乾 坤容我静 名利任人忙
(旧)教育基本法(1947〜2006) 改正に反対した文化人129 名の声明 憲法改正反対(九 条の会こちら

また眞理を知らん、而して眞理は汝らに自由を得さすべし。ヨ ハネによる福音書8章32節)

メ ディアはコミュニケーションの道具という素朴なイメージがあるが、もっともこの言葉は「中間」という意味であり、二つのものの間を取り次ぐという意味で はコミュニケーションの道具となるが、同時に最初は一つであったものを二つに分けるという効果ももたらす。メディアは、それがもたらす情報を共有し仲間意 識を持つグループと、そうしたものに無関心、あるいは反発するグループとの分裂をもたらす。メディアが発達すればするほどこの分化は進む。だから、メディ アの発達がコミュニケーションを豊かにするというのは幻想にすぎない。(佐藤卓己)

■ 富柏村の一連の写真画像はこちらで ご覧になれます。
■ 「はてな」の富柏村日剰・香港日記(テキストのみ)はこ ちらを ご覧 ください。
■最近のブログ化のご時世に敢へてブログ化せぬ日記を。の 心づもりでをります。敢へて全て讀むこと強ゐる日剩あつてもいゝのでは?と。
讀みにくいこと間違ひなきサイト乍ら今後とも御贔屓の程宜しくお願ひ申し上げます。
■香港の高級紙「蘋果日報」からの紙面、寫眞の無斷借用多し。同紙社主・黎智英氏自ら同紙の無斷借用轉用大歡迎と公言ゆゑ、それに甘えてをります。
 2000 年11月24日からおそらくあなたは番目の閲覧者です。


農暦八月朔日。香港天文台の天気予報は昨日も今日も雨。昨日は快晴で今朝も薄曇り。天文台は「晴れ」と云っちまって日に香港の何処かで俄か雨の一つあるこ とも「外れた」と云はれること怖れ鳥渡でも驟雨の気配あらば「雨」の予報。昨日、裏山を走り先週購ひしトレイルランシューズの穿き心地の良さ更に確かめる べく今日も裏山より大潭へ。シューズがもはや足の一部の如し。この業界の二年とかの進化の凄さ。大潭のダム湖の静寂。湖水に泳ぐ亀の水掻く音すら聞こえさ う。今年は秋の訪れ早い、と言ひ切るは性急すぎるが気温摂氏卅度ながら風は心地よく走つてゐても喉が渇かぬのが何より、で15km近く走る。午後、なんだ か読み進まずの大江『万延元年』を木陰にて読了。途中鳥渡読み進まぬのは、例へば主人公「蜜」が大江健三郎本人に映り、また大江の男根に対するホモフォビ ア(例へば『セブンティーン』などでも見られる)も鳥渡、食傷気味ゆゑ。後半やつぱり「これか」の展開もうんざり、であつたがずいぶん昔に途中で降参の時 に比べ今になつて著者の含蓄の言はんとする処も少し納得したり。だがやはりこの小説の主人公「蜜」が大江本人ならば弟の「鷹」は敢へて云へば石原慎太郎的 な、大江の最も対局にある苦手で且つ大江みづからにはない魅力への憧憬に映り、だが余がなぜこの「蜜」にも「鷹」にも共鳴できぬか、小説が面白いと感じら れぬか、と云へば、この小説では「名前すら出てこない」、鷹に率ゐられる蜂起に加はる谷の無数の若者らが(芝居で云へば大部屋の名もなき役者たち)が如何 に魅力に溢れるか、を中上健次が物語の主人公に据ゑて描いてしまったから、なのだらう、きっと。帰宅して日暮れまで飲む。モヒートは本来、ラムをミント葉 とライムジュース砕きシロップ加へソーダで割る飲み物だがヘミングウェイのダイキリがシュ ガーレスだったやうに甘さ厭ひ先づはシロップを抜き、今日はソーダもやらず単にミント葉とライム果汁を加へたラムのロックでやったがこれはこれで美味。夕 餉はチーズソースのパスタ。葡萄酒はオイスターベイのシャルドネ07年。三代目三木助の「芝浜」をiTuneで聴く。多少「つっかえ」が目立ち晩年の録音 かしら。流暢な江戸の言葉は優しく聞こえるし三代目のあの老いての風貌も(故・下條正巳が三代目に鳥渡似てゐる、とアタシは思ふのだが)品の佳さ、だが 「芝浜」の筋は本当はもっと短気で粗ッぽくても良いはずで(あの志ん朝ですらもつと意気盛んに演じてゐる)それが「芝浜の三木助」と言はれるほど三木助の 「芝浜」が名演なのは、じつは三木助 は若い頃は上方に流れたり荒んだ時期もあり、賭場でもかなりならし=地獄も垣間見ただらう、それほどの人だから逆に「芝浜」を上品に演じても奥底に余力が あるから。他の噺家がこれをこんな静かに演じたら、とても聴くに耐へない。枕上荷風散人日剰大正九年読む。
▼雨は降らず、と綴つたが中国の五輪金メダリストらのうち香港鼠楽園参観組は雨に降られた様子。それに比べれば、天気にも恵まれ移動至便でマカオに向ふ前 の高級ブランド品掃貨(買ひまくり)も楽である海洋公園参観組のはうが選手団の中では羨ましがられた鴨。だがアシカのショーに飛び込み選手は洒落になら ず。で、このドサ回り、連日の強行日程で深更まで親中系の偉いさん接待、超高級店営業時間特別延長でのお買ひ物など疲労困憊で今日は眩暈で卒倒し記念撮影 で座り込む選手すらあり。タクシー運転手セクハラ醜聞以来すつかり隠遁の白花油王子・顔福偉さんはご贔屓の男子飛び込みの「お気に」選手二名を自家用車 (レクサス)みづから運転しペニンスラホテルでのLVお買ひ物にご案内の由。福偉さんのマスコミの揶揄承知でのタニマチぶりも凄いが案内される選手(秦 凱)もまるで「あんた、メケメケで評判の丸山明宏?」の風貌なり。マカオでは賭場「見学」もあり、かしら。
▼アフガニスタンで死亡したNGO「ペシャワール会」の伊藤和也さんの撮つた写真(朝 日新聞)。本当の意味で現場写真とはかういふものなのだらう。ご本人が亡くなつて写真が余計に評価されるのもなんだが次の木村伊兵衛賞を追贈した ら如何だらう。

八月卅日(土)快晴。朝日新聞の「惜別」欄に七月五日に逝去した波蘭文学の翻訳者、工藤幸雄さん(享年83歳)の回顧談あり。朝日ジャーナル誌か何かで波 蘭の民主化の頃に知つた人だつたが後になつて若い頃に岩波少年文庫だかでこの方の訳した波蘭の少年物を読んでゐたことを知る。で今日の記事にこの工藤さん が昨秋立ち上げたご自身のブログ「ラピダリウム」のこと書かれて をりさつそく覗いたら不動産屋や印鑑屋の広告がいくつか並び
「この広告は60日以上更新がないブログに表示されてをります。新 しい記事を書くことで広告を消すことができます。」
だつて。スポンサー提供サイトとはゐへ余りに寂しい。ご本人の最後の記述は三月十日で
小生、永年に及ぶ喫煙の悪習の結果、肺気腫その他の診断を受け、明 後12日に入院します。しばらくというか、当分の間か、ブログは休みとなります。 ごあいさつまで。入院中の用意に、初めてケータイを買いました。末尾の 数字<4771>に気をよくしています。では、みなさま、ごきげんよう……
これくらい最期はさらり、とお別れをできるなんて。本日、裏山より大潭を10kmほど走り昼。午後は沿岸の木陰で微睡みつつ大江健三郎 『万延元年』を読む。夕方帰宅途中にミニバスで銅鑼湾レイトン街で渋滞あり不便。何かと思へば警察の白バイが小型バスなど優先は香港大球場で今晩開催の北 京五輪金牌中国選手団の見世物に急ぐ選手ら。国家が手塩にかけ養成の彼ら昨日来港、自称政治家「文革曽」行政長官自らが空港に迎へ(先日の香港選手団の帰 港には「文革曽」姿見せず)昨晩は香港の五輪のタニマチ・崔某の九龍塘の豪邸にて歓迎宴(この崔の先代は広州ホワイトスワンホテル建設の愛国資本家にて当 代が散財的にスポーツ好事家で北京五輪にもかなりの資金援助、その息子に近々北京五輪の飛び込み女王・郭晶晶が嫁ぐといふ噂あり)、今朝は八時に湾仔出臍 の金紫荊広場にて国旗掲揚式、続いて香港科技大学にて学生との「つきあつてる彼がゐるかどうか教へてください」的なあまりに下らない交流会、午後は香港市 民相手に五輪種目の表演、で晩が香港大球場での見ショータイム。北京五輪での競技済み閉会式から国家祝賀行事続き、で当然の如く愛国心、帰属意識低き南方 のテコ入れで香港からのドサ回りは香港に始まりマカオ、珠海と続き、いくら国家政府が手塩にかけ養成の金メダル選手団とはいへ連日の人寄せパンダぶりに疲 労困憊も甚だし、昨日は挨拶延々と続く歓迎式典で睡魔に襲はれ式典の最中、爆睡の金牌選手も少なからず。無惨。帰宅して夕餉に秋田酒造の「しみずの舞」な る吟醸酒を四合飲む。純米ばかりの身には大吟醸どころか吟醸酒でも閉口。日本は折りから悪天候のなか母よりおわら風の盆から利賀の野外歌劇で劇団SCOT の佐渡公爵夫人の公演愉しむ由、携帯からの写真付きメール届く。遠く離れても母よりの手軽な音信、それへの返事、啄木、英世の時分には能はざることなり。
▼米国総統選挙にて民主党が小浜馬楽君選出。イリノイ州選出の上院議員選挙では小浜君支持したアタシも米国総統となると小浜君の不明少なからず二の足踏み 寧ろ共和党の「負因」候補のはうが一先づ此処四年では妥当では?と思ひもするが何せ共和党はブッシュ八年の拙政の後遺症あり。ましてや負因候補の副大統領 候補=アラスカの女知事は台湾亜扁総統の呂某をば副総統に推挙以上の不安あり、でオイソレと負因候補の支持も出来ず混迷深まるばかり。いづれにせよ米国史 上最低最悪のジョージ=ブッシュ八年が次期総統との相対比較で多少評価上がる怖れすらあり。台湾といへば民進党支持者数万人でインフレなど内政問題での不 満掲げ台北で数万人規模の反馬デモ。明らかに亜扁疑獄で民進党がすでに脱党の亜扁など「なかつたこと」の如くするための運動展開。アジアの民主主義の優等 生と云はれた台湾も亜扁のおかげでとんだ災難。だが結果論だがいかに国民党政権へのアレルギーこそあれ亜扁を「疑惑の銃弾」で再選させたあたりが「台湾の 悲哀」だつた鴨。

八月廿九日(金)快晴。酷暑。湾仔は金紫荊広場に寄す。大陸からの田舎漢観光客多し。香港返還記念の「金紫荊」モニュメント聳へる観光スポットながら当 然の如く欧米人も日本人も韓国人もをらず大陸客ばかり。中国政府より香港返還祝し贈られたる(正直言つてデザイン的にはイケてない、怪しげな新興宗教の御 神体の如き)記念碑こそ大陸客にとつては香港返還の象徴、此処で写真撮影することは香港観光記念の手形の如し。中国が香港の宗主であることの体感作業。観 光写真屋がかつて1枚HK$10であつたものが人民元高でちやつかり人民幣10元。早晩に中環。カラーシックス現像店で写真受け取り。FCCのラウンジ。 あまりに蒸してウオトカのライム曹達割一飲で気を取り直し白葡萄酒(Batasiolo Gavi Granee DOCG 06年)飲みつゝパスタ(ブカトーニ)でマッシュルームと大蒜のオリーブ油合へ。期待以上に美味い。赤葡萄酒(Gramore Sensi Sangiovese 04年)飲んで市大会堂。江蘇省揚劇団の公演「百歳掛帥」。案内の筋書き読み京劇では当り演目の「楊門女将」と知り、それの改編か、と思つて強気で字幕も 見られぬ一列目中央。楊家の余太君を演じる徐秀芳なる女優に華あり。穆桂英役の李霞の歌唱の良さ。アタシは初めての揚劇(江蘇省揚州)は中国劇の中でも歌 唱の立派さと音楽の洗練ぶりではまさに歌劇。たゞ容姿端端麗どころかせめて多少見た目秀でた者、皆無。舞台見上げる一、二列目はアタシの周囲は揚劇とあつ て上海、蘇州方言の老人ばかり。ところで中国劇まだまだ浅学のアタシはてつきり今晩の演目「百歳掛帥」が「楊門女将」の改編か、と思つたが実は逆らしい。 ところで武将の寡婦、娘が活躍と云つた戦記物、久が原のT君に尋ねれば早いが、日本にあつたかしら、歌舞伎文楽の狂言といはず物語でも。
▼今冬にミシュランの香港マカオ版上梓の由。14人の評家が対象たる1,200軒のうち800を既に探訪したさうな、が14人のうちチャイニーズは2人で 何処まで真つ当に中華評価できるか、は当然、疑問。いづれにせよミシュラン東京版やTime Out HK同様に利用価値なきことは出版前に明らかなり。
▼FT紙の映画評担ふNigel Andrews氏が昨日の紙面で曰く
Drunk on Sunday, hung-over on Monday. The morning after China inebriated us with spectacle in the Olympics finale - courtesy of moviemaker-turned-Bijing-Barnum Zhang Yimou - we woke to reality with a splitting headache. Was it the end of the wonder show?
と。婉曲な表現ながら余の溜飲下がる思ひ。香港の新聞でも辛口の評論家が結局のところ張芸謀の最近の映画二作は北京五輪開幕式の予行に過ぎなかつたのか、 と指摘あり。張五常教授はまだ北京五輪の興奮冷めやらず今日の信報に「金比銀銅重恨多」と中国の獲得メダル数で金の多さ(対銀銅比で1.04)がメダル獲 得数(中国除く)上位9国の平均0.46に比べ云々……と、さすが恩師フリードマン教授の智利ピノチェト政権への擦り寄りに倣ふが如き態も、少なくても自 らを脱税と偽骨董品販売の咎で米国司法に渡さないでくれるだけ北京様々なのかしら。ところでこの映画評で辛口のNigel Andrews氏が映画「さくらん」4ツ星と好評。アタシは香港での映画祭での上映は満席で見られず、それほどのもの?
▼香港の個性的な老舗雑誌『號外』の社主・陳冠中氏が昨日の信報で西蔵のラサの宗教区をバチカン式独立は如何?と(要旨はFrancesco Sisci氏がTimes誌アジア英語版4月15日号に掲載のもの)。実質的には中国領土内にありながらバチカン的な独立を認め、その宗区内においての自 治を認めダライラマをローマ法王的な立場に、と。イタリアならイタリア国内のカソリック信者が宗教心的にはローマ法王慕ひつゝ国家政府的にはイタリアへの 帰属に疑問感じぬのは不思議ぢやないが西蔵でそれが可能かしら。北京中央とてこんなの認めたら次は香港の特別行政区が行政区として前代未聞の株式市場上場 あり鴨。

八月廿八日(木)東京は陰鬱なる甚雨の由、久が原のT君とのメール往来のなかで契丹后裔の故事など語る。國文専家のT君、大陸の綺譚に含み多し、一驚を喫 す、と。晩に数年ぶりでハッピーヴァレイの竹園海鮮飯店。日頃お世話になるK氏の奥様と令嬢が2001年の帰国以来の初来港でかつてすでに大学生の息子さ ん二人と家族五人でよく食したといふ竹園への再訪で親子三人の家族水入らずにZ嬢共々お招き受ける。給仕の服務態度の的確さは大したもの。観光ズレしてを かしくない肆だが半分以上が地場の上客。昨晩久々の痛飲に本晩帰宅してさすがに早々に伏床。

