬ中で引き起こされたものとし「いつか来た道」には極めて臆病であるべきでひとつ風穴通るとずるずる押し流され既成事実積み上げた結果大きな犠牲につながる非常に怖いことと述べる。そして古賀君の言う最も大切なことは「平和憲法を持っている限り日本の安全保障は日本のアイデンティティの中で築くべきもの」であり「なし崩し的に平和を脅かされるようなこと」に強く反対する。また田中教授も日本政府の自衛隊イラク派遣が第一義的な目的はイラク人への人道援助でなく従米政策であり実際には支援効果が殆どなく自衛隊がイラク人に守られた中で活動していることを指摘。米国のイラクでの行動を見ていれば帝国支配による秩序の構築が不可能といふ現実が判り一方的支配の無理と経済を中心とした相互依存があることがわかる。また市民による脱国家的な連帯により米国主導の連合を瓦解させる力があり米国がその世界の流れに帝国として逆らっている図式。古賀、田中両氏の指摘はなるほどと頷けるがそれぢゃ何をどうすればいいのかといへば古賀君は自衛隊の引き揚げのタイミングがいつなのか「首相にお伝えする機会があれば伝えていきたい」で論を結び、田中教授も「米国を帝国視する幻想に浸りつつ軍事的なプレゼンスを重視した政策の展開」が妥当だとは思えない、とするが、それぢゃ日本が具体的にどのようなスタンスが採れるのか、については述べておらず。ここに限界があり、それが小泉三世内閣を長期安定政権とする要因なのであろう。

十一月十八日(木)多忙。とくに綴る何事もなし。
▼米国にてブッシュ当選を許してしまったことを世界に謝るサイトあり。米国民のうちブッシュ当選阻止できなかった者らが写真入りで署名と声明を載せてる。

十一月十七日(水)快晴。朝六時空の白む頃に目覚め徐々に明るくなる東の空をば眺めむれば水平線の彼方に太陽の上がる。水戸を九時半の特急ひたち号にて東京。神田経由で新宿。Z嬢と別れ急ぎOshman'sにて運動着の類ひ購入。JRパスで駅構内通り抜け西口のビックカメラにてノートブックのACアダプター購入。Z嬢と新宿エルタワー地下の鮨いしかわ。さよりと赤貝、小鰭の刺身。大間のじつに立派な生のマグロが届いたのを見ていれば握りでこの大間のマグロが供され美味至極。而もその大間のマグロをば今度は中落チをば海苔で船にする。中落チといっても脂だの筋の目立つものに非ず。じつに赤肉ばかりの表現は粗野だがユッケの如し。板長の若い板前への指示も優しく馬鹿のように怒ったり呶鳴ったりで若衆萎縮させず若い板前ものびのびと仕事して実にいい雰囲気。余の如く二度目の客も常客も区別せず実に有難し。西武新宿駅の近くでZ嬢母と会い珈琲飲み僅かの時間の歓談。新宿駅。東口に期待の話題作大ヒット上映中の「2046」の大きな看板。夕陽燦々と成田エクスプレスに乗り(対面式シートが改善されたものの座席固定式にて客席半分は常に進行逆方向)夕方に成田。車内放送で「ただいまJR東日本では警察のご指導をいただき車内の警備強化をしております」と車掌宣ふ。アホか。警察相手に尊敬語使う必要なし。正しくは「警察はただいまJR東日本も巻き込み車内の警備強化をしております」だろうか。車内のゴミ箱まで使用禁止。キャセイパシフィック505便で香港に戻る。機中金子光晴『どくろ杯』読む。非常口横の席で前を塞がれず広さこそ確保できた席なれどトイレに近きこと避けられず。その上にトイレの扉が自動的に閉まらず利用者の半数は勝手に閉るものと思い(あるいは何ら気にせず)トイレの扉が開いたまま。フライトアテンダント数名に何度か指摘するが「パーサーに伝えた」だの「どうにかする」だのと言い逃れ続け、故障でフライト中に直せぬのなら使用禁止とするか利用者にきちんと扉閉めること注意喚起する紙でも貼るかすべき、といふのが余の提案なのだが、一向に何もせず、結局はどうにか余の苦情など「延ばしたまま」フライトさへ終わればいいといふ対応。挙句の果ては「トイレは外からカギが閉らない」などと嘘を言うので、トイレの扉の左上に離着陸時のトイレ使用禁止とする場合のためのカギがあることを指摘(実際にかけることも稀だが)。トイレの扉の故障よりもアテンダントらの何もせず、その上、トイレ清掃に入ったアテンダントが出てきて扉開けっ放しにする程で通りかかってもトイレの扉閉める気遣いすらなきことに呆れるばかり。トイレの扉が少し開いている程度ならいいが全開の場合は呼び鈴でアテンダント呼び閉めていただくこととする。嫌な客だと思っただろうが彼らの行き当たりばったりの誠意のなさ。

十一月十六日(火)快晴。一昨日よりテレビのワイドショウは朝も昼も午後も延々と皇族の女宮の結婚のつき報道?続け結婚相手となる都庁にまでテレビカメラとリポーター押しかけ都庁職員の職場での同行につき報道?加熱。それを延々と見続ける視聴者の存在。脳が腐るもよくわかること。昨日も薬師寺にて傘を「ちょっとこれ誰のよ?」と自らの団体の中で傘の持ち主捜しZ嬢がこちらの一行の傘と気がつき「こちらのです」と説明しても傘を手放さず自らの団体に持ち主おらぬことわかって謝りの一言もなく漸く傘をば突っ返すババアあり。身内には優しく他者にはエゴ通すこの躾の悪さ。こういったのがごまんといると思うと恐ろしきかぎり。ホテルチェックアウトの際にそのフロントの礼儀正しさと仕事の正確さ、郵便などいくつか送ること願えばその機敏さ、非の打ち所なし。何よりもフロントにスタッフが働くを統率するマネージャー氏が全てに目を配り余が玄関に動こうとすればスタッフの手の足りぬを見てさっとフロントから出てきて客をタクシーまで見送るマネージャー氏の立派さ。こうした人がきちんと仕事するホテル。二、三千円、五千円高くとも気持ちよく過ごしたければまた京都では此処を選ぶであろうと納得。京都ブライトンホテル★★★★★。タクシー自動車雇い京都駅。のぞみに殆ど抜かされぬ奇妙なひかりで昼すぎに東京。タクシーで銀座。Z嬢と別れまずは喫煙具の小松。小松自家製のパイプ購ふ。文具の伊東屋にて独乙ペリカン製の携帯用万年筆と換えインク購入。Z嬢と三越前に待ち合わせタクシーで日本橋室町。砂場にて蕎麦食す。業界風のオヤジ三人で卵焼きも焼き鳥も三人前ずつ注文し、蕎麦屋の酒のつまみなど一皿を一口二口つまむもので、それで腹一杯にしてどうするものか。余には卵焼きの出汁と甘さ強すぎ「もり」はよいが「かけ」は蕎麦汁濃すぎて何如ともし難し。神田駅まで歩き指定券の乗車変更にみどりの窓口に並べば行列無視してカウンターにて「コインロッカーが開かない」と苦情言うオヤジあり。恰度余の順番の前で「みんな並んでいるんですよ」と注意するが「急いでいる」「飛行機の時間に間に合わない」「こっちは急ぎ」とてんで相手にならず。「JRともあろうものがあんなコインロッカーじゃどうしようもない」と結局JRに必要以上の期待感ありか(笑)。そもそも此処は座席指定券の発売場所でありコインロッカーの管理は関係ないのだがみどりの窓口の職員も職員で青いものだから自らが席を立ち座席指定券求める客を蔑ろにしてそのコインロッカーの確認に行ってしまふ為体。こういう自分勝手なオヤジなど極刑に処すべきだが職員も「ロッカーのことでしたら駅の××で」と基本的な応対もできずどっちもどっち。山手線より特急スーパーひたちで水戸。両親に迎えを請い自動車で大洗海岸の嘗ての大洗荘、現在は大洗シーサイドホテルに投宿。水戸商業高校で甲子園に出場し兵役の後に早稲田大学野球部で活躍、戦後は早大野球部監督として長年指導に当たる石井籐吉郎(九五年に野球殿堂入り)の実家がこの宿。太平洋一望の風呂場。晩に妹も食事にみに来宿。酒は地元の「月の井」飲む。海上の三日月の月佳し。初めて古館の報道ステーションだかニュース番組見る。司会ぶりの拙さお話にならず。筑紫哲也のニュース番組に楽天の社長出演しプロ野球改革への目標として「ドラフトウェーバー制」「サラリーキャップ」「エクスパンションドラフト制」など掲げるが全く意味もわからず。