八月廿七日(水)晩にA氏より招飲ありH嬢、S嬢とハッピーヴァレイの寿司「澄」に食す。美味い食パンあり大蒜ベースに雲丹を塗りこみイクラと野菜のせた り、 と我が儘言ひ放題。バーSに飲み三更に至る。今月初めのベトナム旅行でダナンを出た鉄道列車の岬めぐりで五能線を思ひ出したが、今晩S従兄の携帯より メールあり、S兄夫妻は函館から青森の旅行で五能線、リゾートしらかみ号に乗つた、と。確信犯的に「4人用ボックス席」を二人で占有?と尋ねれば、その通 り、考へることはベトナム統一鉄道でのアタシらと一緒。小学生の頃に二人でユースホステルに泊まりながら時には「お父さん、お母さん、ごめんなさい」でグ リーン車に踏ん反り返りで旅行したのも懐かしい限り。
▼左丁山氏が蘋果日報連載で「中国奪金」と北京五輪の中国の金メダルラッシュを分析。中国が51個の金と喜ぶが米国は金こそ36個だが金銀銅の計では 110個(中国は100個)、金3、銀2、銅1の配点とすると中国が223点に対して米国220点と僅差。で中国は本当にスポーツ大国か、と左氏。中国の 金メダルは中国が得意とする体操11、飛び込み7、重量挙げ8、射撃5の4種目で計31個、金メダル獲得数の6割、それに卓球4、バドミントン3を加へる と四分の三。金メダル数の多い水泳、陸上では水泳で1つ金メダル獲得しただけで「鳥の巣」競技場では一度も中国国家吹奏されず。蹴、排、籃といつた球技は 0。女子重量挙げ、飛び込み、体操、射撃といつた競技がいかに極度の専門性と多大な訓練を要するものか、健康維持も危ふく、飛び込みの郭晶晶選手の眼が亮 晶晶とせず朦朧としてゐるのは既知の事実。集団での球技や大衆的なスポーツは苦手で、2012年の倫敦大会も体操、飛び込み、重量挙げ……に偏るのか、 と。北京五輪といへば五輪後の中国の経済停滞の予測など囁かれてゐるが十八日の南方都市報(広州)で読んだが国家発展改革委員会マクロ経済研究院の王一鳴 副院長が北京五輪効果の負要因は少ない、と説明(こ ちら)。

八月廿六日(火)普段用いるRolexの腕時計、内部で小さな螺子でも外れたかカタ/\と音がするのでRolexのサービスセンター(ジャーディンハウス 14階)に持参せば暫くお待ちください、で「この修理とオーバーホール(OH)込みでHK$1250になりますが宜しいでせうか、9月8日にお受け取りく ださい」とシャア/\とぬかすので「鳥渡、待ちなさいよ」で余の説教。前回は自動巻きが一晩で停つてしまふ不良で確か05年に持参せば細かい傷が目立つの でOHも一緒に如何かと問はれHK$1,000だかで応じたもの。それから2年余でまた費用かゝるのは一体だういふことか。「OHの保証は1年、数年に一 度のOHは推奨されますので」と職員。02年に買つた腕時計でもう三度目のメンテですよ。客の意思でのOHなら良いが今回は内部の螺子が外れ部品がカタ/ \と鳴る不良。それを「OH込み」としてチャージするとはどうした了見。ご覧なさい、と今日の信報の文化欄は一面丸々歌劇の記事で9月からのミラノスカラ 座の今季の歌劇紹介(馬覊)と歌劇「ドンカルロ」論(林偉球)でその長編記事二本の下に伊太利米蘭斯卡拉歌劇院のスポンサーとして「勞力士 冠冕成就 永 恆價値」とRolexの広告。ご覧なさい、数年毎にどこか不良箇所があつて、それもOHしての上での話で更に数年に一度千数百ドルづつ客から貪る、で「冠 冕成就、永恆價値」とは笑はせるのもいい加減におよしよ、と諭し「OHしないでいゝからこの不良だけ直しませう」と求めれば「鳥渡、お待ちください」で数 分後に「直りました」で無料。そら、みたことか。つい/\「さつきは『OH込みでHK$1250』つて話だつたけど、これが直つて、でOHならいくらなの よ?」と突つ込んでやらうか、と思つたが大人しく「客をお舐め遊ばさんな」と言ひたげに退く。贋物も危ないが本物とて巧みな商魂に油断ならず。苛々したが 帰宅途中、香港にて40回目の献血でさつぱり。The Economist誌(8月9日号)でソルジェニーツィン追悼にかなり頁を割いたものを読む。この作家がソ連崩壊後でも現行のロシアとも融合できず、かと いつてソ連以前のロシア的な旧守派でもなく、なんとも微妙な位置での存在、殊に米国亡命後の後生は何だつたのか。この雑誌にシカゴ大学が2億ドル出資し経 済研究所設立にあたり「フリードマン経済研究所」と名付けようとして学内で100名を超える研究者が反対を署名して学長に抗議の由。フリードマンの経済学 への貢献はさておき政治的姿勢の偏りや智利のピノチェト政権への加担などに対する、他界してもなほ拭ひ去れぬ事実か。深夜、小浜馬楽君より
Friend --
I am so lucky to be married to the woman who delivered that speech last night.
Michelle was electrifying, inspiring, and absolutely magnificent. I get a lot of credit for the speech I gave at the 2004 convention -- but I think she may have me beat.
You have to see it to believe it.
And make sure to forward this email to your friends and family -- they'll want to see it, too.
http://my.barackobama.com/michelle
You really don't want to miss this.
And I'm not just saying that because she's my wife -- I truly believe it was the best speech of the campaign so far.
と支持者宛メールが届く。イリノイ州選出で上院議員選挙立候補の際にカンパした縁でずつとメールが届くのだがiPodでこのメールを受けiPodの画面で youtube経由この小浜夫人の演説を眺める2008年の風景。
▼北京五輪終はり何が安堵したか、と言へば「近代の超克」的に碩学をも狂はす狂騒曲の終焉なり。経済学の奇才・張五常教授、關愚謙先生と信報土曜に「理性 消費」で美食遊覧を語る張健雄教授が三人ご一緒に北京五輪の閉幕式観覧の由。今日の信報では五常教授が「福原愛現象」と題して愛ちやんがいかに愛をしい か、を語り關愚謙センセは「自勝者雄,自知者英」と題目は理性的だが
奧運會結束了,結束的漂亮、體面、大氣,真正長了中國人的志氣。 (略)而且非常低調地對待中國囊括五十多金牌,不吹噓、不炫耀,反而更反映了中國的大國風度。中國人的優秀品德,大方、友好、和氣、苦幹在這屆奧運給世人 留下了極深刻的印象。有一點,在國際的媒體上比較少報道的,就是中國組織、調度的能力和智慧,這與中國古代的兵法都有內在的聯繫。(略)筆者認為,目前必 須對中國兩三千年來的傳統文化,進行整理,去其糟粕,取其精華;對歐洲的思想和文化發展史要有一完整的認識,去其糟粕,取其精華;更重要的是對建國六十年 的社會發展史進行整理,去其糟粕,取其精華。讓廣大民眾共同參與討論。逐漸統一認識,才能把中國建設成為一個名副其實的繁榮富強的國家。
と、もうすつかり近代を超克。この「知識人をも濡らす」五輪が閉幕したと思ふとただ/\安堵感。先学たちに少しでも冷静に正常に戻つてもらへれば、と。

八月廿五日(月)まだ暑さのぶり返しもあらうか油断ならぬが朝晩だいぶ涼しくなる。日の出も遅くなり朝も五時半でもまだ暗い。居間の電灯をつけ届いたばか りの朝刊読む侘しさよ。久々に晩にきちんと帰宅して規則正し いドライマティーニ二杯。イタリア風の味付けで野菜や少しのハムなど食す。白葡萄酒はHessのAllomi VineyardのSau B 06年、ちよつと料理には濃い口すぎた。つて葡萄酒まで反米か、アタシは(笑)。
▼陶傑さんが今日の蘋果日報の連載でオリンピック(奥林比区運動会)を「奥運」と略すのはいひがパラリンピックを「殘奥」と呼んでしまふ感覚は如何か?と 疑問呈す。中国語で「障害」を(つてこの「障害」もひどいが)「殘礙」と云ふことから「障害者オリンピック」が「殘奥」になつたが「殘」の字の惨さ。もし パラリンピックを「殘奥」と呼ぶなら健常者のオリンピックは「正奥」か、と。言ひ得て妙。

八月廿四日(日)台風一過となならぬ不安定な天気続く。曇り空で鳥渡走らうかと家を出たが商店街で雑用済ますうちに驟雨あり走るも厭ひジムで時間潰すが昼 前には快晴。Mount Parker Rdを上り大潭に下ると一昨日の台風で地面には木々の枝葉散乱。倒 木も少なからず。10kmほど走り大江『万延元年』読みながらバスで帰宅。夕方、湾仔のProtrek商店。九月からトレイルウォーク始めたいといふS君 のシューズなど購入で会員割引にお付き合ひ。ただアタシの山用のランニングシューズじたいボロ/\で購入。MotrailのStreakなるシューズ(日 本価格の7掛)選んだが商売上手な知己の店員にインナーソールの進化語られスーパーフィートなるソールも購入。S君とハッピーヴァレイの寿司 「澄」。S君含め香港の若い皆さん10数名との会食。Z嬢も合流。いはゆる宴会。終はつてカラオケに誘はれるが苦手にて固辞しZ嬢とXtc Gelatoでジェラート頬張り 銅鑼湾まで漫ろ歩き。台風のあとだいぶ涼しく歩いても汗もかかず。

農暦七月廿二。処暑。朝はまだ雨の勢ひ歇ず不安定な天気続くが台風は珠江遡るやうに内地に向ひ雨風ですつかり洗はれ気温は摂氏廿五度。秋めいたやう。処暑 に台風直撃とはまぁ暦に当たつたこと。昼前にジム。午後までに天気回復。昼すぎ散髪。越南はホイアンでの散髪がUS$2で文句は言へぬが雑なもので、その 修復。晩にZ嬢と中環。伊太利料理屋 Cipriani に食す。この食肆、伊太利はヴェネツィアのHarry's Barがあり(アリーゴ=チプリアーニ著、 安西水丸訳『ハリーズ・バー―世界でいちばん愛され てゐる伝説的なバーの物語』)今は紐育や倫敦で伊太利料理屋経営。香港のこの食肆は旧中国銀行大廈で中國會(チャイナクラブ)成功させた David Tang(鄧永鏘)が階下(11階)に開業の「会員制」レストラン。今回アタシらはAmexのメンバー特典でのもの。内装は1930年代のモダニズムを模 し給仕も機敏で感じ佳し。鴨肉のトナートとマグロのタルターレを前菜に、蛤のパスタと鶏肉の煮物。葡萄酒はMario SchiopettoのPinot Grigio 03年。料理は可もなく不可もなく、味付けは全般的にパンチが効かず「甘辛酸苦鹹」が不明朗、「会員制」が所謂、万人向けの「倶楽部料理」。バターとク リームのまつたりが鳥渡、食傷気味。ホームメードケーキも美心(マキシム)レベルで値段は10倍。David Tang氏が伊太利料理屋開業で最もこだはつたはずの珈琲もエスプレッソがレギュラー珈琲なみの淡さ。所詮、この人の見た目気取り、かしら。食事の途中か ら客が混み始め賑はひが五月蝿く思へたのは気がつけば客は強烈に香水を放つ婦人多き米国人と中国人はABCばかりでクチャ/\と米語飛び交ひ、この食肆も 考へてみれば紐育が本拠地で、此処も階上の中國會と同じく米国人が好みか、まぁこのイタ式料理屋に伊太利の本国人が来るはずもない、と納得。トラムで湾 仔。台風の雨風のあとで大気清々しく狗狗公園漫ろ歩き帰宅。

八月廿二日(金)台風「鸚鵡」接近で風強し。朝八時前に八号警報発令。離島やマカオ、珠江沿岸結ぶフェリーばかりか強風で路線バスの運行も続々と停止に向 ふなか公立病院も救急医療除き閉院となるなかテレビのテロップに「以下6ヶ所の美沙酮診所は通常通り」と。美沙酮(Methadone、メ サドン)はヘロイン等の麻薬患者に麻薬代用で投与の医療用麻薬。当然このヤクも切れれば禁断症状現れメサドン入手できぬことで復たヘロインや覚醒 剤に手を出せば元も子もない、と台風襲来でもメサドンは提供と。麻薬、といへば相撲力士若丿鵬の大麻「事件」。20日だつたかの朝日新聞の天声人語はなん だかB級の推理小説。
端緒は自宅近くで拾われた財布。怪しいにおいを放つロシア製たばこ 1本と、外国人登録証が入っていた。大麻に名を書いていたようなものだ。場所前になくした物に気をとられたか、7月の名古屋は4勝11敗と崩れた。
と語る。「大麻に名を書いてゐたやうなもの」といふ表現だけが可笑しい。気になる表現は(誰かがこの財布を拾つたのは確かだが)ロシア語の印字された巻き 煙草が「怪しいにほひを放つ」と、このにほひが「怪しい」と感じたのは財布の拾ひ主か、あるいは誰か。いちばん困るのは警察の脚色で取材記者の鵜呑み。大 麻に特有の臭ひがあるのは事実だろうが、その臭ひが「怪しいにほひ」は主観的なこと。よつぽど「事情通」なら拾つた財布広げてみるとロシア製の巻き煙草が 一 本。通常は一本だけ巻き煙草を財布にしまはぬから「こりや怪しい」と嗅いでみると「ありや、こりや大麻草」で外国人登録証を見れば「ありや、こりや本所の あの力士ぢやねぇか」で勘三郎なら面白い芝居に仕上げよう。が善良な市民は大麻のにほひなんて嗅いだこともないのに「怪しいにほひ」が刷込まれ麻薬だから やつぱり怖い、と。天声人語子もご多分に漏れず
伝統にはびこる暴力と、一部外国人力士の礼知らずは、今の大相撲が 抱える病だ。大男の力自慢だけでは務まらぬ、強けりゃいいってもんじゃない。大麻となると、こうした嘆きの次元さえ超す。
と真つ当さう。が覚醒剤やヘロインならまだしも不法所持は違法とはいへ麻薬ぢやない大麻(大麻取締法)程度で「嘆きの次元さへ超す」と 大仰しい。しかも判断は難しいが「しごき」を「伝統にはびこる暴力」と片づけ「礼知らず」を一部とはしたが外国人力士に押し付ける偏見。かうして「大麻な ど麻薬は危険」「角界は暴力が蔓延」「やつぱり力士でも外国人はダメ」と常識(コード)が生まれるのかしら。昼にかけ雨風烈し。風速は時速60kmを超 え、との報道に日本では秒速で言ふ風速を香港は時速なのだ、と今ごろになり気づく。風速が時速60kmは秒速で17.2mか(ちなみに香港ではラジオだつ たので正確に聞き逃したが1936年だか63年に時速280kmの風速=秒速78m(最大瞬間風速に非ず)といふ台風の記録ある由)。非常食で冷凍のご飯 で茶漬け。先日知人からいただいた鶴屋吉信の饅頭もいただく。菓子の栞の言葉の最後に「どうぞ召し上がれ」と、あり。「召し上がる」は確かに「食ふ」の尊 敬語だが「召し上がれ」は鎌倉の江藤淳先生のお宅にお邪魔した時に奥様にご馳走を振舞はれ「さぁどうぞ召し上がれ」なら自然だが、見ず知らずの菓子屋に 「召し上がれ」と言はれるのは鳥渡、と思ひ、どうなのかしら、さつそく久が原のT君に尋ねれば「召し上がれ」といふ言ひ回しが「主人が客に勧める立場での み固定化して記憶されがち」なため確かに商売人が用ゐると不遜のやうにも思はれますが、としつゝ懐かしい「東京の花売り娘」の「花を召しませ、召しませ花 を」や狂言「昆布売」でも「昆布召せやお昆布召せ」との売り声を引かれる。納得。但し、と、いくら尊敬の動詞でも命令形といふ形そのものに強圧性が感ぜら れるのは余儀なき次第、「召せ」のやうな尊敬の動詞の単用の命令形では自然と敬意が減じて感ぜられもの、なか/\むつかしいところ、と。ちなみに高家、禁 中なぞでは例へば姫君や宮様方に申し上げる時に命令形は使へぬので「~遊ばして頂きまして」なんて表現で。午後になり九号警報発令、5年ぶり。外出も出来 ぬので机に家計簿だの凭り散らかつた書類等整頓。台風の目に近づいたか午後遅くから風も止み、たゞ今更何をするでもなし。バルコニーで風で折れたミントの 枝より数葉拾ひ酢橘の汁でラム酒を飲む。有り物で夕食済ませると小康状態の天気は悪さを増し強風と刺すやうな烈雨。
▼北京五輪「疑惑」。開会式から少女が祖国讃へる歌が口パクとか朗郎らか郎朗のピアノも弾き真似とか少数民族の子どもたちが皆な漢族だとか、女子体操の選 手年齢詐称とか……言ひ出せばキリがないが基本的にスポーツが見世物でありオリンピックが平和の祭典どころか国家が競ふ「武器なき戦争」であること、而も それが十数億の国民と辺境の少数民族問題、様々な内政問題抱へる一党独裁の国家がガス抜きと貧困から経済成長果たす態を世界に誇示するために開催のオリム ピックと思へば「成功させれるため」「勝つため」に手段選ばぬこと驚くに値せず。日本なら「南京大虐殺はなかつた」だの「中国侵略はなかつた」は一部の狂 信的な輩の戯言に過ぎず保守的な右翼も自虐史観とされる左翼も主張は別に「そんなこと外国が理解するはずがない」といふ点では石原慎太郎や渡部昇一から左 翼系市民団体のヲバサンも含め結果、共通理解がありギリギリで体裁を保つてゐるのだらう。が、中国の場合「10数億の民を一つに纏める」といふ使命感で中 共に勝る力量は存在せず、それが中共のたゞの奢りに非ず、内外とも中共の一党独裁体制を許容あるいは黙認、中共的には今回の北京五輪を成功させるためには たかだか女子体操の選手の年齢が二、三歳の違ひなど「差不多!」で、かりにそんな嘘が発覚したところで数千年の悠久なる歴史を有し、紙、印刷、羅針盤に火 薬まで発明した国家としては、世界の覇者たる米国がイラク征伐して何が悪い、と同じく五輪成功のための手段が悪どゐと言はれようが何が「没関係了!」とい ふ独善となる。……と悪評はいくらでも言へる、が李嘉誠先生のコメント、長江実業の今年上半期の業績発表後の記者会見で北京五輪につき問はれ開会式参観で 感激と興奮と答へると、件の偽証疑惑について突つ込まれ「その問題にはここで触れたくない。この会場で(80歳近い)自分が一番年老いてゐるはず。幼い頃 に抗日戦争から列強による上海の租界占領を見て育つた自分が(混乱から改革開放を経て)この中国でいまオリンピック開幕の成果まで見られることが中国人と して興奮しないわけがないし嬉しくないはずがなからう」とピシヤリと一言。だが、やつぱり嘘はいけない。
▼北京五輪「跨欄」競走での選手劉翔の棄権。この劉選手につき張五常教授が「劉翔勝敗十億之差」とまるで予言の如く経済学者の立場で触れたこと、この日剰 でも一昨日紹介。さすが経済学の異才、偽骨董品販売や脱税など問はず、このまま学者として放置すべきことが世の為、で劉翔棄権後の言論が期待されたところ 本日の信報に「從劉翔棄賽說黃龍覓士」と題した一文を寄す。期待して読めば、劉翔のまさかの棄権には驚いた、自分も実は米国留学時代に卓球はやつた、であ れこれスポーツ異種で中国選手は何に勝るか、と拙推続け、最後に何を宣ふかと思へば、四年前に撮影旅行で九寨溝に遊んだ折、黄龍の秘湖をば訪れるのに七旬 近き張教授、さすがに健脚も自慢できず駕籠に乗つたが、その駕籠の轎夫(駕籠かき)が5kmの山道を途中一つ小憩しただけで登り切り下りも一度も休まず。 で毎日これだけ持久訓練してゐるのだから(中国選手の奮はぬ)長距離走はどうか、と。もし黄龍で精鋭が探しきれぬのなら更に山の険しき黄山で、と(笑)。 どこまで真面目に書いてゐるのか、ノーベル経済学賞有力候補の俊英で贋物骨董販売、碩論とこんな駄文のこのギャップが、やはり天才、奇才の証左か。