十一月十五日(月)雨。梅田より地下鉄御堂筋線で難波。近鉄線快速で西大寺経由西ノ京。少し時間あり薬師寺参観。修学旅行でごった返す境内想像せば閑散。入場口のおじさんらの好意で本日移動のためリュックなどある余とZ嬢のため荷物は置かしてくれ傘持参なき一名のため傘は貸してくれる厚意。午前十時に唐招提寺。平成廿一年迄の金堂修復工事中にて旅行前に今回のツアー目的説明し奈良県文化財保護事務所の厚意で修復現場内部の参観許可を得たり。同事務所唐招提寺出張所の技師Y氏が忙しい中九十分に渡り金堂のすっかり建物取り除いた現場の地層から石灰岩と柱下には花崗岩用いた床、檜の柱の構造、版築という工法、笹繰、和釘用いる理由、瓦の製法の奈良でも僅か五十年での工法の違いなど説明頂き曾て五重塔があったと言われる寺社東の柱などの修復工事場所の内部も見せて頂く。模型も見事な作り。雨あがりの庭に黄葉も映える。新宝蔵にて金堂に据えられた仏像拝み何といっても白眉は特別陳列の國寶「金堂の隅鬼」と一対の鴟尾。隅鬼は奈良の金堂建立当時の実に見事に木心をば知ったじっくりと坐る三体の鬼に比べ江戸期の修復で取換えられた一体はあまりの粗悪さ。今回の平成の大修理も屋根は百年、建物も三百年後には建て替えが必要で、この見学を通して知ったのは金堂のあの見事な建築は屋根の張りの豊かさも、その張り出しでいかに大きな力が柱にかかり建物の構造の負担になるか、それゆへ建て替えが余儀なくされ、日本建築の美しくも恒久性なき如何ともし難き現実。ふと思い出したが金比羅宮で感じたことだが神仏に熱心に参るはいいが、それに未来の安泰など願い、一番の問題は現実の生活の中での問題について改革をば考えず自己に課題与えぬこと。神仏祈願より現実で己の考慮と実践が必要なこと。唐招提寺で今回ご一緒せし一行と別れ独り近鉄西ノ京駅より橿原神宮前。タクシー自動車雇い岡寺。天智天皇の岡本宮の跡地。弘法大師による建立の岡寺に塑像仏拝む。庭の紅葉見事。坂の茶屋にて蕨餅と善哉。歩いて坂を下り岡本寺。父母も懇意にさせていただくお寺にて宿坊にご挨拶。ご住職は普段は岡寺に勤められるそうでお会いできず、だが岡寺の本堂に確かにK住職らしき方あり。奥様に自動車で送られ橿原神宮前駅。急行で一路京都。天気すっかり晴れる。寺町通の桜湯に浴し酒場サンボアにウイスキーソーダ二杯。客は余のほかにおらず。同じ寺町通の小野数珠店に寄り手首につける数珠の紐の端解けた際の結び方を習ふ。Z嬢は唐招提寺より奈良市街に出て先に京都に来ており、がんこ寿司の経営する和食屋の河原町店にてZ嬢とZ嬢の妹夫婦息子君らと再会。鍋。午後九時にZ嬢妹家族と別れZ嬢と祇園。若松に食す。いつもながらに京野菜、刺身、焼き魚に炊き込みご飯まで食すに満悦。酒は金鶴。若松の女将さんに送られタクシー自動車雇いZ嬢先にチェックイン済みの京都ブライトンホテルに投宿。Z嬢曰くタクシーにてホテルにつけばドアマンの対応から名前を聞きフロントに先に走る職員の機敏さ、フロントではすでに予約確認済みで対応素早く部屋の広さも使い勝手の良さも格別と。実際に部屋に入ればその通りでリネンからベットの作り、寝心地まで実にお見事。

十一月十四日(日)晴。朝六時半より露天風呂に一浴。八時にホテルの送迎バスで琴平町内の同経営の大きなホテルに荷物預け金刀比羅宮参拝。土産物屋街抜け石畳登り始めれば注意書きの看板も達筆(写真)。神馬は廿九歳と香港ジョッキー倶楽部で馬主であるA君の御両親も驚く日本一の長寿馬(写真)。今回の短い日程にて金毘羅様まで足を延ばしたは百二十五年に一度で平成大遷座祭あり奥書院特別公開あり。今回逃せば百二十五年後では見れるわけもなく円山応挙の襖絵、若冲「花丸図」や岸岱「群蝶図」など惚れ惚れ。庭も見事。本宮まで登る。現実に時間切れで奥宮は断念。金毘羅さん金毘羅さんと世間では親しいが実は金毘羅が何か多くの人はよくわかっておらず。大物主神を祀る琴平神社が本地垂迹で金毘羅大権現と改称し平安末期に崇徳天皇を合祀。江戸時代には参詣者も爆発的に増え応挙の襖絵を据えるほど。それが明治元年に政府の神仏混淆廃止で元の神社に復り「宮号を仰せられ」金刀比羅宮と改称。とここまでが金毘羅宮の説明だが、要するに、大物主つまり大国主命をば祀るといふ点がまず出雲神社系で伊勢に対して非常に興味深いのだが其処に崇徳帝といふ保元の乱で敗れこの讃岐に流され失意のうちに没くなった帝をば神と祀ったことで金毘羅さんが伊勢の主流派に対する明らかな「野党的な」神社で而も神仏合祀する寺社として庶民の信仰集める実に興味深き存在。それゆへに明治政府にとっては国家神道徹底に於いてこの金毘羅さんを手中に収めることは実に重要。でどうにか配下に置いたものの今でも金比羅本教大教会といふ伊勢神道とは教派を異なる神道であり現に昭和四十四年には文部省より教派神道神道宗教法人として指定受ける。であれば是非とも伊勢神道に対して個性的な「神道の阪神タイガース」的な存在を見せてもらいたいものだが、社務所の看板には「この神を通じて全国の教信徒に国家の良民たる教化育成と宗教活動につとめ」などと書かれているのを見ると明らかに「囲われてしまった」感じあり。昭和二十五年にはまだ占領下にありながら昭和天皇は全国行幸のなかこの金比羅宮にも参拝しており天皇が参られることでこの非常に個性強く庶民の人気高き反主流派の宮をばどうにか手中に納めておくことの意図明らか。参道下れば昼近し。わずかな自由行動にまずは参道の西野金陵酒造で金陵の純米酒購い空港に宅急便で送り散歩すれば昨日Z嬢がタクシー運転手に一番美味いと聞いていた「狸」なるうどん屋見つけ恰度近くでZ嬢とばたたりと遭い、予約した参道の観光客相手で有名な虎屋予約していたが、まずは狸でうどん食す。美味。虎屋にもどり更にうどん食す。金比羅歌舞伎で有名な金丸座見学。普通の観光団体なら十五分もあれば十分な芝居小屋も美術関係者では三十分見ても足りず。午後二時過ぎにJR琴平駅。日曜でトロッコ列車なるものあり座席指定券買ってから今回は「アンパンマン号」なる列車であること知りぞっとしていたが三両編成の列車は先頭車両は普通のグリーン車並みの列車で二両目がアンパンマン仕様(写真)、最後尾がトロッコ仕様にて瀬戸大橋にかかると入場許され展望格別(写真)。乗車券の他に五百十円の指定席料金だけでけっこう興趣あり。岡山で新幹線に乗り換え午後六時前に大阪着。再び新阪急ホテルに投宿。前回懲りてブロードバンド接続可の部屋予約しておいたが部屋に入れば補助ベット固定された三人部屋で確かに接続は可能だがツイン予約にこれぢゃ驚きフロントに電話せば「間違いなくブロードバンド接続の部屋とのことでお取りしておりますが」との説明。ですから確かにそれはそうだがツインがトリプル、と言えば、どうぞお使いください、と(笑)。ツインのサイズの部屋にベッド一つ増えては何が「どうぞ」か、狭くだけ。ツインの部屋では用意できず、と。それならまずチェックインの段階で客に確認すべきこと。それにしても三人部屋はブロードバンド設備あり、とは、通常、こういったものが必要なのはシングル、次にツイン、Z嬢の言う通り三人部屋などというのは女三人のかしましい小旅行か子供連れでブロードバンドなど最も必要とせぬ客のはず。晩に香港から移りバンコク在住のY氏が恰度大阪に戻っておりホテルロビーに来ていただき鶴橋に出て鶴一本店にて韓国焼肉ご馳走になる。炭火でさっと火を通してのホルモン、テッチャンなど美味。Z嬢と三人でビールピッチャー1杯、マッコリ酒2本。家族連れで鶴一まで来て息子二人は漫画読みに夢中、母親はケータイでメールで父親ぼんやりの光景眺める。店内には携帯はマナーモードで、と張り紙多いが呼出音の規制より店内でのメール禁止とでもすべき。Z嬢とホテルに戻り寛いでいてふと思い出したのはJRの指定席の予約。今晩中にしておかねば二人でJRパス一緒に持ってみどりの窓口訪れるのは明後日となり慌ててJR大阪駅に戻れば午後十一時五分前。窓口すぐ空いたが乗車日も行き先も異なる4つの列車の予約あること告げると駅員も途中で午後十一時で機械停止の恐れありと言いつつ余の最近は慣れぬ日本の列車だが口頭での注文に駅員見事に応じて4本の列車の指定席発券僅かに三分。JRパスといへば今どき新幹線の料金も「のぞみ」と「ひかり・こだま」で殆ど大差なく本数でいえば圧倒的にのぞみ主力でひかりなど一時間に二本の状況でなぜJRパスでは未だに「のぞみ」乗車を許可せぬのか。JRにしみてれば一種の周遊券であり無制限に特急に、しかもかつての周遊券と違い指定席で乗れるだけでもお得なのだから少しは我慢、か。だが海外からの旅行者に日本の看板列車に乗せず非主力列車で不便に旅行してください、では恥ずかしかろうに。
▼環状線の吊り広告に十二月京都南座顔見世の広告あり。海老蔵襲名披露の最後でこの興業に父・團十郎は昼に「お祭り」夜は助六のくわんぺら門兵衛で出演。先日の朝日新聞に巴里公演ですっかり頭髪なき顔はふっくらとした成田屋の姿あり。髪も顔の丸みも疾病と薬の副作用かと思いつつ表情の明るさにさすがこの人だと敬服。息子海老蔵と並んでも数年前よか断然の風格あり。

十一月十三日(土)快晴。朝八時前に宮浦港より町営の路線バスでBenesse Art Site Naoshima訪れる。宿泊施設のパオなど点在するシーサイドパークの近くに草間女史の巨大なカボチャあり。草間女史の秘書兼助手長く務める小学から高校までの親友T君がそういへば十年近く前に瀬戸内の小島に宿泊施設もった美術館が出来て開館早々に草間女史の展示あり此処に長く滞在と語っていたこと思い出し当時月刊太陽だかにも記事あり。あれがこの直島だったかと今になり合点。ベネッセハウスに入る。安藤忠雄の建築。展示される作品も寧ろ無くしてこの建物空間だけでよいのでは?と思うほどの安藤忠雄らしさ。美術館でありながらここに一晩滞在することで、この空間をば居住空間として体感できるのだが宿泊の予約は数ヶ月先まで満室。それゆへ昨晩は直島宮浦港の旅館に泊まる。山の上に位置する別館までリフトカーにて昇る。部屋からの瀬戸内一望する眺めは絶景。ツインで一泊二万七千四百十円也。高いか安いか。ラウンジあるが営業しておらずビールの自動販売機。浜辺に蔡国強の文化大混浴なる石配置した露天風呂あり。一人六百円。施設造ったものの周囲の林の手入れ荒れ「手に余る」状態。但し『美術手帖』の直島特集で安藤忠夫の手記を読めば安藤が初めてこの島訪れた頃は鉄の精錬の影響ですっかり島の土地は荒涼として草木もなく当時に比べれば如何にこの十五年ほどで木々が育ったことか。シャトルバスでこの夏開館の同じく安藤の手による地中美術館訪れる。駐車場横の切符売り場で財布だの除き預け館内での撮影、携帯電話の使用せぬこと誓約書渡される徹底ぶり。一連の「睡蓮」の絵が並ぶモネの部屋。モネの絵を庇護ふ反射の殆どなき透過ガラスの美しさだけでも感嘆。床の大理石の立法体72万個だか敷いた床も何ともいへぬ柔らかさ。柔らかな間接の太陽光。Walter De Mariaの部屋は2m余の石球に天井に開いた長方形の窓から見事な秋空と流れる雲が映る。心地よく部屋を巡るがJames Turrellの部屋は太陽光とは一切関わりなき照明の空間で中に入る際に係員に「壁に近づくと音が鳴るようになっております」と言われ、そういふ仕掛けかと思ひ誓約書の3に「その他、係員の指示に従います」とあったので(笑)試してみようかと壁に(誓約書の1にある)触らぬ程度に近づけば実は「余り壁に近づくな」の意味のセンサー反応の野暮な音の警報チャイム鳴る。このセンサーも係員の説明も呆れる。昼に美術館のカフェで余り上手くもない肉料理。ビールと生ハムだののセットもあり「Alcohol Plate」といふ名前に笑ふ。ベネッセハウスといい地中といい若い職員ばかりで若々しさはいいが彼ら統率し仕事まとめるSupervisor格の職員がおらずちょっとのことで参観者の何かに対応できず右往左往。午後のバスで宮浦港に戻り高松行きのフェリーに乗る。瀬戸内の静かな海を一時間。やけに綺麗に整備された高松市街眺めほんの五分ほど歩き琴平電鉄高松築港駅。城跡のお堀横のこの駅から琴電に乗れば電車は市街を通り抜け地方都市でこうして市街走り抜ける市電とその混雑に今では感慨すらあり。余の故郷の街もかつては市電が走り商店街の賑わい歩道に人濫れるほどが自動車交通量の増加で市電廃止が四十年近く前、八十年代には已に旧市街の商店街から人が遠のき今では言葉絶する閑散ぶり。高松の市街も電車の車窓から眺めれば小さな店は閉業多し。琴平駅に着きタクシー雇ひ今晩宿泊のレオマの森なるテーマパークにあるホテル。二週間前に急遽この旅行決まり十一月の週末に琴平の市街に十二名の部屋取れず旅行社に何とかと勧めらる。タクシーの運転手氏に聞けばバブルの頃に七百八十億円だか費やし開園当初はかなりの訪問者あったがバブル崩壊ですっかり寂れ三年前だかに開発会社倒産し閉館。二年を経て香川の代表企業加ト吉だの琴平の旅館大手だのが再建に乗り出し数ヶ月前に復た開館とか。運転手の話では大阪まで乗る客も珍しからず六万円の車代も四人なら一人二万円、僅か三時間で自宅前まで。大阪からならタクシーは五千円超せば半額といふ車なら四万円ほどで琴平とか。ホテルに着けばA君の兄上氏上海から関西空港に着き岡山経由ですでに投宿済み。健康ランドの如き温泉に浴しビュッフェ形式の夕食。讃岐うどんなどもあるが日本食には詳しくうどんを一玉二玉と算えるほどの今回の同行者らには一口で製麺工場製のうどんは頂けず。地ビールなど飲むが食堂出て「金陵」をば飲むを忘れたと黒服君にルームサービスは無いだろうからここで精算してしまふのでコップ酒一杯部屋に持ち帰ってよいか?と尋ねれば「ルームサービスは……」と要領得ず先輩に「お客様がルームサービスで」と尋ね余は「いや、部屋で飲むのに」と二言で先輩要領得る。部屋で金陵飲みテレビぼんやりと見る。金子光晴の『どくろ杯』少し読む。関東大震災について光晴は「あの時が峠で、日本の運勢が、旺から墓に移りはじめたらしく、眼にはみえないが人のこころに、しめっぽい零落の風がそっとしのび入り、地震があるまでの日本と、地震があってからあとの日本が、空気の味までまったくちがったものになってしまったことを、誰もが感じ、暗黙にうなずきあうよう」で「乗っている大地が信じられなくなったために、その不信がその他諸事万端にまで及んだ、というよりも、地震が警告して、身の廻りの前々からの崩れが重って大きな虚落になっていることに気づかされ」「この瞬間以来、明治政府が折角気づきあげて、万代ゆるぎないつもりの国家権力のもとで、心をあずけて江戸以来の習性になったあなたまかせで安堵していた国民が、必ずしもゆるぎのない地盤のうえにいるのではなかったことを、おぼろげながらも気が付きはじめたように見えた」と述べる。荷風ともまた違った書き味ながら震災での危機感同じくするもの。その震災の上に昭和のあの時代を経て先の大戦で国家は負け、その虚構の上に成し遂げし経済成長のその成りの果てが今の世か。