八月廿一日(木)早晩に尖沙咀。David Chan氏の店でライカの35mm用ファインダー漁らうと出向くと「ライカのは高いよ」とDC氏。そりやさうだ、日本なら5万円から。DC氏の手許にブツ は当然あるがHK$5千でも売りやしまい。此方も元手に欠ける。で、まだ「買ふ」と言つてゐないのに店の手代に近隣の店に電話させ在庫確認して取りに行か せたのがフォクトレンダーのファインダー。結果的に楽天最安値の8掛。なぜ35mm用のファイダーが必要か、わかる人だけわかればいい話。DC氏に先日読 了の「カメラは時の氏神」進上。当然DC氏はウツキカメラも知つてゐるし書中に出るスキヤカメラの中島氏兄弟(故人)は義兄弟の仲、と。Quarry BayのイーストエンドでN氏とエール飲みながらライカのカメラを肴にカメラ談義して早々に帰宅。晩に文藝春秋で楊逸『時が滲む朝』(芥川賞受賞作)読 む。一言で敢へて言へば「私小説」。石原慎太郎が選評で
中国における自由化合理化希求の学生運動に参加し、天安門事件で挫 折を強いられる学生たちの群像を描いているが、彼らの人生を左右する政治の不条理さ無慈悲さについての書き込みが乏しく、単なる風俗小説の域を出ていな い。文章はこなれて来ていても、書き手が中国人だということだけでは文学的評価には繋がるまい。
と。芥川賞ではいつも石原慎太郎の辛辣な選評に同感する点少なからず。この受賞作がはたして「彼らの人生を左右する政治の不条理さ無慈悲さについての書き 込み」がもつとあれば作品として良くなつたかどうかはアタシは不明。それをするときつと収拾がつかなくなる鴨。さういふ意味で作者が1987年に中国から 日本に留学のし、天安門事件、香港返還、中国の経済成長と政治問題……書きたくて書かずにはひられないことを書いた、といふ意味で物語性や主張はむしろ二 の次で「私小説」なのだらう。選考委員が押し並べてこの作品に何らかの形で授賞には至らぬ点を指摘。でもこれが受賞つてどうして? 芥川賞は奇を衒つた作 者が続きロッカーだのフィストカットだの十代の少女で今度は中国人。次は中学生かしら。

八月廿日(水)快晴。早晩に中環。カラーシックス現像店に越南旅行の白黒写真現像誂へ受領。ダナンからハノイに向ふ列車の車窓から撮りし曾ての南北越南国 境で戦禍 甚だしきベンハイ河の風景が川の仕掛け網まできれいに撮れ嬉しいかぎり。怖い物見たさで擺花街の興利相機。先週から店頭に据ゑられ気になるライカのM3あ り。二、三度ガラス越しに眺めるがつひに店主に棚から出してもらひ接触す。まえの持ち主は実際には撮影はほとんどしてをらぬやうでコンディションはかなり 佳し。100万番で1960年製。鳥渡、感染しさう。FCCのバー。新入りの若いバーテンダーが一人。あまりの暑さと喉の渇きに珍しくロック でドライマティーニのダブルを作らせる。ロックなら新入りで下手でも構ふまいと思つたら「氷は少なめでいいですよね」とアタシが酒飲みで濃い口が好きとな か/\の眼力。ちやうど飲み干す頃に「もう一杯?」とすでにダブルで作られちや吉田健坊ぢやないが応じぬわけにいかず、つい/\三杯つてことはダブルだか ら……でちよつと良い気持ちになつたが読んでゐた今日の信報に「回應:江文也《台灣舞曲》獲什麼獎?」と周凡夫氏の記述あり。作曲家江文也の1936年伯 林五輪での作曲コンクールでの「受賞」につき周氏の記述に誤解があること(十二日の日剰参照)信報編集部にメールで知らせたが音沙汰なく無視されたか、と 思つてゐたらこの記事。
《台灣舞曲》於一九三六年柏林第十一屆奧林匹克運動會國際音樂創作 比賽獲得什麼獎,確實一直存在爭議,拙作〈不應忘記的歷史—奧運得獎作《台灣舞曲》及江文也〉(八月十二日)一文指獲得銀牌獎的根據,是一九八五年初在香 港舉行的「江文也的音樂學術研討會」的材料,當日作為主持的黎鍵先生已指出「但是所得獎項不詳,有些說是銀牌獎,有些說是第七獎,有些則說是獲特別獎」, 而當年在中文大學中國音樂資料館擔任館長的香港民族音樂學會會長呂炳川博士(留學日本),則在發言中表示:「據我的資料來看,他得的應該是銀牌獎,第二 獎,這是我三十年前在日本的一本雜誌中看到的。」(詳見當年研討會的紀錄、曾在當年《華僑日報》音樂版上發表)
筆者當年探望江文也時,他已難以言語,而他的夫人吳韻真女士和家 人,甚至他留在日本的前妻瀧澤信子,對該曲所獲獎項,亦未能確認,為此,也就一直存有不同的說法。〈不應忘記的歷史〉一文發表後,讀者富柏村先生提供了新 的材料,指九十年代後期由井田敏著作的一本關於江文也的書,白水社不再出版,因其中指《台灣舞曲》獲得銅獎證實資料錯誤,當年是由德國、奧地利及意大利的 作曲家分別獲得前三名獎項,《台灣舞曲》獲得的是特別獎。但正如該讀者富柏村所言,無論獲的是什麼獎項,江文也的作品和一生的輝煌不會改變。不過,《台灣 舞曲》實際上是獲得什麼獎項,是一個歷史的事實,不是銀獎是特別獎是需要澄清的事,儘管這確實沒有改變江文也的音樂作品曾參加奧林匹克運動會的比賽還拿過 獎的事實。
と周氏曰く銀賞受賞とした根拠は1985年に香港で開催された江文也に関する学術検討会の席上、開催者(黎鍵)が「江文也がこのコンクールでどの賞をとつ たのか、銀賞といふ説もあり第7位、特別賞といふ説もあり」として、これについて日本への留学経験もある中文大学の中国音楽資料館館長で香港民族音楽学会 会長の呂炳川博士が「自分の資料によれば銀賞=第2位であるはずで、三十年前に日本の雑誌で見た」と発言。周氏は晩年の江文也を北京に訪ねた折にすでに衰 弱で話すに能はぬ江文也にかはり妻と家族が日本での前妻から聴いた話として確認はできぬが銀賞だつたらしいが違つた話もあり、と聞いた由。それに続き余の 名が記事にあり、この受賞に関して受賞(銅賞)も誤解で井田敏「まぼろしの五線譜」も絶版となつたこと、で受賞は「特別賞」だつた、と余のコメントを紹介 (奨励賞はいはば参加賞で周氏が「特別賞」といふのも事実に反するのだが)。だが富柏村の言ふ通り「江文也が何れの賞を獲ろうと彼の日本、中国での作曲家 としての業績に変はりはない」として、結果的に「特別賞であれ受賞したのは事実で訂正の必要がない。」……とかなり無理がある周氏の弁。まぁ確かにオリン ピックの正規のスポーツ競技では金銀銅の三賞以外に殊勲、敢闘、技能といつた賞やましてや参加賞などないだらう?から作曲コンクールでは優秀賞といふ名の 実質的な参加賞が授けられたらこれも賞の一つか、アタシはさうは思はぬが。帰宅してパスタの夕食。豪州はGeelongのScotchmans HillのSau Blanc 07年を飲む。Geelongはメルボルンに近い小さな町で90年頃にZ嬢の友人M嬢の大学留学先。Z嬢と一緒に90年のクリスマスから正月にかけ訪れた はひゐが未だにその際の香港からマニラ経由メルボルン往復の航空運賃、Z嬢に払つてもらつたものを精算してをらず。で先日、このGeelongの葡萄酒を 見つけ懐かしく。
▼北京五輪での「欄王」劉翔選手棄権について。真意は知らぬが「足首になんらかの故障がある」或いは「金メダル獲得が望めない」といふ前提に於て
1 競走には参加するが惨敗
2 競技直前で競走に参加せず棄権
3 最初から棄権
の3つの選択肢あり(今回の選択は2)何れも結果は同じだが「国家利益」と「スポンサーの広告効果」を考へた場合に「競技直前で競走に参加せず棄権」こそ 金メダル獲得不可の状況下で期待できる最大の利益。ナイキなどさつそく内地の新聞に一面広告で劉翔選手のちよつと暗めの表情に
愛比賽,愛拚上所有的尊嚴,愛把它再贏回來,愛付出一切,愛榮耀, 愛挫折,愛運動,即使它傷了你的心
と広告掲載。経済学の異才・張五常教授が15日の信報で「劉翔勝敗十億之差」と劉翔が勝つかどうかで本人の広告勝ちで10億元の差はあらうし、勝てば広告 主の得る利益の波及効果大きさ、負けたら……まぁそれは誰も期待しないが、と筆を置いたが、結果、その後者が結果に。信報は昨費の社説で曰く中国はかつて のピンポン外交なら勝敗は二の次で友好が第一であつたものが今日の運動選手の活躍は極端に金銭と結びつき開会式で聖火を灯した李寧は確かにかつての中国体 操のプリンスであり観衆もその登場に盛り上がつたが(話題性=広告効果)李寧が中国一のスポーツウェア会社の経営者であると思へば当然この開会式での演出 が彼の企業に広告効果あり株価が上がる。劉翔に1億元の保険を提供した中国平安保険はこの棄権での損失は1億円に済まず、と指摘。で今日の社説も「広告収 益驚人 田徑明星不絶」と続け、この一人の運動選手に対する資本と広告収益の悲劇を憂ふ。内地メディアの計算によれば劉翔の今回の棄権による個人の収益損 失は1億元で広告商の損失は30億元、劉翔が昨年契約した中国平安保険の劉翔使つた広告費は5億元の由。この話題につき管制多きはずの内地のメディアが予 想以上に健筆奮ふ。官報たる文匯報ですら(記事)ナイ キの内部関係者の話として劉翔選手が今回、足の故障を理由に棄権したことはスポンサーにとつて想定内のこと、双方(つまり選手側とスポンサー企業)が協議 の上の結果、といふ説まで紹介(当然、企業側はこれを否定)。ネットではかなり劉翔棄権にかなり罵声に近い書き込み相次ぎ官方は消すのに大はらはだつた 由。さすがに北京五輪でまるで「近代の超克」してしまつた關愚謙氏ですら中国の金メダルラッシュは確かに立派だが中国は国家挙げての選手養成は他の国にな いもので、このラッシュが海外では反中感を生んでゐるのだから、中国が金メダルをとる意味をもつとよく考へてみるべき、と指摘。余は今回の北京五輪につき 開幕直前から、かりにテロ騒ぎがあらうとこの挙国一致運動には日剰で一切何も語らず、と考へ、もと/\スポーツ観戦の趣味なく「どうでもよい」と思ふやう に努め、ただFT紙の連日の"Olympic in China”の頁だけがさすが経済紙で見事にスポーツイベントを面白く伝へ、これだけはぢつくり読む。これでこの世紀の祭典が終つた日に一言
▼北京五輪閉幕す。
と綴らうと思つてゐたが今回のこの劉翔選手棄権についてはテロ騒ぎ以上に「こんなことがあるのか」と驚いた。

八月十九日(火)朝寝貪りホテルのカフェレストランで朝食後、今回広州に遊ぶたつた二つの目的の一つ(も一つの目的は昨日の大沙头二马路の写真機材店探 訪)である広州動物園へ。広州は隣接の番禺市に巨大なサファリパークありそつちの方が有名だが 市内の動物園はかつては市街の外れ、で今は旧市街と天河の新市街にはさまれた一等地。リッツカールトン広州は広州東站や天河とのシャトルバスの運行すらな い、客は当然のやうに自家用車やタクシー利用で(駐車場には黄色のランボルギーニが今朝も停つてゐるが)アタシらがホテル玄関出て「タクシーは?」「要り ません」で炎天下、傘をさして出掛ければドアマンも怪訝さう。ちやうどホテル横のバス停から動物園通る路線バスあり、で一路、動物園。市街地とは思へぬ 緑。丘陵を上手く使つた造園ぶり。獣舎など老朽こそしてゐるが動物が見やすく公園内をぐるりと散歩して楽しめるのが佳い。数頭の象のための広大な敷地と獣 舎、虎園も立派……それに比べて中国の国宝たるパンダの扱ひが貧弱で驚いたが。ところで物価高騰で動物園の入場料は大人で20元。300円だか高所得層除 けばこれでは動物園とて遊ぶも叶はず。昼近くなり動物園を出て近くの飲食街。客引きの店主の眼力?に負け入つた北味坊餃子館。昼になるとかなりの盛況で実 際に美味至極。ホテルに戻り午後4時のレイトチェックアウトまで寛ぐ。ホテルの屋外プールはアタシ一人。読書して微睡んでゐたら「申し訳ありませんが一時 間ばかし施設の写真撮影がありまして」とさすがにアタシぢやモデルにならぬから退散請はれスパへ。これが内装は成金趣味のない地味だが立派な施設。富力地 産系と思はれる富裕層メンバー客が二人ゐただけで静寂そのもの。広州はホワイトスワンホテルのスパが見事だが勝るとも劣らず。ホテルのワンフロアを屋外 プール、ジム、スパに出来るのは地場のデベロッパーゆゑのこと。期待以上のホテルの質に満足でチェックアウト。タクシーで広州東站。和諧号で深圳まで一時 間。自宅戻りが8時過ぎ。香港〜広州の移動は結果的にわかつたのは香港から行きは直通列車、帰りは時間に縛られずに和諧号で深圳乗り換へが便利。