十一月十二日(金)朝起きればすでに雨あがり曇り空。ホテル地下の食堂にて朝食に昔懐かしで阪急百貨店大食堂のカレーライスもあり。チェックアウトの際に二日後の投宿予定にセイフティボックス利用しようかとフロントに請えば現金など仕舞った際に「中に生ものと入ってませんよね?」と尋ねられる。真剣なのか上方だからのつっこみか。一瞬アタマ空白となり「ウニ、入ってます」と答えるが「そんなわけないがな」といふ冷視線。なぜそれぢゃセイフティボックスで「生もの」とフッてきたのか全くわからぬまま振り返れば松篁の大きな歴史物の画。シュールなる世界。一行十二名でJR山陽線で灘。建物眺めふと思えば大阪より神戸に向かうは阪神大震災のあと初。灘駅より歩いて兵庫県立美術館。英語のKobe Prefectural Museumは国立博物館がNational Museumゆへ県立だからprefectureを形容詞にしてのものだろうが英語としてヘン。素直にKobe Preceture Museumでよし。安藤忠雄の建築。午前十時の開館寸前に着けば入り口に小学生の団体おり昨年の巴里思い出し和む風景ながら唖然としたのは参観先が特別展「Louis Vuittonの意匠展」とはさすが神戸(笑)。平日の昼前も「いかにも神戸、芦屋」のオバサンと娘など多し。常設展の中の横尾忠則の絵画1966-96から見る。三島由紀夫が横尾を「サーカスの綱渡りの少女のスパンコールをはりつけたパンティに感じられるような、あるパセティックな厳粛さ。」と三島らしい言葉豊かだか一向に実態の感じられぬ文章。「われわれの故郷である子宮は、このように歯をむき出して、人を威嚇しているのである。」といふ表現など形容から四十年近くも経てば陳腐なだけ。横尾先生の柴錬の「うろつき夜太」の絵など見て横尾先生も絵が上手かったのだと今になって知る。横尾先生の描く三島由紀夫の写真「聖セバスチャン」の絵「理想と現実」には三島の肉体の前にその肉体をば照らす電灯が象徴的に描かれているのが面白いわけだが、これが描かれたのが三島死後も二十年の94年では面白さも半減。村岡三郎の「鼓動する物質」は手で触る造形でゴビ砂漠だか近くの塩の数メートル大に削岩された巨大な柱!であるとかを手に触りその感触を楽しむ。あとで盲人の団体の参観に出会いこれを訪れたらしき。それにしても気になるのは展示室の美術館員の紫の制服がセンス悪く彼女たちの坐る椅子の下に必ず置かれた非難誘導用の赤い大型電灯も気になる。非常灯、なぜここに位置するかと驚く、順路正面にある非常口の扉。A君と非常口の案内灯など天井近くにあっても火事で煙充満せば何も見えず寧ろ普段は何も見えぬ床に緊急の場合は誘導路への矢印でも灯るほうがよっぽど実用的、と話す。館外をひとり歩く。安藤忠夫の建築もその建物の空間の向こうに全くコンセプト異なる中学が見え六甲の山を隠し臨海の大階段は坐ると運河の向こうに倉庫街。水戸芸術館ほどの周囲との乖離には負けるがこの大地震後の開発地とて美術館が周囲から浮いてしまふことの問題は原因は行政なのか文化なのか。阪神線の旧線の線路越えて灘駅に戻りJRで三宮駅。生田新道の「(たちき)」といふステーキ屋にて神戸牛堪能。僅か十五分のみ東急ハンズ三宮店。文房具コーナーに来年の手帳並ぶがFilofaxもTimeSystemも八十年代のアイテム姿消し効率よき生活望む清教徒ブランドのフランクリンパートナーのシステム手帳並ぶを見る。わずか一駅240円の市営地下鉄で新神戸駅。新大阪発でも満員で立ち席のひかり号で岡山。車内一番端の座席と壁の間の隙間にトランクありその上にリュック置いたらオバサンが「ちょっとそこに荷物置かれたら困るのよ」と渋谷の若者よりずっと怖い。隣の喫煙車輌では立ち席の者まで喫煙に忙しく火事場の如し。この車輌に子供連れて乗る親。岡山より瀬戸大橋線で茶屋町。乗換て宇野。宇野といふ港町はもっと賑やかを想像したが鉄道がぷっつりと断線するのは本四連絡船もなくなり主力の自動車載せるフェリーもすっかり本四連絡橋に客を取られたからの宇野の寂しさ。かつて連絡船の乗客に賑わったのであろふ商店街の旧墟。四国汽船フェリーに二十分余で直島に渡り宮ノ浦港。歩いて一分のみなとや旅館に投宿。商人宿。今の主な客は島北に位置する三菱マテリアルの精錬所とか。明るいうちから風呂に入りテレビぼんやりと眺め夕食は鯛の刺身に見事な蟹までついてさすが瀬戸内の宿と皆で堪能。日本酒二合。TBS系のお笑い番組で太平サブローの横山やすしでやすきよの漫才見てテレビ東京系の「でぶや」見てカルト「金八先生」は教師自らを被害者にして子供脅迫しドスきかせ生徒萎縮させ反省させ怒らせ結局は一致団結のソーラン節だけを十五分ほど見ただけで午後十時半に寝る。

十一月十一日(木)晴。キャセイパシフィック航空506便にて一路大阪。今回は香港大学博物館総監のY夫妻、同館長の畏友A君とその御両親、博物館関係者の四名とZ嬢がまず集合。台湾上空は晴れ中央山脈の絶景から日月潭など眺め「あそこが二水、埔里の街、あの山の向こうの集落が霧社、あの山の向こうが廬山温泉とこの八月にZ嬢と旅した台湾を手に取るように眺める。大阪への着陸は雨でかなり機体揺れる。関西空港JR駅にてJRパス受け取り特急「はるか」では新大阪から梅田に戻るのも億劫で空港快速にのんびりと梅田に向かふ。機中から先日知人にもらった(まず自分では買わぬ)堺屋太一の『平成三十年』なる小説?一読。香港がかなり舞台となる。九十年代末に書かれた物語で香港は長い不況を経て2007年だかの頃に中国の人民元が香港に撒き散らされ好景気となる筋立てだが現実には昨日読んだ田村秀男氏の本にもあるようにこの「香港マジック」は現実には昨年03年にすでに展開あり。この平成三十年にでは日本はどのような時代を迎えるかといふと結局は今年から見ても十四年後!にようやく日本経済システム大改革のための政党大編成による織田内閣だかが生れて、とそれぢゃそれでどうなるかと言うと堺屋は何も語っておらず。それだけ。空港快速が環状線に入り二百頁くらい飛ばし読みして読了。大阪駅でエスカレータもなく荷物抱え階段を上り下りして新阪急ホテルに投宿。客室にブロードバンド回線もなく今更日本でそれも驚かぬがモデム接続しようとして「ガウチョ〜!」は昨年秋の巴里旅行の失敗繰り返さぬようにとモデムカード準備してきたもののこの夏に台湾でノートブックがシステム破綻した後に復活させた際にモデムカードのドライバ入れておらず。ブロードバンドで繋がれば自動的にドライバ組み込まれるがそれも出来ず真っ青。昨秋の巴里、この夏の台湾でのシステムクラッシュに続く三度目の失敗。フロントに尋ねれば当然ワイヤレスLANもなくPC接続可の、それどころかビジネスセンターすらホテルになし。ホテル向かいのヨドバシカメラ梅田店にネットカフェありと教えられノートブック持参で訪れればPC並ぶものの個人のノートブック持ち込みお断りで外のテラスならワイヤレス接続可とのこと。一瞬安堵したが「会員登録はお済みですか?」と尋ねられEOSだか何かの会員登録で五百円払い書類に必要事項記入して……との説明で夕食の集合でタイムアウト。ホテルに戻り皆さんお連れして地下鉄御堂筋線で心斎橋。僅か三駅の距離で二百三十円=HK$15とは堺屋の『平成三十年』か、これは。御堂筋の商店街流して道頓堀。松竹座は昼は大和屋、夜は染五郎。法善寺横丁の入り口、串焼きの「たこ政」にて串焼き。たかだか串揚げが大阪だとなんでこんなに美味いねん。サッポロの生ビールもやはり香港とは比べものにならず。あれも食べたいこれも食べたいと思いつつ散歩して難波より御堂筋線で梅田に戻りホテルの甘味処でY氏夫妻らと数名で善哉など。中座してホテルのフロントで聞いたJR大阪駅のネット接続屋に出向く。此処もPC持ち込み不可。ホテルのフロントでヨドバシカメラばかりかJR大阪駅もいずれも持ち込み駄目やねん、どこか繋げるとこ教えてぇな、と三度尋ねJR大阪駅のホテルグランヴィア大阪ならロビーで繋がりますわぁ、と調べてくれたのでそのホテルに出向いたがロビーで宿泊客でもないのにネット接続は失礼かとロビーカフェで珈琲頼みいざ繋げば承認必要。このホテルのスタッフもネット接続環境のことなど全く理解しておらず新阪急ホテルで教えてくれたのはどうやらDocomoだかの会員専用接続の場所らしき。珈琲料金七百円。ふと新阪急のフロント君が「そういえば以前もそんなお客さんいらっしゃってヒルトンホテルのロビーで使えた、言ってはりましたわ」の言葉思い出し大阪ヒルトンホテル。またロビーのカフェで珈琲代損するのが怖いのでロビーのソファで堂々と接続試みれば反応の気配もなし。コンセルジュに尋ねれば「ワイヤレスLANにする計画はあるんですが」と。時間は午後十一時近く香港なら星巴珈琲などいくらでもワイヤレスLAN環境のカフェあり堂山のほうまで繁華街をば逍遥うが飲み屋とゲームセンターばかりで星巴珈琲の店すらなし。十一月なのに夜になっても歩いていると汗がだらだらの暑さ。ホテルに戻り何処も駄目ですわぁと語れば「ヒルトンさんも駄目ですかぁ」「高速ブロードバンドのある部屋もあるにはあるんですが」と。再び「ガウチョ〜」。それを先に言いなはれ、アンタ。恰度予約の客がまだチェックインしておらぬ部屋があるので短い時間であればお使いください、と「それ先に言ってくれなはれ」の世界。呼鈴ボーイ君がその客室で余がネット接続しとにかくモデムのドライバのインストール終わるのを待つ実に「まんじり」とした十三分間。無事インストール終わり部屋に戻りNHKの音楽番組で弔野清四郎先生の五十代のロック聴きながらモデム接続試みればウンともスンとも言わず。午後便での畏友A君もカナダから成田経由でのC嬢も投宿と聞く。これで一行十二名揃ふ。風呂に入り、風呂場は洗い場がある日本式、なぜ日本のトイレのウォシュレットは時計までついているのか不思議に思い、再びモデム接続試み結局は受話器上げて手動でダイヤルして反応音出たら接続しずっと受話器は上げたままピーヒョロヒョロの音を聞きながらなら接続可。いくつか急ぎのメールなど応えて日記綴れば深夜一時。深夜大雨。

十一月十日(水)早晩に国際免許手続きせむと金鐘の免許センター訪れれば午後四時で閉る。銀行ですら午後五時まで営業の時代にこれか。上環のT旅行代理店に早々と来年旧正月の旅行の航空券受け取り。近くの海安珈琲室に喫す。海産物だの翡翠、象牙など売る店々を眺めながら中環に戻り三聯書店にて『香港影視業百年』と畏友欧陽應霽君の『回家真好』と続刊購ふ。欧陽君一昨日電話せば現在名古屋にてワークショップ開催中。FCCにてドライマティーニ飲み競馬予想済ませ中環の場外にて馬券購入し帰宅。昼に修理停電あったらしく何故かケーブルテレビのブースターのみ電気入らず。競馬中継見れぬがネットで結果見れば全く擦りもせず。荷造り。田村秀男氏の『人民元・ドル・円』の残り三分の一ほど読む。田村氏来港の折には是非お聞きしたきこと多し。

十一月九日(火)昨日に続き通りがかりで早晩太古坊のEast Endに麦酒一飲。今日はドライマティーニをと思ったがバーテンダーのW君余が道の向こうから歩いて来るのを見かけすでに生麦酒注ぎ始めており万事休す。新聞読めば五日の信報で唯霊氏が加藤の刺身の話を書く。それまでトロだ鯛だと所謂高値の魚しか知らなかったが加藤にて鯖だの秋刀魚、柳葉魚まで生で食せば如何に美味かを知り……といふ内容。この記事を加藤のご主人知るかどうかと気になり麦酒飲み終えその足で晩の開店間際の寿司加藤に往く。ご主人も女将もこの記事のこと知らず新聞差し上げ忙しくなる前の店で歓談。Z嬢から電話あり偶然にも歩いて五分ほどのところにいることわかりZ嬢も来店。新しく入った板前のN君は懐石など得意とし生チーズの酒盗和えなど供されこれが純米酒に合うので驚く。その酒盗がとても美味いので捨てるのが勿体なく最後に焼いた餅に塗ってもらふ。想像通りの美味。細魚など寿司を食す。

十一月八日(月)早晩太古坊のEast Endに麦酒一飲。バーテンダーのフィリピン人W君と談話。示し合わせた如くI君現れる。米国大統領選にてI君と賭けをなし「厭厭ながら」ブッシュ当選と告げていた余にI君より律儀に奢られる。燈刻Z嬢と珍しく太古城シティプラザに足を踏み入れ雲南料理の「阿詩瑪」に食す約ありI君も誘ふ。菌類の料理美味と唯霊、劉健威など美食家諸氏誉める店。確かにこれだけの菌類をば香港にて供す食肆珍しきところ味付けは湾仔六國酒店の粤軒をば髣髴の如何せむ「パンチの効かぬ」萬人ウケの「やはりシティプラザにありなむ」可もなく不可もなきもの。給仕頭の粗忽ぶりも雲南葡萄酒の未成熟ぶりもどこか一つのハーモニーをば成す。
▼ブッシュ当選後の『華氏九一一』マイケル=ムーア監督のサイトに北米の新しき地図あり。ブッシュ支持するJesuslandの出現。そこから逃げカナダ合衆国に入る米国東部と太平洋岸州。