八月十八日(月)朝九時前に家出。Z嬢と紅磡站より羅湖へ。羅湖のボーターの一つ手前の站「上水」はホームにて担ぎ屋らしき輩多数荷物の仕分けの光景。一 等車の車内でもビリビリッビリビリッと突然の異音に何かと思へば善良さうな乗客の一人がズボンの裾捲し上げ恐らく腕時計か何かをケースごと脛にテープで巻 き付け「密輸」の作業中。列車が羅湖の站に着き内地に向ふ手前でオヤヂたちがやたらトイレに入るのはさういつた密輸の準備作業の由。やたら個室ばかりが混 み便所の中から「ビリビリッビリビリッ」と皆さん下痢か(笑)。深圳火車站より和諧号で一路、広州。複々線化したとはいへ十数分間隔で最高時速180km の列車が広州〜深圳間を一時間で走るのだから隔世の感あり。広州に正午すぎ到着。タクシーに乗ると猛暑に炒る強烈な陽射しと温い冷房の車中、客用のテレビ モニタで北京五輪の中継、緊急記者会 見で何かと思へば「欄王」劉翔退出の由。三月に開業のホテルリッツカールトン広州に投宿。珠江岸に近接で天河の中信広場より真直ぐ南の絶好の一等地、だが 周囲は新都心開発の真つ最中で殺伐とせし工事現場。案の定、タクシーの運転手も珠江新城で「興安街つて何処だ?」でこのホテルどころか新しい道路名も皆目 見当つかず。とにかく珠江新城に行けばアタシも何となく場所はわかるから、と。ホテルもまだ/\この場所ぢや客も期待できず静か。慇懃迅速に部屋に通され 投宿手続きは良いが旅券を一旦お預かり、と何で?と思へば後になつて知つたが客の旅券の顔写真をスキャンまでして宿泊客情報に加へる。本来であれば退出後なら 残る必要なきデータも温存され「有事の際は」官憲にまで利用される仕組みか。ご優待でホテルのレストランのビュフェで昼食いただく。B級のグラスワインが 150元、高すぎ!でさすがのアタシも二の足を踏み、お食事だけで払つたら二人で460元なのに地場の優雅なお客様方たち。西洋人のマネージャーがビュ フェの寿司カウンターに入り込み言葉の通じぬ料理人相手に何かかにかと指示し「見ただけで不味さうな」カリフォリニア巻らしき巻寿司を自分の昼飯用に作ら せてゐるのもご愛嬌。かつてのバンコクでも今のサイゴンでも想像も出来ぬ道路渋滞のなかタクシー雇ひ海珠広場。渋滞で運転手がみな苛々はわかるが僅かの隙 間あらば隣車線に突つ込むから(殊に交差点やロータリー近く)必要以上に二進も三進もいかぬ塞ぎ状態となる悲劇。幹線道路の渋滞のひどさに辟易だが鳥渡、 横道に逸れゝば並木繁るかつての静かな広州がまだ健在。広州で写真機材店密集すると教へられた大沙头二马路へと向ふ。そのすぐ手前(魯迅故居に近し)まで 路線バスでちやうど辿り着いたは良いが珠江渡る江湾大橋の橋袂の幹線道路(東華南路)は市街地で誇張にあらず1km以上に渡つて対岸との横断歩道も歩道橋 も地下道もなし。で片側4車線の車道を命がけで渡り高架道の橋桁を潜り反対車線の復た4車線を……となる。ここまで歩行者に不親切とは呆れるばかりの道路 行政。で大沙头二马路の写真機材街。予想以上の品揃へ、キョービのデジカメばかりかかなりクラシックカメラ陳列の店もありライカもコンディションは多少疑 問あるが散見される。チョートク先生が七月末に広州カメラ事情取材の由。富士フィルムのポジフィルム、プロヴィアやヴェルヴィアが1本33元は香港よりお 買ひ得。でアタシが使ふBillinghamのカメラバッグ扱ふ店が多く驚いたらよく似たコピー商品(1軒のみ正規の扱ひ店)。いま流行のナショナルジェ オグラフィックのカメラバッグも黄色いロゴが三角(本当は四角)。クラシックカメラで鳥渡、食指動きさうになつたが如何せんZ嬢同行で何も手を出さず。カ メラ街抜けると巨大なデジタル製品と携帯電話市場。いつたい何百軒?の携帯電話屋か……。更にマッキントッシュや真空管アンプなどハイエンドのオーディオ 製品ばかり扱ふ店が並ぶ高級感溢れる商場まであり驚くばかり。スピーカー一対で日本円なら100万円以上が売れるから商売になるのだらうが。夕方の渋滞 (つて終日だらうが)のなかタクシーでホテルに戻る。晩に広州在住のO君と待ち合はせ、でホテル内のチャーチルバー。まるで倫敦のプライベートメンバーズ クラブの如き重厚な内装のバーで書室、ビリヤード室などの空間もあり酒の品揃へも立派。客はアタシらだけ。残念なのは酒の値づけは強気だが正規のバーテン ダーをらず数名の女給はまだ/\経験足らず、難しいものは頼むの止さうとウォッカをオンザロックで注文したらジュースでも飲むやうな細長いトールグラスに 氷を入れウォッカを注ぎ(ここまではまだ驚かぬが)ストローつき(笑)。「オンザロックはロックグラスがあつて」と教へると「さういふものですか」と女給 が感心するのもご愛嬌。ホテルに近い洗村にも(村といつても旧地名が村ですつかり高層ビル立ち並ぶ開発区だが)母米粥あり。余は六月に来廣の際に食したが Z嬢が「未だ」なので母米粥に食す。天河の焼酎バー輪葉葉に飲む。女将の気風佳し。バーの御不浄に
新豐美酒斗十千 咸陽遊侠多少年 相逢意氣爲君飮 繋馬高樓垂柳邊
と王維の「少年行」の漢詩あり。客のお一人がご自身による漢詩解釈を貼つていかれたさうな。少年行を読み耽つてしまつたが悪酔ひで嘔吐でもしてゐると思は れた鴨。O君の話では天河の新都心のうち珠江新城の開発の多くがこの富力地産によるもの、でその一帯への5ツ星ホテル誘致がこれ。あまり期待もしてゐなか つたがスタッフの服務水準とホテルのハード面の殊に客室内のハイテク充実はお見事。目覚ましラジオ兼用の iPod dock ばかりか持参のノートブックから画像や音声を室内の巨大な液晶モニタに映すことまで可。ところでO君、昨日、郷里の福島より成田経由で広州に戻つたが広州 の空港の税関で福島の桃「あかつき」と岡山の白桃が持込み禁止で没収処分。アタマにきて熟した桃をば指で潰さうとしたら税関職員が「止めろっ!」と (笑)。明らかに高級果物狙つた没収かしら。

八月十七日(日)快晴。酷暑。荃湾城門水塘の荃錦路までの引水路沿ひで往復10kmのロードレースあり。天后出発の参加者バスに申し込んではゐたが08: 15開始のレース でバス搭乗が06:15では早すぎて1時間でも睡眠を欲張り午前七時前にタクシーで香港站、地下鉄で荃湾からタクシーで出掛ける。アタシの体力ではキロ6 分なら御の字だが暑さの所為で(といふことで)64分。荃湾まで来たので快晴の空につられ黄金海岸までバスで遠出。が黄金海岸の砂浜は0.5哩ほどの長い 浜辺の先半分の砂がすつかり流され残つた浜辺も狭く人多し。役所の表示は「砂が流され」だが満ち潮の時刻とはいへ桟まで海水が満ちてゐるのだから人工海岸 の人為的な失敗かも。せつかく来たが海水浴客の賑はひで落ち着けず荃湾に近ゐ麗多海岸まで戻る。青衣島から大嶼山への吊り橋を眺め渡すこの辺り、風光明媚 だが狭い海峡は潮の流れ悪く香港でも有数の水質汚染で公共海水浴場は閉鎖中。閑散とした浜辺は監視員もをらず通常の公共海岸ではダメ/\づくしの球技(海 岸排球)や犬の散歩に浜辺に寝そべる輩の喫煙と大らかなもの。人さへ少なければいづれも誰の迷惑にもならず。浜辺の木陰で竹内好「日本とアジア」読了。大 川周明を読まねば、と思ふ。荃湾で山西刀削麺を食す。晩に自 宅で鰻の蒲焼き。NHKで数日前に放映の平成中村座伯林公演録画で「夏祭浪花鑑」観る。同座の前回の紐育公演はかなり奇を衒つた印象あつたが、それに比べ るとシアターコクーンでの当り狂言でもある、この団七の芝居は(串田演出での初演当時こそ驚いただらうが今では)芝居らしく見えるから。大江健三郎「万延元年のフットボール」再読。

八月十六日(土)快晴。午前中ヴィクトリアハーバー沿岸を小一時間走りジム。午後、Z嬢と油麻地から歩いて渡船角。添記で法式三文治(フランス風サンド ヰッチ)を食す。なんとも美味。九龍站の圓方にある映画館で塚本連平監督の映画「ぼ くたちと駐在さんの700日戦争」を観る。ブログ小説が オリジナルの由。物語の舞台が栃木県の烏山なのか、なぜ時代設定が昭和54年=1979年なのか、アタシの知らぬところ。だが烏山は那珂川が流れ、映画に登場する町中もコンビニが出来た程度 で昔と何も変はつてをらず。烏山が話題になるのなんて旧国鉄が上野発で「銀河鉄道999」を走らせ、その確か終点になつて以来かしら……と思つて調べた ら、あの運行は偶然にも昭和54年で、この映画の舞台になつた年のこと。キョービと違ひ若者がまだ実直で純朴であつた時代ださうだが映画の高校生たちの余 りの健全さがさすがにさすがに美化しすぎ。サザエさん家族のやう。ネット社会で理想型なのかしら。中環に戻りZ嬢ご用達のオリンピアグレコ珈琲店にて珈琲 豆購ひハリウッド街の表具屋で「象のババール」と「熊のプーさん」の額縁の誂へ受け取り帰宅。日が暮れてから湾仔に出で北京餃子皇で餃子食し芸術中心。市 川崑監督の映画「雪之丞変化」 (1963年、京都大映)観る。長谷川一夫の女形役者・雪之丞と義賊闇太郎の二役。長谷川一夫の映画出演300本記念でこの年に映画から引退。55歳でさ すがに雪之丞役は贔屓目にも秀麗とは言へぬが闇太郎役はさすが昭和を代表する色気あり。女盗賊お初役の山本富士子の気風の良さ、闇太郎に張り合ふ若い盗 賊・昼太郎妬くの雷蔵の二枚目ぶりに勝新太郎と役者揃ふが雪之丞の敵役演じる鴈治郎(二代目)と何といつても雪之丞の一座の座頭・菊之丞役の八代目中車が 素晴らしい。かういふ役者が今はゐないねぇ。それにしても土曜の夜九時からこんな映画に百数十名の客が入るのだから。この香港の観客にコテコテの時代劇に 合はせた芥川也寸志のあの赤坂のキャバレーミカドのやうな音楽はどう聞こえたかしら。この1963年の同作はテレビの映画名作劇場だかでも観てゐるのだが 昭和10年の衣笠貞之助監督の同作での林長二郎時代の同作の美貌をアタシはまだ観てをらず残念。十五夜に一日遅れの満月が見事。秋近し。

八月十五日(金)盂蘭盆會。終戦記念日。快晴。筲箕灣の天后廟に賽す。廟の並びの安利で魚蛋河粉食す。早晩に尖沙咀。ペニンスラホテルのバーでドライマ ティーニ二 杯。バーテンダーのP君にタンカレーのジンでNo.10といふ新種があるが試します?と尋ねられ一杯飲んだが鳥渡、マティーニにはフルーティ過ぎで甘い。 二杯目は普通のタンカレーで。Z嬢と日本料理・京笹に食す。 予約で満席だが午後六時の口開けで小一時間だから、と席を得る。オニオンスライス、ポテトサラダといつた小品一つとつても何か一つ気を利かせ品数も多く (厨房はかなり狭い)壁一面のお品書きはもう何年も変へてをらぬから諸物価高騰の折り店も大変だらうが大したもの。太空館で(夏の映画祭の特集で)市川崑 監督の映画「満員電車」(1957年、 大映)を観る。一流大学出のサラリーマンが川口浩(主演)、会社の同僚で好演が船越英二、主人公の父母が笠智衆と杉村春子。コミカルな風刺映画、徹底的に コード化され単調で早口な台詞、それをこの役者たちは演出としてこなしてゐるのか地の演技下手か(笑)、いづれにせよ可笑しい。が何より見事なのは就職先 のビール会社の社長・山茶花究と総務部長・見明凡太朗の絶妙な掛け合ひは日本の喜劇の真骨頂。それにしても日本でも今どき小屋に掛かることも珍しい戦後の こんな喜劇映画が香港の尖沙咀の一等地の太空館で見られる、而も8割は客が入りくす/\と笑ひ続け(笠智衆などスクリーンに映る前に息子への手紙の朗読の ナレーションが入つた段階で客は笠智衆とわかつて登場に期待が高まるのだから)大したもの。湾仔にフェリーで渡り波止場隣地の狗狗公園(っと勝手に呼んで ゐるが)漫歩。十五夜の月を愛でる。
▼子安宣邦著「『近代の超克』とは何か」(青土社)について先日の朝日新聞の書評が取り上げ(その書評の切抜きを無くして詳細がないが)件の「近代の超 克」の座談会と昭和18年刊行のその書籍について粗そ理念を紹介したあと書評は竹内好の「近代の超克」論を取り上げ竹内は西洋の近代主義を超えてゆくもの は「日本の」ではなく「アジアの」思想であることを述べ……といつた記述があり果たして竹内好は「近代の超克」のなかでそんな主張をしてゐたかしら?と気 になり竹内の「近代の超克」を廿年ぶりくらゐで読み直したが竹内好は彼の思想として中国や印度を含むアジア思想が西洋の近代主義に欠ける点を補完し超えて ゆくといふ考へ方こそあれ厳密には「近代の超克」の中ではさういつた竹内自身の「近代の超克」を超える思想については語つてをらず。この著述の中で竹内は 戦後の日本について「近代の超克」の発想に敗北感がなく、その敗北感の無さが今日の問題で敗戦によるアポリア(難関)の解消によつて思想の荒廃状態がその まま凍結された(本来は思想に創造性を回復させる試みを打ち出すならその凍結を解きもう一度アポリアを課題にすゑ直さねければならない)とする。また今日 の日本は「神話」が支配してゐることに問題があるのではなく「神話」を克服できなかつた似非知性が「自力」でなく復権してゐることに問題がある、と指摘。 あらためて竹内好といふ人の戦後のとらへ方が正鵠を得てゐると感じ入る。ところで手許にあつた冨山房百科文庫の「近代の超克」は1986年3月に仙台・八 重洲書房で入手と記述あり。20余年前には冨山房のこんな本が容易に入手できる時代であつた。