陰暦九月廿五立冬。昨晩まで一昼夜山を登り下りの100km縦走をば三年ぶりに行つたが今朝は朝七時に覚醒め足首の関節多少痛む程度で気分爽快。昼まで山歩きの荷物だの片付けこの催事関係のメールだの写真だの整理。ところで自宅のネット環境が三日の夜不調になり地場プロバイダNetvigatorのシステム環境の変更があったものの通信不通の直接の原因ふと気づけば自宅の無線LANなどのルーターにて設定変更要する筈でそれに五日の朝に気づき通信復活できたもののTrailwalkerの時間にかなり逼り慌ててタクシーで携帯電話置き忘れ。数分後に気づいたが次の客に拾われSIMカードは当然抜かれたようで音信不通。その日の昼には銅鑼灣あたりの路上の中古バイヤーで買い取られていることか。で本日は昼に軽くとMacon-Lugnyの02年の白葡萄酒。明太子のパスタ食す。午後九龍に渡り知る湯屋に按摩。お湯につかり昨日の疲労も何処へかと去る。早晩に中環のCSL商店。携帯は五日Trailwalkerのスタート時間緊迫する中で畏友M君に電話で頼み通話止めてあり本日携帯電話機の購入とSIMの再発行。電話機は結局、デジカメが使えますのMP3内蔵ですのメールが読めますだのといふ電話にあるまじき附属機能多い電話は余は好まずNokiaでそういった付帯機能ない中では真っ当な、失くしたのと同型の6100を再び購入。その場で使用可能。手続きから購入と使用開始まで二十分程度。香港ジョッキー倶楽部の中環の場外馬券場に寄り新しい携帯での電話投注(テレベット)の手続き。手続き終了待つ間にFCCにドライマティーニ二杯飲む。二杯目まだ少し残るうちに勘定求めれば請求のビルを見せるどころかまず余の目の前にまだ残るグラスの酒をさっと捨てられ若い給仕のそれに唖然。帰宅して湯豆腐。菊正宗二合。
▼金曜日からの新聞ぱらぱらと捲れば小泉三世盟友ブッシュ某の当選に「大したもんだね。これだけ世界から批判されて、国内のマスコミの大批判に耐えてね、指導力を発揮されて、大したもんだ。見習わなきゃいかん」と。海外の多くの国や人々、国内のマスコミと半数の国民に批判されての指導力とは何か。ブッシュ某は当選祝賀での挨拶で「わわわれはリベラルもインディペンデントも協力してテロリストから国を守らなければならない」と宣ふ。テロという仮想の敵の存在。繰り返し繰り返し架空の敵との戦いについてテレビモニタから流れ人々洗脳されうる半世紀前のSF小説の如き世界。言葉遊び。それに対して新潟地震の被災地訪れた皇后の言葉は「生きていてくれてありがとう」と一瞬不思議に聞こえる物言いながら「ありがとう」が「ありがたく」の音便で元々は「有り難い」の派生語だと思えば「あの惨禍の中でこうして生き延びられたことがありそうもないこと、それだけ幸いであること」が「有り難い」のであり、あの場で被災者に述べる言葉としては「大変でしたね」などよりどれだけ所謂「心のこもった」言葉であるか。
▼陶傑氏が蘋果日報の随筆で(四日)、今回の大統領選挙はマクドナルドバーガーキングのどちらがいいかを選ぶ如し。本人の政治家としての力量でなく第三者が「据えておく」といふ点ではブッシュも香港の董建華長官も同じ。但し「董建華是一個失敗的布殊、布殊是一個成功的董建華」との指摘は言い得てて妙。

十一月五日(金)〜六日(土)三年ぶりにOxfam Trailwalker2004(毅行者2004)に参加。午後十二時半に西貢北潭涌を出で全行程100km無謀にも一切走らず歩き通した場合の最速である廿四時間にて屯門に至る予定。上手くいけば六日(土)昼過ぎには屯門掃管笏のPerowne Barracksに至る(はず)であったし前半は予定より一時間も貯金ある順調だったが実際には余も同じ隊友もいくつかの困難もあり27時間58分で到着。終わってもゴールでの祝杯用にLansonのシャンペンの用意しシャンペン酒撒くようなF1ぢゃあるまいしそんな下品なことせず四人で一人一瓶づつ地味に味わおうといふ嗜好のはずが隊友I氏が振ったシャンペンがゴール横のゴール到着時間記録本部の最も重要な記録用PCノートにかかり係員真っ青。それにしても28時間山あり谷あり歩いてのゴールの三鞭酒の喇叭飲みの美味いこと。この日未明にすでに18時間を切ってゴールしている友人らの精鋭チーム、そして途中二カ所でサポートを組んでくれた皆さまらの祝福受ける。尖沙咀の新羅寶韓国餐庁にて完歩記念の宴会のはずが午後四時に個室予約してあり我らのゴール到着が予定より三時間半遅れたことで夜は予約満席で個室の確保遅らせず新羅寶断念。銅鑼灣の郷村韓国料理に急遽場所変更。晩七時より打ち上げ。マッコリ酒美味。万歩計見れば五日が七万三千八百二十四歩、六日が六万九千百歩で二日計十五万三千歩。

十一月四日(木)快晴。昨晩遅く自宅のブロードバンド繋がらずPCCWに電話のうえ係員の指示に従いいろいろ試すが余のPCの設定とハード面での接続に問題あるわけでなく(実施にメールは送信可)PCCWより職員派遣を要す面倒となる。明日より時間とれず日曜まで自宅ではネット不通。考え出すと苛苛するがネット繋がらぬことで精神的に打撃受けるほど中毒にならぬ訓練は八月に台湾で済ませてあり、数年前に全米でウイルス被害だかでかなりの電脳不通となった折にApple社の副社長だったかの随筆で数年ぶりにゆっくりと本を読み友に手紙を認ためたとあり。その気持ちが大切。畏友I君米国では「ハンバーガーの食べ過ぎは思考力育まぬか」、今回の選挙はまさにイラク侵掠などより同性愛者の結婚合法化や銃規制に反対する、映画『華氏911』観るのに飛行機での移動が必要な人たちか、と慨くが、ブッシュに投票した米国民は女性より男性多く田舎者でいわゆる白人のキリスト教信者が大部分。女性、都会民、黒人やスパニッシュ、猶太人、アジア人が圧倒的に反ブッシュ票。まさに米国の非常にホモフォビア的な(診断はこちら)、ラリー=クラーク監督の“Ken Park”に出てくる少年の父親的な、あれがブッシュ支持の型であろう。早晩にFCCにてひとり夕餉済ませ尖沙咀に出向く。

十一月初三(水)晴。米国大統領選挙開票。途中経過でブッシュ246対民主党候補195。結局、世界の全てが何処で決まるとかいふと米国の、紐育でも華盛頓でも東部インテリ州でもシカゴでもロスやシリコンバレーのあるカリフォルニアでもシアトルのあるワシントン州でもなく、結局は「韓国と日本が陸続きかどうかも知らぬ」米国中部の田舎の、旅券も持ったこともない米国が価値観と視野の全て、といった「ブッシュの魂」に共鳴してしまふ人たちによって米国の大統領が決まり世界の安全保障がその田舎漢らが推挙したブッシュなる史上最低の大統領に預けられるといふ実に最悪な、然し結局これが現実なのだ、と痛感させられるのが今回の米国大統領選挙。人間の理性も知性も判断力も結局はこの程度で、民主主義だの平和だのの限界ここにあり。四年前の選挙は明らかにイカサマであるが今回のブッシュ当選は明らかに米国民の判断。怖い怖い。余は四年前のブッシュ当選でブッシュ任期中絶対に米国に足を踏み入れぬと決断し「フルマラソンのデビューは紐育シティマラソン」と決めていたがこれも延期していたがまた四年延びては余の体力の尽き果てること確かで紐育でのフルマラソンデビューは実質的に無理となる。照準を香港に絞らねば。ブッシュのバカ野郎!と怒鳴りたし。せめてもの救いはイリノイ州にて連邦上院選挙で民主党のバラック=オバマ候補が7割!の票得て当選。オバマ君よりメール届く(といってもメールアドレス登録せし支持者全員にだが)
Dear Barack Brigade,
When we first began this improbable journey, nobody thought we had a chance. People said: "He can't win, he's got no money, no organization, and no one can pronounce his name." But you told them loud enough so that the whole state could hear: Yes, We Can!
And now, tonight, nearly two years later, you've made me the next United States Senator from Illinois, and all I can say is thank you!
Thank you for believing that government can help people find jobs that pay a living wage. Thank you for believing that government can make a difference in making sure that people don't go bankrupt when they get sick. Thank you for believing that there are better days ahead, and that together we can, and will, make a difference.
It is your abiding faith in the possibilities of this nation that make America a beacon of hope and freedom around the world - the same faith that gave my father the courage to leave Kenya to come study in America. And it is this same faith that I saw in a woman I met the other day named Marguerite Lewis.
Marguerite and I spoke at a rally on the South Side. She said that she wanted to thank me for running a positive race, and wanted me to know that she had voted for me. Ordinarily this wouldn't be unusual, except that Marguerite is 104 years old.
Since we met, I haven't been able to stop thinking about what she has lived through. Marguerite was born in a time when she couldn't vote not only because she was African American, but also because she was a woman. She lived through World War I, World War II, the Great Depression; she saw FDR lift up our nation with the New Deal, and she saw folks marching to eliminate the scourge of segregation.
And I thought to myself, if Marguerite Lewis, after 104 years, still believes she can make a difference, and if she isn't too tired to come to a rally, then we aren't too tired to fight to make sure that our kids have health care! If Marguerite Lewis, after 104 years, can exercise her right to vote, then we aren't too tired to fight to create jobs here in Illinois! If Marguerite Lewis can stand up for what she believes in for 104 years, then Yes, We Can too!
It took a lot of blood, sweat and tears to get to where we are today, but we have just begun. Today we begin in earnest the work of making sure that the world we leave our children is just a little bit better than the one we inhabit today.
Thank you again for your support.
Sincerely,
Barack Obama
だがこのオバマ君の当選もシカゴのあるイリノイ州であるからのこの7割の支持であり米国中部のブッシュ支持する連中にとっては「けっ、黒人だぜ」か。大統領選挙これで今後民主党候補の票が伸びれば接戦の州での良識の証明か。北角のOxfam事務所にて明後日からのTrailwalkerの記念TシャツO君らの分も含め購ふ。Trailwalkerの参加には1チーム(4名)あたり六千ドルの寄付金拠出が義務づけられており長距離走催事などでは当然の参加記念のTシャツすらくれぬのがOxfamのセコさ。北角の知る家に寄り帰宅し牛丼。米国大統領選挙民主党候補追い上げ未確定の票田オハイオ州焦点集まるが重要な事実は接戦予想されたこの州にブッシュが投票日当日大統領専用機にて乗り付け「テコ入れ」の事実。どういう「選挙運動」行われたか知らぬが四年前のフロリダの悪夢の再来は確か。ブッシュ実弟の牛耳るフロリダがブッシュの手に落ちた段階で辛勝であれ当選は確実になっていたがオハイオ州の怪しげな僅差の状況でブッシュのテコ入れあったと知りもはや殊勝も確実。蘋果日報が今日の朝刊ですでに「布殊殊勝」と一面大見出しあったがそれが事実に。勝谷氏が「この茶番劇に世界はこれからまた4年間つきあわされることになる」ことを「その自惚れが生んだ4年間の悪魔の時代が取り返しのつかない破滅へと世界を導かないことを祈るばかりである。まあ悪口書くにはブッシュの続投は助かるけどね。ケリーに期待する文章をここで読むよりは読者諸兄にとってははるかに楽しいかと(笑)。」と書いているがまさにその四年が始る。それにしても米国のブッシュ三世、日本の小泉三世に都知事石原と、人々の多くが疑問に感じる「指導者」君臨する事実。問題はブッシュ、小泉、石原本人にあるのではなく愚者政治に対して対抗馬を立てられぬこと、言い換えれば必然性あらば対抗馬現れる筈で現れぬは愚者政治こそ最も理想的といふ不可思議な認知、フランシス=フクヤマの『歴史の終わり』は実は東西冷戦の終結のあと悪の共産陣営より都合のいいテロリストといふトリックスターを用いて廿一世紀は見事な愚者政治の時代となる。フクヤマのその本の原題は「歴史の終わり」ではなく“The End of History and the Last Man”なり。

十一月初二(火)昼にメルボルンカップの中継あり。二連覇狙ふはMakybe Divaでそれぢゃ二着が何れか。Smullen君騎乗のVinnie Roeぢゃ堅すぎDettori君のMamoolが来ると思い白いと思いつつMDにVRとMamoolの二頭を脚にせば順当にMDで二着がVR。但しHK$111ついたのは有り難い。次レースの香港ジョッキー倶楽部プレイトはFoxboroughに注目。一番人気のLandsdown HouseとStamenを脚としたが携帯で馬券買えず電話投票せばFoxboroughが取り消しており結果的に四頭も取り消しがありわけもわからず傍観せばStamenが一着。夕方明日帰国のO氏夫人と七歳のJ君と会う。J君にバスの模型のこと話しご所望のバスがまだ模型になっていないこと話すがやはり香港の記念に模型欲すと申されO氏も引っ越しでマンションの家主との引き渡しだの会社の同僚との最後のハッピーアワーだの忙しく、それぢゃ今晩その間の時間やりくりして余がJ君連れてバス模型の購入に行こうといふ話となる。観光化せしウェスタンマーケット(西港城)にバス模型専門の店あり其処に行こうかと思ったが行ってみて閉っていたでは埒があかず用心して西港城にて印鑑商営むH氏に電話で尋ねればすでに閉業と知る。早晩にO氏今晩投宿のアイランドシャングリラホテル。Satheby'sのオークション今日も開催で「この世にこれほどのバカ面見たことなき」程にバカ面の息子が母親と会場に在り。田舎の土地でも売ったのか宝くじでも当てたのか山上たつひこの漫画絵の如し。O氏の到着待ちホテルのロブスターバーにてドライマティーニ飲む。かつて知る人ぞ知るのかなり閑かなバーは葉巻売り場までバーに拡張して開放路線突っ走り商売繁盛だろうが賑やかすぎ。O氏家族チェックインしJ君連れてトラムで中環、スターフェリーで尖沙咀。尖沙咀のバスターミナルにある九龍バスのショップにてJ君好きな車体の模型選び、どれにするか二十分深慮の結果、260X系統のMAN社型(こちら)の模型選ぶ。フェリー乗り場のXTCアイスにて「夕食前だからお母さんに内緒でね」とジェラート。フェリーで中環に戻りO氏夫妻が会社のボスらと憩ふパシフィックプレイスのDan Ryan'sにJ君連れて参りギネス一杯だけご馳走になりO氏夫妻、J君とお別れ。帰宅してハンバーグ食す。競馬中継。R7で連複の一点買いで6?10の36倍当て分析見事に当たり満足。
▼米長名人の掲示板。書き込み制限始まり「ご自由に気軽に」としつつ「この掲示板は、私の書いたものについてのみ、ご意見をお書き下さい」と、つまり名人の発言については禁句か(笑)。而も明確に「園遊会と陛下のお言葉についての意見は堅くお断りいたします」となり掲載許可となるは「頑張って下さい!」で「ますます沢山の事、勉強されて今後も、将棋、教育、障害者福祉、多方面でのご活躍を御願いします。私は応援しています。」といったものばかり。名人も負けておらず「次のような書き込みがありました。「将棋を打つ人間としては云々……」この掲示板に書き込まれる方は、将棋に対するある程度のご理解、愛情があって然るべきと思っております。将棋は打つのではなく、指すが正しいのです」と(笑)。「このような流れが五月雨的になって書かれているのは困ります。お一人で1時間に35回も連続投稿というのもいかがなものか。その辺りをお察しいただき、これからの楽しい書き込みをお願いします」と名人は願ってはいるが、もやは読み手にとって「楽しい書き込み」など載る筈もなし。
▼築地のH君がふと八十年代ならまだ「康夫ちゃんが岩波書店もヴィトンもブランドとして等価」と書いていたが今では「等価どころかヴィトンに比べ岩波書店のブランド価値なんてナンボのもん」になってしまったのではないか、と。確かに。それが日本は滅びることに繋がるのだろうが誰も気にせず。怖い怖い。