八月十四日(木)快晴。新暦も盆の入りなら旧暦は丁度一ヶ月遅れで七月十四日。盂蘭盆会。午前中8kmほど走る。酷暑だが立秋も過ぎ木陰やヴィクトリア ハーバーの湾 岸の風は涼しく快適。昼にZ嬢と中環。鏞記にて昨晩来港のI 君夫妻と昼食。焼鵝も肉厚が好き嫌ひ別にして鏞記の名物で夏の鵝は痩せ過ぎと避けられるが余は個人的にはこれを厭はぬ。苦瓜と牛肉の黒胡椒炒め、変哲のな い料理だが美味。揚州炒飯もやはりこの食肆のは格別。話題も尽きず甜品までゆつくり二時間半。ビールと紹興酒で昼からいい気分。蔡瀾氏の尊顔に拝す。氏は 蘋果日報連載にて張芸謀の北京五輪開会式演出絶讃。またアタシらの隣席に公民党の梁家傑議員が氏の法律事務所の若手連れ昼食。なぜか梁議員に余は識る顔で 笑顔目礼で互ひに挨拶。晩にハッピーヴァレイ。益新美食館。 香港に1990年8月24日、偶然にも余と全く同じ日に来港し居住のK嬢ご帰国でK氏、Y嬢、Z嬢と食事会。鏞記も美味いが「ハッピーヴァレイの」益新も やはり格別。「お久しぶりで」と知己の給仕長、渣甸山の店ばかり数回続けてしまつて、と余は言ひ訳しつゝ「彼方より此方がサーヴィス含め秀逸」と誉めると 給仕長「渣甸山の店と違ひ名物の焼鴨等出せぬから」と謙虚。盛況で年末には湾仔で少し広い店に移転の由。Veuve Clicquotで乾杯して、シャトー=オーブリオンのセカンドワイン、Ch Bahans Haut-Brionの03年(飲み頃はまだ/\先か)。
▼話題にも全くならぬが福田内閣メールマガジン。福田君が「声なき声を聞く。」と(本日の第43号)。
日本国の代表として、オリンピックを戦う選手に直接聞こえてくるの は、会場で応援してくれる人たちの声ですが、実はこの選手の皆さんの耳には、日本で応援している、それもまったく自分の知らない人たちの声援も、きっと聞 こえているのだと思います。私は、世の中に聞こえてこない声の中に、多くの国民の気持ちが込められていると思うときがあります。この声なき声をどうしたら 聞くことができるのか、そして、どう応えていけばよいのか、それこそ身体全体を耳にして、聞かなければと考えます。
と訴へる。大きな誤解。北京の北島選手への遠き祖国からの応援は「声無き声」なのではなく日本で「北島、頑張れーつ!」と声援が北京の北島君本人に「音が 聞こえない」だけ。本人にはその日本中からの声援が聞こえてゐるはず。「声なき声」といふのは本来は(岸信介を除けば)平和を願ひつつ戦争に荷担せねばな らぬ銃後の母の心情といつた「声に出せぬが心の底からの願ひ」であること。福田君の期待は世論や支持率などには出て来ぬ「実は福田改革の実現を願つてゐ る」声なき声なのだらうがご本人がその「声なき声」を聞かうと思つてもその福田君への期待が小さいのだから(ちなみに余は期待してゐる方だが)いくら耳を 澄ましても聞くに能はぬだらう。聞こえたら残念ながら幻聴かも。ところでこの「声なき声」といへば当然、岸信介の安保改正を支持するであらう「声なき声」 発言があるわけで「声なき声」とは政治的には「本当は聞こえてこぬが聞こえたことにするもの」の代名詞のはず。それに福田家にとつて「声」と言へば父君の 「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはある」の一言もあり。アタシが福田君だつたら側近がこの原稿を見せたら「キミ、声なき声、って岸さ んのアレだし、僕の家では父の「天の声」があるのを知ってるだろう。それでコレかい? それでなくても暑いんだから、これ以上ボクを不愉快にさせないでくれよ」と側近を叱責するところだが……。まさか福田さん本人がこれを書いてゐたとしたら 更に驚くばかり。

八月十三日(水)昼前より快晴。所用の帰り夕方、赤柱(スタンレイ)通ったので観光客相手の土産物屋街で何軒か立ち寄り「昔の香港の観光名所写したカラー スライド はない?」と尋ねるが一笑に付される。名所旧跡のトランプはまだ発売中。バスで筲箕灣に出る途中にいつも印象的なモダンな集合住宅あり。アイランドガーデ ンズ。柴湾に出る幹線道路の而も急坂に面しており自動車の騒音が残念だが建物は現代主義様式で紅色を大胆に使って坂の途中でかなり目立つもの。近隣には廃 校になった聖マークス中学の建物もあり廃校後に夜な夜な不良の溜り場となり建物のあちこちにスプレー画が見事。西湾河の順興潮汕鹵味で鹵水鵝と猪耳購い帰 宅。野菜も沢山調理。タスマニアのNotley Gorge EstateのCab Sau 99年飲む。晩に竹内好を続けて読む。

八月十二日(火)泄瀉感やうやく治まる。数日愚図ついた天気が昼前より晴れる。今日の信報の文化欄に周凡夫さんが北京奥運に合はせ「不應忘記的歷史 奧運 得獎作《台灣舞曲》及江文也」といふ長文を寄せてゐる。周凡天さんは1982年に北京で江文也に、つまり江文也が亡くなる一年前に面会してをり、それだけ でも貴重な音楽資料なのだが記述に重大な誤解あり。「忘れれてはならない歴史 オリンピックで 受賞の「台湾舞曲」と江文也」といふ題の通り
管弦樂曲《台灣舞曲》一九三四年在東京完成,是江的成名作,樂曲於 一九三六年參加在德國柏林舉行的第十一屆奧林匹克運動會國際音樂創作比賽的銀牌獎,成為首位在奧運藝文比賽中獲獎的中國人。
と紹介。台湾生まれの作曲家江文也(1910〜83)の東京、北京と遂に故郷に戻ることなき客旅の数奇な運命は、井田敏「まぼろしの五線譜―江文也といふ 「日本人」」といふ本が10年近く前に白水社より上梓され日本でもクローズアップされたもの(2004年には侯孝賢が映画「珈琲時光」で江文也を取り上げ 日本に残された妻と娘が出演もあり)。ただ「まぼろしの五線譜」に紹介された、この1936年のベ ルリン五輪に合はせた作曲コンテストの「入賞」は当時も 新聞の誤報。誤解もあるはずで江文也のもらつた参加賞のメダルが銅製で、これが銅=3位と思はれたらしく、「まぼろし」の著者に江文也の物語を話し著者 (井田)がこの本を上梓するきつかけとなつた人(この方も大きな誤解)による記述もあり(こ ちら)。白水社はこの誤記に基づきこの本を絶版(まさにこの書籍ぢたひが「まぼろし」に)は当時、出版界でちよつと話題に。いづれにせよ、この受 賞の有無にかかはらず江文也の作曲家としての功績はなんら変はらぬ。それにしても周凡天さんがどうしてこの受賞について、しかもさらにアップグレードして 「銀」賞としてしまつたのか、が気になるところ。それもこの記事じたい北京五輪に合はせ「オリンピックで受賞の「台湾舞曲」と江文也」としてしまつたのだ から。最晩年の江文也を尋ねた周さんが妻か誰かから聞いたのか、当然、周さんの手許には台湾舞曲のLPなど江文也作品や資料があるわけで、そこに「銀」と 誤記があつたのか、と思つたが(中国のWikipediaの)百度百科で江文也の項に「1936年第十一届奥林匹克国际音乐比赛中获银奖」とあり、これか、といふ気も……。あまりの暑さに昼伏 夜行。自宅で夕食済ませ独り旺角のUA Langham映画館でブラジル映画“Tropa de Elite”(Elite Squad、精鋭暴隊)観る。一昨日より夏の映画祭開催中(古典は市 川昆特集)。ベタな表現だが望みも出口もなき貧困のなかで人の生きる底力のやうなものを見せる現代のゾラ的なブラジル映画は好きで、ジョゼ・パジーリャ監 督のこの映画は今年のベルリン国際映画祭で金獅子賞を受賞。贈賄や麻薬団との癒着など腐り切つた市警察、エリートや出世できない生真面目や下町仕切る小悪 のそんな市警の警官らが市警の誇る精鋭部隊に加はり地獄の訓練を経てリオ=デ=ジャネイロの貧民窟を舞台に羅馬法王の来臨に向け治安維持、と書くとそれま でだが心理描写も見事な社会派。一瞬、警察の残忍さを美化してゐるやうに見えるが、麻薬密売に手を染める貧民窟の住人らがけして根つからの悪人でなく寧ろ 官憲側に暴力があることは誰が見ても確かで、何よりも、市警での勤務の傍ら大学でも法学を学び末は裁判官か弁護士を目ざす若い警官(André Ramiroが好演) が、ゼミではフーコーの「監獄の誕生」を資料に論じてゐるのが、いつたいどうやつて悪人は殺して当然の超法規的で残虐な精鋭部隊の隊員と化してゆくか、を 面白く描写。まさにフーコー的な<狂気>の誕生。

八月十一日(月)Z嬢に一年前の夏に差し上げた「象のババール」と「熊のプーさん」の、いづれも1945年くらゐの、前者はリトグラフで後者は初版本の絵 本からの復刻印刷、一年もそのままだつたので額縁に入れようと早晩、中環はハリウッド街の懇意の額縁屋に持参。カラーシックス現像店でポジの現像出来受け 取り。FCCで白葡萄酒二杯。帰宅してポジの画像をスライドのマウントに納め映写して愉しむ。冷房もつけず夜風。デジタルの時代にローテクなる写真観賞も これ亦た酔狂。韮と豚肉の鍋。竹内好の「日本とアジア」ちくま学芸文庫より短編「日本人の中国観」読む。竹内ほどの考察に注意深い人でも「中国国民の総 意」てな言葉を容易く用ゐてゐること。中国を知れば知るほど、それ以前に「国民の総意」なんてものは(近代国家が理念的価値として謳ふ場合以外に)存在せ ぬこと。

八月十日(日)早朝に香港仔水塘にて8kmのサマーレースありしが泄瀉から回復とて鳥渡力むと未だ粗相しさうな気配あり参加控へる。昼前にジムで少し只け 走る。午後、地下鉄でZ嬢と九龍へ。民主党の選挙ポスターに「永不放棄」とあり。党の信念はけして放棄せぬ、の宣言だが、どうも「アタシをずつと見捨てな いで」と読める。太子の美味餃子店に食す。湯餃は野葛菜を使 つたもの。日曜で閑かな繊維問屋街を抜け深水埗。基隆街の鴻發糕店で甜食を頬張る。香港社区組織協会が地元活動盛んな「西九龍」地区で近々再開発で取り壊 しとなる桂林街61〜65號の建物を公開(今日が最終日)。人 がすれ違ふのも不便な狭い階段を上がると各階二つの家屋に見えるが中に入れば更に小部屋を仕切り寝台一つ毎に又貸の所謂「籠屋」(Cage House)あり。貧困極まりなし。籠屋より未だマシな一坪半ほどの部屋貸しも屋根や窓の桟からの雨風防ぐビニールテープの補強が痛々し。香港のボトムエ ンドのこの界隈も再開発の波でかういつた古い戦後の建物が次から次への姿を消す今日この頃。いくつかの建物だけは近現代史の史跡として残さう、記憶は確実 に留めようといふ社区の活発な動きは見事。此処でもこの界隈の年老いた住民がボランティアで建物内の、当時の生活の語り部役。此処の貧苦甚だしき場所に (具体的にこの建物の二階に)戦後、土瓜湾の学舎に移るまでの時期、錢穆博士らが開設の新亜書院(New Asia College)在り。狭いフロアに教室や学生宿舎を「完備」して師弟共々寝食ともにしての苦学。1963年に新亜書院は新界沙田の香港中文大学に統合さ れ今日に至る。同大学大学院の文化人類学専攻はこの新亜書院にあり余も少なからず此の学舎に因縁あり。近隣の華南冰室に紅豆冰を食す。港島区へのバスは未 だ不通。本日午前九時半だかに旺角の雑居ビルで地階のカラオケ店より出火、五級大火で消防士二名含む四死五十五傷。旺角は彌敦道全面通行止めの由。帰宅し て画像ソフト(MacのAperture)の自習。深水埗北河街の惣菜屋で購つた美味さうな麻婆茄子と酢豚をおかずに夕餉。晩に岩波写真文庫の復刻版「川 本三郎コレクション」東京再発見5冊を眺める。この岩波写真文庫は戦後、あたしらの世代には懐かしい写真文庫シリーズ。幼い頃に祖父や父の書棚から抜き出 しては眺めてゐたがとりわけ47「東京 大都会の顔」と68「東京案内」それに201「東京都新風土記」は好き な三冊で戦後の東京の風景を穴が開くほど眺めてゐたもの。それが復刻となり川本さんの選んだ5冊(この三冊に「東京湾」と「隅田川」含む)が箱入り。三冊 ともどの頁の写真も(今では老眼鏡でルーペを借りねば細部見えぬが)幼き頃の印象は目に焼きつき懐かしい限り。ただ「年の功」はあるもので今回見直して気 づいたこと二つ。68「東京案内」で(頁表記はない本なのだが)真ん中の見開きの頁で「有楽町付近より銀座方面を望む」とあり。手前に国電のガード橋、向 かうに和光で「有楽町付近より銀座方面を望む」か、と思つたら「ちよつと待つた!」は国電ガードと和光の間に、間違ひなく(現在のビルになる前の)懐かし い天國の黒い瓦屋根が。天ぷらの天國の数寄屋造りの店構へといへば大空襲でも焼け残つた銀座八丁目の顔(実は一瞥しただけで和光の建物も尾張町の交差点角 が見えるし国電のガードの向かうに数寄屋橋も日劇も朝日新聞社もないから、べつに天國がなくても誰でも気がつくのだらうが)。天國は祖母が贔屓にして何度 も連れて行かれたが曽祖母の葬儀だつたか一周忌だつたか新宿の寺から祖母らしい気張りでタクシー何台か誂へ首都高を走り銀座まで繰り出して天國の二階の座 敷でのお清め。幼いあたしは天ぷらも食べ飽きて座敷の欄干から外を眺めると天國の横角、首都高のガード下に夕方で芸者衆のお出まし待つ人力車がづらりと並 び江戸情緒たつぷりで「こりやオツだねぇ」と子どもながらに見惚れた記憶。……でこの写真は新橋からの眺めなのは確かだが、ふと「新橋から銀座が見渡せる か」が気になるところ。当然、新橋駅は鰻の登亭のところでぐつと折れるが、銀座の中央通りが第一京浜となる新橋のガードのあたり。ゆりかもめの新橋駅がな くてもすでに首都高環状線の高架と中央通りの高層ビルに挟まれてはとても銀座など見えないだらう。それともう一つ、「東京都新風土記」で八王子市街甲州街 道沿ひの商店街。三菱銀行の先に荒井呉服店の大きな看 板。ユーミンの実家だがこの冊子の出版当時ユーミンはまだ二歳であたしが眺めてゐた頃もまだデビューしてをらず(当然か)。