十一月朔日(月)十一月朔日(月)薄曇。昼間、モンブランの万年筆を床に落とす。ひやっとするが書き味今ひとつだったのがインクの出も書き味もよくなり、こういうこともあるのかと安堵。金鐘の香港レコオドで発売なったといふJim Jarmusch監督の“Coffee and Cigarettes”のVCD探すとすでに売り切れ、と。香港でこの映画がそんな注目だったか。Z嬢と八十年代に東京で映画見ていた頃の気に入りがこれ……と昔話なり。昨日七歳のJ君に余の九龍バスのミニチュアカー見せたのが契機けでバスの話盛り上がり明後日香港離れるJ君にJ君の好きな九龍バス(こちら)のミニチュアカーを差し上げようとホンハムのバス乗り場にある九龍バスの顧客服務中心に寄るがその最新型バスはミニチュアがまだ発売されておらず。晩にアイランドシャングリラホテルにて蘇格蘭のモルト酒Glenmorangieの試飲会あり参加。……のはずがホテルのボールルームの会場、入り口で名刺渡して中に入るとスコッチモルトの試飲会にしてはやたら豪華な雰囲気あり「あれっ?」と思えば其処はSotheby'sの競り会場(笑)。「しまった、間違えた」としりあがり寿の地球防衛家の人々の如き動顛するがそれを外に出すと恥ずかしいので「いかにもオークションに来た」装い会場の展示された宝石など眺め(たふりして)あ、ちょっと用事を思い出した様装ひ会場出て試飲会(隣のボールルーム)に向かふ。Satheby'sといへば昨日だか自称「九龍皇帝」曽土財氏の街頭書画?が、かつては九龍の公共物に落書きするキチガイ爺さんだったのが何時の間にか芸術家となり、ついにSatheby'sのオークションに出されHK$55,000にて落札される。購入した人の名が「康さん」と云ふのを聞いた九龍皇帝は老人ホームで「きっとその康なる夫人は康煕妃の末裔に違いなし」とさすが(笑)。試飲会の会場に入ると10年物の薄目のオンザロックで喉を潤すところから始まりポート酒樽仕込み、シェリー酒樽仕込み、マデイラ酒樽仕込みと芳香しい酒を試飲し15年物へ、この酒造元の研究者の説明では15年以上の酒といふのは単に寝かせられいいのではなく品質管理も難しければ天候の具合に左右され樽からの蒸発もあるゆへに天に昇る酒分の多さからAngel's BenefitだのAngel's Shareとすら云われ珍重される。試飲はゆっくりと進むが余はケツカッチンがため給仕に請ふて先に25年物と白眉の30年物いただく。30年物となるともはや芳香などといふ世界ではなく純度の高いアルコール、アクアビット(神の水)とは本来このことかと納得。それにしてもワインでもそうなのだがなぜ酒の味を語る時にアーモンドだの、オレンジ、バニラ、シトラス、白檀だの土の香りだのと形容するのか余には解らず。酒の芳香楽しむ最中に「チョコレートの香り」などと説明されるとチョコでも混ぜたのかと想像してしまふ。同じテーブルにも何人か話したき趣味人いらっしゃるが先に座を辞し残念な限り。晩八時をまわり試飲会から失礼してタクシーで既に演奏始っているであろうToots Thielemansの演奏会のため市大会堂へ。五分ほど遅刻。ジャズハーモニカの名人Toots Thielemansの演奏は1982年にジャコパストリアスのビッグバンドにてシールマンスも競演。武道館の一列目中央の席にて高校の頃に太宰から安部公房、岩崎ひちろからジャズまで意気投合せし親友のO君とジャコとシールマンスの何とも形容し難いベースとハーモニカでの「掛け合い」を楽しむ。当時ですらステージにはジャコが手を引いて現れかなり年配だと思ったが今年実に八十二歳でいまだ現役。ハーモニカの演奏には更に円熟しそのまさに音色にただただ酔ふ。競演はピアノのKenny Werner氏。演奏会の前にGlenmorangieを小一時間で七杯も飲んでいるのだからシールマンスに更に酔ふ心地よさ。八十二歳。おそらくこれがシールマンスの演奏聴く最後になるのだろうか、と思えば歌舞伎でいえば大成駒であるとか先代の仁左衛門、ジャズでいえば勿論、その日本公演の五年後に三十五歳の若さで逝去せしジャコやその八十年代に「生き返っていた」マイルスデイヴィスであるとかの藝を髣髴。それにしてもシールスマンのハーモニカの音色にただただ聞き入るばかり。たっぷりと二時間。陳腐なる表現だが至極の時。アンコールでの一曲毎のスンディングオベーション。陽気な幼さすら見せそれに応えるシールスマン。拍手に応じて大切なハーモニカをば客席に投げるマネなど。まさか二十一世紀に入り香港でシールスマンの演奏が聴けるとは。しかも市大会堂といふまさにシールスマンの演奏キャリアと同じ時を過ごしたホールの、このモダンな様式がシールスマンに実によく似合ふ。帰宅して今晩試飲会にてカナッペいくつか頬張った程度であったがマッカラン酒を飲む。Glenmorangieは確かに美味いのだが「まろやかさ」は欠けており口直し。荷風先生の日剰読む。昭和廿三年の十二月ついに小林青年登場。小林青年の佑けで千葉の八幡に十八坪の住宅を購入。小林青年の登場は日剰の読者にとって荷風先生の生涯もそろそろ終焉に近づいたか、と思わされる。
▼築地のH君より米長騒動に関する紐育タイムスの記事が差し替えありと指摘受け見てみれば確かに28日の“Japan Emperor Discourages Overt Patriotism”が翌日“Japanese Emperor's Comments Cuase Stir”となり内容細かく見たが米長騒動での小泉談話など挿入された第二報で意図的な差し替えでもなかろうが、ならばなぜ第一報を消さねばならぬのか気になるところ。強いていえば陛下の“It is desirable that it not be compulsory”といふ御言葉が直接の発言から記事の地の文に入れ込まれたくらい。どうせなら米長皇室名人をば非難し罵声浴びせられる掲示板の書き込みに「感動しました。感激しました。陛下をご尊敬申し上げている人達のなんと多いことか。お言葉の深さを本当に肝に汲みいるように受けとめている。数々の書き込みを拝見して、心がひとつであるという氣が致しました」だの「開かれた皇室、明るい皇室、心温まる皇室。」といった名人の感動まで記事で言及し天皇ビーム浴びた日本人の思考回路どうなるかまで記事になると面白いのだが。
▼文藝春秋誌(十月廿八日号)にて和仁廉夫さんの、昨年秋に日本人集団買収事件あった珠海の按摩小姐に関するルポを読む。それにしてもこの集団買春の斡旋実施容疑で国際刑事機構より国際指名手配されている日本人三名は依然この会社で勤務中。ちなみに五人の日本人のうちこの三名の他の1名はフジモリ元秘露大統領。日本が中国との間に犯人引き渡し協定ないため、だそうだし、会社にしてみれば買春費用を会社から一括支払いしたとされる社員をばお白州に(巴里の国際刑事機構にお白州はなしか……)引き出すを許せば会社がこの集団買春をば認めたことになるのであるから社内お咎めなしなのだろうし、日本の警察当局も海外での売春行為は不問か、何よりも珠海が今ではこの「按摩」産業への依存度高く、とさまざまな「事情」交錯。

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