八月九日(土)昨晩いただいた島根は河津の敬川まんぢゆうを朝食のあと食す。小豆餡の砂糖が美味い。午前中ちよつと走つたが体調今二つ。午後遅く中環。カ ラーシックス現像店に越南旅行のポジフィルム現像に出し久々にFCCのバーでドライマティーニ一飲。新聞読み。銅鑼湾に向ひケーブレクス電脳商店でアップ ル社の画像処理ソフト Aperture 2 購ふ。昨晩、日本カメラ8月号眺めてゐてRAW画像処理の特集あり。基本的にはJPEGで撮つたが勝負、小細工なしが基本とチヨートク先生に肖りさうして ゐるがデジタルカメラは夕方以降になると下品な色彩になること多く「色を落とす」のに画像処理ソフトが必要。かつて父親の遺品のカメラをいくつか処分させ てもらひニコン好きであつた父の形見であるから、とニコンのデジイチ(D70s)購つた頃にNikon Captureなる画像処理ソフトも入手。さすがカメラメーカーだけあり充分なソフトで使ひ勝手良く重宝したが当方のMacのOSのアップデートにそのソ フトが対応しきれずアッ プデート版まで購入するまでもなくニコンとの縁も切れてをり、ただ最近のMacは付属のPreviewのソフトで簡単な画像処理が 出来るのでそれで間に合はせてゐたが日本カメラといふ雑誌はあたしに余計な支出を唆すクセがあり、この特集を読んでゐたら「やつぱり評判のCapture Oneかねぇ」と思ひお試し版を早速ダウンロードして使つてみたが一言でいへば「作業が細かすぎ」でアタシのやうなスナップ老人には面倒。でやつ ぱり Apple社のApertureにしようか、とした 次第(ちなみに作例画像の左はEpson R-D1s / Leica 28mm/f2.8でのホワイトバランスはオートでの撮りつ放しで右はRAW画像で露出等多少補正のもの)。太古城の路上で9月の立法会選挙に立候補の何 秀蘭が選挙運動中。香港の泛民主派のアイドル的存在 だつた彼女は前回の立法会選挙で、現職として、その後公民党の党魁となる余若薇と組み立候補したが李柱銘と揚森の両ベテラン現職2名の当選が際どいと判断 した民主党が投票日直前の「急告」でリベラル票を「必要以上に」集めてしまひ、その結果で煽りを受けたのが余若薇&何秀蘭の組。僅差で親中派御用政党民建 聯に破れ何秀蘭は 落選(民建聯は党代表の馬力に加へ福建女王・蔡素玉が当選の幸運)。昨年の馬力逝去での港島区補選ではアンソン陳方安生が葉劉淑儀を破つ たのも記憶に新しいところだが、これも本来は前回選挙での「貸し」もあり何秀蘭が泛民主派代表で立つところ敵がレジーナ葉では手強すぎると何秀蘭は退いて アンソン女史の立候補促したもの。さういふ意味では今度の選挙こそ何秀蘭に手を貸すところはありさうだが、一期で「一つの役目果たした」と立候補辞退のア ンソン女史が何秀蘭の応援にまわれば選挙も面白くなるところアンソンは公民党のゴッドマザーと化し、前回の選挙で何秀蘭と統一候補組んだ余若薇は公民党で ヒロインの陳淑荘を筆頭候補に立て自らが二番手となり公民党での二議席確保に熱心、民主党はマーチンの引退で1議席確保も危なく無所属候補の応援など手の 回らぬ火の車。何秀蘭は結局、孤立無援の無所属単独で今回の立候補は立派。チラシ受け取り「頑張つてね」と鳥渡だけ立ち話。近くのスバルのショールームに ふらりと立ち寄りレガシィのワゴンの新型を眺める。スバルは父がスバル360からスバル1000、レオーネ、4WDになつたレオーネのワゴンとずつとスバ ル愛好家であつたためアタシの高校生までの記憶がすべてスバルに被る。80年代に「車はスバル」だつた父が突然、それまで大嫌ひだつたはずのトヨタのマー クIIの3ナンバーの上級車に乗つたので「世の中、バブルで変はつた」と感じたもの。ショールームの若者につい昔話したら「スバル360つてほんと小さく てデザインが最高!」と香港でもやつぱりスバルの営業マンだな、と嬉しくなる。車はスバル、ビデオはベータ、野球は阪神で投票するのは社会党、と頑固一徹 で通さうと思つたがベータと社会党はなくなりスバルが宿敵トヨタ傘下となり阪神だけが強くなつたが、それはそれでつまらない。帰宅してモヒートを一杯。晩 に半月ぶりくらゐで焼き魚に冷奴、ご飯に味噌汁、お新香といふ日本の夕餉。やつぱりこれがいちばん。七月末に旅行に出た直後にテレビ放映のあつた「鶴瓶の 家族に乾杯」で越南のホイアンの特集。ビデオに撮つてあつたのを眺める。のんびりした越南の異国情緒たつぷりの(と、それは事実なのだが)実際にはもつと めつちやくちや観光客ばかりで土産物屋しかないのだがテレビ番組はほんと上手く写し、映すもの。さういへばベトナムといへばZ嬢がハノイで街中を歩いてゐ たら路上でバイクの整備してゐた職工の若者がZ嬢を見て「アヂノモト!」と冷かした。ジャカルタでは夜遅く静かな裏町の路上で物陰から「おしん……」と声 のかかつたZ嬢で「味の素」にも今更驚かず宮様の妃殿下のやうな笑みを職工に返したので相手が面食らつてゐたが、やつぱりベトナムつて化学調味料が主食だ から「味の素」はその中でも現地や東南アジア製に比べ高級で「日本」のイメージなのでせうね。だが基本的にMSGを一切使はぬZ嬢にしてみればスバルの ユーザーがトヨタ!と呼ばれるやうな複雑な心境かしら。寝しなに桑原甲子雄の写真集「東京下町1930」を眺め る。桑原甲子雄は偶然にも2001年の夏に 東京都写真展で「ライカと東京」といふ甲子雄さんの写真展を見て写真界の名伯楽の若い頃の都市風景の切り取り、それもスナップ写真の見事さに驚いたが、こ の「東京下町1930」は甲子雄さんがそれもライカを手にした21歳くらい(つてそれじたい当時では破格だが)の日本が戦争に向かふ時期の東京、生まれ育 つた上野を中心に浅草から銀座までの風景。荷風散人の通つた銀座の富士アイスが書籍の教文館ビルのところにあつたとは知つてゐたが実際にその店舗の華やか さまで甲子雄さんの写真で始めて見る。どの写真も頗る良いが巻頭の、若い甲子雄さんが鏡に向ひライカC型で撮つた自画像の、自信満々の青年の笑顔がたまら く素敵。
▼朝日新聞(国際衛星版9日)に丸谷才一氏が「『高野聖』劇化への一提案」を書いてゐる。七月の歌舞伎座で大和屋と海老蔵君の「高野聖」を見た丸谷氏は役 者は上手いし綺麗なのは勿論(とりわけ水浴の場面)と誉めたた上で「台本に難がある」と女(玉三郎)が去つたあとのお終ゐの場、女(玉三郎)の正体を老爺 が語り明かす場面について「この解説が長くて退屈する。ぢつと聴いてゐる海老蔵の美貌も、三分も眺めれば堪能するのに、台詞は延々と続くし、目さきは一向 に変はらない。演劇性を忘れて名目だけの文学性を重んじる態度であつた」と。で丸谷先生のこの場面の私案が続く(その私案はあまり面白くない)。先日の日 剰で久が原のT君が千本櫻に続き、この高野聖についてもメールに書いてくれてゐたところ(興味深い話を聴く、とだけ綴つたが)。そこでT君がこの高野聖の 芝居について地でいける大和屋にとつて、この役は名月八幡祭の美代吉と並んで傑作なのでせうが「そもそもが高野聖は小説であつて劇ぢやないから、状況は描 けても展開がない」わけで演出も足りないとした上で、この「高野聖」の芝居で秀逸と誉めたのが実はこの老爺を演じた歌六の語り(丸谷氏の記述では老爺の役 者の名=歌六も出てこないが)。「玉三郎が去つた最後の10分以上、一人語りで舞台をすつかり支配してのけました。これは語りの力、芸の力。」とT君。こ の対比が興味深いところ。萬屋の舞台はもう何年も見てゐないが若い頃から口跡の良い役者。その語りを「解説」と言つてのけた丸谷先生。語りが長かつたのは 事実だらうが。

八月八日(金)台風一過どころか一昨晩より曇天続き昨晩深更に雷雨。雨は今日午後まで止まず。昨晩から大汗かいて寝て熱は退く。晩に五、六年ぶりで(確か 競馬の香港国際で成澤大輔さんのご所望の際に来て以来で)九 龍城の創發潮州 飯店。知己のN氏が縁戚が来港するが潮菜が食べたいと請はれて、と。それぢや折角だから創發で私らも久しく很久没去、ご一緒しませうといふ ことに。店内の調理済みの料理並べた棚はすつかりオープンキッチンに改装。食後に九龍城を漫ろ歩き地茂館で甘味。客人を尖沙咀のホテルに送り三更に帰宅。
▼アサヒカメラ8月号。ニコンのD700なるフルサイズのデジイチ発売。旗艦機D3との組み合はせが曾てのニコンFとFT、F3とFE2、F5とF100 のやう、と言ふがデジタルの時代にニコンFやFE2の時の感動なんてものはない。「デジタル乱世に迷はぬ戦国武将別カメラ選び」なんて特集であたなは信長 派?秀吉派?なんて信長がニコンのD300で秀吉がキャノンのEOS-1Dsの由。全く意味不明の特集。ただ武田信玄のシグマDP1といふのは何処か納得 できるところもあり。この写真誌でチヨートク先生や赤瀬川原平さんの連載も面白いのだが結局のところ一番印象に残るのが「木村伊兵衛のこの一枚」となつて しまふ。昭和23年の夏、鴬谷の駅のホーム(山手線外回り)で対面のホームの、ベンチに坐るモンペ姿の娘4人、その向かう1番線に列車が入つてきてゐる、 それだけのスナップなのだが。なぜにこれにそんなに惹かれるのかしら。ところで日本カメラ8月号で写真家の菅洋志の連載に最近、肖像権などうるさくなりス ナップ写真が撮り難くなつたといふ記述で
肖像権といった言葉は昭和の時代にはあまり耳にしなかった権利意識 だが、平成になってからの二十年間に、日本が欧米なみの国家を目ざす代償として、異常と思えるほど法で縛り、身軽に撮影までもが出来なくなった。
とあり。これは明らかに間違つた認識だらう。肖像権じたいは王貞治さんの通算800号ホームラン記念メダルやおニャン子クラブのカレンダー販売など昭和の 時代にもけして珍しくない権利意識。但し当時は肖像権は著名人が勝手に自らの肖像を利用され第三者が商行為を行ふことでの権利侵害。それが今日は、市井で 個人が勝手に撮影などされることに対して敏感になり肖像権といつた権利意識を有するに到つた、のは何故かと言へば小学生でもわかる話。
肖像権といった言葉は、昭和の時代には著名人がみずからの肖像が第 三者により勝手に商行為に利用されることを防ぐような権利意識だが、平成になってからの二十年間に肖像を含む個人情報保護の意識の高まりと、画像がネット を通じて不特定多数に、場合によっては不当に利用され犯罪にまで結びつく時代となり、昔のように被写体になる人は警戒して、そんな簡単に写真を撮らせてく れなくなった。
だと思ふのだが。

農歴七月初七。立秋。昨日より体調不好。腹瀉、倦怠感、寒気と越南での食あたりの如き症状。だが一昨日ハノイ郊外のバチャンに遊んだ時に猛烈な暑さで脱水 症状になり一気に体力衰退でちよつとした食物、飲料に当たつたかしら。近隣のC医師の診療を請ふ。越南で按摩三昧だつたが旅の汚れを落とさうと早晩に擦 背。垢擦りも下手なところほどビチャ/\で本格的なのはみんな乾いた感じで肌垢を擦り取つてゆくもの。ふと、天麩羅でも寿司でも一流の店といふのは魚を扱 ひつつ店内が濡れてゐない、むしろ乾いた感じなのだ、それと同じかと妙に感心。晩にZ嬢と尖沙咀で待ち合はせ。今ひとつ腹の具体が芳しかず饂飩か雑炊で済 ませませう、と日本料理「京笹」に参れば午後七時で満席。近隣の日本料理屋で美味くもないきつねうどんと雑炊で済まし香港文化中心。毎年夏恒例のAsian Youth Orchestraの公演 を聴く。日本からシンガポールまで15〜25歳の演奏者が集ひ2週間の練習で8月いつぱい中国(蘇州、南京)から香港、東京(10日すみだトリフォニー ホール、11日東京芸術劇場)、深圳、台北と公演旅行。日本では若手演奏家にも夏は夏で演奏や合宿など国内外で機会多くAYOなど関心高からず、か 100人のオーケストラに日本人はわづか9名のみ。アジアの若手奏者が一同に、つて機会が良いと思ふのだが。韓国から19名だか参加してをり巡演ないのは 惜しいだらう。指揮は英国人で現在ニュージーランド交響楽団の音楽監督であるジェイムス=ジャッド。曲目はChen Yi(1953〜)の“Momentum”なる現代曲から始まりチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調(作品35)。中入後はショスタコーヴィチの 5番。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のソリスト招聘はエルマー=オリヴェイラ。第1楽章が終はつたところで客が「曲が終はつた」と思つて拍手して しまふのは客の無知の所為に出来ずチャイコフスキーの曲「だから」さう思つても致し方ないところがあるが、このオリヴェイラさんの独奏第1楽章の展開部の 盛り上がりで独奏が済んだところで拍手した客がゐたのもまぁご愛嬌か。若者たちのオケはわづか10日くらゐの練習でよくぞこゝまで、と感心させられるが、 この曲でいへば第1楽章のあの歌ふやうな旋律なら良いが第2楽章のカンツォネッタとなるとアンダンテで聴かせるほどか、といふと流石に其処までは難しい。 それでも香港シンフォニエッタより上手だし愉快に演奏する点では香港フィルより共感がもてる。ショスタコーヴィチの5番。もうこの子たちはソヴィエト社会 主義連邦の存在を知らないのか、と思ふと、果たしてどこまでスターリン時代のソ連で社会主義リアリズムが強調されたのか、ショスタコービッチがどう生き抜 いたのか、当然この曲の演奏にあたりアナリーゼはされてゐるのでせうが、この子たちは何を思ひ演奏するのかしら。いづれにせよスターリン時代のこれらの曲 が社会主義賛美と勝利なのか、強制と従僕なのか、なんて解釈ぢたひが滑稽で純粋に音楽として解釈できれば良いとすれば寧ろ素直にスコアから演奏できる若い 奏者に期待もされようかしら。ただ第1楽章なんてカノンの主題に続き社会主義的な第2主題、そして展開をどう解釈するか、は大切なはずであるし、第2楽章 は奇想天外が面白い曲なのにソロ(とくにフルート!)などわかつたやうに「歌ひすぎ」。ラルゴの第3楽章がこの若手オケに難しいのはチャイコフスキーの第 2楽章と一緒。胡瓜の古漬けのやうな、あの社会主義的停滞はさう易々とは演奏できなくて当然だらう。終楽章。「大きな音を奏で元気に演奏できました」花◎ をあげませう、てな具合。解釈以前の問題で体力的にもこの最終楽章に辿りつき最後まで演奏できるだけでも彼らにはロングラン。余力もなくとにかく食らひつ いてゆくのが精一杯でせう。が何度も繰り返すが「10代後半の若者たちなのだ」、じふぶんにご立派。拍手喝采。とくにこのショスタコービッチの5番など、 奏者にとつて自分のパートだけではいつたい何が何なのか?さつぱりわからない曲なわけでオケで合奏となつた時に自分がどういふパートを任されてゐるのか、 どういふ音が全体で構成されるのか、を学ぶには大変良い機会のはず。ショスタコービッチの5番なんてあたしは自慢にもならないが中学3年の時に学級担任だ つたK先生にレコードを十数枚渡されカセットテープに録音してくれ、と頼まれ(当時はまだテープに録音はまだ設備のないリスナーも少なからず)その中の1 枚がこれ。LPに針を落として「なんぢやこりやつ……?」と全く理解できず。それから少なくても齢を倍くらゐ生きてみるまでわからなかつたもの。ショスタ コービッチが生きてゐてアジアで10代後半の奏者たちがこの5番を演奏してゐるのを知つたら、なにを感じるかしら。帰宅して悪寒に熱を計ると37.5度は 赤ん坊ぢやあるまいし年寄りにはつらいところ。
▼なにげにニュースを見てゐたら先月末に郷里の古い割烹料理屋で火事あり。子どもの頃から祝言や法事といへば此処の大座敷の宴会。木造2階建ての建物 970平米が全焼の由。それにしてもYahooニュース(産経新聞)の記事で「けが人はなかった。同店は約60年前から続く老舗だったという。」つて、こ の料理屋が保和苑といふかつては賑はつた由緒正しき公園をもつ寺の参道に位置する老舗で60年前から続いたことは明らかな事実。それを「……老舗だつたい ふだったという」つて、これが犯人や被害者が「近所とはあまり付き合ひがなかつたといふ」なら記者が近所の人に取材しての伝聞表現で良いが、記者がその老 舗を知らなかつただけのことで「……老舗だったという」としたのはあまりにも無頓着すぎやせぬか。記者が駆け出しにしても誰か気づくべき。

八月六日(水)朝食をとりながら新聞を読むと台風がベトナム北部に向ふと記事あり。よく見たら台風はちやうど香港あたり。慌ててネットで確認すると香港は 台風警報8号発令中。あらゝ……。Z嬢ご静養で昼まで独りで出街。旧市街の邊で晝まえから呑気に按摩。この市街の路地はまだ中上健次的世界。路線バスも慣 れると市街網羅の路線がかなり便利。晝にホテルに戻りZ嬢とハノイ站近くのクアン・アン・ゴンなる食肆に食す。ホーチミンの人気店でハノイにも開店。外国 人ご用達かと思へばけつこう地元の若い連中にも人気でフードコート的なんでもありのベトナム料理。炎天下、バスでホテルに戻り午後までプールサイドで 微睡。ドライマティーニをロックで、と注文するとStraight Upで供されたが「氷でシェイクしました」とプールサイドのウェイターの笑顔に「よし/\」といふ気分。香港に戻るフライトに合はせ16時チェックアウト にしていただけてありがたいかぎり。投宿は朝6時であつたし、結果、正午チェックイン&アウトの既定より前後計10時間余計に滞在。さすがソフィテルメト ロポールハノイと感心すること少なからずの三日間。ホテルのBMW7系のリムジンでノンバイ空港へと向ふ。車内に備へ付けのiPodがちやうどピンクフロ イドのThe Dark SIde of the Moonなのだ。夕方のハノイの旧市街をピンクフロイド聞きながら自動車で走り抜けるのもなんか感慨深いものあり。香港はすでに台風警報は3号に下がつた が天候不良の影響で19:10発予定のフライトが1時間の遅れ。このノンバイ空港、ゲートがたつた9つで施設は「なにもない」と聞いてゐたがwi-fiは 整備され而も無料。ベトナムは銀行でも海外カードで現金引出しは結果的に可能。現金をいつも持つてないと生活できない点では日本こそ後進国かしら。空港で フライトを待ちながら昨日のIHT紙を読むとアレクサンドル=ソルジェニーツィンの長い追悼記事あり。新潮文庫はかなり読んだつりもでゐた17歳の時に親 友のロック少年O君に「イワン=デニーソヴィッチの一日を読んでゐないの?、あんな面白いのに」と言はれ読んだ日の頃を思ひ出す。当時、なぜ亡命先が米国 なの?とかなり疑問(今でも、だが)。ハノイから海南島を越え台風に向つて飛ぶやうなフライトはキャセイがベトナム航空とのコードシェアで後者の運行で初 搭乗。多くの乗客の荷物の機内持込みの量が尋常でなくアタシらの手荷物は頭上の棚に置き場もないが乗務員は「足下に置いてください」と他の航空会社によつ ては「絶対にダメ」なのに。航空燃料高騰で預け荷物の重さ制限が厳しくなり(超過での追加料金徴収もシビア)結果、預けられぬ量を手荷物にするのだらうが ハノイの空港は手荷物の個数、大きさ制限など無いも同然、でこの結果。「気流が乱れる怖れあり香港到着まで時間がありませんので」と食後の珈琲、紅茶の提 供がなかつたくらいで順調に香港へ(着陸間際は強風でかなりの揺れ)。23時近い空港は延着のフライトが続々と到着したやうで芋を洗ふやうな人ごみ(本日 夕方に香港発の90便が欠航し300便くらひが遅滞の由)。帰宅の際は雨に降られずに済んだが深更まで何度か強い驟雨あり。今日はリチャード=クラインの 「タバコは崇高である」(太田晋他譯、太田出版)を半分ほど読む。

八月五日。朝五時に目が覚め七時には朝食を済ませ……と連日の如し。Viet Nam Newsといふ英字紙は官製で正直言つてつまらない。夕方には部屋に昨晩、日経が届いてゐたのがせめてものお慰み。ちよつとハノイの市街から出てみませ う、と東南10kmほどに位置する陶磁器の生産地、バチャンへ半日遊ぶことに。「地球の歩き方」にロンビエンバスターミナルから市バス47系統でも行ける がが「非常にわかりにくい」とあり。ロンビエンのバスターミナルらしきところまでバスで行つたが47番の乗り場が確かに何処かよくわからず(結果的に復路 でわかつたのはバチャンから来たバスがこのバスターミナルらしき場所に到着するとそこで適当に客を拾つて出発する由)面倒なのでとにかくハノイ市街の東を 北から南に、京の鴨川の如く流れるホン河にかかるチュオンズオン大橋を渡る系統のバスでとにかく川向かうに行つてからバチャンに向ふ道路に入れば間違ひな く47系統のバスに乗れるから、と判断。でホン河は鴨川の流れとは大 違ひの荒川用水路や利根川や広州の珠江も比べ物にならぬ中国の揚子江に次ぐくらゐの豊かな水量で赤土を多く含み文字通り紅河。でこの大川を渡り47番に乗 り換へ川向かうのロンビエン区で(つまりロンビエンバスターミナルといふのはロンビエン区方面に行くバスのターミナル、といふことでこのへんがやはり巴里 のリヨン驛とかと一緒)Ai Moといふ町の裏道を抜けバチャンに行く道路まで散歩して47系統のバスでバチャンへ。紅河の広い河岸段丘の堤防上に走る、砂ぼこりの舞ふ道路。牛が草を 食らひ馬車が資材を運ぶ。四十分ほどでバチャンの集落に到着。片道3,000ドン。日本にもかなり陶磁器の輸出あるさうで観光客相手に製造元販売も盛ん。 観光案内の半日ツアーはUS$25〜とあり。路線バスなら往復で6千ドンで40円程度。本日は観光客は集落全体でも数へるほど。だが製造元で小皿などUS $2からでは正直言つて高いし旅先でわざはざ購ふほどの物に非ず。陶磁器屋の並ぶ通りの雑貨屋で缶ビールとジュースを買はうと思へばUS$2といふのでド ンでは?と聞くと4万ドンだ、と店の女。ハイネケンは高くて25千ドンの由。馬鹿馬鹿しく「冗談ぢやない」と店を出るがハノイ市街に戻るとハイネケンは 14千ドンでジュースなら5千ドン。観光地といふのはその倍値でふつかけても買ふ客がゐるから観光地値段といふのが成立するのは世界共通なのかしら。バ チャンは結局、社会科見学に終はりハノイ市街に戻り旧市街の食堂で早めの昼食済ませホテルに戻る。昼過ぎまでホテルの中庭のプールのパラソル下に寛ぎ微睡 む。買物に出かけるZ嬢と別行動で路線バスで昨日見逃したホーチミン博物館へ。ホーチミンは党内の権力闘争や粛清、クメールルージュや文革の如き極左路線 に陥ることもなく20世紀の独立運動、共産党指導者世界としては尊敬に値ひしよう。展示を見ても、その質素な生活ぶりはほんたうに私らの知る通り。で、そ んな質素なホーチミンの生涯の展示をこの巨大な博物館がどう演出するのか、と思つてゐたらホーチミンついては1フロアのみで階上はベトナム統一と独立を テーマにした抽象的なアート展示なのだが、これが驚くほど嗜好が社会主義リアリズムのオンパレード。1930年代のソ連共産党指導下、といつた感じの社会 主義芸術で今日ではそれは歴史的価値はあつても芸術としては鳥渡、といふものばかり。それがホーチミン博物館でこんなに盛んなまゝだとは。因みに掲載の画 像は社会主義リアリズムのアートではなくバチャンの路地の壁(笑)。小雨。市街の社会見学続け昏刻にホテルに戻る。晩はホテルのLe Beaulieuなる仏蘭西料理屋に食す。食前にドライシェリー(Perez Barquero)を一杯注文すると供されたのは赤の甘口。鳥渡これは違ふんぢやないの?と給仕に質したが「間違ひございません」と。だつてドライ、つて 酒リストにも書いてあるでせう。「ですが銘柄に間違ひがないので」と給仕も多少不安げ……でソムリエ兼任らしい給仕長現れ銘柄は確かにさうですがお客様の ご指摘の通りドライは白で辛口なはずで……と暫くすると「申し訳ありません。バーカウンターで同銘柄の白が在庫切れしてをりまして何も知らずに赤の甘口を 出しましたやうで」とシェリー酒を引つ込めたのは、まぁご愛嬌。アスパラガスの冷菜、マグロの冷菜、ラムの肋肉のローストはZ嬢とシェア。料理は美味。葡 萄酒は「今月のワイン」に選ばれてゐたBordeaux Grande Reserve de Beau-Rivage(Cab Sau、05年)といふお手頃ボルドー。ハノイは昼からビールは当たり前、今日も安食堂でウォツカの瓶を空ける御仁ら見かけ大したものだと感心したがレス トランの酒の値づけではビールとウイスキーなどスピリッツ系は手頃で葡萄酒はこれもUS$40と割高。ハノイなので一流の仏蘭西料理屋でもドレスコードは せいぜいTシヤツと短パン、サンダル穿きはご遠慮ください、程度なのは良いし客の中でジャケット着用なんて冷え性のアタシくらい。だが薄汚いランニング シャツ、短パンにビーチサンダルでレストランの中を平気で家族で横切れるア**カ人の感性(の無さ)は疑はざるを得ず。ア**カ人といへば食後に中庭の プールサイドに近い屋外のバーで食後の一杯と思つたらア**カ人の夫婦で娘をプールで泳がせておいて夫婦水入らずで一杯、は良いが水着姿でびちや/\の娘 をバーに呼んでパイナップルシェイクだか飲ませて、また泳がせて、とこれも亦た困つたもの。この人たちは「場に相応、不相応」の区別が出来ぬらしゐ。で平 気でベトナムやイラクには介入するのだから。
▼久が原のT君より「波乃井のお宿の目の前にござんしよ、オペラ座が」とメールあり。歌劇好きのT君がウィーンのシュターツオーパーや巴里のオペラ座、ミ ラノのスカラ座は済ませて、一度でいひから行つてみたい小屋の一つが、恐らくブエノスアイレスのコロン劇場などもでしようが、このハノイの市民劇場ださう な。確かに宿泊のホテルのすぐ近く。残念ながらこの二晩公演は一切なく館内見学は常時不可。残念なところ。「海外に出るとイギリス人は公園と競馬場をつく り、フランス人はオペラ座と監獄をつくる」なんて言葉もあるさうで(「建築のハノイ」より)。今回は初めてのベトナムでホーチミンからハノイを旅してみて ホーチミンとハノイのどちらが好み?といへばあたくしはハノイ。

八月四日(月)ベトナムの寝台列車の揺れと軋音にも慣れ昨晩八時過ぎより朝四時くらゐまで熟睡。空の白むのを車窓より眺めれば五時過ぎのまだ薄暗いうちか ら早起き のベトナム人は市場や食堂に鳩まる風情。ハノイ站に凡そ定刻通り五時四十分過ぎに予定だが何に驚いたかといへば列車がハノイ市街に入るに従ひ単線の線路の両側は手を伸ばせば台 所の味の素を拝借できさうなほど家々が線路を挟み、浅草花屋敷のジェットコースターぢやないんだから、これが都電荒川線なら「ここは庚申塚かひ?」で済む がベトナム統一鉄道の首都ハノイ站へのアプローチだと思ふとなんとも可笑しい。ハノイ站からタクシーでソ フィテルメトロポールハノイに投宿。1901年にグランドホテルメトロポールとして開業のこのホテル、朝六時過ぎの到着ながら「お部屋の用意は出 来ますので」とearly check-inが叶ひ懇切な対応。一つ上の広さにアップグレードあり。重厚なる造りの旧館の客室に通される。夜行列車の旅のあとの熱いシャワーはありが たいかぎり。旅荷を解き出街。初めてのハノイなのでホテル近くでハノイの市街地図購つて近隣のカフェで朝食。外をぼんやりと眺めてゐたZ嬢が「なんでやね ん!」と笑ふ。「なんで救急車が生駒市消防局やねん」つて中古の救急車の払ひ下げ輸出かしら。「そりやここ、河内(かはち)やで。救急患者で生駒から運ば れてきて、なにがをかしいねん」と(ハノイは漢字で「河内」なんだが)。少し歩いて9系統の路線バスに乗り市街西部をぐるりと回つて市街見物しつつCau Giayのバスターミナル終点に到着。近くのトゥーレ公園にある動物園。首都の動物園にしては多少寂しいが公園の湖岸を上手く造園して暑くなければ憩ひの 場かしら。それにしても暑さ猛々し。今度は東(市街地)行きのバスでBuyt Kim Maなるターミナルまでバスに乗り、下町の横丁の市場を抜けホーチミン博物館へ。月曜日で午後休館と知り午前中のうちに、と思つて訪れれば午前の開館は 11時までで到着の10時半にはすでに入場不可。ホーチミン旧居も同様で入れず。大統領府近くの大使館街を歩けば瀟洒な洋館ながら殊更警備が厳重の大使館 (大使公邸)あり何処の国か、と思へばイスラエル。あまりの暑さに通りすがりのカフェでハノイビール一飲。バスで旧市街。漫ろ歩き。昼飯を逸したままホテ ルに戻ると午後、驟雨あり。夕方また市街をうろふろと散策。晩にホテルから南のはうに歩きAu Lac Houseなる外国人相手の洒落たベトナム料理屋で夕食。智利のLoncomilla ValleyはCarta Viejaのシャルドネレゼルヴ05年。ホテルの客室が快適で、しかも部屋は出かけて戻ると夕、夜に合はせ鳥渡した心遣ひがあり、まるで京都の旅館の如 し。

八月三日(日)朝から雨。かなりの本降りのあと陽射しのなか小雨模様もまたをかしい。明朝五時過ぎにハノイ着の予定なのでハノイのホテルにearly check-inのお願ひなどメールで済ませ昼まで部屋で寛ぐこと暫し。このホイアンといふ町、日本から天正、永禄の時代(16世紀後半)に商人が渡り、 その後は華僑の貿易町として栄え今日に その風情を残し欧州では近郊のミーソン遺跡と並び世界遺産となり観光客は、殊にこの地をファイフォ (Faifo)と呼んだ欧州人には事の外、旅情をそゝる土地なのか人気あり。日が暮れて旧市街漫ろ歩けばいやはや仏、独、英、西班牙と欧州の言葉が交じる 数千の数の観光客の姿。旧市街といひ海岸のリゾートといひ大小数百件のホテルが夏のヴァカンスシーズンとはいへ東南アジアは雨期の暑苦しい季節にこれだけ 人を惹きつけるとは。それに比べアジア人観光客の少ないこと。タイでいへばホアヒンもさうだが、鳥渡のアクセスの悪さがアジア近隣からの客を遠ざけ、逆に 遠き欧州から空路、陸路と何日もかけての旅人はそれを厭はぬのが不思議。彼らが正直言つて半日もあれば観光も済みさうな(さういふ意味ではタイのチェンマ イもさうだが)その小さな町で彼らはまつたりと何するでもなく何日も逗留。ビーチ沿ひのリゾートホテルに泊まる客ならまだ連泊もわかるが、旧市街のバック パッカー相手の安宿に泊まり繁華街のバーのテラス、と言へば聞こえが良いがバイクの騒音と埃や砂塵の舞ふ街頭に坐してビールや珈琲など飲みながら何を感じ 入るのかしら。香港から来たあたしらでは想像もつかぬくらい異国情緒たつぷりなのでせうが。昼前にホテルをチェックアウト。ホテルの自動車でダナン市街の 鉄道站へ。13:05分発予定のハノイ行きSE2特急は予定通り運行の由。12:35に到着予定なのは、南北ヴェトナムの中間にあたるダナンは欧州の都市 站のやうな(上野站もさうだが)行き止まりの終着站で入つてきた列車はスヰツチバツク式に折り返すゆゑ。ディーゼル機関車を最後尾の車輌に連結させたりで 停車時間は長い。ホーチミンから走り続けた先頭の機関車はここでお役御免。ただ、もしかするとこのまま次に入つてくるハノイからの特急を牽引して南走する のかしら。駅前食堂で簡単に昼飯済ませ站に戻るとハノイ行きとサイゴン行き(やはり首都ハノイ行きが上りなのか)が十数分違ひの繁忙時間で待合室は冷房も 適はぬほどの人いきれで蒸せる。五分ほどするとハノイ行きの特急が来るとアナウンス。到着したSE2特急の寝台車輌は三日前の車輌より更にオンボロ。今回 も四人用の個室寝台を買ひ取りZ嬢と二人で占領。この寝台の柔らかい個室寝台は中国で言ふところの「軟臥」だが今日の車輌のトイレには「有人」「無人」と あり車輌が中国製なのは確か。車輌の古さからすると中越紛争以前のものかしら。昼すぎから好天。ダ ナンを出た列車は小一時間もせぬうちに越南統一鉄道最大の難関で風光明媚なる名所、ハイヴァン峠に至る。国道一号線は箱根のやうに曾ては峠越え(現在は 2005年に開通の日本の資金援助によるハイヴォントンネルが開通)で鉄道は海の近さは日本でいへば五能線だが、このハイヴォンの岬を海抜30mくらひを 途中3ヶ所の長いトンネルを除けばフィヨルドに沿つて山肌を縫ふやうにゆつくりと進む。迂曲が続き13.8:150といふ鉄道ファンには信じられぬ、10 号車の車窓から先頭の機関車も最後尾の13号目の貨物車も左右の視界に入つてしまふ、その間に若狭湾か狭さ的には金華山のやうな入り組んだ湾が眼下に広が り絶景かな絶景かな。よくもまぁこんな紆余曲折の鉄道を敷いたものだと。自動車道と同じくハイヴァン峠を貫徹のトンネルでも掘るか?と言へば鉄道業衰退で 基幹線とはいへなにせ単線の非電化鉄道では日本政府も円借款もせぬだらう。目を楽しませてくれるにはこれで良しだが峠の紆余曲折の線路の保守修繕はかなり の労力投資ゆゑのことで沿線に線路整備箇所散見。猛暑に山あひで小屋に住まひ保線作業に従事の猛者多し。列車は三十分ほどかけ峠をまはり北側のランコーな る海浜避暑地へ。ここから越南最後の王朝・阮(1802〜1845)の古都・フエも近し。フエは車窓から水濠と城壁の西南角を眺める。昨晩ホテルの図書室 から拝借の西村京太郎「東京発ひかり147号」なる推理小説を暇潰しに読む。鉄道モノの推理小説は列車の長旅に適しさうだと思つたが推「理」以前に刑事ら の推「測」が当り辻褄合はせのやうにいくつかの殺人事件が結びつく都合の良さ。予知能力ある少年が年上の或る女性に恋してストーカーもどき、で偶然に少年 が一人旅の車中、新幹線のなかで耳にしたのがその憧れの女性を殺さうと企む相談話……つてそんな何百万分の一の確率の偶然キッカケに事件が、と言はれて も……。列車は午後5時過ぎゐよ/\北緯17度近きベンハイ河のDMZ(かつての南北越南境界へ)と向ふ。緑豊かな穀倉地帯。西の連山はもうラオス。南北 統一鉄道でもこゝで南北越南統一祝すプロパガンダ放送もなく列車もフエを出てからは晩遅くまで停る站もなく余程気にかけてをらぬとベンハイ河を渡つてしま ふ。地図で(といつても越南国土地図買ひ逃しLonely PlanetのDMZ地域の10万分の1の地図で)村落やら国道1号線との折り合ひでDMZ近きことを確かめ車窓からDMZとベンハイ河の眺めを逸さぬや う待ちかまへる。やはりあたしらの世代には南北ベトナムのこのDMZといふのは記憶に鮮明なものあり。走り続ける列車の車窓から写真など数枚撮れるかどう か。敢へてライカを選び写真機ぢたひはM6ではベトナム「戦後」だがズミクロンの8枚玉は世代的にベトナム戦争を知つてゐる。午後5時28分、ベンハイ河 を渡る。快晴。この掲載の写真はたんなるベトナムの車窓の風景だがDMZ。ここでフォークルの「イムジン河」とかつい口遊みさうになるのはやつぱりあたし らの世代かしら。小田実はどうしても支持できぬがベ平連とかベトナム平和運動があり反米帝の思想はやはり今でも拭ひ切れず、香港だつてあたしらが香港に来 た頃には西貢や、それどころか今では地下鉄が通りベッドタウン化した馬鞍山にベトナムのボートピープルの臨時収容所がありアタシも一度だつたが収容所で日 本語の学習を所望する難民相手に日本語指導の手伝ひに行つたことふと思ひ出す。米国でもカナダでもなく「日本へ行きたい」といふ彼らに心の中で「日本はさ う易々とあなたたちを受入れる国ぢやない」と思ひつつ口には出せず。その数ヶ月後に収容所閉鎖され彼らはいつたいどうしたものか。一党独裁であるとか経済 成長での極度のインフレと経済格差など問題は山積みとはいへ少なくともボートで海外に難民亡命しようといふ結論には至らず生きていける、今は幸せか。南か ら北に入り風景ががらりと変はるわけではないがホーチミン近郊の商品作物、殊に果物栽培の盛んに比べ稲作ばかりが目立つ。夕暮れのなか沿線の赤々とした明 かりが何かと思へば暗闇のなかに製鉄工場の溶鉱炉の火。今どき溶鉱炉からの火が漏れるなんて、なんて社会主義的なのかしら。車内販売の弁当で夕食済ませ列 車に乗つてからずつと飲んでゐたハノイウォッカの瓶(300ml)もすでに空になり列車が北ベトナム南部「だつた」町・ドンホイに着く七時過ぎには外は暗 闇。站構内の売店でビール購ひ飲み干して早寝決め込む。

八月二日(土)朝どんよりとした曇り空から雨となる。日なが読書と決め込む。小雨模様となるが海岸に点在する屋根はビーチチェア二つを優に覆ふ大きさで涼 しいくらゐで雨を避けるに能ふ。昼はホテルの食堂でピッザなど食しモヒートを二杯。午後になるとピーカンに晴れ海岸でまた読書して微睡む。夕方にスパで按 摩。燈刻ホテルのシャトルバスで市街に出て一昨晩と同じHai Cafeで夕食。旧市街ばかりかホイアンの市街をかなり広めに漫歩す。日が暮れると夏は路地や縁台など出して涼を愉しみ子 どもらが路上で遊び、何処の家も開けつ放しで茶の間まで丸見え……あたしらが子どもの頃は日本でもこんな風景が当たり前だつたもの。今日は本を3冊も読ん で、さすがにこの旅に持参の本はあと一冊となつてしまひホテルの図書室で本を漁る。池田大作と谷口雅春の著作がまづ目に入るのはリゾートホテルでは珍しか らず。数冊を部屋に持ち帰り寝しなに沢木耕太郎「一号線を北上せよ」講談社文庫を読む。一号線はベトナムのハノイとホーチミン結ぶ国道一号線のことで当地 で読むには「ならでは」か。自分が旅慣れてゐないとか、その場所を知らなければまぁ肩の凝らない多少冒険つぽい紀行文学で読んでゐられるのかもしれない が、アタシは「深夜特急」の香港、マカオ編を読み椅子から転げ落ちるほど「なんだ、これはつ?」と驚いた。香港でもたか/\佐敦や油麻地を歩くだけで大仰 に筆が滑りマカオでの博打もまるで「俺の空」の安田一平。それが若気の至りならマダしも、またベトナム戦争中とはいはぬが統一後の混乱収まらぬ70年代な らまだしも、2002年だかのベトナム旅行。冒険にならうはずもなし。ホーチミンに着いてタクシーでマジェスティックホテルに投宿して路上でフォーを食つ て市場まで出かけ……がまるで感動の旅。ホイアンでは中国のお寺を見学するつもりが日本人の墓に辿り着いたことがちよつとしたエピソード。国道一号線の北 上はカフェ(安旅行代理店)で購入の縦断バスチケットによるものでハノイでもホテルに戻るバスに乗り違へただけで一つの物語。この程度のことならせゐ/\ 日記に綴つて終はりだらう、とアタシなら思ふしアタシでも書き残すにも値せぬと思ふ些細なことまで書いてしまふから=活字にして売文できるのだから、さす が大家。
▼草間彌生自伝「無限の網」作品社。前衛芸術家の自伝で2002年初版が05年で十刷といふのだから近年の草間ブームかの如し、だが草間彌生といふ人が芸 術家である以上にどれだけプロデューサー的な、また自らの作品のマーケティングまで出来る人か、がこの本を読めばただ/\納得。
▼福岡大学で独逸現代史教へる星乃治彦教授の「男たちの帝国」岩波書店(2006年)。朝日新聞の香山リカによる書評読み近代独逸のヴィルヘルム2世から ナチスへのホモソーシャルな社会史。星乃教授が自ら
石原慎太郎東京都知事と「同じ」日本人であるというよりは、「同 じ」同性愛者であるヴォーヴェライト・伯林市長を「同じ」と感じるのを選択したい。
とこの男気?が気に入つた。第3章まではさういふ独逸の社会史なのだが第4章(戦後の憂鬱)は戦後の世界的なゲイ解放に向けての鳥渡、ビギナー向けで第3 章までのノリと相容れず。
▼デヴィッド=グレーバー著(高祖岩三郎訳)「アナーキスト人類学のための断章」Fragments of an Anarchist Anthropology(以文社)。
人類学がアナーキズムを伝播するもっとも明白な理由は、それが人間 性に関してわれわれが手放さない多くの通念が真実でないことを、否応なく証明するからである。アメリカ人が自明だと考えているのは、国家的権威と警察がな くなれば、渾沌が支配する以外ない、間違いなく人びとは殺戮しあうだろうということである。人類学はそうでないことを証明する。人類学は、国家なき社会に おいて相互殺戮が起こらない無数の事例……そして国家があったとしても、ことさら警察機能を果たさない事例……を提供している。さらに現存する社会の中で も、国家と警察が消失した後、さして劇的な変化が起こらなかった多くの場所を知っている。ソマリア全土で……
とグレーバー先生はとても元気。多数決制民主主義はその起源において本質的に軍事制度であつた、と。確かにね。小学校の学級会で多数決といふ民主主義の基 本を教はつたが実は多数決だつて政治的にどちらに投票するか、の結論は流されるもので、それを乗り越えるのは基本的には全員が武器をもつて自衛できる前提 であることはアテネやスイス的なものからわかること。

農歴七月初一。朝起きたら四時半。どうしませう。ところでこんな郊外のリゾートホテルもネット環境はコテージまでwi-fiの時代。下手にケーブル引くよ かwi-fiのはうが設備投資としては楽なのは確か。wi-fiじたいは快適だが断続的に外に一切繋がらなくなる時があるのはベトナムの通信事情の所為か しら。小一時間もすれば回復。ホイアンの南西50kmくらひの山あひに当地の古 代王朝チャンパ王国の聖 地、ミーソン遺跡あり。せつかくだから行かうかどうしようか、と言つてゐたがホテルのツアーではUS$36は法外だが昨晩Z嬢が市街の雑貨屋兼業の小さな 旅行案内所でUS$5のバスで往復の1日ツアー見つけ、これに参加することに。朝8時にツアーのお迎へありいくつかホテルを回り参加者をピックアップして 市内の集合場所で降ろされ、ここから大型バスでミーソンに向ふのだがバスは座席後ろ半分が横臥型の長距離用で坐りきれず寝台をシェアして坐すやうなハメに なるがUS$5のツアーでは致し方なし。世界各地からあたしら含め安つぽい旅行者鳩まり車内はまるでBabylon by Busの風情あり。説明好きのツアーガイドで行きの車中、ミーソンについて最初の案内所、更に遺跡入り口の休憩所とミーソン遺跡の説明が続き「時間までに 集合地点に戻ればいいか?」といふ参加者のリクエストは拒否され遺跡でも詳細に渡り説明が続く。チャンパ国の王様が4世紀だかにシヴァ神祭る木像の祠堂建 立に始まり7世紀に煉瓦建築が始まり現存するのは8世紀から13世紀の遺構。煉瓦でかなり精緻な意匠施す。19世紀に仏軍の兵隊が密林のなかでこの遺跡を 「発見」。ベトナム戦争ではベトコン退治で米軍が空爆した結果、いくつものパゴタなど破壊され現在はその瓦礫が草叢に残るだけの地区もあり。昼前には遺跡 見学終はり、往路にガイドが「遺跡見学後 は船での川下りや昼食、少数民族のショーと土産物ショッピングもありますので」と車中で説明したので「それみたことか、やつぱりそれに嵌められる」と思つ たが復路にそのオプションを選んだ客だけが復路、河辺で降ろされ残りの参加者はそのままバスでホイアン市街へと戻る。チュンバック(Trung Bac)といふホイアン名物のカオラウ供す食肆で昼食。バインバオバック(通称ホワイトローズ)も食しカオラウがあまりに美味いので二皿平らげる。食後に 食肆の数軒隣りの古くさい理髪店で散髪。VTD40,000(約US$2.5)は観光客値段でせう。顔剃り、耳掃除どころか睫毛!のトリートメントまであ り。シャトルバスでホテルに戻り静かな、ほんと数名の宿泊客しか遊ばぬ海岸に寛ぐ。樋口陽一先生の「憲法入門」再読。1997年の改訂版だつたか読んでゐ るが、その後、憲法の置かれた状況に合はせ已に四訂版。極めて真つ当な護憲の立場での憲法論は中学生でも読める平易な内容。護憲といふと今の日本では左翼 的だが日本国憲法は普遍法としてかなり理想的であるから憲法学者といふ専門家の立場で普遍法たる憲法を狭隘な一国家政権に有利な改正はすることは間違つて ゐる、といふこと。「国の教育権」についての記述の中で、東京都の国旗国歌強制での教員処分に関する裁判で最高裁がこれは思想信条の自由を侵す不当な支配 とする地裁判決退け違憲主張退けたが、この反対意見としてこの裁判で問題とされるのは教師各人の思想信条ではなく学校といふ教育現場が公的儀式で参加者に 儀式内容への強制をすることに否定的な教師の信念ではないか?と少数意見をつけたこと取り上げ、この著作でいくつも挙げられる最高裁判例(それも情けない 判決が多いが)の中でこの部分だけこの少数意見の提出が藤田宙靖裁判官によるものと明記されてゐることが印象深い。藤田氏は樋口先生の東北大法学部時代の 同僚で鳥渡、その後の行革委員になつたあたりからの「中央」へのすり寄りには多少気になるところもあるが「こゝぞ」といふ時の、しかも最高裁では大切な判 決での少数意見に樋口先生は元同僚へのジェントルマンシップとして敢へて、この四版でのこの言及だつたのかしら。少ない文学者の言葉からの引用で荷風散人 が目立つのも興味深いところ。憲法議論に積極的に取り組む樋口先生も気分的に荷風的なこの現世への隔世もあらうかしら、と思ふ。
ケルゼン「民主制の擁護」1931年より(長尾龍一訳)民主制はそ の最悪の敵さへもその乳房で養はざるを得ないといふ悲劇的宿命を負つてゐる。民主制が自己に忠実であらうとすれば民主制撲滅運動を容認し、それに他の政治 的立場と同様の発展可能性を保証せざるをえない。かくて民主制は最も民主的な方法で廃棄されるといふ奇妙な場景に直面する。国民が、最大の邪悪は自己の権 利だと信じ込まされて曾て自らに与へた権利の剥奪を要求するといふ場合に。……船が沈没してもなほその旗への忠実を守るべきである。自由の理念は破壊不可 能なものであり、それは深く沈めば沈むほどやがて一層の情熱をもつて再生するであらうといふ希望のみを胸に抱きつつ、海底に沈み行くのである。
……といふ言葉の引用あり。だが日本といふ国は樋口先生の指摘の通り某首相(福田一世)が首相退任後に「憲法こそ戦後日本の諸悪の根源」と宣ひ(小泉三世 は自衛隊海外派兵で違憲で何が悪いかと開き直つたが)史上最年少で首相になつた孫(安倍三世)は憲法を筆頭とする戦後レジームからの脱却を唱へ党総裁に選 出された。が戦前の日本では憲法の「私議」禁止の建前から議院法や請願令でも憲法改正は対象たりえぬとされてゐたのに対して現行憲法を与党の元首相が「諸 悪の根源」とまで言ふ自由を認めてゐることを日本国憲法の長所として認めるべき、と樋口先生。「憲法批判をタブーとしてはならぬ」と言ふが一切のタブーか らの解放もこの憲法によつて実現されたものであり現憲法に不満もつ人々にこそタブーの再生(「それでも日本人か」といつた非難の仕方)がある、と。改憲政 党たる自民党こそこの憲法のもとで長期政権を維持した受益者なのにその憲法を保守しようとせず改憲が党是なのに本気で改憲をしようとせず今日に至り党内で 強硬な改憲論者が出てもブレーキをかけるでもなく……これが戦後そのもの。御意。ところで樋口先生が戦前の状況で昭和天皇が「あのとき敢へて軍の暴走を止 めようとしたら却つて国が大混乱になつてゐただらう」とした述懐を挙げ「それ以上のことをなし得る力量をもつ政治家を、いま、主権者・国民は選び出してゐ るだらうか」と指摘したところが興味深い。その通りなのだ(そして戦後のこの現行憲法の最大の擁護者=護憲機能が今上天皇であらせられる事実)。……敢へ てこの樋口先生の憲法本であるから曾てベトナム戦争の激戦地に近い、このリゾートホテルの図書館に置いてこようか、と思つたのだが樋口先生がこの本の「を はりに」で普遍法としてのフランスの人権宣言と米国の独立宣言を援用し1945年にヴェトナム民主共和国独立宣言がうまれたことに言及されてゐる。「ヴェ トナム人たちが、まさにこれら二つの国の支配に抗して一連の長く苦しい独立戦争を戦はなければならないことになるだけに、そのことは示唆的である」と。こ の一文だけでもこの本がヴェトナムに置かれて良からう、と思ふ。自民党といへばこの本を読み終はり部屋に戻るとZ嬢に「麻生幹事長だつて」と言はれ、ここ 数日新聞もロクに読んでゐなかつたので「ん?」と思つたが築地のH君からのメールで福田三世の内閣改造を知る。小泉三世の郵政解散の時はバンコクにいたし 昨年の夏もチェンマイで築地のH君と安倍君の参院選敗北を受け民主党岡田首班での連立内閣なんてメールでやりとりしてゐたが、H君の指摘によれば
元毎日新聞記者で新自由クラブ出身、『軍縮問題資料』の常連筆者だつた鈴木恒夫君が文相。前任の渡海君に続きそれに輪をかけた「リベラル文相」の誕生。福 田三世のかなり本気な安倍路線の教育改革への嫌悪。法相は曾て「加藤の乱」に加担した保岡興治君起用も好感度大。経済財政担当相に与謝野馨君といふのも小 泉-竹中流の新自由主義路線と明確に一線を画すといふ意思表示にほかならない。
と。なるほどねぇ……と海岸に面したベランダで葉巻をくゆらせつつ東都での内閣組閣を眺めてゐると吉田茂のようだがZ嬢に「酔つてゐてばかりで吉田健一の 間違ひでは?」と指摘あり。晩にホテル近くの観光客相手の集落で川沿ひのChinhなる名の食肆に夕食。昨晩に引き続きVang Dalatの白を飲む。炭火で焼いた海老や烏賊など期待より美味。月がなく海岸も真つ暗。晩に驟雨幾度かあり。草間彌生自伝「無限の網」半分ほど読む。

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